愛死−LOVE DEATH

十九章 迷い子


「ブリジット、お母さん、大変です!」

 興奮した様子で部屋に飛びこんできた息子に、ブリジットは、気に入りの8の字型をした手鏡を覗き込んで髪に飾った真珠の位置を確かるのをやめて、振りかえった。どうしたのと落ちついた風情で首を傾ける彼女に、とにかく話したくてたまらないカーイは、掴み締めていた新聞を広げながら、彼女に近づき、幾分早口で言いたてた。

「フランスで、革命が起こったんですって、大規模な民衆の蜂起を軍も押さえることはできず、オーストリアに逃亡しようとした国王家族も捕まってパリに連れ戻されてしまったとある。ああ、パリは、今どんなことになっているんでしょう、僕達が暮らしていた家も、ひょっとしたら、暴徒と化した人間達の略奪にあって、滅茶苦茶に壊されているかもしれない。それにしても、信じられない、革命なんて、国王も貴族も教会も必要ない、みんな取り除いてしまって、それで、その後どうしようというのでしょうね? 理想ばかり言ってる学生達や自分のことしか考えないブルジョワ連中に、国を治めていくことなんかできるとは思えないけれど。それにしてもね、何だか、世の中の秩序というものが次第になくなっていくようで、これから、どうなっていくんだろうかと漠然と不安を覚えますよ。まさか、ウィーンで同じようなことが起きるとは思わないけれど、古い制度が何かのきっかけで突然壊れて、世界が今までとは全く違うものに変わってしまう…その流れの中で、僕達はどうなっていくのだろう…」

 ブリジットが、柔らかな笑い声をたてたのに、自分の語ることに浸りきって、すっかり深刻に考えこんでいたカーイは、びっくりしたように瞬きをした。

「私達がどうなっていくのか、ですって? カーイ、何も変わらないわ。あなたは、私達が彼らとは違う時間軸で生きる傍観者だということを忘れて、まるで、自分が人間の仲間であるかのように考えている、おかしいわね。人間は、いつだって、そうやって自らが変わることで世界を変えていく生き物なのよ。私が、これまで目にしてきた世界の移り変わりに、あなたのように、いちいち感心したり、心を痛めたりしていたら、たぶん、とても疲れてしまうでしょうね。それは、とても驚くべき出来事かもしれないけれど、私達が関わる問題ではないのよ」

 ブリジットにたしなめられて、カーイは、うっと言葉に詰まった。紅くなって、自分の足元を睨みつけ、しばらくじっと考えこんだ後、再び顔を上げて、

「もちろん」と、取ってつけたように、これまでの興奮ぶりは本気ではないのだというかのように、つんとした調子で続けた。

「そうですよ、人間の世界にとっては大事件でも、僕達には何の関係もないことなんです。僕達は永遠に生きる種族なのだから。世界がどんなふうに変わって、僕らの生活の仕方もそれに影響を受けて変わるかもしれないけれど、いつの時代もどこにいても僕達が生き続けるということだけは不変なんですから」

 若いカーイは、自分がヴァンパイアだということを自覚していても、ともすれば、周囲を取り囲む人間社会の風潮、彼らの考え方に影響を受けて、引きずられてしまう。そのことを、ブリジットは、いつも、からかいの種にしていた。その度に、カーイは、ああそうだったと思い出して、考えを切り替えようとするのだが、大勢の人間達の中に立ち混じって、自らも彼らの仲間であるふりを続けながら、孤高を保つというのは、案外難しいことで、同じ混乱を訴えていたレギオンの気持ちも分からないでもないなと、この所考えるようになっていた。カーイ自身、もう大人になっていて、自分で社交界の中に入っていって、人間達とも親しく交友を持つようになっていたからだろう。

 それに対して、ブリジットは、さすがに超越した視点から人間社会を眺めていた。別に人間達に対して冷淡であったわけではない。むしろ、カーイよりもずっと優しく、時に深い愛情のこもった接し方をしていた。革命前の不穏な気配の漂い始めたパリを離れて、ウィーンに移り住んだ後も、彼女は、時々、昔のパリの友人達や屋敷で働いていた者達に手紙を書いて、その安否を尋ねたり、困窮している者がいれば、幾らか送金をしたりして、助けてやっていた。そう、ブリジットは、人間を好いていた。カーイが理解に苦しみ、嫉妬さえ覚える程だった。

 何故、捕食の対象である人間を、同時に慈しめるのか。彼らに感情移入などしていては、狩りはできなくなる。ヴァンパイアとしての生き方に反することになりはしないか。

 自分を愛する者から飲むヴァンパイア。しかし、自分が愛するとなると?

 それは、カーイが時々ブリジットに尋ねたくなる問いであり、すぐに不安を覚えて、打ち消してしまう疑問だった。

 レギオンが去ってからもしばらくはパリに住みつづけ、その後、ウィーンにやってきたが、やはりブリジットは血を飲まなかった。

 カーイは、一人で狩りを続けながら、度々ブリジットを誘い、時には懇願したが、彼女は、笑って首を横に振るだけだった。

「私には、必要ないの」

 そんなはずはなかった。例え彼女が神に匹敵する強力なヴァンパイアでも、血を断って、生きていけるはずがない。

 カーイのこの数年は、ブリジットに何とかして血を飲ませようとする、空しい努力の日々でもあった。ブリジットに目に見える変化はほとんどなかったが、それでも、よくよく注意して観察してみると、彼女の全身から立ち昇る豊かな生命力が、僅かずつではあるが衰えていっている気がした。とてもゆっくりとしたものではあったけれど、カーイには耐えられなかった。

「お願いです、ブリジット、僕と一緒に狩りに行きましょう。あなたの好みにあう獲物を僕が選んできてもいい、お願いだから、血を飲んで…このままでは、あなたは…」

 一体、母はどうなってしまうのだろう。恐ろしくて、想像もできなかった。基本的に不死であるヴァンパイアが、血を摂取することをやめて、その肉体を維持できなくなった時、どうなるのか。それを分かることのできる同族など、果たしているのだろうか。人間の死にあたる状態といっても、それすらもカーイにはピンとこない。人間ならば、死んだ後にも何か別の形の命が残って、ここではない違う世界に行くのだと考えるのだろうか。天国とか地獄とか? しかし、そこに、カーイ達の為の場所が用意されているとは思えなかった。何も残らないのだと考えることは、しかし、もっと恐ろしい。ブリジットが、この世から全く消滅してしまって、二度と会えないなんて。

 カーイが、唯一安らげる場所。彼の家。失って、ただ一人、一体どこに行けばいいのだろう。

「人間の血が飲みたくないのなら、僕の血を飲んでください」と、切迫した気持ちで、自ら手首を爪で切り開き、彼女の目の前に突き出してみせたことさえある。しかし、ブリジットは、カーイがそうすると哀しそうな目をして、手首を流れる血をその小さな舌で軽く舐めとるだけで、決してそれ以上は飲もうとしなかった。

「私の為に自分の体を傷つけるのはやめて、カーイ。それは、私を傷つけるのと、同じことよ」

 ここまで言われて、カーイには、もう自分の血を強要することもできなくなった。では、一体、どうすればいいのだろう。

 ブリジットを失ってしまうという強迫観念は、カーイを、ゆっくりと追い詰めていった。

 そして、ある時、つのりつのった、その思いは、彼に、ブリジットを哀しませる残酷な手段を取らせた。

 あれは、ブリジットとカーイが二人で、馬車でオペラ座に向かう途中のことだ。薄暗い路地の中から、突然大通りに飛び出してきた何かが、馬車の車輪に引っかけられた。人間の子供だった。

「止めなさい!」

 ブリジットの鋭い声が、そのまま行きすぎようとする御者に馬車を止めさせた。

 カーイは、溜め息をついた。せっかく楽しみにしていた観劇なのに、考えもなく大通りに飛び出してきた人間の子供の為に、駄目になってしまうと予感して。

 案の定、ブリジットは、御者がとめるのも聞かずに、自ら馬車の扉を開いて、外に出ていった。馬車の車輪でぬかるんだ雪の上に、平然と下り立ち、豪華なドレスの裾が汚れるのも構わずに、馬車の前に回りこんだ。事故を起こした馬車の回りでは、一体何ごとかと大勢の見物人が興味津々の視線を注いでいる。彼らは、貴族の馬車の扉が突然開いたかと思うと、そこから世にも美しい女性が現れ、雪の中に迷わず飛び降りて、馬車の前でぐったりと気を失っている子供のもとに歩みより、身を屈めて助け起こす様に、目を丸くした。

 初めは関わりあいたくなかったカーイだったが、衆人の視線に彼のブリジットがさらされていることにたまらなくなって、馬車から飛び出すと、母のもとに慌てて駆け寄った。

「ブリジット、一体、何をしているんです?」

 カーイは、ブリジットの白い腕に抱かれている、薄汚れた人間の子を見て、露骨に眉をひそめた。そんな汚い子供に触ったりして、ブリジットの綺麗な肌が汚れてしまう、早く離してと言いたかったが、彼女の望みは、カーイのそれとは正反対だった。

「カーイ、今夜の観劇は中止よ。今から、屋敷に戻るわ」

「どうして?!」

「この子は怪我をしているの。私達のせいよ。だから、手当をして、助けてあげないと」

 ブリジットのこういう不必要な親切さに、カーイは、時々頭を痛めた。どうして、たかが人間に自分達が振り回されなければならないのだ。そんな薄汚い子供など、放っておけばいいと、言いたかった。そんな垢じみて臭い人間を同じ馬車に乗せるのも我慢ならなかった。しかし、ブリジットに逆らうわけにもいかず、不承不承、怪我をした子供を連れて、屋敷に引き返すことにした。

 屋敷に戻ると、ブリジットはすぐに子供の為の部屋を用意させ、医者を呼んだ。湯を沸かさせ、自ら、その子の体を拭いて綺麗にしてやるブリジットに、カーイは、たまらなくなって、すぐにその部屋を出ていってしまったのだが、後から聞くところによると、どうやら、医者が帰った後も、ほとんど一晩中子供の傍について、看病してやってらしい。カーイは、むかっ腹を立てていた。一体、なぜ、そこまでブリジットがしなければならないのだ。そもそも、勝手に馬車の前に飛び出したのは、あの馬鹿な子供ではないか。

 カーイは、その子の存在をひたすら無視することに決めた。どうせ、怪我が治るまで、ブリジットがその子に飽きるまでの辛抱だと思っていた。しかし、ブリジットは、いつまでもその子を屋敷から出ていかそうとはしなかった。

「あの子のことだけれど」と、ある夜、夕食の席で、そう切り出すブリジットにカーイは、嫌な予感がした。

「この家に住まわせてあげようと思うの。彼女の話だと、一緒に暮らしていた母親を1月前に亡くして、浮浪児のように暮らしていたらしいわ。帰る所がないのよ」

「ふうん、だから?」と、カーイが冷たい調子で答えるのにも構わずに、ブリジットは続けた。

「あの子に、私の身の回りの世話をさせようと思うの。丁度、もう一人くらい小間使いが欲しかった所だし、まだ少し小さい気はするけれど、きっと、マリア達がしつけてくれるわ」

 カーイは、しばらく開いた口がふさがらなかった。ようやく衝撃から立ち直ると、不愉快極まりないと言いたげに眉を吊り上げて、ブリジットに反論した。

「ブリジット、お人よしにも程がありますよ。あんな浮浪児の為にそこまでしてやることはない。僕には、耐えられない、あんな薄汚い人間と同じ屋根の下で暮らすことも、ましてや、あなたの身の回りのことをさせるなんて…」

「カーイ…あなたの目は綺麗なだけで、何も見えてはないガラス玉なのかしら。そんな愚か者のようなことを言って、私をがっかりさせないで」

 やんわりとした優しい口調で、かなりきついことを言うブリジットに、カーイは顔を赤らめて、うつむくしかなかった。 

「あの子を見ていらっしゃい」と、ブリジットは言った。

「そうすれば、あなたも、きっと彼女を傍に置きたくなると思うわ」 

 彼女というからには、あの子供は女の子だったのか。カーイは、子供の性別すら分かっていなかった。

 不承不承、ブリジットに言われるがままに、子供の様子を見に、その部屋に行った。すると、彼女は鏡の前で、自分の長い茶色の髪を纏め上げるのに悪戦苦闘しているところだった。たっぷりとした、重たげな艶々した巻き毛は、少女の手から、すぐに零れ落ちてしまう。

 いきなり鏡に映ったカーイの姿にびっくりしたように、少女は振りかえった。

(これは、驚いた)と、カーイは、密かに呟いた。

 垢とぼろぼろになった不潔な服から出てきたのは、類まれな美だったのだ。年のころは12くらいだろうか、スモモを思わせるぷっくりとした頬と長い睫毛に縁どられた大きな茶色の瞳をした、天使のような愛らしい少女だ。

 成る程、これならブリジットが気に入るのも無理はない。ブリジットそっくりな顔をして冷たい目でじろじろ自分を眺め回すカーイに、怯えた表情をする少女から、彼は、すぐに踵を返して、立ち去った。ブリジットが関心を示そうが、カーイにとっては、相変わらず何の意味もない、人間の子供に過ぎなかった。

 少女は、エルザと呼ばれ、ブリジットのお気に入りとなった。まだ幼さが残る年でありながら、案外もの覚えがよく、貴族の邸宅にふさわしい振る舞いも早くに身につけ、ブリジットの長い白銀の髪をとかしつけるのが、何時の間にか彼女の役目となっていた。ブリジットは、少女にいつも優しく親切だった。母をなくしたばかりの少女に同情していたのかもしれない。時として、少女を傍に呼んで、幼い時のカーイにしてやったように彼女が知る古い不思議な物語を語り聞かせたり、遠い異国の歌を教えてやったりしていた。その様子を、カーイは心中穏かならぬままに見守っていたが、ある時、ふと閃いたものがあった。

 ブリジットの傍にいて、彼女に魅了されない者などいない。彼女に向けられるエルザの瞳には、紛れもない愛の輝きがきらめている。一途で、深い崇拝にも似た愛情を見出して、カーイは、思った。エルザの血ならば、ブリジットも気に入るかもしれない。ブリジットがエルザを好ましく思っていることも明らかだった。その血は、ブリジットにとって、さぞや甘く香ばしく感じられることだろう。

 そう、エルザだって、愛するブリジットを救うための犠牲になるならば本望のはずだ。そして、カーイは、その考えを、すぐに実行に移した。

 残酷であろうと、ブリジットが喜ばないかもしれなくても、構わなかった。カーイは、ただ母を失いたくなかっただけなのだ。エルザのような孤児になりたくなかったのだ。

 その夜、階下の使用人達は皆寝静まった頃、カーイは、ブリジットを己の部屋に呼んだ。彼女だけに分かる、同じヴァンパイアの声で呼びかけ、その訪れをじっと待った。おそらく彼女は、それと共に、屋敷の空気の中にごく僅かな血の臭いが混じっていることに気がつき、眉をひそめただろう。己の寝台の方に、そっと目をやって、中を確かめた。大丈夫、まだ、生きている。ブリジットがやってくるまでは、生かしておかないと。

 そして、ブリジットはやってきた。音もなく、カーイの部屋の扉は、突然に開いた。まるで何か強大な力の前に恐れおののいて、自ら開いたかのようだった。

「ブリジット」

 白いナイトガウンに長い銀の髪を垂らした彼女は、白鳥のように美しかった。しかし、その顔は、いつもように優しくはなかった。

「カーイ」

 己を呼ぶその声に、咎めるような響きを聞きとって、カーイは、唇を噛み締めた。

「どうか、扉を閉めて。お願いだから、騒ぎ立てたりしないでくださいよ、ブリジット。使用人達は皆寝静まっているだろうけれど、僕達親子が口論なんか始めたら、何事だろうと起き出して、ここまでやってくるかもしれない」

 そして、青ざめた顔に挑戦的な表情をうかべて母の前に進み出ると、その手を取り、導くように軽く引いた。

「あなたに差し上げるものがあるんです、どうか、こちらに」

 カーイに引かれるがまま、ブリジットは、彼の寝台まで滑るように歩いて行った。その顔は、息子の固く凍りついた横顔を、複雑な思いに揺れる目で見つめている。

「これですよ」

 カーイは、寝台の高い天蓋から落ちかかる布を引きあげて、ブリジットにその中を見せた。彼女の菫色の目が見開かれるのを、その胸が大きく上下するのを、カーイは、息を詰めて見守った。

「エルザの血を、あなたに」 

 そこにはエルザがいた。白いシーツは彼女の流した血で真っ赤に染まっている。肩をざっくり抉られるように切り裂かれ、今にも息絶えそうなほどに弱ってはいたが、まだ生きていた。

「どうか、エルザから飲んでください、ブリジット。エルザの血は、とてもいい匂いがして、おいしそうでしょう? 彼女は、あなたを愛している。犠牲者の血の味を最高のものにするのは愛だと、あなたは言いましたよね。僕達は愛を糧にする生き物だと。さあ、あなたを愛した少女をどうか奪ってください。どうせ、そのまま放っておいても、すぐに死んでしまうでしょう。そのくらいなら、あんたが血を吸ってあげた方が、エルザも喜ぶはずですよ」

 ブリジットの頭が悲しげに振られるのに、カーイの胸はきりきりと痛んだが、ここで退くわけにはいかなかった。

「どうか、血を飲んでください、ブリジット。僕をこれ以上苦しめないで!」

 悲鳴のような声が、カーイの口から迸った。

「カーイ…」

 ブリジットは、カーイを、何とも言えない深い悲しみをたたえた瞳で見た。その表情を見ただけで、カーイの膝はくだけ、床の上にくずおれてしまいそうになったが、何とか、踏みとどまり、無言で訴えつづけた。どうか血を飲んで、と。

 ブリジットは、寝台の方に身を乗り出して、死にかけている少女を抱き起こし、その息を確かめるように口許に手をかざした。ブリジットの腕に抱かれて、少女の喉は小鳥のような小さな音をたてた。

 ブリジットは、少女の肩の傷に手をかざした。それから、胸にもたれさせた小さな頭にそっと唇を押し当て、何事かを囁きかけた。カーイは、あえぐように息をして、ブリジットの手から目に見えない不思議な力が少女に注ぎこまれ、それが引き裂かれた傷を塞いでいくのを、命のつきかけた体を再び生命力で満たしていくのを、呆然と見守っていた。

「どうして…?」

 ブリジットが、エルザの体を寝台に再び横たえ、そっと離れるのに、カーイの瞳から、ついに堪えきれなくなったかのように涙が零れ落ちた。エルザは、死ななかった。寝台の中で死にも似た深い眠りに沈んでいるけれど、その傷は癒され、体にはブリジットが分け与えた生命がみなぎっている。こんなことをカーイは望んだわけではなかった。彼は、糸の切れた人形のように、その場にへなへなと坐りこんでしまった。

「どうして…ブリジット…?」

 ブリジットは、カーイのすぐ前までやってきた。そして、息子に手を伸ばして、助け起こすと、ひじ掛け椅子の所まで手を引いて連れていき、そこに坐らせた。そして、自らは、その傍に跪き、カーイの手を両手で包み込んだ。

「私は、何度も言ったわ、カーイ。今の私は人間の血を必要としていないの。もし、私が飢えていたら、可愛いエルザの血を飲んだことでしょう。私の中にあの子を取りこんで、あの子の命の分まで更に強く私は生きたことでしょう。でも必要とされていないのに、あの子や他の誰かの命を奪うことはできないわ。そんな無意味な死を、この手で作りたくないのよ。例え、愛するあなたを慰めるためであってもね」

 カーイは、ブリジットの手を振り解いた。

「僕達は、血を断っては生きられないんですよっ! あなただって、僕にそう教えたじゃないですか。人間が生きる為に他の生き物を犠牲にしなければならないように、僕達は人間の血を飲まなければならない。例えあなただって…」

「ええ、そうよ」

 ブリジットの声の平静さが、カーイを震えあがらせた。

「あなたが、まさしく恐がっているとおり、それは真実なの、カーイ。私は、この体をじきに手放すことになるでしょう」

 カーイは、息を飲んだ。そのまま、何も答えることができず、ブリジットの変わらず静かな顔を見つめるばかりだった。

「私は、あなたが生まれる少し前から人間の血を断っているの。だからといって、別に苦しくはないわ。血に対する欲求そのものが消えてしまったからよ。それが、ヴァンパイアとしての私の生を終わらせるものであっても、私自身は、何も恐れても、後悔してもいないわ。私は、ゆっくりと地平に沈んでいく月のようなもの、けれど、私がいなくなっても、私の分身であるあなたが輝きつづけてくれるなら、私のこの長い生にも意味はあるわ。あなたは、私がこの世界に残せる唯一の形見なのよ、カーイ」

「あなたが、いなくなってしまう」と、ブリジットの語ることなどろくに聞くこともできず、取り乱したカーイは、喚いた。

「人間が死ぬように、この世からいなくなってしまう。僕は、たった一人取り残されるんだ!」

 カーイは、両手で顔を覆って、子供のようにわっと泣き出した。ブリジットの優しい腕がその震える体を抱きしめ、引き寄せた。

「カーイ、私の体が滅んでも、私のあなたに対する愛は消えたりしないわ。あなたにも分かってもらいたいのだけれど、目に見えたり触れることのできる世界がすべてではないの。普段は気がつかなくても、すぐ近くに私達の知らない別の世界がある…」

「そんな人間が信じるようなまやかしで、僕をごまかさないで下さい! 信じられるはずがない。だって、実際それを見て帰って来た者なんか、どこにもいないじゃないですか。人間だって、そうなんです。ましてや、僕達ヴァンパイアが、この体をなくしてどうなるかなんて、知りようがない」

「ええ、それは、確かにそうね。私の古い仲間達は、みんな、今は姿を消してしまったけれど、彼らがどんなふうに消えたのか、あるいは今でも何らかの形で存在しているのか、残された私達には確かめようのないことだわ。アリアンもハイペリオンも…私の姉マハも、どこに行ってしまったのかしら…? 私が行く所に、もしかしたら先に行っているのかもしれないし、全く違う終わりようをしたのかもしれない、いつの日かこの世界に戻ってきて、あなたの前に姿を現すこともあるのかもしれない、分からないわ」

「やっぱり、そうなんだ。あなたが、どうなるのかなんて、僕には確かめようがない。人間なら、それでも、じきに後を追うように死ぬことができるから、亡くなった愛しい人といつか会う夢も見られるでしょう。けれど、僕には、そんな慰めもない。いつ終わるか、それとも終わらないかもしれない、永生を1人で続けて…帰る場所もなく…独りぼっちで…僕には、どうすればいいのか分からない、あなたがいなくなる…触れることも抱きしめることもできなければ、それは、僕にとっては、存在しないも同じことなんです。あなたが、どんなに僕を愛していると言ってくれても、僕は、今のままのあなたにずっと傍にいてもらいたいのに…」

「カーイ、お願いよ、そんなふうに、哀しみにくれた小さな子供のように、頼りなげに泣いたりしないで…お願い…どうすればいいのか、分からなくなるわ」

「レギオンが僕を置いて行ってしまったように、あなたまで、僕を捨てて行ってしまう…そんなのは嫌です…」

 もう取り繕う意思などすっかり放棄して泣きじゃくっているカーイを抱きしめ、あやすように体をゆっくりと揺らしながら、ブリジットは、囁いた。

「あなたを捨てたりしないわ、カーイ。あなたは、その気になれば、いつだって、私の声を聞くことも、姿を見ることもできるでしょう」

「そんなこと、信じない」

 息子の強情さに、ブリジットは、溜め息をもらし、それから、カーイの肩を掴んで引き寄せると、その顔を覗き込んだ。

「カーイ、私は今すぐいなくなるわけじゃないのよ。私の滅びは、人間のようにすぐに訪れるわけじゃないから、私達はまだ一緒にいることができるわ。まだ何年も、ひょっとしたら10年かもっと長い時間が残されているのよ。その間に、2人で考えましょう。私はあなたにもっと様々なことを教え、あなたは、その日の為の準備をすることができるでしょう。もう、泣かないで、カーイ。ね、私達に残された日々を、悲嘆と失望と怒りの涙にくれて過ごすつもり? あなたと共にあることを私は楽しみたいのよ、カーイ。あなたは、いつだって、私の喜びだったわ。私がどんなにあなたを愛しているか、あなたには想像もつかないでしょうね。あなたを授かってからこれまで、私はただあなたのためだけに生きてきたのよ」

「ブリジット…」

 カーイは、目を開いて、母の顔を見た。そこにうかぶ愛情の深さと真実さに胸が熱くなったが、それさえも、カーイを慰めることも、勇気付けることもできなかった。

 ブリジットがいなくなる。そんな恐ろしいこと、考えたくもなかった。

 その時、一体、カーイは、どうなるのだろう。帰る家をなくし、この広い世界に放り出されて、1人、さまようのだ。失った大切なものを探し求めて、永遠に。レギオンが言っていた、終着地、旅の終わる場所が見つかる日まで。何て果てしない、気が遠くなるような長い時間だろう。

 そう、永遠は、一人で生きるには、長すぎる。



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