愛死−LOVE DEATH

第十九章 迷い子


 カーイにとって、長年続けていた仲間探しの旅は、あまり楽しい体験ではなかった。仲間がいるかもしれないという僅かばかりの情報を追って、知らない土地を探索しても、大抵は徒労に終わったし、仮に仲間が見つかったとしても、それは、こんなものを発見するくらいならば、同族を探すことなど放棄した方がよかったと後悔するような、悲惨な出会いであることがほとんどだったのだ。特に20世紀に入ってから出会った数少ない仲間達は、皆、かつては神々の眷属であった者の末路と呼ぶには、あまりにもおぞましい姿と成り果てていた。

 あれは、オランダを旅していた時のことだ。新聞の小さな記事がカーイの注意を引きつけ、彼は、アムステルダムを訪れた。多くの旅行者が訪れる、この大都市を、その頃、不気味な連続殺人のニュースが震撼させていた。実際、それは、ぞっとするものだった。生後間もない赤ん坊が、病院から浚われ、数日から数週間後に、変わり果てた姿となって市内で発見されていた。カーイが到着した時点で既に8人を超えていた犠牲者は、皆、体から血をほとんどぬき取られていた。

 異常者による犯行だとマスコミは騒ぎ立てたが、カーイには、何者の仕業であるか、分かっていた。カーイの同族が、ヴァンパイアの掟に逆らった、無残な殺しを行なっている。それにしても、生まれたばかりの嬰児を殺して飲むなんて、カーイでさえも、思わず吐き気を催すような狂った犯行だ。

 そう、実際、その殺人者は、正気ではなかった。

 彼女を見つけ出すのに、カーイは、それほど苦労はしなかった。ヴァンパイアならば、同族の発する信号のようなものを、離れた場所からでも感ずることができたし、それに、彼女の方も、カーイから隠れ潜もうという意思はなかった。

 結局、名前も聞くことのなかった、その女は、娼婦だった。オランダは公娼制度を持っており、アムステルダム市内には、飾り窓地区と呼ばれる、公に認可された娼婦達が集まって「営業」している場所もある。そんな街の一角に、あれはどう見てももぐりだが、一目見たらどうしても欲しくなる、美しい娼婦がいると、密かな噂になっていた。

 カーイが彼女を見つけたのは、春の終わりのある雨の夜で、霧のような雨にぼんやりとかすんだ古都の暗い通りを、ゆったりと優雅な動作で歩いていた。すぐに声をかけることはせずに、カーイは、女の後ろを一定の距離を保ってつけていた。しっとりとした雨の中を傘もささずに行く彼女の足取りは、羽のように軽く、滑らかだ。その点も、やはりカーイの同族だった。カーイは、女の方が彼の気配に気付いて、何らかの反応をすることを期待していたのだが、一向に立ち止まって振りかえる気配もないことに、ついに、思いきって、動いた。人気のない路地に入りこんだ所で、カーイは、鳥のように高く跳躍し、女の前に降り立った。

 女は立ち止まり、カーイを見た。金茶の長い髪を垂らした、世にも美しい女、こんな女と寝ることを男なら一度は夢に見そうな、官能的な美貌の持ち主だった。女は、胸の前に、ショールにくるんだ何かを大事そうに抱いていた。それが、カーイの眉をひそめさせた。微かな血の匂いが、そこから漂っていた。

「失礼、マダム」と、礼儀正しく、カーイは挨拶をした。

「私の同族と見て、声をかけさせてもらいました」

 女は、夢を見るような虚ろな表情でカーイを見つめていたが、ふいに、その目の焦点があった。

「ブリジット…?」

 女は、カーイの顔を見てかなり驚愕したらしく、呆然とそうつぶやいて、彼の方に歩みよろうとした。しかし、その足は途中でとまった。

「いいえ、違う。あなたは、ブリジットではないわ」

 疑わしげに、カーイの頭からつま先までを眺め回し、ふいに合点がいったとでもいうかのように、かろく頷いて、艶然たる笑みをうかべた。

「ああ、分かったわ。あなたが、彼女の息子なのね! 女神ブリジットのただ一人の子、カーイ…本当に、何から何まで彼女そのものね。この世から消滅してしまったブリジットだけれど、その前に、あなたを造ることができた。ああ、羨ましいわ、なんて幸せなことでしょう。私達ヴァンパイアは、めったに子など授かることはないんですもの」

 女の何かしら絡みつくような執拗な視線に、カーイは、居心地悪そうに身じろぎをした。

「不死である私達は、人間と違って、子供を作る必要など、あまりないからですよ」

 女がカーイの呟きを聞いたようには思えなかった。彼女は、カーイの当惑などおかまいなしに、一方的に、自分の思いを語りつづけた。

「本当に、私、ブリジットが羨ましかったわ。一体、どうしたら、彼女のように、私も自分の子供を生めるのだろうと、嫉妬さえ覚えたほどよ。そうして、色々試したのだけれど、どうしても駄目だった。人間とも同族とも、手当たり次第に男と寝たりもしたわ、子種が欲しくてね。私は、500年も生きたけれど、一度として、母になれたことはなかった。私のここは、男を悦ばすことはできたけれど、不毛であることは、石さながらだったわ」

 女が己の下腹部に触れるのに、カーイは、さり気なく顔を背けた。

「でも、もう、いいの。だって、やっと私も子供を授かることができたんですもの」

 女のうっとりした声に、カーイは、再び、そちらを見やった。

「私の子よ」

 女は、ショールに包まれたものをそっと持ち上げて、愛しげに頬ずりをした。

「何て、可愛いものなのでしょうね、我が子というものは」

 その様子に、カーイは、ぞっとしたかのように顔をしかめた。

「私の坊や…いい子ね…」

 女の唇が動き、低い声で子守唄を、カーイも知っている、ヴァンパイアの古い歌を歌い出すのに、彼は、ついにたまりかねたかのように叫んだ。

「やめなさい!」

 女は、歌を止め、胡乱げにカーイを眺めた。

「そんな馬鹿な真似はやめるんです。その子は、あなたの子供じゃない…あなたが、どこかの病院が浚ってきた人間の赤ん坊です!」

 この女を半ば恐れ、半ば哀れみながら、カーイは、青ざめた顔に厳しさをみなぎらせて、指を突き付けるようにして、言った。

「あなたは、自分の母性を満たす為に、そんなおぞましいことを続けているんです」

 女の紅い唇がまくれあがって、鋭い牙が剥き出しになった。

「何を言うの! この子は、私の坊やよ! さては、私からこの子を取り上げるつもりね? そんなこと、許さないわ!」

 怒り狂った女を前に、カーイの昂ぶりかけた気持ちは、すっと冷めた。

「取り上げる気など、ありませんよ」

 冷やかな侮蔑をこめて、カーイは、言った。

「あなたの好きにすればいいんです。私も、死んだ人間の子などに興味はありません。あなた自身も、じきに興味をなくして、その子を捨ててしまうのでしょうしね」

 女は、息を飲んだ。カーイは、容赦なく、続けた。

「そう、その子は、もう死んでいる。あなたが、血を吸って、殺したんです」

 女は、打たれたように、立ちすくんだ。そして、いきなり、カーイから守ろうとしっかり抱いていた、その子から、ショールを引き剥がした。だらりと力を失った、不自然に青白い赤ん坊の体が現れるのを、カーイは、こみ上げてくる吐き気を懸命に堪えて、睨みつけていた。その子の細い首は、半分近く噛み千切られて、今にも落ちそうに、細い肩の方に折れ曲がっている。

「あなたの母性愛は、人間の子に対する血の渇望となってしまったんです。嬰児達の無垢な愛を、あなたは飲んで、己を満たした」

 女は、赤ん坊の死体を呆然と見下ろし、それから、軽く揺すって起こそうとした。ぶらぶら揺れる赤ん坊の首は、女の悲惨な顔と相俟って、ひたすらおぞましく不気味だった。

「ああぁっ…!」

 女の悲鳴が、夜の街に響き渡った。次の瞬間、たおやかに見えて凄まじい力を秘めた、その腕が動き、赤ん坊の死体を道の脇に投げつけた。石畳に激突して、赤ん坊の脆い骨が砕ける嫌な音がした。あまりの暴挙に、カーイは、呆気に取られた。

「どうして…?!」

 カーイの注意が一瞬そらされた、その隙に、女は、彼に踊りかかり、その腕を激しくつかんだ。

「どうしてなの?! ブリジットにはできたのに、どうして、私では駄目なの?  ああ、カーイ、一体、彼女はどうやって、おまえを造ったの?」

 女の激昂ぶりに圧倒されて声も出ないカーイの唇を、彼女はいきなり己の口で覆った。カーイは、必死の思いで彼女を引き剥がし、息を乱して、その狂おしげに輝く瞳を覗き込んだ。と、カーイを睨み上げる女の顔に、彼にとっては、何かしらぞっとするもの、追いつめられた者がいきなり目の前に差し出された希望にすがりつこうとするような、熱っぽい期待感が込み上げてきた。

「カーイ、カーイ、そうだわ、あなたなら…ブリジットが生んだ子である、あなたとなら、私は子供を得ることができるかもしれない。カーイ、あなたの子種を私にちょうだい…!」

 カーイは、震えあがった。今度ばかりは本気で抵抗し、己を捕らえこもうとする女の強烈な抱擁を振りほどき、ほうほうの態で逃げ出した。

「冗談じゃない!」と、我が身をひしとかき抱いて、カーイは、吐き捨てた。

「あなたの身勝手な欲求を満たすために、あなたと寝るなんて、ごめんですよ! あなたは、誰も愛さずに、それが欲しいだけで、男と寝てきた…不毛なのは、あなたの体よりも心の方…そんなあなたにブリジットと同じ母になることなどできるものですか!」

 女の歪んだ母性に怖気をふるい、そんな彼女がブリジットのような母になりたがっていることに激しい反発を覚えて、カーイは、なおも彼をかき抱きたい素振りをする女をはねつけるように、叫んだ。

 すると、女の取り乱した顔に変化が生じた。彼女は、ふいに静かになったかと思うと、カーイをつくづくと眺めた。あの昂ぶりが嘘のように、その表情は、再び、うつろな掴みどころのないものとなっていた。カーイから視線を逸らすと、もはや全ての興味を失ったかのように、その傍らをゆったりとした動作で歩きすぎていった。道の脇に打ち捨てられた、赤ん坊の無残な死体にも、一瞥すら与えなかった。

「私の坊や…どこに行ってしまったの…探さないと…」

 夢見るような口調で呟きながら、雨の中を立ち去っていく、狂える女吸血鬼の後ろ姿を、カーイは、そこに立ち尽くしたまま、見送った。どこに行くつもりなのか、確かめる気にもなれなかった。またどこかで、人間の子を盗み出すつもりなのかもしれない。空しい殺しをこれからも続けるのか、あるいは正気に返って、自らの所業に愕然となることもあるかもしれない。見極めたいとは思わなかった。

 その女とは、それきり、2度と会わなかった。事件の話も、やがて聞かなくなったので、ひょっとしたら嬰児殺しはやめたのかもしれない。いずれにせよ、カーイには関係のない話だ。

 永生の重みに押しつぶされて、自分を見失った同族の1つの末路だった。あまりに長い時間を1人きりで生きていると、皆、遅かれ早かれああなってしまうのだろうか。

 いや、全員が、あんなおぞましい姿に成り果ててしまうわけではない。少なくともブリジットは、最後まで、凛と美しい女神にして慈愛に満ちた母でありつづけた。

 ブリジットがいかにカーイを慈しんでくれたか、無私の愛情を注いでくれたか、それが一片の曇りもない真実のものであったか、カーイが誰よりもよく分かっている。例え、彼女がカーイを置いて消え去ってしまっても、そのことがどんなにかカーイを傷つけ、裏切られたような思いを抱かせたとしても、結局、愛されていたのだという確信に満ちた記憶が、カーイを強くし、母を失った後の長い時間を1人で生きる力を与えてくれたのだ。

 不死であるヴァンパイアにとって、果たして母性とは何なのだろう。

 ブリジットと引き比べることなどあまりしたくはないのだが、アムステルダムで出会った、あの女のことを思い出すにつけ、カーイは、考えこんでしまう。

 そして、最後には、ブリジットとの懐かしい日々に戻っていく。

 ブリジットこそ、カーイが帰っていくべき場所、カーイの家だった。彼女と共に、カーイは自分の属する場所をなくしてしまった。世界中をさまよいながら、それに代わるようなものを、おそらく探していたのだが、今に至るまで見つからず、どこにも根付くことができない旅人でありつづけている。

(ブリジット)

 あんなふうに無条件でカーイの全てを許し、受け入れてくれる存在など他にはいない。母親というのは、結局、彼女1人なのだ。では、カーイは取り戻せないものを追い求めていることになる。

(あなたの愛に包まれた、安らぎに満ちた、あの場所に戻りたい) 



NEXT

BACK