愛死−LOVE DEATH− 

第二章 記憶の小箱


今でも、忘れられない一つの情景がある。

ダマスク織のクッションを重ねた黒壇の肱掛椅子に身を預けた一人の美しい女性、一七〇〇年代のパリ風のタフタドレスにほっそりとした身を包んだ、ケルトの神秘な女神。彼の存在に気づくや、とろけるような慈愛の笑みにその唇をほころばせ、神々しいまでに優雅な仕草で手を差し伸べる。

細く長い繊細な指が髪をなぜるをうっとりと感じながらねだると、彼女は手馴れた風に小ぶりだが鋭い銀のナイフをテーブルから取り上げ、まだようやく生え染めたばかりのかわいらしい牙しか持たない彼のために、その華奢な手首の陶器のような肌に刃を食いこませる。

新雪よりも清らかな白い腕を流れる紅い血の圧倒的なまでに芳醇な香り。その味は、トルコ産の薔薇の蜂蜜よりも濃厚で、甘い。

放っておけばすぐにふさがってしまう傷を上手に牙で切り裂くよう励ましながら、ぴったりと口をつけてごくごくと飲んでいる彼に向けて、柔らかな声音でいつもの様に彼女は囁いた。

「愛しているわ」



朝の柔らかな光の中、やわらかい布団に包まったまま、夢の世界からゆっくりと浮かびあがって来て、ああ、朝だという意識はぼんやりとあるのだが、まだ目をつむったまま半分うとうとしている一時がスルヤは好きだった。子供の頃に帰ったような、暖かくて、安心できて、とても幸せな気持ちでいられる。

その手が、無意識に何かを探し求めるように、ベッドの中を緩やかに探り、動いている。

「ん…?」

広いマットレスの上を、そうやって探し回りながら、スルヤは自分が休んでいた端からもう一方の端までずるずるとしゃくとりむしのように移動した。おかしい。そこにいるはずのものが、すべすべした気持ちいい感触の、彼の甘えを優しく包みこんでくれる、慕わしい存在がいない。

「カ、カーイ…?」

布団の中から突き出して、所在なげにひらひらしていたスルヤの手を、その時、彼が探し求めていたすべすべした感触が捕らえた。

「おはよう、スルヤ。ほら、いつまでもぐずぐずしていないで、早く起きなさい。今日は、学校でしょう?」

スルヤは、この上もない幸福と満足感に浸りながら、そうっと瞼を上げてみた。ほら、そこにちゃんと存在している。スルヤだけの光の天使。天井に広く取られた窓から降り注ぐほの白い朝の光の中で、穏やかに微笑む美しい恋人の姿に、うっとりと見とれながら、スルヤも微笑み返した。

カーイの手にそのまま引っ張りあげられるように起き上がると、スルヤは恋人の首に甘えかかるように腕を巻きつけて、愛情一杯に囁いた。

「おはよう、カーイ」 



あまやかな幸福感で始まる彼らの朝は、それが平日の場合、その後はいつもばたばたしたものとなる。いつもぎりぎり限界までつい寝坊をしてしまうスルヤもスルヤだが、それ程気持ちがいいのならと好きなだけ寝させてしまうカーイにも責任の一端はあるだろう。ベッドサイドの時計を確認して飛び起きると、その後は、既に完璧に朝食の準備を整えて待っている恋人にろくに話しかける暇もなく、スルヤは、カーイが来て以来寝室兼居間として使っている広い屋根裏を走り回って、服を着替え、寝癖のついてしまった髪をとかしつけ、バスルームで顔を洗い、やっとダイニングまで駆け下りてくる。

「ごめんよ、カーイ、交代でやろうって言ってたのに、いつもあなたに朝ご飯の準備をさせちゃうね」

そんなふうに謝りながらも、手の方は忙しくチョコレートのシリアルを皿にざくざくかき出しているスルヤに、カーイは、いれたての熱いコーヒーを差し出した。

「いいんですよ。どうせ、私はいつも早く目が覚めてしまうんですし、勉強で忙しいあなたと違って、時間に追われる事もない暇人ですからね」

カーイは、スルヤの向かいの椅子に腰を下ろし、コーヒーのカップを時々口に運ぶ以外は、スルヤが旺盛な食欲を発揮して山のようなシリアルだけではおさまらずに、イチゴジャムをたっぷり塗ったトーストをかじっている様子を、目を細めるようにして眺めている。

「ねえ、カーイは、今日は一日何をする予定?」

「特別なものは何もないですよ。午前中はちょっと掃除でもして、昼から買い物にでも出かけようかと思っているくらいで…」

「そ、掃除なんかしなくていいよ。そんなの俺が休みの日にすればいいことだし、あのね、もしここで寝泊りしている事に気を使ってるなら、そんな必要はないんだよ。俺は、あなたがいっしょにいてくれるだけで、最高に幸せなんだから」

「別に気を使ってる訳じゃないですよ。今までしたことのない新たな体験に挑戦するのが、私なりに結構面白いんです」

「俺だって、実家にいる時は、母親に何でもやってもらっていたくちで、一人暮しを始めて、自分で家事をやらなくなったわけだけれど、そんなに面白いとは思わなかったけれどなぁ。あなたと一緒に暮らし始めて、食事を作るのは面白くなったれどね。あなたにおいしいって言ってもらいたいから、上手になろうと努力するし、食事の時間自体とても楽しくなったよ」 

そんなことを言って、一瞬頬を緩めるスルヤだったが、すぐに時間のことを思い出して、慌しく席を立ちあがった。

「ごめん、もう出ないとまずいや。真剣に授業に間に合わなくなっちゃう。…ね、まっすぐ帰るから、それから一緒に今夜のメニューを決めて、スーパーに買いだしに行こうよ」

「あなたが帰る頃には、私も家にいるようにしますよ」

あいた椅子の上に置いていたリュックサックをひっつかむと、カーイにじゃあと手を振って、スルヤは玄関に飛んでいった。その様子を、カーイは、慌しい朝やっと子供を送り出した母親めいた、この状況を僅かに面白がるような微笑みをたたえた眼差しで見送った。

「さて…」と、カーイも椅子から立ちあがって、汚れた食器を片付けようとしかけたその時、玄関の方からばたばた駆け戻ってくる足音が聞こえた。

「おや、スルヤ、どうしました?忘れ物ですか?」

ダイニングの入り口に、一旦家を出かけたはずのスルヤの姿を認めて、カーイは、訝しげに問うた。

「うん」

不思議そうに首を傾げているカーイのもとにまっすぐにやって来ると、スルヤは、彼の肩を引き寄せるようにして、その唇にちゅっとキスをした。

「じゃあね。行ってきます」

カラメル色の頬をうっすらと染めてそう告げると、スルヤはまたばたばたと玄関の方へ走っていった。

「………」

カーイは、しばらくその場に立ち尽くしていた。それから、何ともあまやかな、くすぐったそうな顔になって、唇に触れた。何て、かわいいのだろう。初めての同棲生活にあんなに舞い上がって、まだあどけなさの残る十八という年齢のせいでもあるだろうが、いかにもままごとじみていていたし、その初々しさが愛しくて、カーイも今のところ飽きることなくつきあっている。それどころか、人間の恋人との新生活、ごく普通の家に恋人と二人きりで住んでそこでいわゆる普通の日常生活を送るという体験は、彼にとっても久しくなかったことで、新鮮だった。

一つの街に長期間腰を落ち着けることのないカーイは、もうずっとホテル暮らしだったし、恋人に選んだ人間としばらく共に住むこともあるにはあったが、贅沢に慣れた彼が満足する生活を提供できるのはほんの限られた相手であったので、現代の中流クラス程度の家に、これまたごく普通の学生と暮らすなどと、カーイにしてみれば、我ながらどういう風の吹きまわしかというくらいの珍事だったのだ。 

「さて、では、やりますか」

スルヤが出かけた後、食事の後片付けをしてしまうと、カーイは、かねてからの予定どおり、家の掃除に取りかかった。昨日初めて自分で動かしてみた洗濯機にも感心したが、この掃除機も使ってみるとなかなか面白いし、昔に比べて、人間の生活は随分便利になったのだなと技術の進歩にしみじみ感じ入ってしまう。

ヴァンパイアの感覚は人間よりもはるかに鋭敏で、感受性に富み、集中力にも優れている。真新しい何かを発見すると、それについ夢中になってのめりこんでしまうのも、その現れである。笑い話のようだが、この時のカーイの場合、それは家事だった。初めて洗濯機を回した時も、ごうごうという音をたてて渦を描いて回る水と、洗剤の細かな泡、生まれてはすぐに弾けるあぶくたちのたてるごく小さな音、水流にもみくちゃになって洗われている布の色や模様が溺れているように見え隠れする様に見とれてしまって、洗濯機が止まるまでずっとそのすぐ傍に突っ立っていた。あんまり面白かったので、もう一度初めから洗いなおして、おかげてカーイの上等な絹のシャツなどはすっかり生地が傷んで駄目になってしまった。そんな高いものは外のクリーニング店に出さなければ駄目だと後でスルヤに叱られたが、そういうものなのかと思っただけだ。

さて、では掃除にとりかかろう。妙にうきうきとした様子で、カーイは、現代の電化製品を操り始めた。このブーンという音はもう少し小さくてもいいが、手に響いてくる震動と毛足の長いカーペットの上を滑る時の吸いつく感じがたまらない。床に落ちた睫毛の一本さえも難なく見つけてしまう鋭い目を走らせ、部屋の隅から隅まで少しの埃も残すまいというように執拗に掃除機をかけまくり、邪魔な家具は椅子やテーブルはもちろん動かしてその後に残る汚れまでも丁寧に吸いとった。スルヤの叔父が使っていた、今は客用のベッドルームには大型のシーダー材の衣装ダンスがあって、そのタンスと壁の僅かな隙間に目に付いた埃がどうしても気になったカーイは、それさえもヴァンパイアの怪力で片手でひょいと脇にどけると、そこも綺麗に掃除してしまって、やっとすっきりしたくらいだ。

午前中を全部費やしてその仕事が終わった頃には、この家の床には、文字どおり塵一つ落ちていなかった。フル回転させられてすっかり熱くなった掃除機を脇において、改めてゆっくりと、今彼がたたずむ屋根裏部屋の隅々に至るまでを、自らの仕事ぶりの素晴らしさに悦にいったように見渡す。

完璧だと、彼は思った。どうせすぐに汚れてしまうのだし、こんな単純労働自体に彼自身やがては飽きてしまうのだろうが、それでもなかなか楽しい暇つぶしだった。ふと顔を上げると、天井に張られた大きな天窓が目に付いた。あのガラスも綺麗に拭いてやったら、もっとずっと透明度を増して、そこから入る光の色も変わるに違いない。あんな高い所にある大きな天窓を掃除するのは、業者を呼ばないと大変な作業のようだが、重力に逆らった動きも難なくできるカーイにとっては、たすやい仕事だ。ふと食指が動いたが、カーイは、ふっと笑いながら首を横に振った。今日はよそう。楽しみを全部一気にやってしまったら、後に残るものが何もなくなってしまう。楽しみは少しずつ味わうのが、永遠の時の無聊を慰める賢いやり方だ。

気がつけば、時間も、外出するには調度よい頃合になっていた。掃除機を片付け、身支度を整えると、カーイは外に出た。地面が僅かに濡れている所を見ると、何時の間にか軽い雨が降ったらしい。今は日が差してはいるが、風が強い。家のすぐ前の道路沿いに植えられた街路樹が落とした金褐色の葉が、湿った地面の上でかさかさ音を立てながら、流されていく。雨と土の匂いを含んだひんやりとした秋の空気をカーイは、胸一杯に深呼吸した。

ふと、今の時間スルヤは何をしているのだろうと思った。カーイの、新しい人間の恋人。もう、スルヤで何人目になるのかなど、カーイ自身にも分からなかった。それら恋人達は、永遠を生きるカーイにとって、あまりにも短い時を重ねるだけの行きずりの相手に過ぎない。そうして、その恋の終わりには必ずカーイ自身の手で葬られる、捕食の対象でもある。それら恋人たちを愛することと殺すことの間に、カーイの中で矛盾はなかった。それがヴァンパイアの自然の性である。そのことを、二百年に渡って血を飲む者として生きぬいてきたカーイは、よく心得ていた。

か弱く、儚く、それゆえ愛しい人間の愛人達は、しかし、カーイの伴侶にはなり得ない。恋を語り、肌をかさね、相手の体の中にいる自分を、あるいは自分の中に相手を感じる時に感じる親近感、恋のクライマックス、恋人の血をその魂ごと飲み干す一瞬には、恋人と自分が溶け合うかのような一体感さえ覚えるが、それはあまりに短く、束の間そう思えただ後にはすぐに消えてしまう錯覚、ただの幻影に過ぎない。

では、カーイの永遠の伴侶足り得るのは、一体誰なのか。

彼のような者、同じく永遠を生ける不死者、血を飲む、誇り高く残酷な種族ならば?

カーイは、一人、歩き始めた。人間の恋人といる以外は、いつもそうしてきたカーイだった。それでも、その二百年にわたる彼の生のごく初期の頃には、彼に連れ添っていた仲間がいた頃もあったのだ。

今となっては、それはあまりに遠く、彼の壮大な記憶の宮殿の基礎の部分に刻みこまれている古い模様のようなもの、忘れようと思えばずっと忘れていられるが、長い間開けていなかった引出しを開けてみた時にそこにしまわれていた香料が未だ色あせない強烈な芳香を放つように、時折ふとした折りにあざやかにうかびあがってくる。それらは、取り戻せない時間の中に失ってしまったものに対するほろ苦い懐かしさと一抹の寂寥をカーイの胸の奥にかきたてるのだ。

その一瞬だけ、カーイは、普段は意識もしない孤独を自覚する。



NEXT

BACK

INDEX