愛死−LOVE DEATH− 

第二章 記憶の小箱



カーイがまだ、永遠を生きる種族としては卵から孵ったばかりのよちよち歩きの雛のような、自分で獲物を狩る術も知らない子供のヴァンパイアだったころ、彼にとって世界には母親と自分しか存在していなかった。幼くとも自分のなんたるかを自覚していた小さな怪物は、初めから人間を自分達とは別の生き物、簡単に壊れてしまう脆いつくりの、自分達から遥かに劣ったもの、輝かしい不死の一族とは何ら関わりのないものと捕らえていた。同時に、がやがやと騒がしいそれら人間達に混じって、彼らのふりをして生きなければならないことも賢く理解していた。

十八世紀のパリ、薄汚い乞食や行商人、色鮮やかな衣装に身を包んだ貴族達と、実に多彩な人間達で混雑する大通りに面した邸宅に、母と二人カーイは住んでいた。館の召使い達はよくしつけられ、彼らの主人である美しい母子に使えることを誇りとしていたが、決して主人の私的な生活について余計な詮索はしないという鉄の規律が行き届いていた。例えば主人の許可なくしては館の最上階には決して足を踏み入れてはならない。母子二人の食事の時には、贅沢ではあるが恐ろしく量の少ない皿をテーブルに供した後は、テーブルの上の呼び鈴が鳴って再び許しが出るまでは、召使いは決して部屋に入って、食事を取る主人を見てはならない。そのテーブルには、一体何に使うものか、決まって小ぶりの銀のナイフが用意されていた。もし仮に好奇心にかられて掟を破ってその部屋を覗きこんだ者があったすれば、彼は、おそらく、本能的な恐怖をかきたてられる、しかし、同時に奇妙に心揺さぶられる、蠱惑的な、この世のものならぬ光景を目にすることになるだろう。揺らめく燭台の灯りに照らし出された、光り輝く髪をした女神のような女性と天使のようなその子供。その子が人らしい食事をほとんど取らないのも無理はない、彼が育ち盛りの食欲を発揮して夢中になって啜り飲み込んでいるのは、そのかわいらしいピンク色の口が押し当てられいる、母親の手首の傷から流れ出る赤い血なのだ。

母親の血によってカーイは養われ、大きくなった。その頃には、もう十四、五くらいになっていて、既に立派に獲物の首筋を切り裂いくことのできる鋭い牙も持ってはいたのだが、人間を狩ることはまだなかった。実際、カーイはあまり興味を示さなかった。母親という最高の血の味を最初に知ったカーイが、明らかにそれに劣ると分かっている人間の血に食指が動かなくとも、無理はなかったかもしれない。それは、そのまま彼の人間に対する無関心を助長していた。

「カーイ、あなたももうこんなに大きくなったのだから、そろそろ狩りの仕方を学ばなくてはね」

カーイの母、ブリジット自身、何度もそうほのめしたが、息子が明らかに不満気な様子を見せると、あえて無理強いしようとはしなかった。子供が成長するのは喜ばしいが、独り立ちして離れていくことに母親は理屈ではない寂しさと抵抗を覚えるものである。ヴァンパイアであっても、いやだからこそ、この世界にたった二人きりの自分と同じもの、ブリジットの体内で彼女の血によって形作られ、さらに血を与えつづけて育てた、その絆は人間の親子以上であった。

カーイにとって、ブリジットは母親であり、崇拝の対象である女神、また、何でも許しあい分かち合える仲間だった。彼女は、その当時にあってさえ、これほど長く生きてきたヴァンパイアはまれというほどの古参者で、彼女の話では、おそらく紀元一世紀半ばには、この世に存在していたことになる。その生まれは、ケルト人の支配するブリテン島で、ローマ人の侵攻が始まり、やがてキリスト教が伝わりって世界を席巻する前の、自然とそれを操る存在を恐れ敬う素朴な人々の暮らしの中で、神々の眷属としての役割を果たしていたという。当時世界で最も進んだ文化を誇る華のパリの真ん中で、豪華な屋敷での快適な暮らしに慣れたカーイの耳には、母の昔話は、つつましやかな未開の集落や村で寄り添い合うように暮らす教会どころかキリストの名も知らない人々、不思議な呪文めいた言葉を唱えるドルイド僧、神に対する犠牲に供せられる敵の捕虜たち等は、過去にそんなことが実際にあったとは到底思えない、むしろ本にかかれた物語のように響いた。

「私達を悪霊だと言う人間達は、十字架や教会の権威の前に私達を滅ぼせるように思っているようだけれど、キリストが生まれるずっと前からこの世界に存在していた私達種族が、なぜたかが人間の大工の息子などを畏れなければならないのかしら」

彼女の言葉の端々には、時折かつては女神であった者の矜持と、人間達の変節、その移ろいやすさに対する皮肉と冷笑が見え隠れする。それでも、彼女が、ただの捕食の対象としてだけではなく、人間にある種の親しみと愛着を覚えていることは確かなようだった。狩は仕方のないこととしながらも、一方で人間達との交友を楽しみ、それら「友人」達や屋敷に仕える召使い達にはおおむね親切で誠実だった。彼女のそういう部分だけは、カーイには、いつも理解しかねた。人間達に、自分達ヴァンパイアの興味関心を引くだけの力や美質が備わっているとは思えない。カーイが、率直にそんな自分の意見を述べると、ブリジットは、いつも僅かに首を傾げ、大きく見開いた目にはなぜか少し哀しそうな表情をたたえた。

「ああ、カーイ。ヴァンパイアとしての誇りを守ることも大切だけれど、事実を認め受け入れる潔さも大事だわ。この世界は、彼ら人間達のもの、私達の手をとうに離れているのよ。私達は個人として永遠を生きるかもしれないし、その力も強大だけれど、それで世界を変えることはできないわ。人間達は一人一人はたかが数十年しか生きないけれど、親から子の代へと脈々と受け継がれながら発展していく知恵と技術で世界を作り変えていくの。個人としてはか弱くても、種としての人間は私達よりも強く、永遠に続くかのようにさえ思えるくらいよ。私達が平穏な暮らしをするために人間に擬態しなければならない、そのことでも、分かるでしょう?」

その言葉に、カーイが、誇り高い不死の一族の血脈としての自信をふいに喪失したように、青ざめて、心細げな、泣き出しそうな顔になると、ブリジットは優しく腕を彼の体に回して、あやすように言った。

「大丈夫よ、カーイ。そんなふうに哀しがるようなことではないの。人間には人間の生き方があるように、私達には永遠に生きる不死者としてのありようがあるわ。私はただあなたに人間達を蔑視して欲しくはなかっただけ。人間達が世界をどんな風に作り変えていくのかを、この先ずっと見守ってあげて、カーイ」

そのこぼれるような微笑みを前にすれば、どんな不安も瞬く間に消え失せた。人の心を安らかで幸せにする、奇跡のような力を女神ブリジットは持っていたのかもしれない。

美しいブリジット。この時代の裕福な女性は凝った形に髪を結い上げていたが、彼女はいつもその長い白銀の髪を自然に垂らすのが好きだった。真珠や宝石で飾ることもあったけれど、どんな宝飾品の輝きも彼女の髪の素晴らしさの前では霞んでしまう。ミモザの香料を垂らした湯をはったバスタブから上がり、うっすらと上気した薔薇のような肌の上にその豊かな髪だけをまとった彼女は、ボッティチェリの描く美の女神もかくやという姿だった。その髪に手を差し入れ、一房を取って頬を摺り寄せると、色取り取りの春の花々の饗宴のような、何ともいえない、いい匂いがした。

「悪戯をしては駄目よ」

叱られる声にすら、その音楽的な響きにうっとりと聞きほれてしまうカーイは、性懲りもなく、母親の髪を玩んでみつあみにしたりという遊びをなかなかやめなかった。

自分が多くの資質をその母から受け継いでいることは、カーイをうぬぼれさせた。彼自身の髪も母親そっくりに輝くことに気づいて、長く伸ばし始めた。そうして、ある日、鏡の中で見つめ返すその顔、ブリジットがそこから微笑み返していることに気がつき、一瞬息を飲んだ後、つくづくと見入って、何とも楽しげな笑い声をたてた。それまではあまり意識してこなかったが、人間の使用人達の瞳にうかぶ崇拝や、街で出会う人間達の顔にうかぶ打たれたような熱に捕らわれたような表情に合点がいったような気がした。どうやら自分が美しいということに十五才のカーイは気づき始めていた。

母子二人きりのそんな生活に、ある日、変化が訪れた。変化は、カーイの知らぬ外の世界から、人の形をとって訪れた。

それはまだ春も早い時期、ある嵐の夜だった。使用人達は既にそれぞれに与えられた部屋に下がり、カーイはと言えば、自室のベッドの上に寝そべって、母親から与えられたイタリア語でかかれた本に熱心に読みふけっていた。彼の部屋は最上階にあったけれど、遥か階下で玄関の扉がばたんと開き、家の中に外の嵐が吹きこんでくるのを、その耳は捕らえた。カーイは、本能的に飛び起きた。その心臓は、おどかされた猫の子のようにどきどきと早まっていた。誰かがこの家に来た。その気配を探るように意識を集中させ、じっと様子をうかがっていたが、ついには我慢しきれなくなって、ベッドから飛びおり、部屋を出て、滑るように階段を下りていった。

玄関ホールで人の話し声がした。母だ。それからまた別の、初めて聞く若い男性の声。一階に続く階段の中ほどでカーイは立ち止まった。カーイが見下ろす玄関ホールには、二つの人影が佇んでいた。一つは身間違え様のない母ともう一つ、黒い外套に身を包んだ背の高い男。驚くべきことに、彼もまた人間ではなかった。ブリジットと親しげに話していた男がひょいと頭にかぶった濡れた帽子を取ると、輝かしい金髪が現れた。カーイの存在に気づいた彼は顔を上げた。階段の途中で立ちすくんでいるカーイに向けられたのは、豹の華麗さをはるかに上回る美、太陽の光のように目をくらませる、人間には持ち得ない美貌だった。親しみのこもった魅力的な笑顔で微笑みかける、その大きな瞳は鮮やかに燃える若葉のような緑色をしている。

「カーイ、降りて来て、お客様に挨拶をなさい」

母親が命じるのに素直に従うカーイは、緊張のあまり、普段の優雅な猫めいた身のこなしとは程遠いぎくしゃくとした動きで階段をおり、彼等のもとにやって来た。 

「私の息子のカーイよ、レギオン」

レギオンと呼ばれた男をカーイは呆然と見上げていた。相手の美貌に、その体から発散されている圧倒的な力、その一見人好きのする明るい瞳の奥に閃く捕食者としての残酷さ、若々しい肉体が経て来た時の重みに、うっとりと見とれていた。何から何まで人間とは異なっていた。カーイやその母と同じ、ヴァンパイアだった。

「貴女の息子!」

ブリジットの方を見て、大げさにそういった後、レギオンは改めて、カーイに見入った。値踏みでもされているようで、カーイはふいに居心地が悪くなった。

「信じられないと言いたいところだが、ここまで貴女にそっくりでは信じないわけにはいかないな。そんな噂は人づてに聞いていたが、まさか本当に貴女が…最も古い血を誇る我らが女神が子供を産むなんて。…おっと、坊や」

そんなふうに他人の目にさらされることが耐え難いというように顔をそむけ、母親の後ろに隠れようとするカーイの手を、男は礼を失しない程度の強引さで捕らえた。

「よく顔を見せくれないか。君を驚かせたのなら、謝る。久々に私も驚いて、興奮したんでね。私はレギオン。おそらく君ともどこかでつながっている古い古い血族だよ」

そうして、またあの親しげな微笑みをたたえた顔でカーイを魅了した。レギオンの方も、カーイの存在に魅了されているようだった。

「子供のヴァンパイア!全く、今になって、そんなものにお目にかかれるとは、夢にも思っていなかったな。幾つだ?何、十五?どれ、もう一人前に牙は生えているようだが、狩りは一人でできるのか?」

いきなり指で口をこじ開けられたり、慣れない質問を浴びせかけられたりで、すっかり戸惑って目をぐるぐる回しているカーイの横で、ブリジットが軽やかな笑い声をたてた。

「レギオン、あなたの方こそ、子供のようにはしゃいでいるように見えてよ。さあ、こんな所での立ち話はやめにして、取りあえず中に入ってちょうだい。久しく聞かなかった他の血族たちの消息を、私も知りたいわ」

他の血族。何ということだろう、この男の存在一つにさえ、ここまで圧倒され、飲みこまれそうだというのに、カーイの同族がこの世にまだいるなんて。しかし、その考えは、母と二人の、世から隔離された静かな生活をしか送って来なかったカーイの胸をこれまでになく高揚させるものだった。

(僕と同じものがまだこの世界のどこかにいる…僕の仲間が…)

その目が、母に伴われて、奥の部屋に向かうレギオンの肩まである豊かな金髪が翻る後ろ姿に吸い寄せられた。カーイは、取り残されないとするように、慌てて、その背中を追った。

「…マハの行方は、ようとして知れません。三十年程前にアイルランドに戻ったという噂があったが、それきり姿を見せなくなった。アリアンとハイペリオンについては、捜索はもはやあきらめた方がいいでしょう。彼等がこの世に存在している、少なくともまともな形で生きているという痕跡は、どこにも見つからない。ナポリのサンティーノは、ここに来る前に彼のもとに立ち寄ったが、元気でしたよ。退屈で死にそうだという、いつものぼやき以外はね」

豪華な調度品の並ぶ客間で、この思わぬ訪問者、母ブリジットの古い友人というヴァンパイアが、赤々と燃える暖炉の前のソファに優雅な体を預け、長旅の疲れも全く見せず、ブランデーのグラスを手に、華やかな外見に引けを取らない饒舌ぶりを発揮して、彼とその仲間達の近況を語る様を、その前の席に座ったカーイは、息を詰めて見守っていた。ヴァンパイアは、総じて際立って美しい容姿をしているということは、母から聞いていたが、これまで他の血族に会ったことのないカーイには、確かめ様のないことだった。しかし、確かにレギオンはハンサムだ。女神ブリジットが男性に変じたようなカーイは、母譲りの繊細な顔立ちもほっそりとした腕や脚も陶器のようなその肌も、およそ男性的な野蛮さとは無縁の性別不明の美しさだったが、レギオンは全く異なっていた。背はとても高く、肩も腕もがっちりとして筋肉質で、その手は優雅だったが同時にとても強靭で、カーイの細い手首なら両方とも片手で軽く捕らえられてしまいそうだ。多くの女性が夢に見る男性は、カーイよりもむしろこういうもっと男らしいタイプなのだろう。純度の高い金のような髪が炎に照らされて輝く様に見ほれながら、これなら、自分や母の親戚と認めてあげてもいいなと、世間知らずの思いあがった少年は、ぼんやりと考えていた。 

「マハは…彼女のことは、私はもうあきらめているの。最後に会った時にそう思ったわ。おそらく、もう二度と私達の前に姿を現すことはないでしょう。他の血族とも、最近は連絡を取り合うことがずっと少なくなってしまって…マハのように本当に消息不明になってしまった者、居場所は分かっていても向こうから一切の交流を断って隠者になってしまった者、気がつけば私達の周りは昔に比べて随分寂しくなったものね」

そう、ぽつりともらすブリジットの声音にこめられた微かな哀惜の思いに、カーイは、ほんの少し不安をかきたてられた。どうしてこんなにも母は悲しそうなのだろうか。生きていれば、いつかは会えるだろうに。ヴァンパイアは決して死なない。永遠だと、母はいつもカーイに言っていた。

「僕達の血族は…一体、世界にどれくらいいるものですか?」

当然とも言えるカーイの疑問に、レギオンは微笑した。

「いい質問だな、坊や。けれど、答えるのはとても難しい質問だ。まず、その数はとても少ないことは覚えておくんだな。だから、こうして私に会えたのは、坊やにとってはある意味とても貴重な体験ということになる。さて、数のことになると、私は一族の中では割合熱心にその点について調査しているんだが、我々は元来極めて独立性が強くて自尊心が高い、悪く言えば我が侭で協調性に欠けた性向があって、決して群れて暮らすことはないし、互いに対しては友愛よりも警戒心や下手をすれば敵対心を抱く傾向がある。これは、まあ、狩人としての習性かとも思うが。自分の猟場としている縄張りを他のハンターに荒らされては、たまらないというわけだ。そんな訳だから、その全体の数やら動向を把握するのは至難の技と言わざるを得ない。ただ、ヨーロッパに関しては、私の感触では、もう百人をとっくに切っていると思うね。世界の他の地域には、まだ数多く残っている所もあるのかもしれないが、この辺りでは、あまりにも人間の数が圧倒的に増えすぎて、生活の変化もめまぐるしく、どんどん暮らしにくくなってきているからね」

カーイは、ますます不思議に思って、小首を傾げた。

「でも、僕達は、不死なのでしょう?」

無邪気な問いかけに、雄弁なレギオンが、一瞬虚をつかれたように黙り込んだ。

「それに、昔がどうだったのか、知らないけれど、町の中にあふれかえっている人間達に混じって暮らすことが、人間のふりをして馬鹿な人間をだまして生きることが、それ程困難だとは思えないけれどな。あなたの言うように、世界はどんどん変わっていっているのかもしれないけれど、それら変化を実感するまでもなく死んでしまう人間達と違って、僕達はそれらをずっと見守ることができるんです。百年後、二百年後、世界はどんなふうに変わっているのだろうと思うと、とてもわくわくしませんか?僕には、それはむしろ楽しいことのように思えるけれど」

恐れ気のない率直な言葉に、レギオンはしばし打たれたようになって、カーイに見入っていた。圧倒され、魅せられているようだった。それから、その顔が、不意に微苦笑とも言える、複雑な陰りを帯びた笑いに引き歪んだ。

「ああ、カーイ、おまえは本当に新しい生まれたばかりのヴァンパイアなのだなぁ…」

暖炉の中で燃える火の悪戯だろうか、急に、レギオンの若々しいハンサムな顔が、ひどく年をとった、ひどく疲れきった老人めいたものに見えた。それにしても、カーイを赤ん坊扱いするこのヴァンパイアは、一体何年くらい生きているのだろうか。

「レギオン…」

カーイの見えないところで、傍らのブリジットが何か目配せしたようだ。まだ何か言いたげながら、レギオンは、口を閉ざした。

カーイはと言えば、このふいの闖入者に頭から子供扱いされて、自分の意見を一蹴されてしまったことに非常に不満だった。誇り高い不死の一族のものとは思えない、悲観的なレギオンの考えには、全く賛成できなかった。隣に座っている母親の方を、賛同を求めるように振り返ると、彼女は分かっていると言う様に優しく頷き返した。ほら、やっぱり彼女は分かってくれている。絶対的な存在である母に認められて、カーイは、安心した。

ブリジットは、レギオンに顔を向け、息子の頭を優しい腕で引き寄せるように抱いて、言った。

「あなたの言う様に、生まれたばかりで、まだ人間の味すら知らないこの子は、けれど、たぶん私達のうちの誰よりもヴァンパイアらしいヴァンパイアよ。あなたは忘れているようだけれど、あなただって、三百年も昔の頃は、華やかなベネツィアやフィレンツェの町を孔雀さながらに装って闊歩していた、粋がった駆けだしのヴァンパイアだった頃は、今のこの子そっくりの夢を語っていたものよ。永遠に等しい時間を生きながら、純粋さを保ちつづけること、ずっと変わらずにいることは、難しいどころか、ほとんど不可能。…私もあなたも、どうやら長く生きすぎたようね」

レギオンは、思わぬ返り討ちにあって、ちょっと困ったように口をすぼめた。最も古い血のブリジットにかかると、彼ですら子供扱いだった。

「純粋なヴァンパイア」

ブリジットの言葉を、レギオンは繰り返した。そうして、顔の前で両手をすり合わせるようにしながら、考え深げな顔で、安心しきった様子で母親の腕にうっとりと抱かれているカーイを観察した。

「パリには、しばらく滞在するつもりなのでしょう?」

少年に眼差しをあてたまま、レギオンは、頷いた。

「ええ、そうするつもりですよ」

興味を引かれたように、目を上げるカーイ。二人の視線が、束の間重なりあい、

そして、先にレギオンの方から目を逸らした。

「では、ここにいる間、この子の遊び相手兼教師になってあげてちょうだい。女の私では、教えきれないことがたくさんあるわ。それに、今言った通り、この子はまだ人間を狩ったこともないの。どうやってするかは、一通り教えたけれど、実践するには、やはり同じ男性の手ほどきが必要だわ。私達、人の血を吸う者が生きるための手管を、それを楽しむ方法をこの子に教えてあげて。あなたなら、できるでしょう?」

カーイは、驚き当惑するかのように、母親を見上げ、ついでレギオンを見た。そのかわいい唇が、面白くなさそうに引き結ばれ、不信感も露にその目が細められる。我が侭な、生意気な、甘やかされた子供めと、レギオンならずとも思わずにはいられないような態度だった。それでも、

「いいですよ、喜んで」と、レギオンは、にこやかに、いかにも親切そうに答えた。

「さて、坊や。君のお母さんの依頼を受けて、私は今から君の先生だ。仲良くやっていこうじゃないか」

差し出された、指の長い形のいい手を、カーイは、どうするか考えあぐねるように、しばらく睨みつけていた。

「カーイ、私は、あなたをそんな礼儀知らずな子に育てた覚えはなくてよ」

ブリジットがたしなめるのに、カーイはしぶしぶレギオンの手を取った。カーイの手がすっぽりとおさまってしまうくらいに大きくて、おそらく血を飲んでまだ間もないのだろう、人間のように暖かだった。

面白そうに瞬いているレギオンの緑色の瞳を、挑戦的に跳ね返しながら、高慢ちきな刺だらけの口調で、カーイは答えた。

「よろしく、先生。仲良くできるように、なるたけ努力しますよ。あなたが、僕を坊やと呼ぶのをやめてさえ下されば」

 

その日から、カーイと母の二人だけの生活に、新しくもう一人が加わった。レギオンは、母子だけの聖域だった屋敷の最上階に一室をあてがわれ、当然のように旅の荷物を広げ、イタリアで購入したという小さな油絵を壁に飾った。また、身だしなみにはかなり気を使う男らしく、翌日には早速パリで一番腕がいいと評判の仕立て屋に出かけて、最新のデザインの服を何着も注文し、母子だけのものだった晩餐の席にも必ずそんな粋な姿で出席した。人間の使用人に対しても主人然として実に堂々と振るまい、我が物顔で屋敷の中を歩き回るレギオンに、これまでそんな暴挙は誰にも許してこなかったカーイは、いちいち神経を掻き乱された。母の手前「先生」に正面切って食って掛かるわけにはいかなかったが、その心中では我が侭な子供特有の激しい憤りと反発心が煮え繰り返っていた。

初めて会った時から思っていたが、確かにレギオンは、非常な美男子だった。センスもいい。自分でも心得ているらしく、華やかな緋や緑で装い、この時代のパリジャン達が好んだ白いかつらなぞには軽蔑の目を向けるのみで、自前の見事な黄金色をした癖のある奔放に波打つ髪を飾り紐で軽く結わえて、銀の柄のついたステッキを手袋に包んだ手に持ち、王侯のように傲然と胸を張り、その長身から周囲を睥睨するかのように僅かに顎を上げて、猫のような気取った足取りで歩く、その姿は、確かに「威風堂々」とでも名づけられた絵のように様にはなっていたし、カーイにしても、ついつい目がいって見とれてしまうことも認めない訳にはいかなかったが、見ていると無性に腹が立ってきて、たまに石でも投げつけてやりたくなった。

母以外に生まれて初めて出会った同族、それも同じ男性ということで、興味をかきたてられると同時に、自分と比較して見てしまい、自分の美しさや力にうぬぼれる傾向の強いというヴァンパイアの子供であるカーイは、ついつい余計な競争心や嫉妬心をあおられるようだった。まだほんのひよっこのカーイが、こんな年季のいった、老獪で強力なヴァンパイアに構うはずはないことは分かりきっていたのだが、それでも、彼から取るに足りない子供のように扱われるのは許せなかった。坊や呼ばわりなど、言語道断だった。

長身でがっしりしたレギオンの前に立つと、せいぜいその胸の辺りまでしかまだ背のない華奢なカーイは、自分の未発達さと弱々しさを嫌でも見せ付けられるようで、ついつい爪先立ちして相手を睨みつけてやりたくなったし、彼の大きな手にちらりと視線を向けた後、女の子のようにほっそりとした指を持つ自分の手をしげしげと見下ろして、切なく溜め息をついたりしていた。反感を覚えながらも、レギオンの堂々たる歩き方を盗み見て、鏡の前で少しだけ真似をしてみたこともあったが、たまたま傍を通りかかったレギオンに見咎められて、実に嫌なにやにや笑いを向けられて以来、それはやめた。初めの頃、カーイはレギオンのことが嫌いだった。 

それでも、レギオンの話の面白さ、ユーモアのセンスも含めた話術の巧みさ、レギオン自身は苦手でもその話には夢中になってしまうことは、認めないわけにいかなった。その時は、生活の基盤をロンドンに定めていたレギオンだったが、もともとの生まれはベネツィアで、そこを中心にフィレンツェ、ローマなどを渡り歩いていた若き日、カーイがまだ見ぬ美しい町々の描写や当時の人々の生活ぶりなどは、彼の興味をかきたててやまなかった。自ら絵筆も握ることもあるというレギオンは、絵画の見方楽しみ方についてもカーイに教授し、彼の気に入りのイタリア絵画の複製を街で見付けてプレゼントしてくれたり、素晴らしいコレクションを誇る貴族の館や馴染みの画商を二人で訪ねると、自らの博識ぶりをやや自慢げにしながらもなかなかためになる解説をしてくれるのだ。

それにまたレギオンはダンスの名手でもあって、近い将来にカーイが宮廷や貴族達の集まる舞踏会に出かけるようになる時のために、暇を見つけては、屋敷の広間で手をとって幾つもの複雑なステップを彼に教えこんだ。

「そういう場所で、私達は「獲物」を物色し、気に入った相手が見つかればアプローチにかかるわけだからね。取りあえずダンスに誘ってみるなんていうのは、一番自然で簡単な最初のきっかけなわけだ」

そう言って、実に手馴れた気障な仕草で、カーイをダンスに誘う相手に見たてて軽くお辞儀をし、その手を取る。優雅に頭を下げて、顔に落ちかかる金髪の影から見上げる、その魅力的な微笑みをたたえた顔は、どんな女性でもぐらぐらになって彼に向かって倒れ掛かってきそうなくらい小憎らしいくらいに完璧で、これで今まで大勢の獲物を引っかけてきたのだろう、何となくカーイの癇に障るものだった。こんな見え透いた手にだまされるなんて、人間達はそれ程馬鹿なのだろうか。カーイは、しかめ面をして、手を振り解いた。

「僕は、女の人じゃありません。ふざけないでちゃんと教えてくれないと、あなたのレッスンなんか、金輪際受けませんからね」

すると、レギオンは肩をすくめて、今度はちゃんとカーイに習うべきことを教え出した。

「うむ、なかなか筋かいい。私ほどではないにしろ、坊やはかなりのダンスの名手になれるだろうな」

ダンスの授業も実はカーイは好きだったのだが、何かにつけ聞かされるレギオンの自慢話には、うんざりさせられた。

「私くらいになるとね、人間が過去から現在にかけて作り上げてきた文化的な事柄の中で、未だに知らないものはほとんどないと言っていいくらいなんだよ」

恥ずかしげもなくそんなことを言う、うぬぼれ屋。カーイは、レギオンのこういう所は、とても嫌いだった。

「そんなにあなたが何でもできて偉いなら、どうして、例えば本気で絵を描いて、あなたの尊敬する画家たちに並ぶほどの画家として名を残してみるとか、過去の歴史を実体験してきた知識を生かして、この時代を生きる人間どもを啓蒙するような本の一つも書いてみるとかして、あなたのありあまる才能とやらを発揮してこなかったんです?三百年の時間を、あなた、無駄に費やしてきたようですよ?」

時々、そんなふうに突っかかるカーイに、レギオンは、にやりと笑って、少しもへこたれずに答えるのだ。

「私は、ヴァンパイアだからね。そんなふうな人間の真似事はしないのさ。彼らが生み出した芸術を、歴史を、思想を遊びとして楽しむが、それは詰まる所、我々の文化ではないからね。ならば、我々特有の芸術が何かというと、捕食者として狩ること、獲物をいかにして選び自らの犠牲に供するかという、野蛮で根源的な儀式に尽きるのさ。未だ人の味を知らない坊やには、想像もつかないことだろうがね」

「その坊やと呼ぶのは、いいかげんやめてください。あなたから見れば、それは確かに僕は未熟かもしれないけれど、でも、自分のことはそ一通りやろうと思えばできるくらいに成長はしているんです。それを赤ん坊みたいに扱うのは、失礼じゃないですか」

「それはとんだ思い違いだな、カーイ。自分一人で狩りを完璧にこなせるようになって始めて、一人前の大人のヴァンパイアの仲間入りができるのさ。どうだ、少しは気が変わったかい?仕方を教えて欲しいなら、いつでも手ほどきしてあげるよ」

そんなふうに狩りをほのめかされると、カーイは、いつもレギオンから顔をそむけてしまう。狩りそのものに怖気づいているわけではなかったが、母の血と比べると、人間の血など美味しいはずもなく、不完全で不細工なつくりのあの生き物のぶよぶよした皮膚に牙をたてることが、想像するだにぞっとすることのように思われたからだ。遅かれ早かれ学ばねばならないことだと分かっていたし、迷うことでレギオンに子供だと侮られるのも、確かに癪だった。あいまいな返事で、カーイは取りあえず逃げることにする。

「ええ、また、近いうちにね…」

すると、レギオンは、あっさり引き下がる。カーイの反応を、彼はいつもこうして楽しんでいるようだった。

「じゃあ、その時を楽しみに待っているよ」  

こんなふうに、レギオンと一緒にいると、楽しい反面、理屈でない苛立ちを覚えた。大抵の場合上機嫌で、明るい笑いをたたえているその緑色の瞳は、一見友好的だが、本心は少しも見えてこないし、滑らかによく動く舌で作られる軽口は、面白くはあっても、どこか嘘っぽかった。 

しかし、そんなことより何より、カーイを最も憤激させたのは、レギオンが、カーイのブリジットをエスコートして、しばしば二人きりで夜会や観劇に出かけてしまうことだった。正装したレギオンとブリジットは、神話から脱け出した神々のように美しかった。人間の男性では、ブリジットの隣に並んでなおその存在を主張できるものはいなかったが、レギオンの輝きは女神と共にいてさえかすむことはなく、むしろ二人でいていっそう引き立て合うもので、それは詰まる所同族の男性だからなのだろうが、あまりにも完璧なカップルとなった彼らを前にして、カーイは目のくらむような嫉妬と悔しさで倒れそうになった。

「イタリアの喜劇になんか、見る価値があるとは思えない」

その夜も、連れ立って流行りの大道劇を観賞に出かけようとしている二人を見送るはめになって、カーイは膨れっ面をしていた。

「見て価値があると思ったら、また今度あなたも連れて行ってあげるわ」と、ブリジットはなだめるよう囁いて、カーイの頬にそっとキスをした。カーイは、あまりに哀しくて情けなかったので、応えようともしなかったが、それでも、彼女の唇が触れた時、傷ついた胸がほんの少し癒されたような気がした。しかし、一瞬和らいだ気持ちも、続くレギオンの無神経な言葉のおかげでまた掻き乱されてしまった。

「さて、出かけようか、ブリジット」と、カーイと母の間をわざと引き裂くように、その間に割り込んできて、 

「お母さんを借りるよ、坊や。ああ、そんな哀しそうな顔をしないで、ちゃんとすぐに返してあげるんだから。帰りは少し遅くなるかもしれないが、いい子にして、夜更かしはしないで早く寝るんだよ」などと、カーイの気持ちなど、とっくに気づいているくせににやにや笑って言うレギオンの横っ面を、できれば思いきりひっぱたいてやりたかった。これ見よがしにはではでしく輝く豪奢な金髪をつかんで根元から引き抜いてやりたかった。しかも、あれほどやめて欲しいと言ったのに、またしてもカーイのことを坊やなどと呼ぶとは。許せない。

「いい子にしているのよ」と、母にまで言われ、カーイは心底泣きたくなった。

二人が出かけるのをなす術も見送った後、カーイは最上階の自分の部屋に駆けあがり、豪奢な天蓋つきの寝台に身を投げ出して、あまりの憤怒にかられていたため、哀しみにくれて泣くどころではなく、頭をかきむしり、手足をばたばたさせ寝台の中を転げ回りながら、考え付く限りの罵詈雑言でレギオンをののしり、手元にあった枕を引っつかんで八つ裂きにした。それでもまだ気持ちがおさまらず、ついにはレギオンの部屋に押し入り、かねてからそうしてやりたいと思っていた破壊活動に取りかかった。壁にかかっていた油絵を引き裂き、レギオンが大事に使っていたクリスタルのグラスやら水差しやらを寝台の上へ放り投げて、粉々になるまで、その上で飛び跳ねるようにしてダンスを一しきり踊ってやった。何ていい気持ちなんだろう。それから、衣装ダンスから、彼の趣味のいい服を全部引っ張り出すと、大きく開け放った窓から、下の暗い通りに向かって、夕方に降った雨のためぬかるんでるだろう地面めがけて、全部まるめて投げ落としてやった。一通りやりたい放題してしまった後、息を切らせながら見渡したその部屋は、さながら小さな嵐が過ぎ去った後のようだった。たまらなくおかしくなって、カーイは吹き出し、おなかを抱えて笑い転げた。ああ、すっきりした。そうして、ふと、この部屋の惨状を発見した時のレギオンの最初の反応が見たくなって、寝台の影の暗がりに忍び込んで、待つことにした。あの格好つけの気障男がどんな間の抜けた顔をするか、楽しみだ。どんなお仕置きが待っているかよりも、そのことにわくわくして、いろんな想像を巡らせて待つうちに、眠くなってきたカーイは、いつしかとろとろとし始めていた。そうして、どれだけの時間がたったのか、微かな足音が遠くから近づいて来て、この部屋の扉が開く低い音がした。そうして、誰かがはっと息を飲み、身を強張らせる気配。レギオンが帰って来た。起きなくては、彼の仰天した顔を見なくてはと、カーイが浅い眠りから無理やり目を覚まして、寝台の影から起きあがろうとしかけた時、そうするよりも早く、何者かが彼の首根っこをつかんで、その軽い体を引きずりあげた。

「おまえか!この性悪な我が侭小僧め!」

レギオンの音楽的な低い声に混じった、怒りの火花がぱちぱち散るような不協和音にうっとりとカーイは聞き入った。そう、これが聞きたかったんだ。

「いい気味だ!」と、反抗的に叫んで、カーイは、レギオンの手に思いきり牙をたてた。レギオンは低くうめいて、手を緩めた。その隙に、カーイはいましめから逃れ、部屋の窓を開けて、夜の闇に身を躍らせた。未だ幼いとはいえヴァンパイア、重力に従えば遥か下の地面に叩きつけられる所を、軽々と体を回転させて、屋根の上にぽんと飛び乗った。今夜は月がすごいなと、頭上に輝く見事な銀色の円盤のような月に一瞬見とれ、カーイは、駆け出した。寝静まった家々の屋根の上を、ほとんど体重などないかのように軽やかな動きで軽々と飛ぶようにして移動し、やがて見えてきた教会の尖塔に飛びつくと、猫のような身のこなしでその急な勾配をやすやすと駆け上って、一番上の鐘つき台に身を滑りこませた。ここまで来れば、もう大丈夫と、カーイがほっと息をつきかけたその時、笑いを含んだからかうような声が、すぐ後ろから聞こえた。

「鬼ごっこは、もう終わりかい、坊や?」

狭い鐘楼の中で、カーイは飛びあがりそうになった。その体を背中から捕らえられ、肩越しに振りかえった所に、レギオンの、輝く金髪に縁どられた、さすがに怒りがおさまりきっていないかのようにいつもよりも紅潮した顔を見つけた。死に物狂いで暴れ、抵抗し、何とかその抱擁を振りほどいて、外に逃れることができたが、しかし、その行く手は、すぐにふさがれてしまう。まだ子供のカーイには、この強力な、長い時を経てきたつわもののヴァンパイアを出し抜くことなど、所詮無理な話だったのだ。

「いいかげん、あきらめるんだな、坊や。さあ、素直に謝るんだ。そうすれば、おいたをしたことも、一度くらいは許してやる」

カーイは、歯をむいて、吠えた。

「誰が、謝ったりするものか。あなたなど、大嫌いだ!」

レギオンの顔からあらゆる表情が消え、その目が冷たく酷薄なものとなり、すうっと細められた。本気で怒ったらしい。カーイは、本能的にびくりと震えた。

「カーイ、こっちに来るんだ」

レギオンの強引な腕がカーイの体を引きさらおうとする。それから逃れようとするあまり、カーイは、鐘楼の屋根から足を踏み外し、何もない宙に身を投げ出された。

「カーイ!」

レギオンがはっと息を飲み、叫んだ。彼の目は、少年の華奢な体がバランスを失って、打ち落とされた白い鳥のように地面に向かってまっすぐに落ちていく様をはっきりと捕らえていた。まさか、そんな馬鹿な。鐘楼の屋根の上でよろけたように膝をついて、数瞬の間、凍りついたように身動きもせず、闇の向こうの地面の上を、そこに横たわる白い姿を呆然と眺め、次いで、低い呻き声をあげて、彼もまた宙に身を踊らせた。レギオンの方は、急降下する鷹のように危なげなく、見事に地面に着地した。

「カーイ…まさか、嘘だろう?」

ぐったりとなった少年を腕にすくいあげ、レギオンは、信じられない、信じたくないというように、囁いた。まだ子供だったのだ。空中飛行もままならぬ子供なのに、こんな危ない場所で執拗に追いかけて、追いつめてしまった。突き上げてくる慙愧の思いに、レギオンの胸は震えた。

「カーイ!頼む、目を開けてくれ、カーイ!」

目を閉じたまま、実は既に意識を取り戻していたカーイは、さて、どうしようと思いながら、気を失ったふりをしていた。うまく宙に浮くことができなくて、落ちかけたのは本当だけど、着地の衝撃は実際大したものではなかった。ぐったり倒れて動かなかったのは、レギオンの怒りが恐かったからで、そうして意識を失ったふりをして難を逃れ様との計算ずくだったのだ。しかし、まさかレギオンが、ここまでカーイの芝居を信じこんで、動揺を見せるとは思っていなかった。どうしよう。レギオンの必死の呼びかけを聞きながら、起きるに起きれず、カ―イは、彼の腕の中で身を固くしていた。

「ああ、一体、どうすれば…」

レギオンの混乱し、途方にくれたような呟きに、カーイはどきりとした。彼のこんなふうに声は、ついぞ聞いたことがない。一体、どんな顔をして、こんなことを言っているのだろうか。ついに堪えきれなくなって、カーイは、恐々ながら、そうっと目を開けてみた。レギオンの、不安をたたえて大きく見開かれた瞳、自分が傷でも受けたかのように苦しげに歪んだ顔が見えた。カーイが目を覚ましたことに気づくや、大きく息を吸いこみ、がばと少年の体をその広い胸に抱きしめた。

「カーイ…カーイ、よかった…」

「……………」

いつもはどこか芝居がかった、少しも本気らしさの感じられない物言いをする男が、この時ばかりは、真実を語っていることをカーイは感じとった。レギオンは、カーイを大切に思っている。その考えは、なぜかカーイを有頂天にさせた。ついさっき大嫌いだと言ったばかりの男の首に自ら腕を巻きつけ、カーイはその顔を覗き込んで、にっこりと微笑んだ。親愛の情を込めて、レギオンの唇に軽く己の唇を押し付けた。

「好き…」

満足そうな微笑みをうかべながら、レギオンの胸にぴったりと頬を寄せてカーイは目をつぶる。その様子をレギオンは、何か言いたげな、熱っぽい目で見つめていた。少年の唇の柔らかさをなぞるように、舌で己の唇をゆっくりと味わった。結局何も言わず、レギオンは、カーイを腕に抱いたまま立ち上がった。無我夢中の逃走と濡れた地面に落ちたおかげで泥で汚れてしまったけれど、この世に一つしかない光り輝くかけがえのない宝物を抱えるように、少年を大事そうに抱いたまま、金髪のヴァンパイアは家路を急いだ。

 

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