愛死−LOVE DEATH−
第一章 始まりの朝
四
玄関のドアがしまる音を聞いて、しばらくの間、カーイはそのままの姿勢で、じっと何事か考えこんでいた。
結局スルヤは行ってしまった。そういう付き合いではなかったとはいえ、カーイを放って、女の子を紹介してもらいに行くなんて、こんな屈辱は初めてだった。いらいらと、細い指先で唇に触れ、そこに残る少年の柔らかな感触を思い出し、余計に怒りを掻き立てられたかのように、唇を噛み締めた。
(馬鹿馬鹿しい…たかが人間の子供のすることではないか。本当ならば、こんなふうに付き合うこともなかったはず、本気になるまでもない)
やがて、苦笑をうかべて、首を左右に振ると、立ち上がり、リビングの片隅にある電話の受話器を取り上げた。
「…ブリティッシュ・エアウェイズですか。明日のエジンバラ行きのフライトを予約したいのですが」
オペレイターが予約状況を確認するのを待っているその時に、玄関の方で物音がした。
「…ハロー?お待たせしました。明日の午後の便で空席が幾つかございますが。お客様…?」
その声を、カーイは聞いていなかった。無言のまま、受話器を戻す。
カーイの目は、リビングの入り口、そこに佇む少年をじっと見つめていた。細かな雨の雫が、艶やかな黒い髪の上で光っている。
「戻ってきちゃった」と、スルヤは笑った。
「家を出て少し歩いた所に公衆電話を見つけてさ、そこで友達に電話をしたんだ」
カーイは、リビングを横切り、スルヤの前に立った。湿った髪にそっと指をさしこむ。冷たい。
「パーティーにはやっぱり行けないって、断ったよ。せっかくだけれど、女の子のこともね」
何故と問いたげなカーイを、あの澄んだ大きな黒い瞳でまっすぐに見返して、彼は言った。
「好きな人ができたからって」
カーイは、何も言わなかった。
「あのさ…」
スルヤは、自分を勇気付けるように大きく息をして、少し顔を赤らめながら、囁いた。
「さっきみたいなキス、もう一度してくれる?」
カーイはやはり無言のまま、その頭を引き寄せ、さっきと同じように優しくキスをした。触れたスルヤの唇は外の冷気のためか冷たくて、かすかに震えていた。もっと欲しくなって、更に深く唇を重ねる。鋭く致死的な牙を相手には気づかれぬよう、慎重に、それでも、奪える限り奪い尽くす様にむさぼった。こんなふうな始まりがあるとは、思ってもみなかった。カーイの好みからは程遠い、恋を語るにはあまりに幼い未熟な相手だっだけど、かえって、その純真さに、自分を取り繕うことを知らない正直さに心を捉えられた。恋をした。
突然、クシャンと、スルヤがくしゃみをした。
「ごめん…いきなり……外はすごく寒くて…」
カーイは、一瞬鼻白んだ顔になったが、すぐにたまらず笑い出した。
「熱いシャワーを浴びて温まってらっしゃい。そのままじゃ、風邪をひきますよ」
室内の明かりは、柔らかなルームライト一つを残して、後は消した。
「ごめんね。俺のベッド、二人で寝るには狭すぎて不向きだから、落ちないでよ」と、先にそのベッドの真ん中にうずくまる様に陣取っているスルヤが、ライトの傍に立っているカーイに声をかけた。
「叔父さんが前にスタジオとして使っていた屋根裏には、すごい広々としたマットレスがあるんだけれど、埃かぶっちゃってるから、掃除しないといけないし。明日、天気がよかったら、掃除しちゃおう。ねえ、あなたも、叔父さんのスタジオ、見たいでしょ」
スルヤは、いつも以上によくしゃべる。明るい声は、しかし、不自然に上擦っていた。
「緊張しているんですか?」と、カーイが聞くと、案の定黙りこんでしまった。
「本当に、あなたという人は、かわいらしいですね」と、笑いを含んだ声でそう言うと、カーイは羽織っていたバスローブを肩から落として、雪色の体をベッドの上のスルヤの傍らに素早く滑りこませた。
そのまま、互いの目を間近で覗きこみながら、二人はしばらくじっとしていた。
「最初に…キスしたらいいの?」
「あなたの好きなように」
スルヤは、一瞬考えこんだ後、本当におずおずといったやり方でぎこちなくキスをしてきた。ためらいがちに体に回された手の動きも、愛撫というにはあんまり要領を得ないもので、カーイは何となく先行きが不安になって来た。別に、この相手に目くるめくような快楽など期待していたわけではないのが、今まで渡り歩いてきた数多くの恋人達との夜を思いおこすと、多分これは最悪の部類に入るのではないだろうか。
そんな思いがつい顔に出ていたらしい、スルヤはごめんと謝って、身を引いた。
「やっぱり、俺、無理みたい」
がっくりと肩を落とすスルヤの背中をしばらく眺めた後、カーイは身を起こし、その肩に手をかけた。
「わっ」
いきなり、強い力で肩を後ろに引かれ、スルヤはシーツの上に倒れこんだ。
「な、何?」
慌てて置きあがろうとするのを押さえつけ、カーイは戸惑うスルヤの上に馬乗りになった。
「カ、カーイ…!」
困惑して叫ぶスルヤの唇を指で押さえて黙らせる。
「余計なことは言わないで…一つだけ答えなさい。あなた、抱くのと抱かれるの、どちらがいいですか?」
「…………する方がいい」
「よろしい」
それ以上の質問は、今度は優しいキスで封じられた。
「ん…」
一瞬唇を離してやるとその隙に苦しそうな息をつくスルヤに、カーイはまたしても笑い出しそうになった。
「キスをする間、どうして息を止めるんです」
「えっ…あ、そうか。鼻ですればいいんだね」
もう一度、今度はもっと深く唇を重ねる。食いしばった歯列を割って、ためらいがちな舌を舌でからめ、強く吸ってやると、ゆるやかに滑るカーイの手の下の褐色の胸がびくりと震えた。
「ほんの少年のような、きれいな柔らかい肌…あなたの国では、あなたくらいの年の人はみんなまだこんなふうなんですか?」
熱くなった耳にそう囁いて、カーイは唇をゆっくりと滑らせた。血の飲み口である、彼にとってはあまりに魅力的な首筋のくぼみは避け、大きく上下している胸の今はほんのりピンクがかったチョコレート色のかわいらしい乳首を、傷つけない程度に鋭い牙にかけて味わった。
無論、スルヤには、もう答えるだけの余裕はない。荒い息を吐きながら、潤んだ目を呆然と見開いている。
しかし、カーイの唇の愛撫が、その引き締まった胸から、平たい腹に、更に下腹部の既に半分くらい持ちあがっていた敏感な部分に及んだ時には、さすがに背中を弓なりに反らせて、悲鳴をあげた。
「あっ…あぁっ……!」
しなる体を片手で押さえつけ、口に含んだ器官を舌でなぶりながら、ふとこのまま牙をたててみたらどうなるだろうと、誘惑的な思いにかられた。
カーイは、身を引いた。
「カーイ…何…?」
いきなり愛撫を中断されたことに、むしろ不満気に、スルヤはその名を呼んだ。
「いいから、じっとしてなさい」と、優しく命じて、カーイは身を起こし、スルヤの上に再び跨った。
強度を確かめる様に、充分に立ち上がって、今にも爆発しそうなそれの先端を指先で弾いてみた後―その行為もまたスルヤに小さな悲鳴をあげさせた―カーイは、ゆっくりとその身を沈めた。
「あ…」
スルヤは息をのんだ。
「ふ…ぅ……」
その人の綺麗な唇が切なげな吐息をもらし、ゆるやかにその体が動くのにつれ、ほの白く輝く長い髪が散らばる様を、魅入られた様に見つめている。
「カ…イ…あっ…あぁ…!」
つながった部分から突き上げてくる快感の波に、スルヤは、背を反り返らせ、髪を振り乱し、抑えようもなく声をあげた。
「どう…?スルヤ…?」
スルヤののたうつ体を優雅な騎手のように乗りすすめつつ、カーイはからかうように尋ねた。
「え…何……が…?」
弾む息の中、切れ切れな声が返ってくる。
「どんなふうに感じるか、言ってごらんなさい」
汗ばんだカラメル色の体は、今や上気し、淡い朱の色を帯びている。カーイの目には、その薄い肌のすぐ下で流れる血が透けて見えるかのようで、それは扇情的な眺めだった。
「どうって…何だか変…でも、すごくいい…。暖かく包まれて、しめつけられてる感じ、すごい好きだけど…でも、少し痛い…」
カーイは軽やかな笑い声をたてた。その彼の、大理石めいた冷たい体も今はうっすらとピンク色に染まっている。
「うぁ…ああっ…!」
そして、その瞬間、スルヤはひときわ体をしならせ、今まさに死にゆく者のように大きく痙攣させたかと思うと、突然、ぐったりと四肢を投げ出して、動かなくなった。
静寂。
「…………」
カーイの青い瞳が、その様をじっと見下ろしていた。常日頃は冷たく無感動なガラス玉のような、その目の奥に、ちろちろと燃える燠火のようなかげろいが漂っている。血に対する飢えを感じるには、まだ早すぎる。にもかかわらず、自分の下の熱くほてった若い体から立ち昇る血の香の甘さに、目眩がしそうだった。無防備にさらけ出された、あえぐ様に息をしている、その細い喉に牙をたてるという誘惑は抗しがたいほどで、彼を戸惑わせた。
クシャンと、スルヤがくしゃみをするのに、カーイははっと我に返った。
「カーイ…」
潤んだ大きな目を開けて、スルヤは彼を見ている。伸ばされた手が、甘える様にその髪を引いた。
「ねぇ、こっち来てよ」
乞われるがまま、カーイは横になった。すると、スルヤは、彼の体を力いっぱい両腕でかき抱くようにして、すなおな甘ったれた声で囁いた。
「好き…大好き…」
長い間捜し求めていたものをやっと捕まえたというように、こうして出会ったからにはもう二度と離すまいというようにしっかりとカーイを抱きしめながら、満ち足りた幸福感に浸って、スルヤは微笑んでいる。カーイはというと、逆らわず、新しい人間の恋人の腕に捕らえられているということ自体を楽しむように、その抱擁に身を預けていた。
「何だか不思議…あなたとこうして出会うために生まれて来たような気さえするよ」
そう熱く囁くスルヤの体に、カーイも無言で応えるように腕を回した。芯に炎でも隠し持っているのではないかと思われるほど熱い体、若く健康で伸びやかな、しかし彼が力を振るえば簡単に引き裂くことのできる脆い人間の体。
そのまま、満ちたりた幸せそうな顔ですうっと眠りに落ちていくスルヤを、カーイの方は、そんな安らかさからは程遠い冴えた目をして、考え深げにいつまでも見つめていた。
柔らかな朝の光の中、スルヤは夢うつつのまま、うーんとつぶやき寝返りを打った。すると何か暖かいものに触れ、何故か無性にそれが慕わしく、思わず身をすりよせる。
「ん…?」
重たい瞼をゆるゆると開けると、穏やかな微笑をうかべたカーイの白い顔がそこにあった。
「…カーイ…おはよう」
スルヤも微笑み返して、恋人の長いきれいな髪の一筋にそっと指をからませた。ふっと考えに沈みこみ、顔を翳らせた。夢のような一時は瞬く間に去り、そうして、朝が訪れた今、現実に向き合わないわけにはいかなかった。
「せっかく出会えたのに、こんなに好きなのに、もうお別れなんて…」
悲しそうにつぶやいて、溜め息をもらした。それが分かっていたから、尚更、自分の気持ちに正直にカーイのことを求めずにはいられなかったのだろう。例え一時でも、生まれて初めての恋を、この人と語りたかった。しかし…。
「でも、これ以上引きとめられないね。ありがとう。短い間だったけれど、楽しかったよ」
健気らしく、思いきったようにそう言って、スルヤは手の甲でごしごしと目をこすった。
「スルヤ」と、その時、カーイがようやく口を開いた。
「…実は、少しね、予定を変えることにしたんですよ」
むきになって目をこすっていた手をとめ、スルヤは顔を上げた。
「そんな間の抜けた顔をするのは、およしなさい。ああ、鼻まで赤くなってるじゃないですか」
カーイの眼差しも声も今までにないほどとろけるように優しかった。スルヤの胸はどきどきした。
「あなた、私を撮りたいって言ってましたよね。今でもその気があるなら、いいですよ、撮っても」
スルヤの目が真ん丸く見開かれた。
「もう少しロンドンにいることにしたんです。あなたと一緒にここにいても、いいですよね?」
返事は返ってこなかった。ぽかんと口を開けたまま、スルヤは固まってしまっている。
やれやれと肩をすくめ、ベッドから滑り降りようとしたカーイは、いきなり腰に巻きついた腕によって再び引き戻された。
「スルヤ…」
カーイの軽い嗜めなど全く耳に届かないくらい、完璧に舞い上がったスルヤは、彼を体の下に巻き込んで、その顔や、肩や胸、それこそ体中にキスの雨を降らせ、笑いながら、叫んだ。
「すごいやっ!なら、一緒にいられるんだね。本当に、本当に俺の傍にいてくれるんだねっ」
「ええ」
感情が高ぶるがままにまさぐり始めるスルヤの手にじっと身を預け、カーイはその肩越しの何もない虚空を冷たく冴えた目で見据えた。
殺しをした街で続けてまた殺しをすることは今まで避けていた。しかし、したら、何だというのだ。この世に恐れるものなどない身ではないか。別の街に移って、しばらくしてまた次の獲物となるべき新しい「恋人」を見つける。同じことではないか。どこでしようが、どんな相手だろうが。
そう、この罪のない、まだ幼いと言っていいくらいに若い、かわいらしい少年の血が欲しい。その首を切り裂き、傷口に口をつけて、震える心臓がからからになって止まるまで吸い尽くし、すべてを奪いたい。まだ始まったばかりのこの恋の終末も、必ずいつもと同じ凄惨なものとなる。
「ずっと、一緒ですよ」
この恋が終わるまではね、と胸のうちでつぶやく。
しかし、愛撫の手を止め、彼をじっと覗き込むスルヤの、その澄みきった瞳を見つめ返した時に、またもだしぬけに、母のあの声が聞こえてきたのだった。
(あなたを滅ぼすことのできるものは、この世界にはないけれど、たった一つ、これだけは固く心にとめて、守りなさい)
スルヤの口付けを、カーイは、半ば呆然となって受けた。
「カーイ、どうしたの?いきなり、また幽霊でも見たみたいな、変な顔して」
その呼びかけに、我知らず体が震えた。
「ああ…幽霊?まさか……」
苦々しげに笑って、首を振るカーイを、スルヤは不思議そうに見守っている。
「…しないんですか、続き…」
「あ…うん……」
何となく釈然としない顔をして、それでも、促されるまま、スルヤはカーイの脚を割って、体を進める。探り当てた箇所に昂ぶった自らをどうにか収めると、波に乗る様にゆっくりと動いて、つながったカーイの体を幾度となく揺さぶり、激しく突き上げた。初めはこれはちょっと使い物にならないかもと本気で心配したが、案外、飲みこみの早い生徒だったようだ。
「好きだよ…」と、優しい声で、彼は囁く。
その熱い体を抱きしめ、汗ばんだ髪をあやす様になぜてやりながら、別の声にカーイは耳を傾けていた。
(私達、血を吸う者は、人間を愛してはいけない…)
彼が最も愛し畏れる幽霊からの警告だった。