愛死−LOVE DEATH

十九章 迷い子


「あっ」

 広い屋根裏を、パジャマ姿のまま、おちつかなげに歩き回っていたスルヤは、ふいに何か言い知れぬ力に引き付けられるように、窓の方に駈け寄ったのだが、その時、床の上の、百合の活けられた大きな花瓶を引っかけて倒してしまい、小さな声をあげた。

「ああ…掃除…しなきゃ…」

 心ここにあらずのぼうっとした口調で呟き、それから、改めて窓に近づいて、そこについた水滴を手でぬぐうと、外の暗い道路を見下ろした。窓の向こうには、曲がりくねった枝を伸ばした街路樹があるばかりで、他には何も見えなかった。スルヤは、溜め息をついて、すぐにそこから離れ、床の上に転がる花瓶と散らばった百合の花を哀しそうに見下ろした。

「明日、また新しい花を買いに行かなきゃ…あなたが帰ってきたら、一緒にいつもの花屋に行こうよ、ね、カーイ」

 己の声が今にも泣きださんばかりに震えていることに気付き、ぎゅっと唇を引き結ぶと、スルヤは、ともすれば心に忍び込んでくる嫌な考えを振り払おうとするかのように頭を振った。

(1人きりでいるのは、やっぱり、よくないよね。何だか、気持ちが悪い方にばかり向かっていくようで…)

 スルヤは、百合の花を活けなおし、床を掃除すると、屋根裏部屋の真ん中に置かれているベッドがわりの大きなマットレスに坐った。そのまま、がらんとした部屋の中を、ゆっくりと視線をさまよわせた。カーイと2人でいる時は、この部屋をこんなにも広くは感じなかったのだが、今は、嫌でも一人きりの自分を意識してしまう程に、だだっ広かった。

 その時、スルヤの足に、何か柔らかくて暖かいものが押しつけられた。

「ああ、おまえかぁ」

 スルヤは、とっさに足下を見下ろし、ほっとした顔になると、ごろごろと喉を鳴らしながら彼の足に体をすりつけている猫を抱えあげた。気まぐれな猫は、今は逆らわず、スルヤの膝の上におとなしく乗せられ、彼の手の愛撫に目を細めている。猫って、言葉が話せなくても人間の気持ちがちゃんと分かるみたいだなと、スルヤは思った。

「カーイ、一体、どこに行っちゃったんだろうね?」

 猫の背中に手を滑らせながら、スルヤは、まるで人間の友人に対するように、語りかけた。

「もうすぐ夜も明けそうなのに、まだ帰ってこない。一体、どこまで行ったんだろう。無事で…いるよね。何かひどいトラブルに巻き込まれて困っていたり、事故にあったりなんかしていないよね。ああ、もしかしたら、この天気で、帰ろうにも帰れないのかも知れない…」

 スルヤは、猫の暖かい体を、上から覆い被さるようにそっと抱きしめ、目を瞑った。

「カーイは、戻ってくるよ、絶対。だって、必ず帰ってくると約束してくれたもの、ここを自分の家だと言ってくれたもの…」

 このまま2度と会えないなどと信じない。カーイと初めて会った時、何故だか、やっとこの人と巡り合えたのだという気がした。説明しがたいのだが、スルヤがずっと探していたのはこの人なのだと思った。やっと出会えたというのに、こんな突然すぎる別れ方などするはずがない、せっかく掴んだその手を、こんなにも簡単に離してしまうわけにはいかない。そんな後悔はしたくない。

 スルヤの胸に、古い記憶の断片がふと蘇る。あの時、掴もうとして掴めなかった小さな妹の手、水の中に消えてしまった、あの葉っぱのような手。そして、叔父が写真撮影をしていた古い家の中で垣間見た、幻めいた不思議な人物、どこかカーイに似た面影を持つ、その人は、スルヤが声をかける前に消えてしまった。あんな後悔は、もう二度としたくない。

(俺は、あなたを待っている、あなたを信じている、ずっとあなたのことを想っているよ…帰っておいでよ、カーイ、ねえ、ここがあなたの帰ってくる場所なんだよ)

 スルヤの胸に去来するどの記憶よりも鮮やかなカーイの面影に向かって、彼はかき口説くように、囁いていた。

(俺は、あなたを探している、あなたを追いかける、カーイ…あなたが2度と一人ぼっちにならないように、ずっと一緒に生きてゆきたい…)



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