愛死−LOVE DEATH−
第十九章 迷い子
一
あれは確か、母の愛した街の1つウィーンでのことだ。
凍てつくような寒い冬、うっすらと白いものの積もった石畳を、二人して馬車を走らせ、今夜はこちらのサロンに、また別の夜はあちらでの夜会にと、毎日のように出かけた。成長した彼の姿は、相変わらず若いままの母と瞳の色を除けばうりふたつで、誰一人彼らを親子とは見ず、双子の姉弟と思っていた。
街の一等地の豪華なタウンハウスに住まう、北欧から来たという貴族、その優雅な生活ぶりと際立った容姿のゆえに取り巻きはいつも欠くことがなく、どこの社交場でも、二人が揃って現れれば、人々の熱い注目を浴びた。
暗い凍てついた冬の夜、そこだけは別世界のような、色鮮やかなタフタドレス、羽扇の揺らめき、漂う香水とおしろいの匂い、広間の中心には、こうこうと燃える豪華なシャンデリアの下で踊る二人がいる。
カーイの瞳は、自分に向けられた母の顔から離れない。そこには、いつも深い愛が満ちている。例え恋人と別れても、他の仲間に会うこともほとんどなくとも、彼女が一緒であったので、孤独を覚えることはなかった。彼女こそは、カーイが真実安らげる場所、人間達の間にたち混じって嘘の芝居を演じながら狩りをする生活の中で、最後にはそこに戻り、本当の自分に返ることができる、彼の家だった。
楽師の奏でる曲にあわせてゆるやかに旋回する、その小さな空間が彼らの世界だ。時おり、お互いに熱中するあまりに、他の世界のこと、人間達の存在を忘れそうになる。ほとんど体重を感じさせない巧みなステップ、時々目で追うことが困難に思えるほどの動きの早さに、幻惑された人々の中心で、この世のものならぬカップルは回る。
「私達は、愛を糧にする者」と、ブリジットは、彼によく言ったものだった。
「血は、その所有者の心のあり方によって、性質を大きく変えるものだから、獲物から奪う時にはくれぐれも用心なさい。人の感情は血の中で結晶となって、愛や喜びのようにその血を素晴らしくもすれば、逆に憎しみや悪意のようにあなたを傷つけることもある。あなたを愛する者からだけ、飲みなさい。そう仕向けることは、私達にとって難しくないのだから」
黒真珠を絡ませた髪の輝き、踊りにあわせて身をひるがえす度に赤い火の粉をまきちらすかのようなドレス。その光、その炎に魅せられぬ者はいないだろう。焼かれると分かっていてもなお、その魅惑に抵抗できる人間はいないだろう。彼女こそ、まさに女神。
「けれど、愛するとなると…」
その輝かしい微笑みがふと翳る時がある。夜の世界の中心にある月が、ふいに厚い雲に覆われてしまうのを見るような、言い知れぬ不安感に、カーイの心も震える。
この目くるめくような幸福な日々に静かに差し始めた、崩壊の予感。予兆はずっとあったのに、彼があまりにも幼い時から既に始まっていたので、それに疑問を抱き、おかしいと気づいた時には遅すぎたのだ。
そう、彼が物心ついた時から、母は既にほとんど血を飲まなかった。彼に教えるために狩りをすることはあっても、進んで獲物から奪うことはもうなかった。別れる直前にレギオンから指摘された通りだった。いつからそうなったのか、何故そうするに至ったのか。血を断ってしまった、不滅の吸血女神。彼女ほどに齢を重ねたヴァンパイアとなると、それでも、ずいぶん長い時間その肉体を保つことができたのだろう。しかし、血によって不死の体を生かし続けるヴァンパイアである以上、遅かれ早かれ、訪れる運命は一つだった。
(私は、一体、どこに帰れば、いいのだろう…?)
まだ闇は深く濃いが、静まりかえった空気のそこかしこに、じきに始まる新たな1日の予感めいた目覚めの気配が漂い始めていた、朝まだき―。
昨夜の激しい嵐は収まったものの、空からはまだ雪が降り続けている。ひっそりと寝静まっている家々の屋根に、凍えきった木々や庭に残った霜枯れた草や花の上、オレンジ色の光を放つ街灯の高い小さなかさの上にと、果てしもなく降り積もっていく。ロンドンの街の全てを白く塗りこめて、尚も足りないとでもいうかのごとく、しんしんと降り注ぐ。
そして、その雪の中にひっそりと佇んでいる、彼の肩や頭の上にも白い綿めいた雪が薄く積もっていた。こんなふうになるまで、一体、どのくらいそこに立ちつづけていたのだろうか。
カーイは、スルヤの家の前にいた。
その赤い煉瓦壁のデタッチド・ハウスの正面、道路を挟んだ歩道の街路樹の陰に身を隠して、灯りのついたままの屋根裏部屋を一心に見つめている。
おとなしくベッドで休んでいるようにと念を押したのに、カーイの帰りを待って、一晩中起きていたのだろうか。熱はまだあるのだろうか、それとも、少しは楽になったのだろうか。
(スルヤ)
カーイは、無性にその部屋の灯りの暖かさに心引かれて、無意識のうちに手を伸ばしかけては、駄目だというように下ろす仕草を何度も繰り返していた。本当に、あの暖かい場所に帰りたかった。彼の身も心もぼろぼろに疲れきっている。クリスターとの最後の戦いを経て、あまりにも多くの血を失った体は、氷さながらに冷えきって、半ば他人のものめいて重く、鈍い痺れが手や足の先から体中に伸びていく。カーイが今望むのは、暖かいバスタブに気に入りの百合の香料を落として、ゆっくりとつかることだ。それから、居間にある、暖炉の形に似せたガスストーブの前で飲む、火のようなブランデー。ふかふかの暖かいベッドの中で凍えた手足を思いきり伸ばして眠ることだ。そして、何よりも、その同じベッドの中で、手を伸ばしてすぐのところにある、あの柔らかく、甘い何とも言えないいい匂いのする、熱い体。恋人を捕まえて引き寄せ、力いっぱい抱きしめて、その脆い骨が折れても離さずに抱き殺し、のけぞった震える喉に牙をたてることだ。傷口から噴き出した泡立つような新鮮な血を、がつがつと飲み干せば、この強烈な渇きも、全身をひしぐような疲労も寒さも、瞬く間に消え去るだろう。そう、スルヤの血こそ、今のカーイが最も必要とするものなのだ。
そこまで思い至って、カーイは、怖気をふるったかのように身震いし、立っていた場所から一歩退いた。すっかり葉を落とした街路樹の曲がりくねった枝が、スルヤのいる部屋の窓を半分隠す。
(スルヤ、スルヤ、スルヤ…)
カーイの顔が苦しげに歪んだ。追いつめられ、途方にくれた表情で、尚も目だけは恋人がいる部屋の窓を、そこに彼のシルエットだけでも映らないだろうかと探すように見つめている。
コックス会長の屋敷から大雪の中を何とかロンドンまで戻ったものの、市の外側で道路は通行止めになり、仕方がないのでボルボはそこで乗り捨てて、最後の力を振り絞り、ヴァンパイアの速度で夜明け前にここに辿りついた。しかし、ここまで帰って来たものの、スルヤの待つ家に入ることができない。カーイの体は失ったエネルギーを補給する為にスルヤの血を欲しており、このまま会えば、血への衝動を抑えかねて襲いかかり、彼を奪ってしまうかもしれない。
カーイは、己の左手首から発する小さな痛みにふと顔をしかめた。爆死したクリスターの骨の欠片が突き刺さってできた傷は、まだふさがらず、じくじくとした痛みと共に血が少しずつ流れ出ている。こんなちっぽけな傷を癒すことすら、今のカーイにはできないのだ。別の血を取りこんで、力を取り戻すことなしには。
全く、何ということをしてくれたのだと、今更ながらに、クリスターが憎くなった。あの同じ顔をした弟もろとも地獄から引きずり戻して、もう一度この手で八つ裂きにしたいくらいに、憎悪した。しかし、彼らのことを考えると、何だか本当に蘇ってきそうで、今にもカーイが立つ後ろの闇からあの力強い腕が伸びてきて、彼を捕まえ、2人が立ち去っていった場所に引きずりこまれそうな気がして、ぞっと身震いして、頭の中から閉め出した。死者の世界など全く信じてはいないカーイではあったけれど、今は自分の懐疑主義に自信が持てなかった。
それから、またしてもスルヤがたまらなく恋しくなった。あのお日様のような明るい笑顔の前では、カーイを悩ます死者の影も、きっと雲散霧消してしまうだろう。1人でいることが、カーイは恐かったのだ。
(スルヤ、あなたを守る為に、あなたと一緒にいられるようにするために、私は、あれだけの目にあったのに、あんな…やりたくもない殺しをして、自らも傷ついて…みんな、あなたの待つ家に帰る為だったのに…)
なのに、今のカーイは、そこに戻ることができない。こんな馬鹿な話があるものか。カーイは、情けなさと悔しさに泣きたい気分だった。
(スルヤ、あなたは今でも、そこで私を待っていてくれるんですね。そう、私も必ず帰ると約束した…私がいつまでも戻らなかったら、あなたはどう思うのでしょう…? がっかりして、裏切られた、私が嘘をついたのだと恨むのでしょうか…私があなたを捨てて勝手に出ていったのだと、そんなふうに思ってしまうのでしょうか…?)
せめて、一目会って、そんなつもりではないのだ、本当は帰りたいのだけれどできないのだと打ち明けてみようかとさえ考えて、カーイは、かぶりを振った。一目スルヤに会って、自分の自制心が保てる自信はなかったし、例え電話で話をしても、その声を聞けば、ますます会いたくなるだけだ。それに、スルヤに打ち明けてすべてを納得させるには、カーイはあまりにも大きな秘密を抱えている。
(あなたのもとには帰れない…スルヤ…)
カーイは、ついにそこを離れる決心をして、歩道を歩き出した。足下で、積もったばかりの新雪が、キュッキュッと微かな音をたてる。
どこに行けばいいのかも、全く分からなかったが、とにかくスルヤからできるかぎり遠く離れなければならない。それにしても、一体、どこに行けばいいのだろう?
カーイは、唐突に立ち止まった。
呆然となっていた。途方にくれた子供のような顔をして、己の前に伸びる、人気のない暗い道の果てをにらみつけていた。その先に何があるのかも、分からない。まるで、遠い昔、カーイが愛した、唯一安らげる場所を失った、あの時と同じだった。
(私の帰る家は…どこ……?)
懐かしく慕わしいもう1つの名前が、カーイの記憶の古い引出しの中から、芳しい香りを放ちながら、こぼれ出した。
ブリジット。