愛死−LOVE DEATH

十九章 迷い子


 オペは何とか成功したが、いまだ意識は戻らず、集中治療室に入れられて、医療機器に囲まれたベッドの中に力なく横たっているロバートを、部屋の外から、壁に大きく取られたガラス窓ごしに呆然と眺め、スティーブンは、ついにたまらなくなったかのようにそこから離れた。

 クリスターが起こした爆発に巻き込まれ重傷を負ったロバートは、すぐに近くの病院に搬送され、緊急のオペが行なわれた。しかし、彼の怪我は、最初思っていたよりひどく、脊椎の他に脳にも損傷があり、例え意識が回復しても、半身不随は避けられないだろうと宣告された。 

(ロバート、すまない、俺のせいで…。俺が、何の関係もないあんたを巻き込んでしまった…)

 スティーブンが助けを求めたが為に、こんな大怪我を負うことになった叔父に対して、彼はすまない気持ちで一杯だった。独身であるロバートは、身内といえば、スティーブンの父である弟だけで、その彼には、病院に到着してすぐに連絡をいれた。コックス会長邸での顛末については、さすがに打ち明けることはできなかったので、雑誌の取材中に事故に巻きこまれたのだとだけ話して、その場は納得させた。突然の知らせに彼は驚き、戸惑いを隠せないようだったが、すぐにこちらに向かうと言って、電話を切った。しかし、まだ到着していない所を見ると、道路状況がよほど悪いらしい。

 スティーブンは、1人、がらんとした早朝の病院の外来待合に降りていくと、そこにある長椅子に腰を下ろした。ポケットを探って煙草を探したが、生憎切らしていた。溜め息をついて、人気のない薄暗いホールを、ぼんやりと見渡す。一体、自分は、こんな所で何をしているのだろう。何だか、何もかもが夢だったようだ。ああ、あれは、本当にあったことなのだろうか。豪奢な寝台の中に病み衰えた体を横たえて、カーイを捕らえるよう命じた老女など、本当にいたのだろうか。あの紅い髪をした双子の兄弟と彼らが率いる傭兵部隊とともに、巨大な工場にカーイを誘いこみ、攻撃したのは、まだ、ほんの2日前のできごとなのだ。そして、昨夜、コックス邸で繰り広げられた、カーイとクリスターの最後の死闘、あんなことが、果たして現実に起こったのだろうか?

 スティーブンの若々しい顔に苦い笑いが広がった。そうだ、実際に起こったのだ。その結果として、多くの人が傷ついたり、死んだりした。ロバートまでもが、死にかけた。皆、スティーブンが、招いた災いだった。

(俺が、カーイの秘密を外に漏らさなければ、こんなことにはならなかったんだ。ロバートも傷つかず、レイフも…クリスターも、死なずにすんだ。俺のせいだ…)

 スティーブンは、頭を抱えこんで、うつむいた。

(ああ、だけど、それじゃあ、一体、どうすればよかったんだ…? カーイの言ったように、あいつとスルヤのことからは手を引いて、何も知らないふりをして、黙っていればよかったのか…? あいつが、スルヤを殺して血を飲むのを手をこまねいて見ていればよかったのか…?)

 カーイが、スルヤを殺して、血を飲む。

 スティーブンは、何かしら、はっとなって、頭をかきむしっていた手をとめた。カーイは、スルヤを取り戻す為に、必死になっていた。自らを危険にさらし、傷ついても、スルヤを救い、守ろうとしていた。スティーブンがあの戦いの中で目撃したのは、殺して奪うための獲物に対する執着以上のものだった。

(カーイ、あんたは…本当にスルヤを殺す気なんてあるのかよ…? スルヤを人質に取られた時の、あんな切迫した、追いつめられた、本気の顔をしたあんたなんて、俺には想像もつかなかったよ。俺が知っている…いや、知っていたあんた、パリで初めて出会ったあの夜、冷然と人を殺して少しも乱れない、人間離れした怪物の顔とは、全く違っていた。俺は、ずっとあの顔のイメージにつきまとわれていた…あんたと再会した時には、ついに捕まってしまったと思ったよ。けれど、本当は、俺が考えていたものとは違っていたのだろうか、俺は幻に呪縛されていたのだろうか…?)

 スティーブンは、混乱していた。カーイの真意は、一体、どこにあるのだろう。とてもじっとしていることができなくなって、立ちあがり、広い待合ホールを、腕を組んだまま歩き回り、ひたすら思案にくれていた。

(もしも…カーイにスルヤを殺すことなどできないとすれば…カーイがスルヤの血を飲まずにいられるものなら…スルヤが死なずにすむのなら…そうだ、俺は、カーイが憎かったわけじゃない…むしろ、逆で…俺は…)

 スティーブンの目は、ホールの片隅に公衆電話を見つけた。彼は、はっと息を飲んで、立ち止まり、しばし、電話を睨みつけたまま、考えこんだ。それから、思いきったように電話に近づき、恐る恐る受話器を持ち上げた。

(スルヤ…おまえは、今、一体どうしている? 熱は、下がったのか?)

 スティーブンは、スルヤに対する質問と言い訳を頭の中で練りながら、ゆっくりとスルヤの家の番号を押していった。

(カーイ…カーイは、もう、スルヤのもとに戻っているはずだ。まさか、あれだけのことがあった後で、スルヤをすぐにどうかするなんてことは、ないだろうけれど…)

 カーイが応対に出た場合のことも想像して、スティーブンの心臓の鼓動は早くなった。

呼び出し音が数回鳴った所で、スティーブンは、急に気を変えて受話器を戻そうとした。その時、案外早くに電話が通話に切り替わった。と思うと、スルヤの興奮した声が響いた。

(カ、カーイ、カーイなの?)

 スティーブンは、息を吸いこんだ。

「あ…スル…ヤ……?」

 受話器の向こうの相手も、同じように驚いて、息を吸いこんだようだった。

(スティーブン?!)

 その懐かしい声を聞きながら、スティーブンは、しかし、呆然となっていた。カーイは、スルヤのもとには帰っていないのだ。では、一体、どこに行ったのだろう。まさか、あの時の戦いで負った怪我のせいで動けないわけではあるまい。実際、コックス会長に直接会いに行く時には、彼は、爆発のダメージなどほとんど残っていないほどに回復していた。

「ああ…俺だよ、スルヤ…すまない、こんな朝早くに…」

 スティーブンは、腕時計をチラッと見た。ようやく7時を過ぎたところだ。

「ちょっと気になっていたものだから…おまえが、どうしているかと思って…?」

(スティーブン…スティーブン…)

 スルヤも、ちょっと混乱しているようだった。そう言えば、スルヤにとって、スティーブンは、レイフによって拉致される直前に一緒にいた記憶が最後なのだ。あの後、自分がどれほど危険な目にあっていたのか、意識はなかったから、実際には何も覚えていなくとも、不審だと思うことはたくさんあるだろう。

「さっき、カーイって、呼んだけれど、彼が、どうかしたのか?」

 スルヤがこれ以上混乱しないように、というよりも、どう答えるべきか分からない質問をされて問い詰められるのを避けるために、スティーブンは自分から問いかけた。

(ああ、スティーブン、そうなんだよ…カーイが、夕べいきなり家から出ていって、まだ帰ってこないんだ…)

「夕べって、あのすごい嵐の中をか…?」

 我ながら、吐き気がするくらいに白々しかったが、電話を通じても分かる、スルヤの途方にくれた、今にも泣きそうなのを懸命に堪えているらしい声の響きに、昨夜あった恐ろしい出来事など、とてもじゃないが話せないと思った。

(うん…うん…分からないんだ、一体、どうして、あんなふうに出ていかなければならなかったのか…でも、何だか、大変なトラブルに巻き込まれている様子で、だから、心配なんだ、俺。カーイの身に何かあったんだろうか、まさか、怪我をしたり、とてもひどい目にあって、それで帰って来れないんだろうかって…)

 スティーブンの胸は、ひやりとした。

「スルヤ…」

 スティーブンは、とっさに言葉につまって、乾いた唇を舌で湿しながら、何を言うべきか迷いつづけた。

(ねえ、スティーブン、一体、あの後…どうなったの?)

 不安げにおずおずと尋ねるスルヤの声。スティーブンは、肩で大きく息をついた。

(スティーブンのフラットに一緒に向かっていたはずなんだけれど、そこから急に記憶が途切れてるんだ。何だか…何かがすごく変なんだ…カーイは、俺が高熱を出して、急に気持ち悪くなって倒れたんだって言ってたけれど、それにしたって、何にも覚えていなくて、気がついたら、自分の家のベッドに寝てたなんて…それにね、あれは夢だったのかもしれないけれど、眠っている間、俺、人の話し声や物音みたいなものを遠くに聞いていた気がするんだ…スティーブンが、俺に呼びかけていたような気もするよ。ねえ、スティーブンは知っているよね、俺は、一体、どうなっていたの?)

「スルヤ…」

 スティーブンは、我が身を抱きしめるようにして、ぶるっと身震いした。それから、己の奥底から熱くこみ上げてくる衝動を覚え、喉が低く鳴るのを、瞼の裏が焼けつくのを感じた。

「スルヤ、俺…俺が、あの時、おまえに話していたことを覚えているか? おまえに見せたいものがあるって、俺は言ったんだ」

 掠れた声で、スティーブンは、語り出した。何だか、もう、取り繕う余裕もなかった。ただ、こみ上げてくるままに、溜めこんでいた思いを、とつとつと語った。

(うん、覚えているよ)

「俺さ、本当に、この所トラブル続きで…おまえにちゃんと話して説明しなきゃいけないなとは、思うんだ。でも…俺自身、何をどう言ったらいいのか分からなくて…おまえには色々心配させたし…俺の行動については釈然としない思いを抱かせてしまって…本当におまえには、悪いと思うんだけれど、もうちょっと気持ちの整理がつくまで待っててくれないか…俺も、何だか、あんまり色んなことがありすぎて…混乱して…正直、どうしたら、いいのか分からないんだ…もう、何が何だか…自分が何をしているのかも、正しいのか間違っているのかも…本当は何が欲しいのかも、分からない…」

(スティーブン…スティーブン、大丈夫…?)

 気遣わしげなスルヤの呼びかけに、スティーブンは、軽く鼻をすすった。堪えかねた、涙の雫が、目の縁から幾滴か零れ落ちた。

「俺さ、今、病院にいるんだよ」

 スルヤがはっと息を飲むのが聞こえた。

(病院? ど、どうしたの、何か、あったの?)

「ロバートを覚えているか、俺の叔父きで、雑誌の編集者の…ロバートがさ、大怪我をしてしまったんだ…今、オペが終わって集中治療室に入ってる…意識が戻るかどうかも分からない、戻ってもたぶん以前のような生活はできないだろうって…俺のせいなんだ、俺のせいで、ロバートは、あんな死ぬような目にあって、今も苦しんでいる…本当は、俺が、ああなるべきだったのに…」

 スティーブンは、低い嗚咽を漏らし、電話の受話器から顔を背けた。

(スティーブン、落ちついて…)

 そうして受話器を離しても、スルヤの心配そうな声は、スティーブンの耳に届いていた。

(ロバートさんが、そんなことになっているなんて…でもね、スティーブン、訳は知らないけれど、スティーブンのせいじゃないと思うよ、それ。だって、スティーブンはそんなことを望んでいたわけじゃないんでしょう? とめられたなら、きっと、そうしたはずだよ。そんなふうに考えて、自分を責めたりしたら、駄目だよ。ロバートさんだって、そう思うはずだよ。スティーブンのことを、いつも、とても可愛がってくれていた人でしょう?)

 スルヤも突然のスティーブンの取り乱しように驚き戸惑ったはずだが、その声に表れているのは、友人に対する純粋な気遣いと優しさと同情だった。彼自身も、今は自分の悩みで手一杯であってもおかしくないはずなのに、今この時、スティーブンのことを本当に親身になって考えている。こういう所は、スルヤには勝てないなと、スティーブンはいつも思っていた。

(スティーブン、ごめんね、俺、スティーブンの気持ちも分からずに、追いつめるようなことを言ったみたいだね。いいよ、俺、スティーブンが落ちついて、俺に話したいことをちゃんと整理して言えるようになるまで、待つから。よく分からないけれど、スティーブンも、大変なトラブルを抱えているらしいって気はしてたんだ…もし、スティーブンが俺に話してもいいと思うことなら、いつか、話してくれたらいいからね)

 何だか、ちょっとたまらない気持ちになって、スティーブンは、受話器を再び口元に持ってきて、言った。

「おまえが謝ることなんて、何もないんだ、スルヤ…俺が、悪いんだから…ただ…おまえが猶予をくれるっていうのは、本当にありがたいよ…黙っているのも、結構辛くて…誰かに…いや、誰よりもおまえに話したいことが一杯…あるから…」

 スティーブンの熱心な訴えを、スルヤは優しく受け入れた。

(うん、分かっているよ、スティーブン)

 スルヤを守っているつもりでいたスティーブンだが、実際、慰められ、救われているのは、自分の方だと思った。スルヤと話していると、いつも鬱屈とした気持ちが嘘のように晴れて、どこに行けば分からず途方にくれていたのが、見失っていた道が急に見つかったような晴れ晴れとした気分になる。

「ありがとう…スルヤ…」

 ほっと肩の力をぬいた、瞬間、スティーブンは、思い出したように、問いかけた。

「カ、カーイのことだけれど…帰ってこないっていう…その…どうするつもりだ…俺に、もし何かできることがあれば…」

(うん、もう少し待ってみるつもりだよ、ひょっとしたら、電話がはいるかもしれないし、今日はずっと家にいると思う。もし、何の連絡もなく、カーイが帰って来なかったりしたら…)

 たちまち沈んだものになるスルヤの声に、スティーブンの胸は痛んだ。カーイの行方について教えられる確かな情報があればいいのだが、スティーブンが今知っていることといえば、例え打ち明けても、スルヤをますます混乱させ。心配させるだけのものだった。

「カーイが、おまえを置いて、どこかに消えちまうなんてことはないから、その点については、もっと自信を持てよ、スルヤ」

 そう、スティーブンは確信していた。カーイには、スルヤに一目会うこともなしに、その前から姿を消すことなどできない。そんなに簡単に断ちきれるような想いではない。彼は、スルヤの為に、あれほどの困難に立ち向かい、退けたのだ。

(うん、俺も、帰ってくるって言った、カーイの約束を信じてはいるんだけれどね)と、スルヤも、意外にしっかりとした口調で言った。そこには、短い期間ではあっても、スルヤが恋人の間に確かな絆を作ってきたことが感じられて、スティーブンは、いたたまれない気分になった。

 カーイがヴァンパイアでさえなければ、いや、そうであっても、スルヤを殺す意思などないと分かれば、スティーブンを悩ますこの懊悩もきっと消え去るだろうか。

「今日中に、もう一度連絡を入れるよ、スルヤ。案外、その頃には、カーイもあっけらかんとした顔で、そっちに帰っているんじゃないかな」

 スルヤを安心させる為に、わざと軽い調子でそう言って、スティーブンは、受話器を置いた。そのまま、しばらく、放心状態で立ち尽くしていた。カーイがスルヤの血を吸うことさえなかったら、スティーブンは、彼らの恋を許し、見守る気持ちになれる。そうに、違いない。

 しかし、そう思う時、自分の胸の中から発する微かな痛みに、スティーブンは、戸惑っていたのだ。


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