愛死−LOVE DEATH− 

第二章 記憶の小箱


男女の交わりのことは漠然と知ってはいたが目の当たりにするのは初めてだってカーイには、その夜の体験は、あまりにもショッキングだった。血を吸うこととそういう性的な営みが深く関わっているということも、彼を戸惑わせるだけだった。

肩を落として打ちひしがれた様子で家に帰って来たカーイは、すぐさまブリジットに会いに行きたかった。小さな子供のように、そのベッドにもぐりこんで、あまやかなその匂いをかぎ、やわらかい胸に抱き寄せられて、慰められたかった。けれど、レギオンに抱かれて悶えていた女の赤裸々な姿は脳裏にしっかりと刻みこまれていて、そのまま母の褥に忍んでいく事は、何やら後ろめたく罪深い事のような気がして、できなかった。仕方なく、自室のベッドに疲れ切った体を横たえてみたが、異様に冴え返った頭を抱えて、眠るどころではなく、目を閉じた瞼の裏側にはどうしてもあの場面が鮮やかに蘇って、何度も寝返りを打つ彼を悩ましつづけた。レギオンは、どうしているのだろうと思った。あんなことをした後でも、何の痛痒も感じずに、満腹した猫のようにぐっすりと眠りこんでいるのだろうか。そんなことができるものなのだろうか。

(レギオン、レギオン…ひどい人だ。あんな優しい親切な素振りをして、僕をだますようにして、あんなものを見せつけ、混乱させて…)

枕に顔をうずめて、何度か泣いた。言葉に出して、繰りかえりレギオンをののしり、また泣いて、そうして、泣き疲れたようにいつしか眠りに落ちていった。

しかし、それはいつもの子供らしい安らかな眠りからは程遠かった。夢の中ですら、カーイは、レギオンと黒髪の女が絡み合う場面を目撃し、逃げたいと思いながら金縛りにあったかのように身動きできずにその場に足を縫い付けられていた。

(レギオン、もう、やめて…その人を離して)

そう頼んだのは、女に対する憐れみからなのか、嫉妬なのか、ただその場面に恐怖しているだけなのか、自分でもよく分からなかった。どちらにせよ、カーイのその懇願がレギオンに届いたようには見えなかった。

レギオンの細身だががっしりした体に押しつぶされながら、女の美しい顔は薔薇色に紅潮し、空気を求めて激しくあえぐ口は大きく開かれている。その顔が、ふいに違うものに変じた。カーイは、牙をむき、苦しげにうめいた。許しがたい冒涜だ。いまや、レギオンに抱かれているのは、母ブリジットだった。許せない。カーイの中で激烈な感情が弾け、彼はわめきながら、レギオンに飛びかかろうと身構えた。しかし、その足は途中で凍りついた。ブリジットと見えたものは、実はそうではなく、そっくりな顔をしたカーイ自身だったのだ。脚を大きく押し開かれて、その中心をレギオンのたくましいものに深々と貫かれ、揺すりあげるように激しく突かれながら、カーイは、体をのけぞらせ、抑制を離れたあられもない姿で声をあげ、身悶え、苦しみながらもそれが欲しくてたまらないのだというように恐るべき媚態でもってレギオンの首に腕を巻きつけ、もっととねだった。   

違う。火のように全身が熱くなり、カーイは顔を覆って絶叫した。

「レギオン、お願いだから、やめて!」

自らの悲鳴で、乱れに乱れた布団の中で溺れたかけたような格好でカーイは目を覚ました。全く、最悪の気分だった。あんまり情けなくて、枕を抱きしめしくしくと泣いた。 

「やあ、おはよう」と、晴れやかに朝の挨拶をするレギオンの顔を見た時のカーイの精神状態はどん底で、ほとんど殺気だっていた。カーイがこんな苦しい気分を味わって、夜も眠れずに目の下にくままで作っているというのに、どうして諸悪の根源であるこの男が、こんなに元気ですっきりとさわやかな顔をしているのだ。こんな理不尽があるものか。許せない。絶対に復讐してやる。昨日の出来事のおかげで、すっかりカーイの地位は「初心で取るに足らない子供」にまで落ちてしまったが、そうと侮っている隙を突いて、絶対に出しぬいてやる。レギオンの手を借りるまでもなく、一人前のヴァンパイアになってやる。しかし、レギオンに認めさせるには、自分一人で狩りをしなくてはならない、ああいう性的な行為からも逃げずに立ち向かわねばならないのだと思い、気が遠くなった。無理かもしれない。

「どうした、赤い目をして…眠れなかったのか?」

そんなカーイの気持ちなどまるで知らぬげに、レギオンは無神経にカーイの顎を捕らえて顔を上げさせ、その目を覗き込んだ。

「目のまわりが少し腫れたようになってしまって、せっかくのかわいい顔が台無しじゃないか」

レギオンの吐息が顔にかかるのに息がつまり、夕べ飲んだ血のせいか人間のように熱いその指の感触に、カーイは震えあがった。火に触れられたかのように、とっさに身をもぎ離し、カーイのこの反応に驚いてうろんげな目を注いでいるだろうレギオンの顔を見ずにすむように、背を向け、そのまま、ぎこちない動きで朝食のテーブルを回り、レギオンからなるべく遠い席に腰を下ろした。何だか顔を熱かった。心臓の鼓動も激しくなって、息も苦しい。どうしよう。あんなおかしな夢を見たせいで、変に意識してしまう。レギオンの腕に、夕べのあの女のように抱かれる夢。カーイを悩ましている場面は、実際に見たあの黒髪の女とレギオンの血みどろの交合から、何時の間にか、夢の中のカーイとレギオンが愛し合っている情景にすりかわってしまっていた。またしても、その様子がありありと脳裏にうかびあがって、カーイはおこりのように震え出しそうな体を必死で押さえ込み、唇を噛み締めた。

「おはよう、紳士方」と、衣擦れの音をさせて、ブリジットがダイニングに入ってきた。入り口の辺りで、一瞬、レギオンとカーイの間に漂う奇妙な緊張感に気づいたように足を止めたが、すぐに何も気づかぬ素振りでテーブルに近づき、二人に挨拶をして、カーイの隣の席についた。

(お母さん…ブリジット……)

心の中で、カーイは、母に助けを求めて何度も話しかけたが、実際にそうすることはできなかった。レギオンに、自分の動揺ぶりを悟られてしまう。何よりも、夕べの出来事は、いかな母とはいえ、いや、母だからこそ共有することはできなかった。これまではどんなことでも打ち明けてこれたのに、何でも分かり合える関係にある唯一の存在だったのに、その母に秘密を持つことが、カーイには何とも寂しいような後ろめいたような気がして、余計に気分を落ちこませた。 

「夕べの舞踏会は、楽しかったの、カーイ?」と、ブリジットに聞かれ、カーイは、危く給仕がテーブルに置いたばかりの熱いコーヒーのカップをひっくり返しそうになった。

「ええ…まあ……そうですね…」

母の顔を見ることもできず、うつむいたまま口の中でごにょごにょ答えにもならないようなことを言いかけるカーイに、レギオンが助け舟を出した。

「彼はとても緊張していたけれど、初めての割にはうまくやっていましたよ。ダンスもとても上手で、あれはあなたにも見せたかったな。カーイのエスコートで、そのうちあなたも舞踏会に行けるようになりますよ」

用心深く顔を上げると、テーブルの向こうから、レギオンが、意味ありげな笑いをうかべて、ウインクを投げてよこした。何て憎らしい男だろう。

「ただ、獲物にできるような気に入った相手は見つからなかったようですね。まあ、何しろ初めての狩りですから、相手を選ぶのも失敗のないように時間をかけた方がいいでしょう」

「そうね」

母にこれ以上、詳しい話を求められたらどうしよう、レギオンのことだから、カーイのいる前でもおかまいなしに洗いざらいぶちまけてしまうかもしれない。そんな心配をしてすくみあがっていたカーイだったが、ブリジットがそれ以上追求することなく話題を変えたので、意外に思いながらも、ほっとしたような救われた気持ちになった。後から考えてみたのだが、ブリジットは、夕べ何があったのかくらいうっすら感じ取っていたのかもしれない。カーイの気持ちを察して、そっとしておいてくれたのかもしれなかった。

「レギオン、カーイ、今日の予定は?」

カーイが口を開くより先に、レギオンが、それに答えた。

「ああ、ブリジット。実は、今日もカーイをお借りしようと思うんですよ。夕べはいきなり、あんな大勢の人間達の集まる華やかな場に連れていって、必要以上に疲れさせてしまったようだから、今日一日はもっとのんびりとくつろげるような場所に連れていってあげたい」

カーイは、信じられない悪魔でも見るかのような目つきで、レギオンを仰ぎ見た。のんびりくつろげるようにしてやりたいなら、どうか静かに放っておいてくれと叫んで、手もとのコーヒーカップを投げつけてやりたかった。しかし、そうやって、正面からまともににらみ合っていると、またしても、あの心掻き乱される悪夢が戻ってきて、カーイの意気を挫いてしまう。

「別にいいだろう、カーイ?それとも、何か不都合でもあるのかい?」 

殺してやりたい。この男、一度絞め殺してやりたい、できるものなら。どうして、こんな悪党が、永遠の命の賜物などを授かっているのだろう。

「別に…不都合なんか…」

「そうか、それはよかった。では、朝食が済んだら、早速、服を着替えて用意するんだ。昨日のような正装じゃなくて、普通の外出着でいいからね。今度は、別に私が選んでやる必要はないだろう?」

「必要なんか、ありません!」

もう、我慢できない。カーイは、震える手でつかんだナプキンで口元をぬぐい、それをテーブルの上に叩きつけると、荒々しく席を立って、ブリジットにもおざなりな挨拶だけを残し、ダイニングを飛び出していった。

扉の所で振りかえると、レギオンが、ブリジットに向かって、やれやれといように大げさな仕草で肩をすくめるのが見えた。

カーイの優れた聴力は、レギオンがブリジットに話しかける軽やかな声をも聞き取った。

「難しい年頃だ」

必ず復讐してやる。カーイは、今度こそ固く心に誓った。



今度は一体どこにカーイを連れ出そうというのかと、警戒心と不信感が露の顔のカーイがやって来ると、レギオンは相変わらずの親しみのある態度でその腕を取り、気軽な散歩にでも出かけるような調子で外に出た。銀のステッキを気取った仕草でつきながら、軽い足取りで歩くレギオンと、憂鬱そうに手を取られてついていくカーイの二人づれを、大通りで行き交う人間達がはっとなったように振りかえる。一人でも目立つヴァンパイアが二人並んで歩いているのだ。それくらい人目を引いて当然だった。 

「レギオン、一体、今度はどこで何をしようというんです?一体、何を企んでいるんですか?」

「企むになんて、人聞きが悪いな。今日は別に狩りを強いたり、夕べのように子供には刺激の強すぎるものを見せつけたりもしないから、天気のいい日の散歩を私と楽しむくらいの気軽な気持ちでいればいい」

微かに頬を赤らめるカーイに、レギオンは、声をあげて笑った。外見もそうだが、笑い声までレギオンは華やかで、まるで豪奢な黄金色の毛皮を持つ珍獣のあげる叫びのようだった。

レギオンが言ったように、それは、本当にただの楽しい散歩のようだった。二人は、通りから通り、狭い横丁から横丁へと歩き回り、宝石や金銀の食器、タペストリーや彫像が所狭しと並ぶ店先を覗きこみ、探索し、仕事にせいを出す職人達の技に見入った。昨日のひどい体験と比べると、カーイには、こちらの方がはるかに楽しくて、わくわくするものだった。悪臭漂う肉市場で、皮をむかれたままの状態でつるされている豚やウサギをおっかなびっくり眺めることさえ、これがどうやら食べられる状態になって、毎日の食卓に運ばれてくるのだと思うと、何かしらすごい発見をしたようで興奮した。それに、ぎゅうぎゅうに込み合ったカフェで、人間達に立ち混じって飲むコーヒーは、不思議なことに家で飲むずっと上質のものよりもおいしい気がした。

「こういう場所に来るのは、初めてかい、坊や?」

「ええ、全然。自分が住んでいる町なのに、おかしいですね。時々しかパリを訪れないあなたの方が、ずっと詳しいなんて」

「ブリジットは君を箱入りに育てすぎたようだな。まあ、無理もないことだがね。いくらなんでも貴婦人のブリジットが、こんな猥雑な場所を歩き回るわけにはいかないし、ヴァンパイアは無論、一緒に遊びまわるような人間の友達もいない君のことだから」

「友達はいないけれど、それで特に不自由も寂しい思いもしたことはありませんでした。でも、それで、今までこんな楽しい体験を逃してきたのなら、何だか随分損をしたような気がしますよ」

今朝がたの憂鬱な気分もすっかり晴れたかのように目を輝かして屈託なく笑うカーイに、レギオンも唇をほころばせた。

「友達は、本当に一人もいないのかい、カーイ?」 

そして、テーブルの上に行儀よく置かれているカーイの手にそっと己の手を重ねた。

「私は、君の友達ではないのかな?」

カーイの顔から無邪気な笑みが消えた。首を僅かに傾げるようにして、じっとカーイの応えを待っているレギオンの顔から、どうしても目が離せなくなって、急にまた息苦しさを覚えたかのように、肩を大きく息をついた。

「あなたは油断のならない人だから、友達にはできません」

やっとの思いでそう言い、ありったけの精神力を総動員して、カーイはレギオンの手の下から己の手を引っ込めた。今まで忘れていた緊張感が再びよみがえってきて、カーイの心臓の鼓動は早くなった。

「出ようか」

唐突にそう言って、席を立つレギオンの後を、カーイは慌てて追いかけた。

「レギオン、お、怒ったんですか?」

店を出た所でやっとレギオンに追いついたカーイは、その背中にとっさにそう呼びかけていた。それから、一体、どうしてレギオンが怒ったことをそんなふうに自分が気にしなければないないのかとはたと気がついて、当惑した。

「怒って?ああ、まさか、カーイ、かわいい君の言うことで、私が腹を立てたりなんかするものか」

この人を馬鹿にしたような、歯の根のうくような言い方さえもう少し改めてくれたら、カーイは、もっとレギオンのことが好きになれたのだが。

「さて、今度は、君に私のとっておきの秘密を見せてあげようね」と言って、レギオンはカーイの体に腕を回して、引き寄せた。

「秘密?」

カーイは、一瞬身を固くするが、それよりも好奇心が勝って、問い返した。

「あなたの秘密って、何…?」

するとレギオンは茶目っ気たっぷりに片目をつぶって、内緒話をするように声を低めてカーイの耳に囁いた。

「パリには、私が隠している宝物があるんだ。何年かごとにこの街を訪れる度に、それらがどうなっているか見るのが楽しみでね」

「レギオン、もったいぶってないで、教えて下さいよ」

じりじりしてそう尋ねるカーイの顔を、数瞬の間黙って眺めた後、レギオンは言った。

「葡萄畑さ」

葡萄畑?カーイは、眉根に深いしわを寄せて、考えこんだ。レギオンは、また訳の分からない事を言い出した。またしても、カーイをだまして、からかって、翻弄しようという罠なのだろうか。しかし、なかなか好奇心旺盛な少年だったカーイは、結局知りたいという誘惑に負けて、レギオンに腕を取られ、パリの街を再び歩き出した。

葡萄畑。そうレギオンが呼ぶ場所を幾つか訪れてみたが、初めのうちはその意味が少しも分からなかった。しかし、それは、別の意味でカーイを驚かせる場所だった。初めの場所は、貴族や裕福なブルジョワの娘達を預かる修道院で、上品なシスターに招き入れられた彼らが引き合わされたのは、せいぜい十二、三才くらいの薔薇の蕾のような少女で、レギオンの顔を見ると、彼女はかわいい頬を喜びの色に染めて、無邪気にまろびよってきた。

「おとう様!」とその子が叫んで、レギオンの首に抱きついた瞬間、カーイは、自分の立っている地面が大音響と共に真っ二つに割れるかと思われるくらいの衝撃を受けた。

「レ、レ、レギオン…!」

女の子を腕に抱きしめて、あやすようにその背中を叩いてやりながら、レギオンは、顔を真っ赤にして拳をわなわなと震わせているカーイを不思議そうに眺めた。

「私の養女だよ。実の娘であるわけがないだろう」

確かにその通りだった。冷静に見れば分かることだ。その子は、人間の子供だったのだから。

「どれ、もう一年ぶりくらいになるのかな。子供の成長ぶりには、全くいつも驚かされる。こんなに大きくなって…」  

レギオンが少女に向かって優しく親切に話しかける様子を、カーイは、信じがたいものを見るかのような目つきで、うさんくさそうに凝視していた。こんなのは嘘だと、カーイは直感的に思っていた。レギオンが、人間の子供をただの親切心で養女になどするはずがない。しかし、少なくともその子は、心からレギオンを慕っているようで、その瞳の無邪気さに、カーイは、何かしら居たたまれない思いがした。

その修道院の次には、また別の教会だったり全寮制の学校だったりと場所は様々だったが、それらの全てに、レギオンの訪れを待ちわびる天使のような子供たちがいた。それらを回るうちに、カーイは、次第に理解し始めた。そうして、何とも言えない、深い憤りと反発心を高めていった。葡萄畑だと、レギオンは言った。そう、まさしく、あの子たちは、レギオンのために細心の注意を払って育てられている葡萄の実なのだ。

「あの少年、少女達は…いつかあなたの犠牲となるために、育てられているのですね」

同じようなまた別の修道院を出た所で、カーイは問うた。冷たく、固い声だった。

「ああ、そうだよ」と、悪びれもせず、銀のステッキを、気取った仕草で別の手に持ち替えながら、レギオンは言った。

「みんな本当ならばとうに死んでいるはずの子供たちだった。パリの薄汚い不潔な路地で、親に捨てられて行き倒れになりかけていたり、ひどい環境の孤児院で栄養失調で病気になって死にかけていたり、そんな子達ばかりだよ。別に慈善のつもりでした訳じゃない。どうせ死ぬ運命だったのだから、少しでも長く生きて楽しい人生を送れただけ幸せだろうと、取り繕うつもりもない。君の言った通り、あの子たちの血は私のために取り置かれているんだよ。自分のシャトーの葡萄畑の葡萄の生育を案じる程度には、私もあの子たちのことを気にかけているし、何不自由のない暮らし、栄養たっぷりの食事、人々の愛情のこもった世話、望むならば最高の教育だった受けさせてやる。この時代のどの子供よりも幸せな子供時代を過ごさせてやろう。しかし、いずれ大きくなって、ふさわしい時期となれば、その血と命は私のものだ」

「そんなひどい…悪趣味なこと…よくもできたものですね」

「おや、カーイ、今ひどいと言わなかったかな?聞き違いでなければ」

「悪辣で傲慢で冷酷、よくもそんなひどいことを平気でできるものです」

悪寒のように突き上げてくる嫌悪に鼻をしわめてそう言うカーイを、むしろ面白がるように、レギオンは、少しも悪びれる様子もなく、喉をのけぞらせて華麗に笑った。

「悪辣、傲慢、冷酷、大いに結構。それがどうした、私はヴァンパイアだ」

カーイは、唇を噛み締めた。胸がむかついて、仕方なかった。

「ああ、そろそろ、丁度いい時間だな。カーイ、最後にもう一件、訪れる予定の場所があるんだ。そこで、楽しい晩餐にもありつけるだろう。疲れはしていないね?」

カーイは、レギオンの顔を挑戦的に睨みつけた。

「ええ、こうなったら、最後まで付き合いますよ」

レギオンは、本当に油断のならない男だ。やはり友達にはできない。

「レギオン様、お待ちしていました。さ、どうぞ、中にお入りになってください。あの娘も、あなたが今日ここに来られると聞いてからずっと首を長くして待っていたんですよ」

最後にレギオンがカーイを伴って訪れたのは、中心街を少し離れた静かな地区にある、なかなか大きな家だった。感じのいい中年の男と女が彼らをにこやかに招き入れ、明かりのこうこうと灯った客間に通した。

「お待ち下さい。今、娘を呼んでまいります」

娘と呼んではいるが、どうせまた養女なのだろう。レギオンに頼まれて引き取った子供を育てている親切な養父母というところか。

「シャルロット、レギオン様がお見えだよ」

養母の呼びかけに、奥の方から、鈴を振るような澄んだ声がした。

「おかあさん、待って、リボンが…」

少しして、衣擦れの音をさせて、一人の若い娘が客間に姿を現した。瞬間、何の変哲もないありふれた中流家庭の居間が、明るい春の日差しがそこから差し込んだかのように華やいだものに変じた。

「ああ、綺麗になったね、シャルロット」

レギオンが冷静にほめた。

「……………」

カーイは、目を見張った。たぶん、年のころはカーイと同じか少し上くらいだろう。今日あったほかの子供たちのようなもっと幼い少女が出てくるとばかり思っていたカーイの予想は、今回は裏切られた。と言っても、まだ少女と呼んでいいほどのあどけなさをたたえた、その大きな瞳は澄み渡った空の青、髪は小麦の黄、唇は蜜をたたえた可憐な花、その声は梢の上で歌う小鳥のようによい響きで、レギオンからカーイへと向けられた笑みと美貌のあまりのあまやかさに、一瞬その運命の残酷さを忘れた。

「レギオン様、こちらは…?」

初めて会うカーイを前に、少女は恥ずかしそうに頬を染めた。昨日の舞踏会であったレディー達とは違って、動物めいた凄まじさは全くなくて、本当にかわいらしい小鳥のようだった。

「彼は、私の甥っ子だよ、シャルロット。カーイと呼んでくれ」

「カーイ様…」

少女が自分名前を読んだことに、何かしら不思議な動揺を覚えて、カーイは彼女から目を逸らした。いやな視線を感じて、そちらを振り向くと、案の定レギオンが人の悪そうな意味ありげな笑いをうかべている。カーイは、またしても強烈な怒りにかられた。

「シャルロットは、将来はオペラ歌手になるのが夢なんだ。そのためも勉強もしていてね。私が言うのもなんだが、非常な才能なんだよ。シャルロット、食事の後でも、よければ君の歌を聞かせてくれないか。パリに立ち寄る度に、君の歌声を聞く事を、私はとても楽しみにしているんだよ」

その瞬間のシャルロットの喜びと誇らしさに照り輝いた、若々しい美しい顔。修道院であった童女のそれにも重なって、カーイは、見ることが耐えがたくなって、顔をそむけた。

それからずっと、晩餐の席でも、その後居間に移って、レギオンのピアノの伴奏にあわせて彼女が歌うのを聞きながらも、カーイの胸はずっと一つの想念にしめられていた。

レギオンのための葡萄、極上のワインを作るために選びぬかれ、慎重に管理されて、しこまれ、飲むにふさわしい時期になるまで長い時間をかけて熟成される。この娘は、レギオンの目にはどう映っているのだろうか。まだ、飲むには早い、もう数年待つべきだと思っているのだろうか。そうは言っても、それほど猶予期間があるとは思えない。この素晴らしい歌声の、ひょっとしたら本当にオペラの大舞台にだって立つことができるかもしれない、才能ある若い娘も、昨夜のあの黒髪の女のように、恋をした相手に殺されるのか。同情ではない。ただ、何となく心楽しまない気分なだけだ。それから、ふと、この娘はレギオンに恋しているのだろうかと思った。

レギオンはいい男だ。女なら誰だって、好意を寄せるだろう。けれど、まだ少女の淡い憧れ程度のものかもしれない。一年に一度、会いに訪れるかどうかの男なのだ。この年頃の娘なら、身近な所で好きな相手ができていたところで不思議でもなんでもない。もしそうなら、レギオンはとんだ間抜けということになる。ヴァンパイアは、自分を愛する者の血しか飲まない。大事に育てていた「花嫁」を、日頃見下している人間の、誰か他の男に奪われたりしたら、プライドの高い彼にとって、とんだ赤っ恥ではないか。そうなればいい。そうなれば、レギオンめ、いい気味だ。

「あの…」

眉根を寄せたきつい顔で、すっかり自分の考えの中に沈み込んでいたらしいカーイは、おずおずとかけられる声に、はっと我に返った。

「カーイ様、新しい熱いお茶が入りました。向こうのお部屋にレギオン様も皆も移りましたから、どうぞカーイ様もいらしてください」

「あ…すみません、なんだか、ぼんやりして…」

カーイは、うろたえながら、身を落ち着けていたソファから立ちあがった。そこで、娘が自分にひたと注いでいる眼差しに気がついた。

「何か…?」

少女は、その声にはっとしたように、目を伏せ、それから、またその澄んだ青い瞳を上げると、心からの素直な賛辞をこめて、言った。

「レギオン様も美しい方だけれど、あなたは、本当にこんなふうな男の子がいるなんて、信じられないくらいだわ。私達が行く教会におさめられた絵の中の、金の静脈が走った輝く白い翼を持つ天使のようだわ」

はからずも思っていたことをそのまま口に出してしまったことに、戸惑い、恥らうように頬を染めた。

「あ…」

カーイは、大きく見開いた目で少女に見入ったまま、微かにあえいだ。自分と同じ年頃くらいの人間の女の子と面と向き合って話すのも初めてなら、こんなふうな心からの素直な賞賛を言葉にして受けるのも初めてだった。

「ありがとう…でも、あなたも、とても綺麗でかわいいと思うよ」

綺麗でかわいい。なんてつまらない表現だろう。彼女はそれ以上だ。レギオンなら、もっと気のきいた、この娘をうっとりさせるような気障な表現も頭の中に山ほど蓄えているに違いないのだが。カーイは、その後どんな風に会話を続けていいのか分からなくて、同じように緊張した面持ちで少し困ったようにもじもじしている少女と、じっと押し黙ったまま見詰め合っていた。

彼らの間に降りたぎこちない沈黙は、しかし、向こうの部屋から彼らを呼ぶ、レギオンの声で破られた。

「坊や達、一体、何をしているんだ?せっかくのお茶が冷めてしまうよ」

悪戯をした所を見咎められた子供のように、二人ともびくりと身を震わせた。カーイは、夢から覚めたように瞬きをし、それから、少女が、

「さ、行きましょう」と、小さな声を残して、慌てて背を向け、隣の部屋へと向かう。

カーイの方は、しばらくその場に佇んだまま、少女の後ろ姿を、猫のようにすうっと目を細めて見送っていた。

「シャルロット…」

レギオンのための、生贄の花嫁。奪われる前に、誰か他の男に掠め取られてしまえばいいと思った。だが、別に「他の男」である必要はないのかもしれない。レギオンの隙を突いて、鼻をあかし、出し抜いてやることで復讐したいなら。

頭の中にうかんだ、挑戦的な考えに、カーイの心臓はその胸の中で早まり、高まってくる興奮に頬は紅潮してきた。そうだ、レギオンに思いきり恥をかかせて、その鼻持ちならない過剰気味なプライドをずたずたにしてやろう。

(この僕があの娘をレギオンから盗んでやるんだ)

それが、カーイの行きついたレギオンに対する報復だった。

 



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