愛死−LOVE DEATH

第十八章 GAME OVER


「クリスター…」

スティーブンは、何かしら打たれたようになって、クリスターのその姿、弟と同じように髪を切り、丈高く逞しい体に、長い、ほとんどくるぶしの位置まで丈のある黒いコートをまとい、ごく自然な所作で、銃身を切り詰めた銃を構えている、カーイという宿敵を前にしながら、少しの昂ぶりも表さず、むしろ空恐ろしいほどの静けさを漂わせている男を凝視した。

だが、そうやって佇んでいるだけなのに、おのずと人を威圧する帝王然とした迫力は、まさにクリスターのもので、それは、弟を失った衝撃でしばらく喪失したかに思われていたのだが、今は完全に戻っていた。

彼は、スティーブンとその傍らにぴたりと寄り添っているロバートなど、この部屋にまぎれこんだ虫程度にしか意識していないようで、その強い光を放つ瞳は、カーイのみを捕らえこんでいる。

そして、カーイも、クリスターの存在に魅せられたかのように、瞬きすることも、声を発することも忘れて、彼と対峙していた。

倒さなければならない、カーイの敵。しかし、人間でありながら、ここまでカーイを追いつめ苦しめた、確かに、並みはずれた見事な男であるには違いなかった。

自分を殺しうる力を備えた者を前に、臆するどころか、何一つ変わったことなどないかのように平然として立つことができるのは、詰まるところ、彼が真性のハンターだからだ。流血と残酷な所業と殺戮の中で生きてきた怪物だけが持つ、言い知れぬ凄みに、カーイの奥深い所にある、やはり同じハンターの本能がうずきだす。

この突然のクリスターの登場に、虚をつかれ、しばし無防備となっていたカーイの顔に、ふいに妖しいかぎろいのようなものがうかびあがった。

彼は、吸いよせるがごとき不思議な眼差しでクリスターを見つめながら、艶然たる笑みをうかべた唇をほとんど動かすこともなく、クリスターにだけ分かるよう、ひそやかに囁きかけた。人間の心の奥底に忍び込み、魂の琴線に触れてかき鳴らす誘い、ヴァンパイアの魔力ともいうべきこの力に逆らえる者はめったにいない。

(こちらに来なさい、クリスター。そんな物騒な武器など捨てて、私のもとに来れば、あなたはきっと楽になれるでしょう。さあ、敵わない相手に戦う、そんな重荷など下ろして、流されてしまいなさい)

この上もなく魅力的に聞こえる囁きの陰には、致死的な牙が隠されている。心地よい戦慄を伴う、死への誘惑だ。

クリスターの五感はこの誘惑に応えるよう彼に要求したかもしれないが、果たして、彼は動かなかった。理性の隙間に忍びこみ、心をからめとろうとする、その引力をはねのけて、彼は、不敵な笑いでカーイを挑発さえした。

意思が、強い。

この反応にカーイは舌を巻きつつ、むしろ喜びさえした。そう簡単に屈してもらっては困ると、実に久々に覚える、狩りの昂揚感を楽しみながら、カーイは、流れるような動きで、右側にゆっくりと動いた。

すると、それに呼応するように、クリスターも、カーイとは反対方向に歩いた。その隙のない滑らかな身のこなしは、ヴァンパイアの目をもってしても、ほとんどあらなど見つからないほどだった。

そうしながらも、彼らは、一瞬たりとも相手から視線を離さなかった。そうして、お互い壁に行きつくと、また方向をかえて、今度は、大きな円を描いて緩やかに旋回するように歩きながら、相手の手の内をうかがいあった。

「おい…スティーブン、後ろに下がるぞ」と、呆然とこの光景に見入っていたスティーブンの肩をロバートが叩き、なるべく彼らから離れるよう促した。

「あの二人の近くにいてはいけない。戦いが始まれば、私達も巻き込まれる…彼らを刺激しないよう少しずつ後ろに下がって、隣のメアリーの寝室に避難するぞ」

その言葉もスティーブンはろくに聞いていない様子だったが、それでも、ロバートに引っ張られて、ゆっくりと扉の方に移動し始めた。

まるで二頭の猛獣が、相手に飛びかかる機会を探っているかのように、ゆっくりと動いていた二人は、ふいに、どちらもがほとんど同時に足を止めた。

「あなたは、ここにこうして私をおびき寄せることに成功した。それで、次にどうするつもりなんです?」

試すような口調で、カーイは、囁きかけた。

「私を殺す方法は、見つかったんですか?」

クリスターは、すぐには答えず、首を僅かに傾げて、カーイの問いかけを吟味するかのように、目を細めた。

「君を滅ぼす方法、か。君自身は、知っているのかな?いざとなれば自ら死ねる身なのか、試してみたことなどないのだろう?これが、たぶんその機会となる」

カーイは、ふと顔を曇らせた。今までは捕食者の本能が優位に立って、戦うことの昂ぶりさえ感じていたのが、ふいに胸に差し込めてきた不安に、必ず勝てるという自信が揺らいできた。

それから、そんな心もとなさを否定するかのように、激しくクリスターを睨みつけた。

クリスターが、カーイに勝てるはずがない。昨夜の戦いを通じて、彼の使える武器はすべて無効だと証明されていた。そして、今、助けてくれる仲間もなく、たった一人でカーイに対しているクリスターが、恐ろしいはずがなかった。

にもかかわらず、胸の奥底から突き上げてくる、この嫌な予感は何なのだろう。この状況で優位にあるのはカーイで、いつだって、その気になれば、片手に銃を構えただけのこの相手に目にも止まらぬスピードで襲いかかり、八つ裂きにすることができた。しかし、何かがカーイを躊躇わせた。この男に、下手に近づいてはならない。ほとんど無防備にさえ見える様子をしていて、どんな隠しだまを持っているか知れたものではない。

それから、背後に聞こえた、緊張に耐えかねたような溜め息に、スティーブンとロバートの存在を思い出した。彼らをここに送り込んだのも、やはりクリスターなのかもしれない。二人がいたおかげで、クリスターがここにやってくるまで、カーイは足止めを食うことになった。

メアリーをも餌にして、カーイを誘き寄せたクリスターは、次にどう出るつもりなのだろう。そう言えば、そのメアリーは一体どこに行ったのか。

ふいにカーイの胸に焦燥感が湧き上がってきた。それは、この得体の知れない力を持つ男相手にこうしていつまでも睨み合っていることで、次第に自分の心が挫け、千々に乱れていくことへの不安と抵抗だったのかもしれない。

「メアリー・E・コックスは、どこです?」と、溜まりかねたかのように、カーイは、問いかけた。

「答えなさい、クリスター、あなたが、彼女を逃がしたのでしょう?」

すると、クリスターは、それがどうしたのだとでもいうかのように、軽く肩をすくめた。

「それが知りたいなら、カーイ、先に私を倒すことだな。私が負けたら、彼女の居場所を教えてあげるよ」

カーイの細い眉がはねあがった。挑発だと分かっていたが、彼の心は、クリスターに対する激しい怒りと、そんな彼に対して本能的な警戒心を覚えて戦うことを躊する己自身への反発に燃えあがった。

「あなたを倒したら、本当にメアリーの居所を教えると?」

色味の薄い目には酷薄な光を灯し、カーイは、じりじりとつのってくる殺意を隠しもせずに、囁いた。

「ああ、君が勝てば、確かにそうしよう」

このやり取りを、ほとんど扉の近くに辿り付きながら、スティーブンは、全神経を集中させて聞いていた。隣部屋に入ろうと耳元で訴えかけるロバートにも注意を払わなかった。

(カーイ…クリスター……)

目の前で繰り広げられる、この対決に、スティーブンは完全に飲みこまれていた。どんな攻撃も無効にしてしまう圧倒的なスピードとほとんど無限の再生能力を持つカーイに対して、クリスターは万策尽きたはずだったのに、今の彼は、とても落ちついて、自信に満ちて見える。それが、スティーブンに何かしら不審なものを覚えさせた。それに、クリスター自身の印象も、何だか、これまでとは異なっているように感じられる。長かった髪をばっさり切ったことや、いつもの戦闘服姿と違う、裾の長いコートのせいだろうか。そう言えば、激しい動きをするには不向きに見える、体をすっぽりと覆う、そんなコートをどうして着てきたのか、スティーブンは不思議に思った。何かが引っかかっていた。

(何かが、おかしい)とは、カーイも感じていた。

どうして、カーイの力を知っているはずなのに、攻撃するよう誘いなどかけて、しかも、そんなふうに落ちついているのか。カーイがもたらす死など恐れていないとでもいうのか。それとも、本当に何か勝算があるのだろうか。

尚も迷うカーイは、クリスターの手が動き、再び銃口を向けるのに、はっと緊張した。

銃身を切り詰めたM-79が火を吹いた。その18センチの銃身には40ミリの鹿弾がこめられており、一度に200発のダブル・オー弾を広範囲に降らせた。火と白煙が上がり、カーイが佇む方向のすべての窓と調度品を粉々にし、床に敷かれた豪華な絨毯をずたずたにした。いかなカーイといえども、逃げきれるものではなかったが、それでも、瞬時に移動して、クリスターの右脇、僅か2メートルばかりの所に降り立った。

降りかえったクリスターの鋭い目が、カーイの目を射た。その瞬間、カーイの中で、何かが弾け飛んだ。

「それほど死にたいなら、殺してあげますよ、クリスター!」

光る爪を振り上げて、今まさに飛びかかろうと身構えるカーイの前で、クリスターは、体を彼の方に向け、誘いかけるように、両腕を広げて見せた。

カーイは、動いた。

「カ、カーイ、いけないっ!」

スティーブンは、とっさにそう叫んでいた。

カーイに向き直ったクリスターのコートの陰に何か覗くのを見て、そう叫んだのだ。一瞬理解できなかったが、とても危険な感じがした。それから、先ほどからずっと頭に中に引っかかっていることを思い出そうとした。

だが、その時には、カーイはもうクリスターの懐に飛び込んでいた。しかし、致命的な一撃を加えるべく振り上げた手を震わせると、そのまま凍りついたように、目の前にあるクリスターの冴え冴えと端正な顔を見上げ、肩で息をついた。

何故か、手を振り下ろせない。この男に触れるのが、恐い。カーイは、青ざめていた。

クリスターを襲うつもりで一気に距離を縮めたのに、いまや彼はじりっと一歩後じさりした。

大きく目を見開き、食いいるように、クリスターの冷たい琥珀色の瞳の奥に燃え盛っている炎に見入ったまま、どうしても逃れられず、呪縛されて、立ち尽くした。

そんな彼へと、今度はクリスターの方から近づいた。身を屈め、硬直しているカーイの頬に己の頬を寄せて、その耳元に低く、謎めかした調子で囁きかけた。

「汝の敵を愛せ」

カーイを半ばかき抱くようにしながら、ふいに、クリスターの顔に獰猛な笑いが広がった。

それまで水のように静かだった彼が、いきなりカーイに襲いかかるのを、スティーブンは、呆然と眺めた。と、脳裏に何かが閃いた。それは、レイフか、あるいはジェレミー辺りからちょっと小耳に挟んだ話だったのかもしれない。クリスターが爆発物のプロであるということと、今見た「何か」が結びついた。

「カーイ、逃げろっ!」

クリスターは、凍りついたように立ち尽すカーイの腰に手をかけると、軽々と頭上に持ち上げた。驚いたカーイの口から、小さな叫びがあがった。

「クリスターは、爆弾を隠し持っている。あんたを道連れに…自爆する気なんだ!」

ここに至って、カーイも気がついた。コートの下に覗いた、クリスターの体には、何ということだろう、幾つもの爆薬が巻きつけられていたのだ。

カーイの顔が引きつり、歪んだ。彼は、掴み上げられたまま、逃げようともがき、低い唸り声をあげて手を振り下ろし、、クリスターの肩を鋭くえぐった。ヴァンパイアの一撃に引き裂かれた体から血しぶきが上がったが、クリスターの鋼のような腕は少しも緩まず、カーイを見据えるその燃えあがる瞳の光も少しも揺るがなかった。カーイは、恐怖した。

(命に見合う価値は、果たしてあるのか?)

戦いばかりの過酷な生き方を選んで、ずっと続けながら、その問いかけは、時々なされたものだったのだが、クリスターもレイフも、その点については確信していた。

「クリスター、やめなさいっ…!」と、ほとんど悲鳴のような声が、カーイの口からあがった時―

人生というゲームの最後を共にするにふさわしい、最高の獲物を腕に捕らえこんだまま、クリスターは一瞬の躊躇もなく、左手の内に隠し持っていた起爆装置のスイッチを押した。

「カーイ!」

スティーブンは、二人に向かって手を伸ばし、衝動的に駈け寄ろうとした。だが、その体はロバートに引き戻され、無理矢理、隣の部屋に放りこまれる。

「スティーブン、伏せろっ!」

絶叫と共に、ロバートの体が、スティーブンを庇うように覆い被さってきた。叩きつけられるように閉じられた扉の隙間に、一瞬、もつれあう二人の姿がかいま見え、そして―。

凄まじい閃光が、スティーブンの目を貫いた。

「うわぁぁっ?!」

続いて、轟音と共に襲いかかってきた衝撃に、スティーブンは、なす術もなく、己の体が吹き飛ばされるのを意識した。 

どこか遠くで、誰かが叫ぶ声を聞いたように思ったが、それが、己の口から出たものか、ロバートの悲鳴であったのか、分からなかった。

(カーイ)

赤く染まった瞼の裏に、仄かに輝くその人の幻がうかびあがり、手を伸ばそうとしたところで、スティーブンの意識は途切れた。





戦場から戦場へと二人共に渡り歩く、私達のことを理解できる者は、誰もいなかった。

たまたま人生を踏み外したのが片方だけだったなら、時にはそんなこともあるだろう、馬鹿な身内を持って不幸なことだと同情を受ける程度で済んだのかもしれない。だが、共に歩むことを選んだ私達は、兄弟が二人揃って、何を好き好んで戦争なんて、命を無駄にする愚か者だ、人殺し、頭がおかしいのだと非難され、いつしか昔の友人達は一人残らず去っていき、そう簡単に縁を切ることのできない肉親には、深い苦悩と慟哭をもたらした。

それでも、わずらわしい世間から遠く離れた戦場で、無駄なものは全てそぎ落とした、死と隣り合わせの極限状態にあることで、初めて自由になれた私達は、幸福だった。よく戦うことさえできれば、それ以上は余計な詮索をすることもなく仲間として受け入れる戦友達の中では、私達が本当は一つなのだということも、それ程奇妙には見られなかった。命がけのゲームを弟と共に切りぬけ、勝ち進み、生き延びながら、二人で共有する昂揚感や達成感の中に、自分達の居場所を、ある種の安らぎさえ見出していた。

私達がそうすることで傷つけ哀しませてしまった、かつて愛した者達の存在を忘れることはできないけれど、それでも、例え初めからやり直せるチャンスが与えられたとしても、きっと、私達は何度でも同じことをするだろう。

そう、後悔を覚えたことなど、ただの一度もなかった…。





「ク、クリスターさん?!」 

ずしんという鈍い破壊音と衝撃が、傭兵達がまだ残っていた建物全体を揺るがした。

クリスターの命令通り、ヴァンパイアが三階に姿を消してからは、即座にその場から遠ざかり、取り敢えず一階ホールで待機していた彼らは、突然、はるか頭上で起こった爆発に危うく床に投げ出されそうになった。とっさに手近にあった階段の手すりや窓枠などにつかまったりして、その衝撃をやり過ごした後、動揺した様子で、階段のすぐ下にいたマグナスとジェレミーの所に集まってきた。

「今の爆発は、一体何なんだ?」

「クリスター隊長は、一体、どこに…まさか、上にいて、あの爆発に巻きこまれたなんてことは…」

誰かが漏らしたその一言を聞いた途端、顔色を変えたジェレミーは、階段を駆け上ろうとしたが、その腕を、マグナスが捕まえた。

「やめろ、ジェレミー、上に行くことは危険だ」

「離せ、クリスターさんを助けないと…!」

「そのクリスターの命令なんだぞ、これは!俺達には、ターゲットを深追いせずに退避しろと、あの人は言ったんだ…くそっ…」

あの爆発音を聞いたとたんジェレミーの頭にうかんだ嫌な考えと同じことを、マグナスも思い浮べたらしい。悔しげに唇を噛み締め、更に、低い声で吐き捨てるように、何かをつぶやくと、一様に戸惑いと不安の表情をうかべている仲間達の顔を眺め回した。

「一まずここから出、外から、さっきの爆発の様子を確かめるぞ。おい、ジェレミー、おまえも来るんだ」

切迫した面持ちで、煙が立ちこめてくる階上を眺めている若者は、マグナスに腕を引っ張られるようにして、クリスターの安否を確かめることに心を残しながらも、外に連れ出されていった。

(クリスターさん、あなたは、やっぱり…?)

信じたくはなかった。しかし、最後に別れた時のクリスターの落ちつき、不思議なほどの穏かさ、それに対して覚えた言い知れぬ胸騒ぎが思い出され、初めからすべて覚悟の上でのことだったのだと考えると、何もかも符合するように思えてくる。

そして、雪の降りしきる中に仲間と共に飛び出して、今まで中にいた建物の上階、爆発が起こったと思しき三階部分を振り仰いだ瞬間、絶望的な呻き声を、ジェレミーは漏らした。

頑丈な石造りの建物の、その一角は無残にも崩壊していた。分厚い壁には大きな穴があき、落ちた天井のあった部分からはもうもうと黒煙と炎が上がっている。自らも爆発物を作るジェレミーには、これほどの被害をもたらした爆発の破壊力を想像することも、傍で巻き込まれた人間が助かることなどできないだろうということも分かってしまった。クリスターが、本当にあそこにいたのか明らかになったわけではなかったけれど、その惨状を一目見た瞬間、ジェレミーは確信してしまった。

クリスターは、あそこで最後の戦いをし、己の命を犠牲にターゲットを仕留めようとしたのだ。

「クリスターさん…」 

震える声で、その名を再び呼んだ、その時、ジェレミーは服のポケットの中に入っている手紙の存在を思い出した。やにわに取り出して、食いいるように、その真っ白な、クリスターの筆跡で宛先の書かれた封筒を見つめる。そうして、口の中で小さく謝罪の言葉をつぶやくと、衝動的にその手紙の封を切った。

中には、手紙の代わりに一枚の写真が入っていた。在りし日のクリスターとレイフがあざやかに写っている。胸をつかれる思いで、その写真にしばし見入った後、裏返してみた。そこには、短い走り書きが残されていた。

ジェレミーは、今さっき出てきた建物に近づき、窓から漏れる明かりに照らして、そのメッセージを読んだ。

途端に、その若々しい顔が歪み、こみ上げてくる悲しみを堪えきれなくなったかのように、低い嗚咽を漏らした。

クリスターらしくないと言うべきなのか、それとも、この上もなく彼らしかったのか、常に心にかけていた母親に向けた、ごく短い、しかし、真摯で真率な愛情のこもった、彼の最後の言葉だった。

(こんなふうにしか生きられなかった私達を、どうか許してください。それでも、愛しています。愛しています…)





夢を見ているのだろうかと、カーイは、思った。だとすれば、ひどい悪夢だ。

体の感覚も何もなく、身動きすることもできずに、おそらく、倒れているのだろうが、体の下にある床の存在を感じることさえできなかった。

体などなくなって、ただ意識だけが存在しているかのようだった。

やはり、これは夢なのかもしれない。

夢を見られるということは、では、己はまだ生きているのだろうか。死というものが一体どんな状態であるのか、想像もつかないカーイには、この不思議な、現実から遊離した感覚というものが理解できなかった。

辺りの様子も、何だか奇妙に、さっきまでいた場所とは異なっているようで、そうは言っても、何も聞こえず、見ることすらできない、この状態では確かめようもないことなのだが、カーイの心を不安で一杯にした。

ここには、カーイ以外の誰もいないようだった。

スティーブンやロバート、何よりも、あの爆発の瞬間を共にしたクリスターはどうなったのか。

それから、まざまざと、あの恐怖の一瞬が思い出され、今にも眠りこみそうに、ふわふわと漂いかけたカーイの心を凍りつかせた。

あんな真似が、よくもできたものだ。

カーイと違って、死んでしまえばそれきりの、一度限りの短い命をあんなふうに自ら散らせるなんて、信じられない。死後の世界も魂の存在も、懐疑的な人間以上に信じていない不死者のカーイには、クリスターの選択は衝撃だった。

(あなたは、私を道連れにしようとした…私が果たして死ねる身なのか、それを知る機会になると…もしかしたら、私は今死んでいるんだろうか、まるで無そのものになってしまったかのように体の感覚がないのも、身動きすることもできないのも、実は私がもうこの世の者ではなくなっているからなのかもしれない。ああ、何を馬鹿なことを。そんなはずはない、私は決して滅びたりなどしない…)

ぞっとして、カーイは、どうにかして体を動かし、目を開け、辺りの気配をうかがおうとした。

すると、その時、誰かが自分のすぐ傍に立っていることに気がついた。

(誰?)

カーイは、どうにかして、うっすらと瞼を開けることに成功したようだ。目を開いたという感覚はなかったのだが、それでも、僅かに視界が開けて、己の前に立つ何者かの脚を見ることができた。男達が二人、同じ黒いバトルブーツをはいている。

そのうちの一人が、ポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつける。うまそうに深く吸って、煙を吐き出した後、傍らに立つもう一人に向けて、問いかけた。

(なあ、こいつを一体どうしようか?)

カーイは、その男達の脚を霞む目で見つめながら、身の奥底から震えがこみ上げてくるのを呆然と意識していた。こんなことは、ありえない。

(いっそのこと、このまま連れていっちまおうか?そうすればさ、あちら側でも、このゲームをずっと、永遠にだって続けていられるぜ?)

そんなぞっとするような提案を、まるでおもしろい遊びの計画を立てている子供のような口調で楽しげに言って、答えを待つ様子で、沈黙した。

(そうだな)と、もう一人が応えた。

カーイは、必死になって、目を上げようとしたが、何とか捕らえることが出来たのは、カーイを悠然と見下ろす彼らの胸の辺りまでだった。それでも、彼らが何者なのかは、もう明らかだった。

片割れの言うことを吟味するかのようにしばし言葉を切った、その男の眼差しが、自分にひたと注がれていることを感じ、カーイは心底怯えた。

だが、次いで、男の口から出たのは、予期していたものとは違っていた。

(いや…それはよそう。何事にも、潮時というものがある。終わらせるのにふさわしい時というものがね。それに、彼にはまだ、この世で続けなければならない別のゲームがあるようだ。それは、私達との間で繰り広げられた戦い以上に、彼にとって苦しいものになるだろう。いずれにせよ、私達にはもう関係のない話だが…)

気の遠くなる思いで、それを聞いていたカーイの耳に、男の低い含み笑いが響いた。伸ばした手で、傍らに立つもう一人から吸いかけのタバコを取り上げ、満ち足りた様子で深く吸った。

(さあ、行くぞ)

カーイは半ば意識を手放しながら、次第に暗くなっていく視界の中、男の手から落とされたタバコのオレンジ色の小さな火を見ていた。

(ゲーム・オーバー…)

男たちのどちらかが、あるいは、二人ともが漏らした囁きが、目の前で消えていく煙草の白い煙のように立ち昇り、空中を漂い、消えていく…。

それと共に、周囲を取り巻く全てが遠ざかっていき、カーイは、ついに力尽きて、目を閉じた。

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