愛死−LOVE DEATH

第十八章 GAME OVER


それは、地下にある、メアリーのため作られた医療施設の一角だった。

アダムに伴われて、このフロアーにエレベーターで降りてきたカーイの姿をみとめた、何人かのスタッフは顔をこわばらせて、そそくさとその場を立ち去った。

上の屋敷の中にある彼女の寝室は豪華な作りだったが、ここは白い壁に囲まれた、広さはあるが殺風景な病室で、そのただ中に、医療機械を備えつけた大きなベッドがあり、それを包み込むように覆っているビニールのカーテンごしに、何者かがそこに横たわっていることが知れた。

カーイをここまで連れてきたアダムは、何時の間にか姿を消してしまい、カーイは、メアリーと二人だけで取り残されていた。

緊張感が足下からじりじりと這い上ってくるのを意識し、カーイは、ゆっくりと深呼吸をすると、思いきったように、ベッドの方に歩いて行った。ベッド脇の小さなテーブルには、カーイが幻の中で見た、あの写真が大切に飾られている。メアリーの家族の肖像だ。

「メアリー・E・コックス?」

ベッドの手前1メートルばかり来た所で足を止め、カーイは、女性に対する礼儀正しさを守って、呼びかけた。

「カーイ・リンデブルック、あなたが不死の秘密を得る為に手に入れようとした者です」

少しの間の後、人工呼吸器が酸素を送り込む音に混じって、女のものらしい、かすれた声が、カーテンごしに届いた。

「ああ、やっと本物のおまえと会うことが叶ったんだね。嬉しいよ、カーイ・リンデブルック」

その声に紛れた、隠しようもない死の影に、カーイははっと胸をつかれた。死に瀕しているとは聞いていたけれど、これは、本当にいつ死んでもおかしくない、ほとんど危篤状態にある者の気配だ。

「お加減は…かなり悪いのですか?」

殺すつもりでここまで来た相手の体の具合を案じるなど、おかしな話だが、ついそう尋ねてしまったカーイは、自分が別に彼女に対して、もうそれ程敵意を覚えていないことに気づいた。彼女の寝室で、その残留思念に触れ、ひととなりを少し理解したからだろうか。むしろ同情さえ覚えていた。

「そこのカーテンを引いてもらえないかね。おまえの顔をよく見たいんだよ、カーイ」

乞われるがまま、カーイは、ベッドを覆う、ビニールのごわごわしたカーテンを引き退け、寝台に横たわるメアリーを覗き込んだ。カーイの顔が強張り、その目が大きく見開かれた。生ける死者というものがもしあるとすれば、それはきっとこんな姿をしているに違いない。死相のはっきりとうかびあがった、病み衰えた顔には、しかし、カーイと対面できたことに対する純粋な歓喜が溢れている。こんなになるまで生き続けることは苦痛であるに違いなかった。しかし、そうしなければならなかった、ただ一つの目的が彼女を支え、ここまで生き長らえさせたのだ。そして、今、長年夢見つづけた不死の具現者として、カーイを迎え入れた。伸ばせば手の届く所に、彼女の生涯の夢があった。

カーイには、メアリーを理解することができた。彼女が分かってもらいたがっていたので、心を透かし見ることも容易く、また、一度その心に直接触れたカーイには、メアリーの心が自分に向かって語りかけてくる真率な声を聞くこともできた。

(おまえは、本当に美しいね。こんなにも心揺さぶられる美しさには、今まで出会ったことがなかったよ。永遠の命の輝きが、そうさせるのだろうかね)

心からの感嘆、一途な崇拝に、カーイは、己の中から殺意が瞬く間に溶けてなくなっていくのを意識した。メアリーを殺すことなどできない。この、今にも壊れてしまいそうな命の火を、必死で燃やしつづけているひたむきな生を、この手で終わらせることなどできなかった。本当に、何ともろく、はかなく、それでいて時に、カーイを圧倒する、凄まじい強さを見せつけるのだろう、この人間という生き物達は。

(おまえにも分かっただろう、私は死にかけている。だから、この命をおまえが取りたいと言うのなら、そんなものは、なんの躊躇いもなく捧げるよ。けれど、その代わり、どうか、おまえの不死の秘密を私にちょうだい。私達の愛するものがもう二度と死ななくてもよくなるように、どうか、おまえの持つ「永遠」を、私達に分けてちょうだい)

メアリーの命がけの懇願に、カーイは、じっと耳を傾けながら、その熱意のこもった顔を見下ろしていた。

(お願いだよ、人間を生きるための糧にしているおまえじゃないか、私達のために少しくらいその体を役に立ててくれても、いいだろう?おまえという謎ははかり知れないものだけれど、それでも、現代の科学技術は必ず解き明かしてくれる。死に対する特効薬を、必ずや見つけてくれる、例え私自身がこの世から姿を消したって!)

カーイの顔に漂っていた哀しみの影が、次第に濃くなっていくのに、メアリーは気づくことなく、どうにかしてカーイを説得する為、最後の力を振り絞っていた。

(もしも協力してくれるならば、おまえにもそれなりの礼はするよ。ずっと旅を続けているそうじゃないか。獲物を殺して、また次の場所に移って別の獲物を探す。そんな生活には疲れるんじゃないかね?おまえのための安住の場所を提供しよう。定期的に、おまえの為の犠牲者もあたえよう、もちろん警察の手からも守ってやるよ。それ程悪い話じゃないと思うがね)

しかし、カーイは、メアリーの願いを受け入れるでもなく、かと言ってはねつけるわけでもなく、ただ哀切な目をして、彼女を見つめるばかりだった。そして、メアリーも、ようやく、カーイの中にある、その哀しみに気がついた。

「私の体を調べて不死の秘密を手に入れる、本当に、それがあなたの望みなんですか?」と、カーイがふいに問いかけた。

「死の特効薬を手に入れて一体どうしようというんです、あなたが死から救いたい者は、一体誰なんですか?」

決して揺るがぬかに見えた、メアリーの意思的な瞳が不安げに揺れた。

「それは、あなたの家族、既にこの世にはいない、マイケルやトビーやショーンじゃないんですか?もう一度彼らに会いたい、取り戻したい、それがあなたの真の願いなのでしょう?けれど、それは、私の秘密などを手に入れたところで叶えられるものではないんです。既に死んでしまった者を蘇らせる力など、私にはないんです。私達ヴァンパイアは堕ちた天使の末裔なのかもしれないけれど、決して全能の神ではないのだから」

メアリーの唇が震えながら開かれ、微かな悲鳴のような細い息をもらした。彼女の全身が違うと叫んでいたが、実際にはカーイの言う通りなのだということを、彼女にしても分かっていた。しかし、それを認めることは、愛する者達と再会することは叶わないのだとあきらめることであり、メアリーには、どうしても受け入れられなかった。今までずっと、気がつかないふりをしていた。

「私を手に入れた所で、あなたの本当の望みは実現しない。そんなことでは、あなたの亡くなった家族と再び会うことなどできはしない。もし、ただ一つ望みがあるとすれば、それは、あなたが、自らが死すべき人間だという事実を認め受け入れることに他ならないんです」

カーイは、自分の感情が抑えようもなく昂ぶってくるままに、メアリーに向かって、かきくどくようにこう言っていた。こんな思いを、他人に、それも人間に対して打ち明けたことなど、かつてなかったのだが。

「私達ヴァンパイアは不死だけれど、それでも、終わりが来ないわけじゃない。私が、かつて愛する者を亡くした時に、心の底から絶望したのは、これでもう二度と彼女とは会えないのだと分かったから。あなた方人間には、もしかしたら、死した後にも残る魂があるのかもしれないけれど、この決して滅びない肉の器に捕らわれた私には、死後の世界など、全く何の関わりもないつくりごとに過ぎない。死んでしまった愛する者とどこかで再会する夢など、私には見られない…」

それから、自分のこの昂ぶりが、弱ったメアリーに負担になるかもしれないと思い、心を静めようと、息をついた。

「メアリー?」

石とかしたかのように沈黙し、ベッドの中で小さくしぼんでしまった肉体を横たえたまま、メアリーは、声もたてずに静かに泣いていた。カーイは、またしても胸をつかれ、その哀しみに震える心を慰めようと、そっと囁きかけた。

(メアリー、ごらんなさい、あなたが望むのは、死を打ち負かすなんて大それたことではなく、こんなささやかな、当たり前の望みだったのでしょう?)

カーイは、ゆっくりと死に向かって落ちかかるメアリーの脳に、優しく甘い夢を送った。彼女は、まさしく死につつあった。カーイと出会い、こうして言葉を交し合ったことですべての力を使い果たし、夢はかなわぬままに、死出の旅につこうとしていた。

(お母さん、ようやく、あなたと再び一緒になる事が出来ましたね)

メアリーの息子トビーが、あたかも死につつある彼女を、かの地から迎えに来たかのように、その枕もとに現れ、優しく慰める調子で語り掛ける。

(本当に、大変な生涯をだったね。一人でよくそこまでやれたと思うよ。でも、もう全ての重荷を手放していい時が来たんだ。さあ、一緒に行こうよ)

迎えに来たのはトビーだけではなかった。もう一人の子、ショーンも、今やメアリーのすぐ傍で彼女に顔を覗き込んでいる。そして、夫のマイケルもまた。

(君には、本当に苦労をかけてしまった。でも、それももう終わりだ。これからは、家族一緒に、もう二度と離れることなく、ずっと暮らせるんだよ)

メアリーは、心和ませる暖かな光に包まれていた。その中で、彼女が望んでやまなかった愛する者達が笑っている。彼女の夢、希望が、形をなして、そこに存在していた。

確かに、望んだのは、こんな、人として当たり前の、ささやかな夢だったのだ。

(死は、全ての苦しみを過ぎ去ったものに変えてくれる。君の苦闘も孤独も終わり、慰めと安らぎがもたらされるだろう)

カーイが、メアリーのために作り出した、美しい幻だった。苦闘ばかりの人生を終えて旅立つ彼女の哀しみや苦痛が少しでも和らぐよう、恐怖を忘れ去ることが出来るよう。

メアリーは、恍惚として、その夢を受け入れたまま旅立つかに見えた。しかし、最後の息を終える直前に、彼女は、驚くほど明瞭な意思を顕わにして、カーイに向かって言ったのだ。

「やめて…どうか、もうやめておくれ、カーイ…。ありがとう、でも、分かっているんだよ、これは、おまえが見せているただの夢なんだろう?どうか、私を慰める為でも、嘘はつかないでおくれ…死後の世界とは無縁の身だと言ったおまえ、私が死んだら本当に彼らと会えるのかなんて、おまえには結局分かりようがないんだ。ありがとう、でも、放っておいておくれ。私の家族がどうなったのか、私は、これから、自分でそれを確かめることにするよ」

カーイの胸を、鋭い痛みがさし貫いた。そんなつもりではなかったのだ。恥じ入り、メアリーに見せていた幻を消し去って、打たれたように、寝台の中でぐったりと横たわっている彼女を覗き込んだ。カーイの体中から全ての力がぬけていった。

メアリー・E・コックスは、静かに息を引き取っていた。

「メアリー…私には、あなたが行きつく先を見ることはできないけれど、それでも、あなたの魂が何らかの安らぎを見出すことを願いますよ」

カーイは、しばらくの間、そこに立ちつくし、彼女に冥福を祈るかのように瞑目し、頭をたれた。





この屋敷に乗りこんでから、一体、どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。実際にはそれ程長くはなかったのだろうが、永遠にも感じられた。あまりにも多くの衝撃や苦悩や哀しみに襲われて、身も心も疲れきって、ぼろぼろだった。

死んだメアリーのもとから、音もなく立ち去り、屋敷の壁や床を実体のない亡霊と化して通りぬけて外に出た時、あれほど激しかった風はやんで、重く垂れこめた夜の空から、真っ白な雪が、静かに音もなく降り注いでいた。

スティーブン達のことは、メアリーの秘書アダムに任せたが、主人の意思を尊重するならば、おそらく無事に病院に運び治療を施してくれるだろう。その後のことについては、カーイの預かり知らぬことだ。大体、今は、そこまで考えられるような気分ではなかった。

屋敷の誰にも会わぬよう、ヴァンパイアの速度で宙を飛ぶように移動し、屋敷を遠くに見下ろす丘の上に差し掛かって、やっと足をとめた。カーイのボルボを隠してある林は、すぐそこに見えている。しかし、すぐには立ち去らず、カーイは、しばし、そこに佇んだまま、不思議な哀惜をたたえた眼差しで眼下の屋敷を見下ろしていた。クリスターとの戦いで吹き飛んだ一角では消火作業がなされているのか、煙は消えつつある。

敵の全てを葬り去り、勝利し、生き残ったカーイの胸に去来するのは、しかし、喜びとは程遠く、これでもう脅かされることはないのだという安堵でもなく、敵に対して初めのころは激しく燃やした敵意と憎しみ、怒りも全て鎮火した後に残った、静かな哀悼と悲傷だった。

ほとんど尊敬の念さえ覚えた、凛とした最期を迎えたメアリーに対しては無論、カーイをあれほどまでに苦しめ傷つけたクリスターに対しても、もう憎しみは覚えなかった。

カーイは、顔を上げて、頭上を振り仰いだ。天からの音なき白い洪水に向かって、目を細め、すべてを抱きしめるかのように腕を広げた。

(これで、もう何もかもが終わった)

ふいに、その頬が微かに強張った。

カーイは、訝しげな顔をして、己の左手首を押さえた。傷はほとんど癒えたと思っていたけれど、小さな痛みがそこから発していた。袖をまくってみると、ごく小さな傷口がまだ塞がらずに残っており、細い血の糸がそこから流れ出ていた。

カーイは、眉をひそめた。何かが突き刺さっている。傷口を抉るように自ら爪をつきたて、探り、そこに残っていた小さな異物を取り出した。指の間にはさんで、目の前に持ってきてみた。カーイの血にまみれた、白く小さな、それが、人間の骨だと気がついた時、カーイの顔に怯えが蘇った。

クリスターの骨の欠片。

カーイは、震える手から、骨を落とした。小さな破片は、降り積もっていく雪の上で、すぐに見えなくなった。

カーイは、呆然と骨が消えた辺りを見つめていたが、やがて、恐る恐る手首の傷を確かめてみた。信じがたいものを見たかのように、その双眸が大きく開かれた。

どんな傷でも瞬く間に癒してしまうはずのカーイの再生能力、それは、ほとんど無限だと思われていた。カーイ自身も、そう信じてきた。だが、今、そのごく小さな傷口は、じわじわと新たな血を滲ませつつ、決して塞がる様子はなかった。

クリスターとの死闘の末、かつてない程の激しいダメージを受けたカーイの体は、滅びることこそなかったが、ついに再生能力の限界を超えたのだと、クリスターが生きていたなら、そんな分析をしたかもしれない。

硬直したまま、己の中から血が流れ出していく様を凝視していたカーイは、その時、身の内から突き上げてくる、激しい欲求を覚え、慄いたように震えた。

放出し、使いきったエネルギーを再び満たすために当然とも言える、生理的な反応だ。カーイの顔が、苦しげに歪み、その瞳には、受け入れがたい現実に直面した、恐怖と混乱がたたえられている。

(まさか、そんな…そんな…!)

本来ならば、この時期には覚えるはずのなかった、どんな理性よりもはるかに勝る、凄まじい衝動、血に対する餓えの訪れだった。


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