愛死−LOVE DEATH−
第二章 記憶の小箱
三
子供の頃のカーイは、こんな具合に自分の思いどおりにことが運ばないとしばしば強烈な癇癪を起こす、とんでもなく我が侭で、猫の目のようにくるくると気分の変わる、大人にとってはかなり扱いにくい少年だった。カーイ自身、当時の己のやりようをふとした時に思い出せば、我ながら何とも恥ずかしいと苦笑したくもなる、ブリジットはともかく、よくもレギオンが愛想を尽かさなかったなと、今更だがその忍耐力に尊敬の念を抱きたくなるような代物だった。しかし、そんなふうにどうしようもないほどに我が強かったけれど、自分の感情のままに行動し、それを率直に相手にぶつけることに何のためらいもなかった。正直だった。それは、まだ人間を知らなかったころのカーイ。レギオンの言ったように、無邪気な子供だったのだ。
さて、再び話をカーイとレギオンとの派手な争いと追いかけっこの後に戻そう。
「おいた」をしたことで愛するブリジットから大目玉を食らってしょげ返っていたカーイの部屋に、その翌日レギオンがやって来た。その姿を見るなり、前日の自分の振舞いついてまたしても叱られるのか、けれど母の信頼をこれ以上裏切ってこの客人に失礼を働くわけにもいかないと、カーイは、じっと耐え忍ぶかのように唇を噛み締めて、顔をうつむける。その様子に、レギオンは、数瞬の間つくづくと見入った後、ぷっと吹き出し、喉をのけぞらせるようにして豪快に笑った。
「今日は随分しおらしいんだな、カーイ。私の部屋をめちゃくちゃにしたあげく、年長のヴァンパイアである私に恐れ気もなく激しく突っかかり、手にかみつきまでした、昨日のあの威勢はどこに行った?うん?」
カーイは、顔を上げて、哀しそうな目でちらりとレギオンを見、また、うつむいた。レギオンは、その様子にまた興をそそられたかのようにじっと見つめていたが、やがて、声音を変えて、優しく、しかし、有無を言わさぬ強引さをこめて言った。
「カーイ、昨日のお詫びとして、今日は、私に付き合って、一緒に出かけてもらうよ」
カーイは、当惑した。レギオンの意味ありげなにやにや笑いをうかべた端正な顔を、その真意を推し測るように凝然と見つめた。
「レギオン、出かけるって、一体、どこに…?」
「そうだな…まずは私がひいきにしている仕立て屋と、後は帽子屋と靴職人という所かな」
「仕立て屋って、なぜそんな所に?」
「仕立て屋っていうのは、服を作ってもらう所だ、だから、当然、そこで採寸をして、デザインについて色々相談をして、自分好みの服をしたててもらうのさ」
カーイは、形のいい細い眉をぎゅうっと寄せた。一体、何を言っているのだろう、レギオンは。さっぱり分からない。もしかして、昨日の復讐に、意地悪をされているのだろうか。カーイは、ますます哀しくなってきた。
不安げなカーイの眼差しが問いかけるように注がれているのにも構わずに、何故か上機嫌のレギオンは、鼻歌を歌いながら、カーイの衣装ダンスを勝手に開いて、外出着を適当に選び出して、傍らのソファの上にぽんぽんと投げていった。
「さあ、早くしないと一日はあっという間に過ぎてしまうよ。これに着替えて、出かける準備をするんだ」
カーイは、不承不承ながら、言われたとおりにして、レギオンと共に外出することにした。初めの内は、てっきり昨日のことを根に持たれているとばかり思っていたものだから、これはレギオンの仕返しの陰謀か何かに違いないと緊張していたが、レギオンの晴れやかな態度にも、カーイに対する親愛のこもった言葉やその眼差しにも、少なくともそうと感じられる悪意は感じられず、少しずつ安心していった。
レギオンがカーイを連れていったのは、彼の言った通り、パリで当時最も名をはせていた腕のいい仕立て屋だった。問い掛けるようにカーイはレギオンを振り仰ぐ。レギオンはにやりと笑って、仕立て屋の主人の前にカーイを押し出すようにして言った。
「この坊やのための正装を何着か、作ってもらいたい。金に糸目はつけないから、この美しさにふさわしい、最高の素材を使って、最高に素晴らしい衣装をね」
服?カーイは、目をぱちくりさせた。何故、レギオンが、わざわざカーイのために服など作ってやらなければならないのだ。それを言うなら、むしろカーイの方が、駄目にしてしまったレギオンの服を弁償するのが筋というものではないのだろうか。そう問いかけようとしたが、レギオンは、瞬く間にカーイのための生地を選び、仕立て屋とデザインの相談をする作業に夢中になってしまって、人形のようにレギオンの選んだ布を体にあてられ、仕立て屋に採寸をされながら、カーイは、尋ねるきっかけを逸してしまった。
仕立て屋での一仕事が済むと、今度は靴屋、帽子屋と連れまわされ、理由の分からぬまま、同じような高価な買い物に明け暮れた。何故、何故?商売熱心な店員達は、口々にカーイの美しさを誉めそやしながら、あやれこれや奥からひっばりだしてきた商品を彼に試させた。仕立て屋での念の入った作業のおかげですっかり疲れきっていたカーイは、ほとんど上の空で、レギオンに全ていいようにまかせていた。一体、何をどれだけ買って、どれほどのお金を使ったのか、一日の予定を全てクリアーした時には、カーイにはもう全く分からなくなっていた。後日、カーイは、それぞれの店が運んできた注文の品々の数を見て絶句し、こっそり見てみた請求書の数字に度肝をぬかれるのだが、それはまた別の話である。
「どうして、こんなことを…?」
その一日ずっと抱えていた質問をカーイが投げかけることが出来たのは、家に帰って、使用人が運んできたお茶を飲みながらほっと一息ついた、その時になってやっとだった。
「こんなこと?おや、坊やはあまり美しく装うための衣装や宝飾品の類を選ぶのは好きではないのかな?」
広々とした豪華なソファの両端に腰を下ろして、暖かい湯気をたてる紅茶と共に銀皿の上の薄いアーモンド菓子をつまんでくつろぎながら、一方で互いを相手の出方をうかがうように用心深く眺め観察した後、二人は語り合い出した。
「好きとか嫌いとかの問題ではなくて、あなたがどうして僕にあんなものをたくさん揃えさ下さったのか、その意図が分からないと言っているんです」
「綺麗に着飾った君を見たかった。もし君が女の子だったら、そう言っただろうね、カーイ。全く、どうしてブリジットは君を女の子に産まなかったのだろうな。そうすれば、もっと服や様々な宝石を選ぶのも、ずっと楽しかっただろうに。いや、少年としての君も充分に魅力的だよ、念のため。できれば、いつか君をモデルに絵を描いてみたいものだ。ブリジットと二人一緒でもいいな」
カーイは、次第にイライラし始めていた。どうしてこの男は、カーイの当然な問いに対してこういちいちしらを切ったり、何も分かっていないようなすっとぼけた態度を取るのだろう。それが、どんなにカーイの神経を逆撫でし、不愉快な思いで胸を一杯にさせるか、十二分に知っているくせに。
「はぐらかさないてください、レギオン。僕の質問にまともに答えてくれないと、僕はまたあなたのことが大嫌いになって、またいつ昨日のようなことをしないとも限りませんよ」
上ってきた怒りに白い頬を僅かに染めて、憎らしそうに言い放つカーイに、レギオンは愛しげに目を細めた。
「ああ、やっと坊やらしくなってきたね」と言って、嬉しそうに笑った。そして、ふいに真顔になって、カーイの背中に手を回して、その軽い体を引き寄せる。いきなり間近に迫ったレギオンの顔に、それもいつになく真剣な抗し難い迫力をたたえた表情で覗きこまれて、一瞬、カーイの息は止まった。
「カーイ、君は、斜陽にある我ら古い種族の、今となっては全く貴重な存在である子供のヴァンパイアだ。君の存在に、私がどれだけ心を揺さぶられ、引きつけられているか、君には想像もつくまい。君の何も知らない無垢な子供ゆえの恐れ知らずな率直さ、まだ傷ついたことのない誇り、人間に対する無邪気な残酷さ、未来への素直な期待と自信、それら全てが私を酔わせる。こう言っては何だが、君は遥か昔のまだ子供だった時分の私に似ているよ。君を見ていると、私は、今まで忘れていた昔の自分を次第に思い出してくるような気がする。昨日、教会の高い尖塔から落ちていく君を見た時、私は、心底恐怖した。私達ヴァンパイアのもしかして最後の子供かもしれない君をなくしてしまったと思ったのだね。これまで他人の運命など気にかけたことのない私だが、カーイ、君のことは心から案じている。愛しているよ」
レギオンのたくましい腕にかき抱かれ、その手が頭をいとしくてたまらないというようにかきなでるのに、おとなしく身をまかせながら、カーイは、じっと目を見開いて、考えこんでいた。
「我々血を吸う者たちの、美しい子供」
男の熱っぽい囁きを耳元に感じながら、カーイの気持ちは何故か冷えていた。レギオンはカーイを愛している。もっと有頂天になって、喜んでもいいはずなのに、昨夜は確かにそう感じたはずなのに、今はそれほど胸がときめくような感じはしない。よくは分からなかったが、これはカーイの欲しい愛ではないという気がした。
「服の話は、どうなったのです?」
レギオンが激しくかき口説くのにもその抱擁にもうんざりしてきたカーイは、冷やかな冷たい声で、この一方的な告白を打ち切るようにそう言った。
さすがのレギオンも、鼻白んだ顔で、しげしげとカーイを眺めた。そして、カーイから身を離して自由にしてやると、軽く肩をすくめ、苦笑の混じった表情で、再び語り出した。
「そうだな。あれは、私から君への、少し早い祝いの品だと思ってくれればいい」
「祝いって、何の?」
「大人になることのだよ」と、レギオンは、いかにも情が強そうに彼を睨んでいる少年を、真摯に見つめ、頷き返した。
「君もそろそろ狩りを覚えるべき時期なんだ、カーイ。ブリジットに頼まれるまでもない。私が、君に全て教えてあげるよ。血を吸う神々、空気を漂う悪霊とも呼ばれた古い一族、ヴァンパイアの自然の性を、自らが選んだ獲物との駆け引き、恋のようにそれを楽しむ方法、そうして、最後の瞬間に獲物の血をその魂ごとすべて飲み干すことの意味を」
レギオンの申し出を、当然のことながら、カーイはあまり歓迎しなかった。相談もなく勝手に決められたことで、またしても子供のように軽んじられていると、ぷりぷり怒っていた。しかし、いったんこうと決めるとレギオンは強引で、カーイの抗議には、
「ああ、カーイ、まさか怖気づいているなんて言わないでくれよ」と、逆にカーイのプライドに関わってくるようなことを言って、カーイにしても、あまり強硬に反対して臆病と侮られるは嫌なものだから、それに何よりもブリジットに自分がそんな弱虫に見られるのは耐えがたかったものだから、結局しぶしぶながら言いなりになるしかなかったのだ。
そうして、ついにレギオンに「狩り」を習う最初の日がきた。部屋中所狭しと置かれた、レギオンと共にまわった店から届いた注文の品々、すべてカーイのために特別にあつらえた服や靴や帽子等々の箱を呆然と見まわして、どうしたらいいか分からないというように途方にくれて立ち尽しているカーイをそのままにして、こちらは対照的に楽しそうなレギオンは、箱を次々に開けて中身を確かめ、適当に何点か選び出して、カーイのその日の装いを決めた。ここまで来ると、腹を括ったのか、カーイも素直に言われるがまま、真新しい服に袖を通し、ぴかぴかの靴に恐る恐る足を入れた。銀色のブロケードにラベンダー色のベルベットの外套をはおり、凝った模様の深い彫りを施した銀の柄のついた細身の剣を腰からぶら下げ、手袋と帽子を手に携えて立つカーイを、レギオンは、顎に軽く指を置いて、しばし、じっと観賞するかのように眺めていた。その顔にうかぶ満足と賞賛の色に、カーイは、ひとまずほっとする。
「いいだろう、坊や。こんなに若くて瀟洒で綺麗な貴公子はパリ中探したって、例えベルサイユにだって、他には見つからないだろうさ。さあ、そろそろ出かけようか」
にこやかにそう言って、手を差し伸べるレギオンの装いは、黒いベルベットと金糸の刺繍とレース飾りで、もっと華やかな色彩を好む彼にしては、趣味はいいがおさえ目だった。人目を引くまばゆい金髪の輝きだけは、相変わらず激しい自己主張をしてはいたけれど。
「レギオン、夜会とか舞踏会だとかに行く時は、いつもはでやかな、それこそイタリア絵画みたいな色彩で装うのが好きなあなたが、今日は一体どうしたんです?」とのカーイに問いに、レギオンは、大げさな仕草で帽子を持った手を胸の前に置くようにしてカーイに向かってお辞儀をすると、笑いを含んだ、弾んだ調子の声で言った。
「今夜の主役は君だからね、カーイ。私は、ただの保護者で君の引き立て役に過ぎないからだよ」
「あなたが、ただの引き立て役におさまるはずがないでしょう。例え着ているものが少しくらい控えめでも、あなたのその派手な金髪と同じくらい、あなたの存在自体が、嫌でも応でも人目を引きつけ、決して忘れられない強烈な印象を与えてしまうのですから」
「それは、坊やについても言えることだよ、カーイ。君は、まだ自分を知らな過ぎる。人間達の中で、君はまばゆい光を放つ炎となるだろう、その輝きで人を幻惑し引きつけながら、人間達はさながらその炎の中に飛び込んで焼かれる虫のようなものだと、君には感じられるようになるに違いない」
カーイは、不思議そうに小首を傾げた。そんな風な仕草をすると、カーイは、自分では気づいていなかったけれど、いかにも何も知らぬげな子供めいて、がんぜなく、可憐に見えた。
「それが、僕達、血を吸う者の性質というわけですか。けれど、人間の中で人間の振りをしながら、獲物を物色して、殺すことに関しては、僕達のようにいちいち目立ってしまっては、厄介な部分もあるでしょうに」
「こつがあるのさ。幾つかの原則を守れば、人間に立ち混じった生活を続けながら、吸血の欲求を満たすことも、それほど困難ではないんだよ。君も、すぐに覚えるだろう」
そうしてレギオンがその夜カーイを伴ってのりこんだのは、パリ郊外にあるさる貴族の邸宅で催された舞踏会だった。こんなに大勢の人間達の集まりは初めてのカーイは、とても緊張して、正体がばれるはずはないとは分かっていたが、いつも以上に自然に振舞うことに異常に気を使っていた。堂々と慣れた態度で招待状を家令に示し、自信に満ちた足取りで人の話し声や笑い声のさんざめくこうこうと輝く明かりの灯された広間に向かうレギオンに腕を取られて導かれながら、カーイは、まるで人買いに連れてこられた幼児のように青ざめて、頼りなげで、不安そうで、その頭の中はパニック寸前だった。
(ああ…)
その広間に足を踏み入れた瞬間に押し寄せてくる大勢の人間が発する圧倒的な血の匂い、その熱い体温にあてられたかのように、カーイは軽い目眩を覚えた。
「まあ、レギオン様、こんばんは」
「今夜は、とてもかわいらしい人をお連れなのね」
瞬く間に、色鮮やかなドレスに身を包んだ女たちが、彼らにわらわらと群がり寄って来る。レギオンは何と言っていたのだろう。そう、炎に群がり飛びこむ虫だといったのだ。レギオン自身は、そんなふうに言った覚えなどまるでないというように、女達に向ける人好きのする笑顔も、その親しみのこもった語り口調も、相手の彼が真実な友愛の気持ちと、ひょっとしたらそれ以上の気持ちすら抱いているのでいないかと淡い期待を抱かせてしまうほどの、圧倒的な魅力を発散していた。舞台役者のようだと、その姿を見ながらカーイはぼんやりと思った。観客を魅了し彼の物語の中に引きこむ、作りものの人物めいて、真実味がない。
「何て綺麗な髪なのかしら。それに肌も白くて滑らかでお人形のようね」と、レギオンからすぐに興味をその連れであるカーイに移した女達は、今度は矢継ぎ早に彼に向かって言葉を投げかけ出した。
「レギオンとは、御親戚か何かなのかしら?」
「きっとこんな集まりに出席するの初めてなのね、とても緊張しているようよ。ね、あなた、お名前は?」
人間のレディー達は、思いの他積極的で大胆で生々しくて、周囲をぐるりと取り囲まれ好奇心で一杯の目を注がれながら、カーイは、まるで自分が無力なウサギか何かになって彼女らに今にも食べられてしまうような恐怖感を覚えていた。
「リンデブルック伯爵様だよ」と、レギオンが、笑いの発作に肩を小刻みに震わせながら、傍らから声をかけた。その手は、女達の中でもとりわけ美しい爛漫と咲き誇る赤い薔薇のような装いの黒髪の女性の手を取っている。カーイは、何だかそのことが気になった。
「ああ、ブリジット様の弟君なのね?そう言えば、本当にそっくりだわ」
息子ではなく、弟と彼女らが理解したことに、カーイは驚いたが、よく考えてみれば、いつまでも若い彼女にこんな大きな息子がいることよりも弟のほうが自然と取られるほどに、カーイは成長していたのだ。
「レギオン…」
カーイは、溺れかけた者が必死に手で手がかりを求めるように、女達の間を縫うようにしてレギオンのもとに歩み寄ると、その腕を震える手で取った。するとレギオンと親しげに話していた黒髪の貴婦人がうろんげな視線を彼に注いだが、カーイは彼女の微かな敵意になど構っていられる状態ではなかった。その血の気の失せた顔と大きく見張られた目に、レギオンは軽く肩をすくめた。
「カーイ、私は君の保護者でもなんでもないんだよ。ここまで来たからには、後は自分で自分なりの楽しみを見つけるんだな。ああ、ほら、そろそろダンスが始まるようだ。適当に踊って、気に入った相手を見つけて今夜のパートナーにすればいい」
カーイは、絶望と、目もくらむような怒りに襲われた。いかにも保護者然とした優しげな態度で、気の進まなかったカーイなだめすかしてここまで連れて来たのは、一体どこの誰だというのだろう。この大嘘つきの裏切り者め。
広間の片隅に陣取った楽師達の演奏が始まった。人々はダンスを楽しもうという者は真ん中に残り、他はつつましやかに脇に退いた。
「ほら、坊や、君も行っておいで」
レギオンの手が、カーイを突き飛ばすようにして広間の真ん中の方に押し出した。一瞬虚をつかれたカーイは、広間の中心に集まり、それぞれにパートナーと組んで踊り始めた紳士淑女らの中に、ふらふらとよろめき出てしまった。
「レギオン…!」
怒りに頬を紅潮させ、牙をむいてそちらを睨みつけようとしたカーイの目の前に、一人の若いレディーがたまたま立っていた。カーイと目があうと、うっすらと頬を染め、期待と興奮に大きく胸を上下させた。カーイは、一瞬うつむいて口の中で呪いの言葉を呟いた後、意を決したように顔を上げ、打って変わってにこやかな表情をうかべて、娘の手を取りダンスの列に加わった。
カーイにとってそれは初めての経験だったけれど、ヴァンパイア特有のセンスのよさとレギオンのお仕込みのおかげもあって、カーイは、まるで熟練した踊り手のように踊った。人間達の賞賛の視線を受け、順番に変わるパートナーがカーイに興味を引かれたかのように投げかける質問を聞き流しながら、しかし、カーイの目は、それらパートナー達の顔も、踊りの輪の外で彼を眺めている他の人間達も見てはおらず、ひたすら、黒髪の美女と熱心に話しこみ、時折軽やかな笑い声をたてて金髪の頭を振りたてるレギオンを、ほとんど憎しみのこもった眼差しで睨みつけていた。
(レギオン、レギオン、一体、その女性は誰なんですか?どうして、そんなふうに親しげなの?)
ダンスが終わった。それぞれに分かれていく人間のカップル達の誰よりも、カーイは素早くその場から逃げた。最後のダンスのパートナーが、まだ彼と離れ難い素振りを見せたが、カーイは少しも構わなかった。すぐにレギオンのもとに飛んで帰りたかったのだ。しかし、カーイが一瞬目を離した隙に、レギオンは、その黒髪の連れと共に何処かへと姿を消していた。何ということだ。カーイは、広間中をくまなく、時折声をかける人間達にもほとんど注意を向けることなく探しまわり、どうやらそこには本当に彼らはいないことを悟ると、広間を後にして、人気のない暗い庭園に足を向けた。
明るい館から漏れる光と、庭園の中にも所々ともされた灯りのおかげで、人間でも散策はできたかもしれないが、それでも、闇はそこかしこに濃くわだかまっており、うっかりすると足下を滑らせるかもしれないくらいで、何か特別の目的でもない限り、わざわざこんな暗い場所を訪れる物好きはなかったろう。それでも、カーイの研ぎ澄まされた嗅覚は、あの黒髪の女の香水の香りが空中を微かに漂っているのを嗅ぎ取った。
「レギオン、どこにいるのです、レギオン?」
夜目もきくヴァンパイアのカーイは、何の不自由もなく、広い庭園を連れの姿を探し歩いた。全く、わざわざこんな場所まで、一体何のために来たのだろうか。何の断りもなく姿を消した不実な連れを、犬さながらに探しまわるためだったのか。「狩り」を学ぶためだとレギオンは言ったが、ここに学ぶべきものなど一つもなかった。あの生々しい人間の女達のうちの誰かに吸血の欲望も覚えることもなければ、怒りと戸惑いと不安を押し隠して作り笑いをうかべてするダンスも少しも楽しくはなかった。レギオンは、一体、ここでカーイに何を教えようというつもりだったのか。
「レギオン…?」
次の瞬間、カーイは、訝しげに眉根を寄せて立ち止まった。ひんやりと澄み渡った夜の風中に、何か別のねっとりとして濃厚な匂いが混じっている。なんだろう、一体。耳を澄ましてみれば、それほど遠くはない場所から、人とも獣ともつかない低い息遣いとうめくような声が聞こえた。カーイは、そちらへと足を速めた。
「レギオン、そこにいるのですか、レギオン?」
近づくにつれ、声はますますはっきりしてきた。今では、それが男と女の二人がたてる声だと、それも明らかに普通の状態で発せられるものではない、異様に艶かしいあえぐような声と激しく乱れた息遣いが混じったものだと知れた。近くに薔薇園があるらしい、新鮮な薔薇やラベンダーの香りに混じって、汗ばんだ体が発する独特の、それに何か別の分泌物の匂いが混じったようなみだらな匂いが、カーイに向かって押し寄せて来て、彼を僅かにひるませた。一体、何が起こっているのか見当もつかなかったが、カーイの心臓はその薄い胸の中で激しく打ち震えていた。
「レギオン…?」
庭園の、この辺りはちょっと手入れ不足らしい、若い枝を生い茂らせた薔薇のアーチをくぐって覗き込んだ所で、カーイは息を飲んで、凍りついた。
「……………」
満開の紅い薔薇が咲き誇る木々の根もとに、横たわってからまり合う男女がいる。丁度その辺りにはラベンダーが下生えのように植えられていて、うごめく二人の体の下でもみしだかれて、その心地よい清潔な香りが周囲に立ち上っている。しかし、その香りを打ち消すほどに二人の体、とりわけ女が発する匂いは強烈だった。
裸でこそなかったが、二人の着ているものは乱れ、コルセットで締め上げられていた女の胸は夜のひんやりとした空気にむかって解放され、濃い薔薇色のドレスのスカートは捲り上げられて、夜目にも鮮やかな真っ白な脚が彼女に挑みかかっている男の体に巻き付いている様は、何かしらぞっとするほどになまめかしかった。女の白い胸もその顔も、上ってきた血の色にピンク色に染まり、実際、その濃密な血の香りが薄い肌を通してカーイの立っている場所にまで漂って来るほどだった。上にのしかかる男の腰が激しくえぐるように動く度に、女は今にも殺されようとしている者のような苦鳴をあげ、すすり泣きさえするが、その顔にはむしろ恍惚とした悦びの表情がはっきりとうかんでいた。
立ち尽くしたカーイの、初めのうちはだらりと力なく体の横に置かれた手が拳となった。じっとりとした汗を手の中に、それから額や背中にも覚えた。恐怖していた。
(レギオン)
女を犯している者が、カーイの存在に気づいたように顔を上げた。華やかな、今は乱れた金髪に囲まれた若々しい端正な顔。人殺しの現場にたまたま遭遇してしまった人間の子供のように青くなって震えているカーイに向けて、肉食獣めいて輝く緑色の瞳を細め、壮絶な笑いをうかべた。また残酷に突き上げられて、彼の体の下の女が泣き叫んだ。
(よく見ておくんだよ、坊や)と、レギオンの唇がそう言葉を作る。
女は、瞬間、本能的な危険を感じ取ったように目を見開いた。今度こそ、本気で恐怖の悲鳴をあげようとする口をレギオンの手が押さえ封じこめ、その乱れた黒髪の頭を横に逸らして、滑らかな首筋をあらわにした。
「あっ…!」
この異様な光景の中で、悲鳴をあげたのはカーイだけだった。その怯えきった目は、レギオンの唇がまくれあがって鋭い牙が輝くのを、それがすでの彼の体に縫いつけられていた女の体に、今度は鋭い死の一撃なって沈みこむ様をまざまざと映していた。今度は比べものにならないくらいに強い血の香りが、他の全てを打ち消した。
女の手はレギオンの鉄のような体を空しくかきむしるが、すぐに力をなくして地面に落ちた。うごめきあっていた体はどちらも完全に動きを止め、後は、血をすするぞっとするような音だけが、夜のしじまを震わせていた。
そうして、どれほどの時間がたったのか、レギオンが伏せていた頭を女の死体の上から持ち上げた。たてがみめいた金髪をぶるっと振るって、血にまみれた唇を手でゆっくりとぬぐう、その姿は恐ろしかったが、血の犠牲を好む太古の神めいて美しかった。
その顔が、再びカーイに向けられる。瞬間、カーイは、弾かれたように踵を返して駆け出していた。すっかり打ちのめされ、混乱し、おまけに哀しいわけでもないのに溢れ出した涙がなぜだか止まらなかった。
カーイは、がくがくと震える足を引きずるようにして、何とか庭園の中心にある噴水までたどり着くと、涌き出る冷たい水に手を浸した。両手ですくいとって、顔を洗った。熱くほてった目のまわりを、何度も何度も冷たい水で洗った。
そうして、水面にぼんやりと映る自らの虚像をぼんやりと眺めるが、その像はすぐに、目の中に焼きついた鮮烈な場面に、あの濃艶な女を抱いて、そうして殺したレギオンの姿にすりかわってしまう。カーイは、心を鎮めようと、肩で大きく息をした。
「カーイ…」
後ろから呼びかけられて、カーイの心臓は喉もとまで飛びあがるかと思われた。振りかえったそこにやはり、金髪のヴァンパイアは佇んでいた。
「レギオン…」
カーイの方こそ、逆に後ろめたい場面を見られてしまった側のように、まともにレギンの顔を見ることができなかった。レギオンは、悪びれもせず、まだ少し髪や服にも先ほどの乱れを残したまま、腕を組んで、じろじろとカーイを眺め回した。その視線に、カーイは、自分がどんどん小さくなって地面に消え入ってしまうような無力感を味わった。
「誰か、気に入った獲物を見つけることはできたかい、坊や?」
カーイは、うつむいて、力なくかぶりを振った。
「そうか、仕方がないな。好みのうるさい、贅沢な坊やだ」と、特に残念がるふうでもなくそう言って、レギオンはカーイのすぐ隣に腰を下ろした。カーイは、女の血を吸ったばかりで、まだその匂いの染み付いた、熱くほてった体をすぐ近くに感じ、何だかとても落ちつかない気分だった。
「どうして、あの女の人を、あんなふうに殺したんです、僕の見る前で…?」
どうしようもない脱力感を味わいながら、カーイはそう尋ねた。本当に、自分がちっぽけな取るに足りない子供のような気がした。
「君に見せるために殺したんだ」と、レギオンはこともなげに答えた。
「血の欲求からしたことではない。実際彼女の血は悪くはなかったが、あえて飲むほどのものではなかったな」と、冷たい口調でそう言って、肩についていた、紅い薔薇の花びらを指でつまんで投げ捨てた。
「残酷だとは思うな、カーイ。あれをすることを惨いと考えては、私達は生きられなくなる。私達は、人間を狩る捕食者なんだ。嘘の仮面で人間を幻惑し、引きつけ、殺す…」
再びカーイの双眸に熱い涙が盛り上がった。何のための涙かはよく分からなかった。少なくともあの女のためのものではなかった。
レギオンは、そんなカーイに肩に腕を伸ばし、引き寄せ、ぽろぽろとこぼれおちる涙に濡れた頬に唇を寄せた。彼は優しかった。
「愛しているよ、カーイ」
そう囁くレギオンの顔は見なかったが、そこにいつもの芝居がかった表情があったのかどうかも定かではないが、その言葉が嘘でないことを、今のカーイは乞い願った。