愛死−LOVE DEATH

第二十章 血と罪と


 スティーブンは、作業部屋のパソコンからコピーしたばかりのディスクを、どうしようかまだ迷うかのごとく、じっと見つめた。彼が子供の頃の記憶をもとに何年もかけて作ってきた、カーイのイメージだ。これをスルヤに見せて、自分とカーイの深い因縁を打ち明けようと思っていた。だが、その後に起こったあまりに予想外の展開に、スティーブンは話すきっかけを逃がしてしまった。スルヤは、スティーブンが全てを語れるようになるまで待つと言ってくれた。自分の気持ちを整理するための猶予期間が与えられたようで、スティーブンは、ほっとしている。だが、いつまでも彼の優しさに甘えて、ずるずると秘密を保ち続ける訳にもいかない。

 スティーブンは、これまで誰にも見せたことのない、秘密の、彼の『神』の肖像とも言える、その画像をコピーし、取りあえずそれをスルヤに送ってみようかと考えていた。面と向かって話すことはまだできなくても、手紙でなら、冷静に考えをまとめ、自分の気持ちを正直に打ち明けることもできそうだった。

 手元にある封筒には、既にスルヤの宛名が書かれている。後は、手紙を書けばいいのだが…。

 その時、玄関の方でベルが鳴り、スティーブンに来客を告げた。スティーブンは、ディスクを手に持ったまま胡乱げに眉をひそめ、肩越しに後ろを振りかえった。

(誰だろう…まさか、スルヤ…?)

 はっと息を飲んで、椅子から立ち上がった。そして、慌ててディスクをスルヤの宛名の書かれた封筒に押し込み、机の引出しの中に隠した。

「ちょっと待ってくれ、すぐに行くからっ」と、玄関に向かってそう叫び、スティーブンは、部屋を飛び出した。

 我ながら滑稽なくらいにうろたえながら、スティーブンは、鍵をはずして扉を開いた。

「あ……」

 スティーブンの顔に失望と当惑の表情が広がった。そこにいるのは、てっきりスルヤかと思ったのだが、違っていた。

「バレリー…どうして……?」

 大喧嘩の末に別れた恋人の姿を見出して、スティーブンの声は、固いものになった。薄情かもしれないが、彼女のことなど、この所思い出すことも皆無だった。

「スティーブン…」

 バレリーの方も、スティーブンが出てくることなど予想していなかったのだろう、この再会に衝撃を受けているらしく、瞬きも忘れたまま、大きく見開いた目でスティーブンを見つめている。その肩が大きく上下し、唇が震えながら開かれた。

「私…何度もここに来たのよ…あなたが行方不明になってから、ずっと…心配して…もしかして何か事件にでも巻きこまれて…それで帰ってこれないんじゃないかって…私…最悪のことばかり考えて……」

 別れてからもしばらくの間スティーブンに付きまとい、彼を悩ましていた、この気性の激しい少女に、彼はかなり辟易していたのだが、この時のバレリーは、いつものように眉を吊り上げてスティーブンに何かを言いたてたり問い詰めたりしようという様子ではなく、青ざめ、不安げな、今にも泣きそうな顔をしていた。ここにいるのは本当のスティーブンなのかまだ疑っているかのように、しばし、呆然と彼を見るばかりだったが、ふいに肩を震わせたかと思うと、両手で顔を覆ってしまった。

「よかった…ちゃんと生きてたんだ…帰って来た…」

 別れ話を持ち出した時のようにもっと激しく泣きわめかれたりしたら、スティーブンの彼女に対する心は凍りついたままだっただろうが、意外にも、静かに頼りなげに体を震わせて泣く彼女を見て、スティーブンは、優しい気持ちにさせられた。

「入れよ…」

 ぶっきらぼうに、それでも、これまでのように冷淡で余所余所しい態度ではなく、スティーブンはもと恋人をフラットに入れた。

 彼自身、カーイとオルソン兄弟の戦いに巻きこまれて散々傷ついていたので、他人の気持ちに対して以前よりずっと敏感になっていたのだろう。

「本当に、一体どこで何をしていたのよ…もう1ヶ月も学校を休んで、誰に聞いても行方は分からないし…無事でいるなら、そのことだけでも友達の誰かに知らせてくれたってよかったのに…」

 スティーブンは、部屋に通したバレリーの為にコーヒーをいれてやると、黙って手渡した。そして、彼女にはデスクの椅子を勧め、己はベッドの端に腰を下ろして、しばらくじっとコーヒーのマグカップの中を見下ろした。

「皆は、どうしているんだ?」と、彼女の質問に答えることは慎重に避けて、逆にスティーブンは問い返した。

「皆、この時期じゃ、試験と課題の準備に追われているわよ。あなたも早く帰ってこないと、そのままじゃ、クラスを落として、留年ってことになりかねないわよ」

 スティーブンは、ふうっと溜め息をついた。久しぶりに学校の話などをして、そう言えば、そろそろ課題の締めきりが近づいていたんだとか、試験とか、しばらく忘れていた現実を思い出していた。

「試験か…今から勉強しても、もう遅いかもな…クラスだって全然受けてないし…」

「あら、スティーブン、あなたなら、その気になればまだ大丈夫だと思うわよ。クラスを無断欠席したことだって、理由をちゃんと説明すれば、きっと何とかなるわ。ジーン先生もあなたのことを気にかけている様子だったし…」

「そうだな」

「ね、学校には戻ってくるつもりなんでしょう?」

「別に、写真を続けるのが嫌になって、急に学校にいかなくなったわけじゃないよ、バレリー。できれば…そうだな、やっぱり写真は続けていきたいと思うよ…今はまだちょっと創作意欲を取り戻す余裕なんかないけれど、俺には、打ちこめるものというと、それしかないし…たぶん、全てのかたがついたら、生まれ変わった気分で、今までとは全く違う作品を作っていくことができたらいいなと思うよ」

 バレリーは、スティーブンの、どことなく打ちひしがれた、何かから逃れようと密かにあがいているかのような思い詰めた顔をじっと観察した。こんな無防備な頼りなげなスティーブンを見たことは、これまでなかった。時々傲慢に思えるほどに自信たっぷりの、大人びた、頭がよくて要領のいい、魅力的だけれど信用のならない相手、それが、バレリーの知っているスティーブンだったのに、一体、何があったのだろう。何が、こんなに彼を変えてしまったのだろう。

「スティーブン、あなた、本当に大丈夫なの? 私になんか何も打ち明ける気になれないのは仕方のないことかもしれないけれど、でも…せめて、スルヤとか、あなたのことを本当に心配している信頼できる誰かに頼ったり、助けを求めることくらいしてもいいじゃないの…ねえ、自分には過ぎる重荷を無理して背負い込んでいるのって、ちっともカッコよくないわよ…」

「カッコよくないか…確かに、そうだよな…」

 スティーブンは、小さく笑って、バレリーを振りかえった。

「今までが、虚勢を張りすぎていたのかもな…本当の俺はこんなに取るに足りない存在なのに…そんなはずはないって自分で否定して、無理をしていた。認めるのが嫌で、自分の気持ちにも嘘をついて、何も見ないふりをしていたのかもな…」

 スティーブンらしくもない、何かしら、ふっと透き通ってしまいそうな笑顔に、バレリーは、訳もない胸騒ぎを覚えて、胸元に引き寄せた手をぎゅっと握り締めた。

 スティーブンは、しばらくの間、そうしてぎこちないながらも共通の友人達の近況や学校のことなどを尋ねたり、かと思うと、ふいに心をどこかに飛ばして、じっと押し黙ったりしていた。別れてからのスティーブンのバレリーに対する態度は腹立たしいくらい残酷なものだったが、今の彼からは、そんな取りつくしまもない程の冷淡さは感じられない。バレリーに対して愛情や親しみを覚えてくれているわけではないけれど、以前よりも少しだけ心は開いているような気がした。いや、随分と謙虚になり、素直な気持ちになっている様子だった。奇妙なことだった。恋人であった時すら、スティーブンは、決して本心を明かしてくれることなどなかったというのに。

「コーヒー、新しいのいれてこようか?」

「え…ええ…」

 穏かにそう尋ねる若者が、自分が惹かれた、それゆえ恨んでいた恋人と同じ人物とは思えなくて戸惑いつつ、バレリーは空になったカップを渡し、部屋から出ていくその背中を探るような目で見送った。

 本当に、何があったというのだろう。

 スティーブンの秘密主義は昔からだが、今は、余計に彼のことが分からなくなっていた。スティーブンの思わぬ変化が、バレリーを動揺させていた。

 スティーブンがいなくなった部屋を、ぐるりと見渡した。まるで、どこかに彼があんなにも変わった訳を知る手ががりが見つからないかというかのごとく。だが、ここしばらく、彼はこのフラットにすら帰っていなかった。一体、どこに行っていたというのだろう。

 ふと視線を手元に落とし、バレリーは眉をひそめた。スティーブンのデスクの引出しに、何かが挟まっている。茶色い封筒の端が突き出しているのだ。何気なく開いて、その封筒を取り出してみた。どきりした。スルヤの名前が書かれていたからだ。

 一瞬後ろめたい気持ちにかられたが、封はされていなかったので、つい中を覗き込んでみた。すると、1枚のCDディスクが入っていた。一体、何なのだろう。何をスルヤに送ろうというのだろう。

 その時、スティーブンが戻ってくる足音が聞こえた。

 バレリーは、とっさに、そのCDを封筒から取り出し、机の上に置いていたコートのポケットに押し込み、封筒だけを引出しの中に戻した。心臓が激しく鳴り響いている。一体何故こんなことをしてしまったのだろうと考えているうちに、部屋の扉が開いた。

「スティーブン」

 その瞬間、謝ってCDを返そうと思ったのだが、扉を背中で閉めるようにして入って来たスティーブン、どうしたんだというかのように首を傾げている、いつになく優しいその姿を見て、何も言えなくなった。

「何でもないわ…」

 バレリーは、罪悪感に密かに震えながら、コートの上に置いた手をそっと握り締めた。



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