愛死−LOVE DEATH

十九章 迷い子


 唇を押し当てた傷口から流れ出す芳醇な血を、カーイは、ごくごくと喉を鳴らせながら、飲んでいる。滋養に富んだ甘いその血は、カーイの喉と臓腑にしっくりと馴染み、まさに彼のために備えられたもののようだった。

(カーイ、もっと飲みなさい。私の血を飲んで、私の全てを受けとって、大きく、強くなりなさい。私の分身、私の大切な宝物、たった1人の我が子)

 愛情のこもった囁きに励まされて、カーイは、迸る血を無心に飲みつづけた。飢えも乾きも、瞬く間に満たされて、幸福と満足感が五感に広がっていく。彼女の愛が、幼いカーイを育む糧だった。

(ブリジット)

 カーイは、うっすらと目を開いた。

 束の間、夢と現実が交じり合って、自分が、今、どういう状態でどこにいるのか、認識できなかった。口内を満たしていたブリジットの血の味に、思わず舌で唇を拭うように舐め、一体彼女はどこにいるのだろうと、その温もりを手探りで探した。それから、記憶が一気に蘇ってきた。ブリジットは、もうどこにもいないこと、カーイは、今、たった1人で、ロンドン市内のあるホテルの一室にいて、弱った体を広いベッドにぐったりと横たえていること。

 夢の中では消滅したかに思われた飢えを、目覚めたカーイは、強烈に意識した。思わず喉を手で押さえ、苦しげな息をつく。

 血が、欲しい。

 石になったかのように重い体を引きずり起こして、ベッドサイドに置いていたボトルから血のように赤いワインをグラスに注ぎ、一息に飲み干した。瞬間、喉から胃にかけて火が流れこんだかのように燃えあがったが、カーイの凍えきった体を温めるには、まだ足りなかった。

 カーイは、再びベッドに身を横たえ、目を瞑った。

 すると朦朧とかすんだ意識の中に、またしても、あの胸の潰れるような幸福感に満ちた夢が戻ってきた。

(あなたを愛しているわ)

 その最後の日々においても、ブリジットのカーイに対する愛は、揺るがなかった。だが、一方で、己の終末をまっすぐに見据え、その日を迎える為の準備も怠りなく行ない、それについてはカーイがどれほど取り乱そうが、一時凌ぎの偽りの慰めを与えることもせず、己の意志を貫いた。

 ブリジットが徐々に衰えていく運命にあることを知ったカーイは、それからしばらくの間、打ちひしがれ、途方にくれて、どうか置いていかないでくれと泣き喚いたが、やがて、どうにか立ち直って、母親との生活を元通り、いや、以前より一層親密に送るようになった。ブリジットとの時間は、まだたくさん残されていた。それを涙に暮れることで費やしてしまうのは、あまりにも惜しい。彼らは、その生活の大半をウィーンで送りながら、時には、イギリスやイタリアに旅に出かけ、懐かしいパリに戻ってみたこともあった。結局ブリジットは、更に12年をカーイと共に生きた。ただ1人の息子の為に、できるかぎり長くその体を保たせようと努力した、結果だった。

 だが、それでも、その力は次第に枯渇していき、病を得た人間のように寝つくことはなかったが、生命活動が落ちてくるにあわせて、屋敷の中で過ごすことが多くなった。

 小間使い達が心配そうに囁き始めたのも、この頃だ。ブリジットは、病気に違いない。だって、以前のような輝く生命力、そこにいるだけで全ての視線を集めてしまう存在感が感じられない。何だか、とてもはかなくなって、今にも消えてしまいそうな風情をしている。その通りだった。実際、時折その体は実体をなくしかけて、部屋の中で佇んでいる彼女の向こうに調度品や壁が透けて見えることもあった。この地上に存在するための肉の体を維持することが困難になってきて、次第に、彼らヴァンパイアの本来の姿であるという霊体に戻りかけている、そんな感じだった。

 そんなブリジットの姿を見ると、ついにその日が近づいてきたのだという逃れようのない現実に直面した気がして、カーイは、パニックに陥りかけた。ブリジットと別れる準備など、何年かけようが、できるはずがなかった。そう、別れたくない。

 そんなカーイを、美しい陽炎じみたブリジットは、哀しそうに見るばかりだった。カーイのために己の時間を引き延ばしてきた彼女だったが、自らの体が限界にきていることも、悟っていたのだ。

 ブリジットの体は、何の前触れもなく透明になって、霧のようにかき消えてしまうことを繰り返すようになった。そんな時のカーイの錯乱ぶりは大変なもので、驚いて彼のもとにやってきた使用人達を怯えさせ、中には彼らの屋敷に勤めることをやめて去って行く者達すら出るほどだった。だが、そうなっても、ブリジットはカーイのもとにまた戻って来た。カーイを1人この世界に残すことが、やはり心残りでならないのか、少しでも己の体をこの世に繋ぎ止めようとしていた。

(行かないで、行かないで、行かないで…)

 カーイは、ついには、全ての使用人達を解雇した。消えては現れることを繰り返していた、半ば幽霊のようになってしまったブリジットの姿を、他の誰にも見せたくはなかったし、彼女の最期を看取るのは自分1人でなければならないと、思ったのだ。

(カーイ)

 ある時、自分を呼ぶ母の声ならぬ声が聞こえ、何かしら差し迫ったものをそこに感じて、カーイは、不安にざわめく胸を抱えて、ブリジットの部屋に飛びこんだ。

 彼女は気に入りの寝椅子にゆったりと身を預けていて、カーイが部屋に入ってくると、重たげな瞼を上げて、鮮やかな暁の空を思わせる紫色の瞳で、彼を見、にっこりと微笑んだ。

 しばし、扉の前で打たれたように立ち尽くしていたカーイだが、その微笑みに引き寄せられるかのごとく、ふらふらとブリジットの横たわる寝椅子の方に歩いていき、その傍らに跪いた。

 カーイは、怯えきっていた。一体、何が起ころうとしているのか、問いかけるように、大きく見開いた瞳で、ブリジットの穏かな美しい顔に見入った。いつでも、カーイが、自分の周りで何が起こっているのか、これからどうなるのか、どうすればよいのか、尋ねれば、ブリジットは、それに誠実に答えてくれた。この時も、彼女は、カーイの無言の問いかけに、真摯に答えようとした。

(カーイ、私達は、お別れを言おうとしているのよ)

 カーイは、唇を震わせた。

(さよならなんて、言いたくない、あなたを行かせたくない、ブリジット。お願いだから、傍にいて、僕を置いていかないで)

 ブリジットの超然とした美貌に、苦悶の影がふとよぎった。しかし、それは、すぐに透き通るような、何かしら超越したような微笑に変わった。

(私は、あなたを愛しているわ。愛しているわ。私は愛という贈り物をあなたに与えました。例え、どんなに長く生きても、どれほどの力を持っていても、何も愛さず、生み出さず、石のように、ただそこに存在するだけであったなら、私の生は、どんなにか空しいものだったでしょう。けれど、私は愛した、そして、あなたを造った。カーイ、そして、あなたも私に、あなたという最高の贈り物をくれたのよ。私は、何も恐くないわ。この愛に満たされて逝くことができる…いいえ、私は、これからもあなたを愛しつづけるわ。例え、あなたが私を見ることも、私の声を聞くこともできなくなっても、私はずっとあなたと共にあるのです)

 呆然となって、頭の中に流れこんでくる、ブリジットの心の声を聞きながら、カーイは、そのほっそりとした手が己に向かって差し出されるのを見守っていた。反射的に、手を伸ばし、カーイは、その手を包み込んだ。

(私の血を飲んでちょうだい)

 カーイは、母の手を握り締め、ぶるっと震えた。信じられないものを見るかのように、ブリジットの平静な顔を凝視した。

(子供の頃にあなたがしたように、私から飲んで、カーイ。これが、私があなたにあげられる、最後の贈り物よ)

 カーイは、大きく喘ぎ、それから、嫌々をするように頭を振った。

(私の血を飲み尽くせば、あなたに伝えきれなかった、私の想いのすべてをあなたに渡すことができるわ。さあ、カーイ)

 ブリジットが、その手をカーイに向かって押しつけるのに、彼の目から、堰を切ったように、滂沱の涙が迸った。

「できません!」 

 カーイは、泣き叫んだ。もう、半ば透き通っている、実体を失いかけている、その体に、あまり多くの血が残されているとは思えなかった。カーイが飲めば、それは直接手を下してブリジットを破滅させることになってしまう。そうしなくても、ブリジットが消滅するのは避けられなかったが、自分の手で母にとどめを刺すことはできなかった。それに、カーイは、この期に及んでも、ブリジットの消滅など許してはいないのだ。

(カーイ、どうか私を奪って、あなたの中に取りこんで、私の全てを受けとめて…)

 ブリジットの懇願に、カーイは、泣きながら、かぶりを振りつづけた。

「僕にはできない、ブリジット、あなたを失っていいなど、僕は認めていないんだ。だから、あなたの血を飲むことなど、できない!」

 ブリジットは、カーイをつくづくと眺め、吐息混じりの、諦めと、どこかあまやかさを帯びた声で呟いた。

(あなたの強情さ、本当に、誰に似たものかしらね、カーイ)

 カーイは、頭を振りたてるのをやめて、ブリジットに探るような視線を向けた。本当に、カーイは、外見はブリジットにそっくりだが、中身はあまり似ていなかった。外見も、その瞳の色だけは違っていた。カーイのそれは、冴え冴えと冷たい青色をしている。一体、この瞳は、どこから受け継いだものなのだろう。カーイは、喉もとにまでせりあがった問いを、ぐっと飲みこんだ。

 己の父親が誰なのかということを、ついに、カーイはブリジットに追求することはなかった。己の出自を知ることに漠然とした不安を覚え、今更そんなことを聞くのを躊躇した。ブリジット以外の誰かの血を引いているなどと、あまり考えたくはなかった。彼女が1人で創った子供が自分なのだと、小さい頃は信じていたくらいなのだ。そして、ブリジットも、カーイが本当に知りたがっていること、知る準備ができている以外のことを、あえて、話そうとはしなかった。

 ブリジットの血を飲めば、その血にこもった記憶から、彼女がカーイに語らなかった秘密も、きっと明らかになっただろう。彼女が望んだのは、実は、そのことだったのかもしれない。しかし、カーイは、ブリジットの血も、謎を解くことも拒否した。

(いいわ、カーイ)

 ふいに、どこか遠くから聞こえてくる鐘の音でも聞いているかのような遠い表情になり、ブリジットは、囁いた。

(では、せめて、あなたの腕に私を抱きしめてちょうだい)

 カーイは、起きあがって、滑るように彼女に近づき、おぼろげなものになってしまった体を抱き起こし、己の胸に、その銀色の頭をもたれさせた。ブリジットはほとんど体重を感じさせなかった。もはや、この世のものとは言えなかった。

(ああ、カーイ、ここは、とても静かね)

 カーイの腕の中で、ブリジットは大きく息をし、目を瞑って、満足そうに笑った。

(幸せよ…愛しているわ…)

 瞬間、腕の中に微かに感じられた実体感が、すべて消えた。カーイの腕は、何もない空をすくうように抱こうとし、心もとなげに、しばし、そのまま止まった後、ゆっくりと下ろされた。

 ブリジットは、いってしまった。

 こんなふうに彼女が消えてしまうことなど、この頃では頻々とあった。しかし、今度ばかりはもう帰ってくることはないのだと、認めたくなくても、受け入れるしかなかった。

 カーイは、母がいた寝椅子にぐったりと倒れ伏した。その柔らかなベルベットに残る、彼女の微かなぬくもりや匂いを探りながら、カーイは、声も出さずに静かに泣いた。もう、ブリジットが束の間いなくなってしまっただけの時のように、大声で泣き喚いたり、暴れまわって部屋の中を壊したりする気力もなかった。

(ブリジット、あなたがいなくなって、僕を愛してくれる者はもう誰もいない。ああ、これから、どうすれば、どこに行けばいいのだろう。僕の家はなくなってしまった)

 カーイは、独りだった。

(ブリジット…)

 カーイは、再び覚醒した。夢から覚めても、やはり、彼は独りだった。

 200年前に母を亡くしたばかりの頃に戻ったような、心細く、寂しく、恐ろしい気分だった。どこに行けばいいのか、どうすればいいのか、カーイには、もう分からなかった。

 血を飲まなくてはならない。ブリジットの血が飲みたい。初めはどれほど甘く感じられても最後には苦いものに変わってしまう、人間の犠牲者達の血とは違う、カーイの為の血。カーイに対する、あれほどの愛に満ちた血は、他にはない。だが、それは2度と手に入らない。今のカーイが本当に望んでいるのは、別の血だった。ブリジットの血への思慕を、その血に対する欲求と束の間すりかえてみても、ヴァンパイアの本能は、己の獲物を決して忘れはしなかった。

(スルヤ)

 その血を思う時、カーイの体は、どうにも制御しがたい衝動に大きく震える。体中の細胞が、スルヤの血を欲して、ざわめいている。あの血が欲しい。欲しいのだ。

 カーイは、自制心を必死で働かせ、己の中で荒れ狂う欲望を抑えこむ。しかし、いつまでこんな我慢ができるものだろうか。ポールの時と同じだ。結局、本能に逆らうことなどできず、スルヤも同じように、殺して、その血を奪うのだ。

(あんな辛い思いは2度としたくなかったのに…どうして、私はまた人間などに愛情を覚えてしまったのだろう…)

 カーイは、己の左手を持ち上げ、その手首に巻かれた包帯に滲んでいる血を見つめた。血だ。震える指で、その包帯を解き、白い肌に残る傷口に口を押し当て、吸った。だが、こんなことをしても、飢えが静まるわけがなかった。カーイは、すぐに諦めて、唇を離した。

(血が足りない…この傷口からも少しずつ私の血は失われているというのに、これを塞ぐための力すら、残っていない)

 カーイの願いも空しく飢えはますます強くなってくるばかりだったが、一方で、顔を見ることも叶わずに別れた恋人に対する恋しさもつのっていた。スルヤの人懐っこい可愛い笑顔、その優しい抱擁、熱っぽい肌から立ち昇る甘い香ばしい匂い、何もかも、まだあまりにも鮮やかに覚えている。会いたい。

(あなたの所に帰りたい…スルヤ…)

 カーイは、また、うつらうつらし始めた。夢を見ていた。ブリジットの死によって、永遠に失ってしまった、彼の家を夢見た。人間達の間に立ち混じりながら探し求めてきた、200年を夢見た。そして、スルヤのいる、あの暖かい家を想った。全てが、カーイの手から、あまりにも遠い所にあった。




(私の帰る場所は、一体、どこ…?)


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