愛死−LOVE DEATH

第二十章 血と罪と


「すいません、それじゃあ、もしカーイがここに立ち寄ったり、その姿をどこかで見かけたりしたら、この連絡先に電話を下さい」

 スルヤから自宅の電話番号の記されたメモを受け取った、人のよさそうな花屋の主人は、気の毒そうに彼を見て、言った。

「そんなに気を落とすんじゃないよ、坊や。そのうち、ひょっこり帰ってくるかもしれないじゃないか。まあ、あの人は、何というのか、すごく目立つ人だし、うちの店員にも、どこかで見かけたりしたらすぐに知らせるよう、声をかけておくよ」

「ありがとうございます」

 カーイとよく花を買いに来るこの店にもしかしたら彼が立ち寄ったりしてはいないかと、思いきって尋ねてみたのだが、やはり何の情報も得られなかった。カーイが家を出ていって、3日目のことである。

「花は、どうするね?」

「ええ、じゃあ、いつもの百合を下さい」

 花屋は、常連のスルヤのために、とびきりいい花を取り置いてくれていた。いつも決まって大ぶりの香りの強い真っ白な百合の花を買っていく、カラメル色の肌をした、笑顔が可愛らしい南アジア系の男の子と、その連れの、何とも浮世ばなれした、長い銀の髪の美しい青年は、この界隈では知らない者がいないくらいの、風変わりな、一目見たら忘れられないような印象的な取り合わせだった。

「おまえさん達がいつも買ってくれるから、百合だけは欠かさないようにしているんだよ。そうだな、あの人、カーイさんが無事に帰って来たら、その時は、お祝いにすごく大きな花束を作って、それを2人にあげような」

「うわぁ、ありがとう。きっと、カーイも喜ぶだろうな…」

 スルヤは、恋人のことを思って、一瞬遠い目になった。今どこで何をしているのだろう。無事でいるのだろうか。早く帰ってきて欲しい。

 それから、もう一度花屋の主人に向かって礼を言って、店を出た。温かい店内から外に出ると、冷たい風が吹き寄せて来て、スルヤは、思わず息を止めた。この時期のイギリスの日暮れは早い。まだ5時過ぎだというのに、辺りはすっかり真っ暗だ。スルヤの生まれ育った国とはあまりに違う、冷たく暗い異国の冬に、ただでさえ気持ちは落ち込みそうだというのに、1人きりの、こんな不安な日々を過ごさなくてはならないなんて。スルヤは、小さな溜め息をついて、いつかカーイに買ってもらった紺色のコートの前をきっちりとあわせた。

(カーイも、どこかで、こんなふうな寂しくて心細い気持ちでいるんじゃないだろうか)

 カーイが、結局帰って来なかったので、スルヤは、1日待った後、彼の捜索を始めた。本当はどこの誰なのかも知らない、行きずりの旅行者であるカーイの行方を探すことなど、ほとんど不可能に思われたが、スルヤには諦めることなどできなかった。ロンドンを既に発って別の国に行ってしまったとは、考えなかった。カーイは、まだこの街にいる。何故ともなく、そう信じていた。

(カーイ、カーイ、ねえ、今どうしているの? 辛かったり、苦しかったり、困っていたりしていない? ああ、どうか、あなたの身の上に悪いことなんか起こっていませんように)

 カーイがいきなり失踪した訳もその行方を知る手がかりもないスルヤは、学校を休んで、カーイの気に入りの場所、二人でよく行った店や、街中で見つけたしゃれたギャラリー、散歩に出かけた公園など、カーイが立ち寄りそうな所をしらみつぶしに回って彼の姿を追い求め、あるいは、花屋の主人にしたように、少しでも情報が見つかったら知らせてくれるよう頼み込んだりしていた。あまり効率はいいとは言えないが、何もせず家でひたすら待つよりはずっとましだった。広いロンドンをそうやって歩き回って、ただ1人の人を探すなんて、気の遠くなるような話だったが、カーイは、普通の人ではない、群衆に紛れこんで分からなくなってしまうことはない、だから、カーイがまだロンドンにいるのなら、きっと、その手がかりの切れ端なりとでも掴めるはずだ。そんなふうにも考えていた。

 カーイが泊まりそうな場所、ロンドン中のハイクラスなホテルに問い合わせもしてみた。カーイ・リンデブルックという宿泊客に連絡を取りたいのだと尋ねてみたが、今の所、電話をしてみたどのホテルでも、そのような名前の宿泊客はいないという返事だった。もしカーイが違う名前を使っていたりしたら、見つけようはないが、まさか、そんなことまでしないだろう。たぶん、スルヤは、カーイの居場所をまだ見つけていないだけなのだ。

(カーイ、あなたに早く会いたいよ…)

 スルヤは、心に忍びこんできた心細さと寂しさを振り払うかのごとく、ぶるぶると頭を振った。それから、日が沈むまでずっと街歩きを続けていたせいで、すっかりかじかんでしまった、手を口元に持って来て、はあっと息を吹きかけた。イギリスの冬の寒さは心底こたえているくせに手袋を忘れて来てしまうなんて、我ながら、馬鹿。せっかく治った風邪がまたぶり返してきたら、どうするんだよ。カーイを探さなきゃならない、彼を見つけるまでは、もう寝こんだりできないのに。

(明日は、ちゃんと手袋をしていこう。あ、それからマフラーもね…カーイは、よく俺の寒がりを笑っていたけれど…本当に、カーイって、いつもあんな薄着で全然平気な顔をしてたね…)

 スルヤは、懐かしげに目を細め、小さな笑いをもらした。

 それから、顔をしゃんと上げて、自分を励ますように、しっかりとした足取りで夕闇に沈んだ街を1人歩きだした。


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