愛死‐LOVE DEATH

第十七章 間奏曲


スーパーの袋から、買って来たばかりのオレンジジュースのパックを取り出し、カーイは、グラスに注いだ。濃縮還元の薄めて飲むものではなくて、百パーセントフレッシュのジュースだ。こちらの方が、ビタミンも豊富そうだし、何となく人間の体にはいい気がする。

そうしながら、キッチンの窓から、随分暗くなってきた外を眺めやった。激しい雨が、ガラスに叩きつけるように、降っている。

屋根裏にジュースを持っていくと、スルヤは、ベッドの中で丸まったまま、テレビの音声にぼんやりと耳を傾けていた。

「テレビなんか見ると、疲れるんじゃないですか?」

「うん…でも、一人ぽっちで、雨の音を聞いていると、何だか気分が落ちこむんだもの」

まだ下がりきっていない熱のせいか、潤んだ目をして、スルヤは気だるげに答えた。カーイが、ジュースを差し出すと、起き上がって、よほど喉が乾いていたのか、おいしそうにごくごくと飲み干した。その様子に、カーイは、ほっと胸を撫で下ろしていた。

「調子がよくならないなら、夕方にもう一度病院に連れて行こうかと思っていたんですが…その分だと、大丈夫そうですね?」

「うん…そう思う。ちょっとふらふらするけれど、気持ち悪いのも、随分楽になったし、大丈夫だと思うよ。ごめんね、心配させて」

カーイは、手を伸ばして、スルヤの額の上に乗せた。その冷たい感触が気持ちいいのか、スルヤは、うっとりと目を細める。

「外は、寒かった?」

「ええ、とても」

テレビは、気象についての最新の情報を流している。

「ここは、まるで別世界のようですね。温かくて、快適で。帰ってきて、ほっとしますよ」

スカンジナビア半島から伸びる前線の活動が活発化しているため、今夜遅くから明日の朝にかけて、ロンドン一帯でも、雪と強風(ゲイル)に対する警戒が必要とされるでしょう。

「本当に、ずっと、ここにいたいと思いますよ」

カーイは、薄暗い部屋の中、ゆっくりと視線を動かした。ほっとすると言いながら、その様子は、どこかおちつかなげで、じっと神経を集中させて、何かの訪れを待ちうけているかのようだった。嵐の到来を、ひたすら待ちうけているかのようだった。

「俺、スティーブンに連絡しないと…」

ぽつりとスルヤがもらすのに、カーイは、我に返った。

「昨日のこと、自分でも変だ思うくらい、よく覚えてないんだけれど…カーイが言ったように、気持ち悪くなって、倒れたなら、スティーブンに電話して、迷惑かけたことを謝らないと…」

「でも、何度か電話したけれど、彼は、家にはいなかったんでしょう?」

内心動揺しながら、カーイは、用心深く、スルヤの様子をうかがった。幸い、スルヤは、昨夜自分の周囲で起こった、あの凄まじい戦闘のことは覚えていなかった。漠然と物音は聞いていたようだが、強い麻酔薬の作用と、熱のせいで、夢の中であったこととしか認識していない。それでも、突然意識を失い、次に気がついたのが、この家で、それも随分時間が経っていたことについては、不自然さを覚えて、不安がっている。

「スティーブンに連絡するのは、ちゃんと熱が引いてからでもいいでしょう?そのうち向こうから電話がかかってくるかもしれないし」

まだ納得しきれていないスルヤをあやすようになだめながら、カーイは、布団を胸まで引き上げて、その心細げな顔を覗き込んだ。

「何か、食べられそうなものを作ってきますね。スープくらいなら、おなかに入るでしょう?しばらく、待っていてくださいね」

こくりと頷く恋人の頬に、軽くキスをして、カーイは、再びキッチンに下りていった。

野菜とミルクたっぷりのスープと半熟のゆで卵くらいなら、スルヤも食べられるだろう。そう思って、準備に取りかかりながらも、カーイの心は、半ばここにあらずだった。いつも通りの穏かな暮らしに戻ったふりをしているだけで、決して、そうではない、すぐ間近にまで迫っている嵐の気配に、耳をそばだてていた。

できあがった食事をスルヤのもとに運び、優しい愛情のこもった言葉をかけながら、彼が食べ終わるまで見守る間も、カーイは、心の片隅で、別のことを考えていた。

そんな恋人の姿を、スルヤは、時々、不安にかられたように大きく目を見開いて眺めていた。彼にも、近づいてくる嵐の予感はあったのだろうか。

そうして、食事の片付けが丁度終わった頃、突然、電話が鳴った。カーイは、一瞬、震えあがり、その場に凍りついたように立ち尽くしたまま、鳴りつづける電話の方を眺めていたが、やがて、意を決して応対に出た。

「はい?」

電話の向こうには、あの威圧的な沈黙が待ちうけているのではないかと身構えていたのだが、少し違った。

(私だ)

背筋に、冷たいものが走った。

「クリスター・オルソン」

声をひそめ、カーイは、その名を呼んだ。心臓の鼓動が、急に速くなるのを意識した。来るべきものが来たのだと、思っていた。

二人は、共に沈黙した。そうして、受話器に耳を押しあてたまま、姿の見えない相手の様子を推し量ろうと、向こう側に聞こえる微かな息遣いや物音に耳を傾けているのだった。

最初に、この沈黙に焦れて、耐えられなくなったのは、カーイだった。

「この上、まだ、私につきまとうつもりですか、クリスター?」

(私がそうするだろうということは、君も知っていたのではないかな)と、クリスターは、返した。

(私達のゲームは、まだ終わってはいない。終わらせるまで、私は、君をずっと追いつづけるだろう。何故とは、聞かなくても分かるね?君は、私の弟を殺した)

カーイは、心を静めようと、肩をゆっくりと上下させるように息をついた。レイフの体を貫いた手を、体の脇できつく握り締めた。

「私を追いかけて、それで、どうしようというのです?あなたには、私を殺すことはできない。無駄なことは、おやめなさい、クリスター。私も、もうこれ以上、無益な戦いをすることも、血を流すことも、したくはない」

(君が本当に滅びない体なのか、それは、まだ分からないよ、カーイ。この世にあるものは、いつかは滅びる。君だって、ちゃんと肉体を供えた存在として、生きている限りは、終わりは必ず訪れる)

ふいにカーイの胸に、激しい不安がさしこんだ。不死であるヴァンパイアとしての終わり方を考え、レギオンやブリジット、その他の、時の流れの中に何時の間にか飲みこまれて消えていった仲間達の行方に、自らの未来を重ね、怯えた。

「私は、不死です」と、自らの不安を押しのけようとするかのごとく、固い声で、カーイは、言った。

「少なくとも、あなたの手で滅びたりなどしない」

一瞬外で突風が吹いたようだ。庭の方で、植木鉢か何かが転がったらしい大きな音がするのに、カーイは、一瞬、はっとなってそちらに視線を走らせたが、すぐに電話の方に意識を戻した。

「追いかけたいというのならば、勝手にすればいい。私が、その気になって、姿を隠せば、あなたにはきっと探しようもないでしょう。運よく探し当てても、あなたが追いつく前に、私は風となって再びどこかへと消えている」

(あの坊やは、どうするつもりなのかな?)

痛いところを突かれて、カーイは、顔をしかめた。

「スルヤも…そうなれば、もちろん連れていきますよ。あの人一人を守りながら逃げることくらい、造作もないことです」

そんなことになれば、スルヤの生活をめちゃくちゃにしてしまう、それ以前に、彼に全てを説明して納得させなければならない。そのことを考えると、カーイの頭の中は混乱しだし、揺るがぬはずの自信もぐらついてきた。第一、そんな逃避行もいつまで続くものか、カーイの飢えが耐えられなくなる程強まるまで、とのくらいの時間が残されているのだろう。

(それは、随分大変なことだね、カーイ)と、どことなく嘲笑うようなクリスターの声が言った。カーイの動揺ぶりを見透かされているような気がして、この声を聞いているだけで、何だか居心地が悪かった。

こんな厄介な男がカーイを追いかけてくる。復讐に燃え狂ったハンター、カーイにとってのヴァン・ヘルシングとして。全く、考えるだに、ぞっとしなかった。

「いずれにせよ、クリスター、あなたが私を捕まえる方法などないということです」

突き離すようにそう言って、カーイは、相手の応えを待った。クリスターが、答えるまで、少しの間があった。

(カーイ、君は、パリの街が好きだそうだね?)

唐突に、こんな全く脈絡のないことを問われて、カーイは、面食らった。

「それが、今、私達の話に、何の関係があるんです?」

苛立ちをこめて問い返すカーイに、クリスターは、まるで世間話でもするかのような穏かさで、続けた。

(想像したまえ)

カーイは、何故か、おとなしく口をつぐんで、クリスターの言うことに耳を傾けた。そうさせるだけの得体の知れない力、ある種の恫喝めいた迫力が、その決して強くはない声音には秘められていた。

(君の知っているパリの街の平和な昼下がりの光景を。道行く人々、大勢の客で混み合っているどこかのカフェ…だが、ありふれた日常は一瞬のうちに、血みどろの地獄へと変わる。例えば、カフェの中に置き忘れられた荷物であったり、路上に駐車していた無人の車、あるいは電話ボックス、それが突然爆発するんだ。近くにいた大勢が巻きこまれて負傷し、運の悪い何人かは命を落とすだろう。何の予告もなく、いきなり起こったテロに人々はパニックに陥り、恐怖し、嘆く。現場検証が始まった頃、警察に、こんな奇妙な犯行声明が送られてくるかもしれない。「カーイ・リンデブルック、君に捧げる」とね)

庭の方で、また激しい物音がした。カーイは、今度は身じろぎもしなかった。その場に、じっと凍りついたまま、しばし、息をすることすら忘れ、呆然と目を見開いていた。

「な…に…何を言っているんです?」

やっとの思いで、そう答えた。頭の中が真っ白になって、言われた言葉を飲み込むのに、時間がかかった。

「爆破テロ…って…?待ちなさい、まさか、本気でそんなことを言っている訳じゃないでしょうね?」

相手の真意を疑い、たちの悪い冗談だと笑い飛ばそうとしたが、受話器の向こうの冷え冷えとした沈黙が、カーイの期待を裏切っていた。

カーイは、口篭もった。そうして、しばし、じっと考えを巡らせた後、ためらいがちに、相手に確認するように、問うてみた。

「私が隠れ潜んだなら、そうやって、私にゆかりのある場所で無関係の人が死んでいくことになるという…それは脅迫ですか…?私の名前のもとになされる無差別殺人に、私が耐えられなくなるまで、続けると…?」

(気になるのかな?人間ではない君、人間を餌食にして生きているヴァンパイアが、見知らぬ人々の命の心配までするとはね)

意外そうにつぶやくクリスターに、カーイは、一瞬かっとなりかけたが、ここで感情をさらけ出しては相手の思うつぼになってしまうと、己を抑えこんだ。

カーイが、沈黙すると、クリスターもまた黙りこんだ。相手の顔が見えないということが、こんなにも不安を狩りたてるものだとは。一体、クリスターは、今どんな顔をしているのだろう。こんな、常軌を逸した話でカーイを脅迫するなんて。果たして本気で言っているのだろうか。

「そんなことをしたら、あなただって、ただではすまないでしょう。あなたの方こそ、大量殺人者として追われることになる」

(今でも、充分大量殺人者だよ。民間人は巻きこまないことが、私のプロとしての信条だったが…たがが外れてしまったのかな、今は、もう何も感じないんだ)

カーイはぞっと寒気を覚えて、身を震わせた。こんな、いかれた男だったろうか。あの戦い全体の見事な指揮ぶりや一度対峙した時の強烈な印象からは、もっと理性的で怜悧で、決してこんな無茶や理不尽を押しとおすようには思えなかった。たがが外れたというのは、まさしくその通りだった。そして、クリスターをそんなふうに変えたのは、他ならぬカーイなのだ。

「とても正気とは思えない…クリスター、あなたは、狂っている…」

放心して、うめくようにそう言うカーイの耳を、クリスターの低い含み笑いが打った。

(そうかもしれないね。だが、それが何だ?)

カーイは、募ってきた不安に、瞳を揺らせた。あまりにも途方がなくて、実感のない話だったが、もし、本当にカーイの名のもとにそんな無差別殺人などが起こったら、さぞかし、寝覚めの悪いことだろう。カーイは、博愛主義ではなかったし、むしろ生きる為に人間を殺す捕食者だったが、この危険極まりない男が起こすかもしれない惨事を、自分のせいではない、関係ないと知らぬ顔をして割りきれる程、結局、非情ではなかったということだ。

「では、本気だというんですね?」

かすれた声でそうつぶやくと、クリスターは、カーイの動揺ぶりを味わいながら、揶揄するような口調で返した。

(いや、そんなことはたぶん起きはしないと、私は思っているよ。君自身が、そう望まぬかぎりはね、カーイ)

カーイは、唇を噛み締めた。罠に追いこまれたと感じていた。逃げようと思えば、今でもまだ逃げることはできるのだが、自分がそうするとは思えなかった。クリスターも、その点を心得ているようだ。どうすれば、カーイが、彼の思うとおりに動くのかを見極めて、先手先手を打って、巧みに誘導してくる。悔しいことだが、心理戦については、クリスターの方が、一枚上手だった。

その後は、クリスターの言うことを一方的にカーイが聞くこととなった。クリスターは、カーイに、コックス会長の邸宅の場所を教え、そこに来るよう告げた。これ以上の戦いについては尻ごみをしていたカーイも、ついに覚悟を決めて、そこで決着をつけることにした。クリスターを生かしておくのは危険過ぎた。そして、もう一人、カーイの不死性の秘密を手に入れるために傭兵達を雇いこの作戦を指示したメアリー・E・コックス、彼女の命も奪わなければならない。彼女がいなくなれば、この無謀な捕獲作戦は自然消滅するだろう。戦うことにはうんざりしていたが、これだけは、必要な殺しとして、行なわざるをえない。

伝えるべきことを伝え、クリスターが電話を切ろうとした時、カーイは、一瞬ためらった後、彼を止めた。

「一つ、聞きたいんですが、スティーブンは…彼は、まだあなた方と一緒にいるのですか?」

別にスティーブンの安否にまでカーイに責任があるわけではなかったが、敵かと思えば、カーイを助けるような行動を取ったりする彼には、カーイも複雑な思いを抱いていたので、スルヤの救出の折りに置き去りにした、その後、彼がどうなったか、多少なりとも気になっていたのだ。

(彼の身柄はこちらで預かっているよ)と、クリスターは、カーイの関心が意外であったかのように、答えた。

(君が、スティーブンのことまで気にかけるとは思わなかったが、ここに来れば、きっと会えるだろう。別に人質にしようなどとは考えていないから、安心したまえ。君は、あの坊やと違って、それほど彼に執着しているわけではないだろうからね)

自宅に何度も連絡をいれても出なかったのは、やはり、コックス会長邸にいたからか。拘束されているのかもしれない。彼らがカーイの捕獲に失敗したのは、スティーブンの裏切りが、一つの原因だった。

電話の受話器を戻し、しばしの間、カーイは、途方に暮れたように、その場に立ち尽くした。

また、戦いだ。気は進まなかったが、こうなっては仕方がない。この戦いの幕引きができるのはカーイだけなのだから、自分に鞭打ってでも、行くしかない。

背中に強い視線を感じ、ゆっくりと振り返ると、階段から降りてきた、パジャマ姿のスルヤが立っていた。一体、いつからそこにいたのだろう。クリスターとの会話の大方が聞かれてしまったということはない、聞かれたとしても最後の方だと思うが、緊迫した雰囲気は充分察したらしい。恋人が、何か重大なトラブルに巻き込まれているとでも思って、心配している。

「カーイ、今の電話、誰から…?」

真っ黒な大きな瞳には、不安が溢れている。カーイは、無言のまま、スルヤのもとに近づき、その体に腕を回して抱きしめた。熱い。まだ熱がある。できれば、一人きりになどしたくはない。離れたくない。

「今から、ちょっと出かけてきます」と、不安がる必要は何もないのだというかのような、優しい、落ちついた声音で、スルヤの耳に囁いた。スルヤの体が微かに震えた。優しい言葉の裏に隠された慄きを敏感に感じ取っているのだろうか。

「帰りは遅くなるかもしれませんから、先に休んでいてください。心配しないで。必ず帰ってきますから…」

いつもは素直なスルヤも、この時は、何かおかしいと感じたのか、さすがに逆らった。カーイの腕から身を引いて、その顔を覗き込むと、言葉以上に雄弁な澄んだ瞳で彼を見つめ、駄目だというようにかぶりを振った。

「ずっとここにいたいって言ったじゃない」

カーイの腕をつかんで、切々とかき口説いた。

「外は寒いし、嵐になるっていうし…今から出かけるなんて、駄目だよ、帰れなくなっちゃうよ」

しかし、カーイは、そんなスルヤの眼差しを避けるようにうつむいた。

「そういう訳にはいかないんです。スルヤ、これは…何というのか、私の責任みたいなもので、放り出して知らないふりをしたら、後できっともっと嫌な思いをする、そんなことなんです。だからといって、別にそれほど難しいトラブルという訳ではないんですよ。第一、あなたには、何の関係もないことなんです。だから、今は黙って行かせてくれませんか、スルヤ」

「お願いだよ、カーイ、ここにいてっ」

こんなふうに強情に、スルヤがカーイに何かを訴えるのは珍しいことだった。まるで、この手を離したら、そのまま、カーイとは二度と会えないのではないかと恐れているかのように、カーイの腕をしっかりとつかんで、離そうとはしない。

スルヤには、尋ねたいことがたくさんあっただろう。一体、あの電話の主は誰だったのか、何のために、どこに出かけようというのか。どうして、そんな追いつめられ、途方に暮れたような様子をして、それでも、行かなければならないなどと言うのか。

それでも、スルヤは、その思いを言葉には出さなかった。カーイが聞いてほしくないことを尋ねてはいけない。彼との短い生活の中で、スルヤは、敏感にそのことを感じ取っていた。他人に明かすわけにはいかない秘密をスルヤが穿り出そうとすれば、カーイは、もうスルヤと一緒にはいられなくなるだろう。だから、カーイが、心を開いて自ら話そうという気持ちになるまではと、聞きたい思いを懸命に押さえていた。

「お願いだよ」

泣きそうな震えを帯びるその声を聞くのは、カーイには耐えがたかった。かわいいスルヤ、無邪気で優しい恋人。何もかも打ち明けてしまいたい。もう、嘘はうんざりだ。こんなに辛い思いをしてまで演じることなど、やめてしまいたい。

その時、よみがえった苦い記憶が、カーイを我に返らせた。

(馬鹿げている…そんなこと、できるはずがない)

何ということだろう。昔、血を吸う者として永遠に人生を演じながら生きていくことに疲れ果て、打ちひしがれ、同じことを叫んで助けを求めたレギオンを無情にもはねつけたカーイが、同じ想いに今心を揺らせている。いつの間に、こんなにカーイは弱くなったのだろう。

カーイは、スルヤの肩に手を置き、その体をそっと押し戻した。スルヤの顔が、さっと紅潮し、失望と哀しみが浮びあがるのに、カーイの胸は痛んだが、かろうじて自分を抑えこんだ。

「信じて下さい。私は、必ずあなたのもとに戻ってきます」

信じるに足るだけの真実を伝えもせずに、信じろなどと言う。分かっている。これは、とても卑怯なこと。スルヤの傷ついた顔を見なくても、分かっている。

カーイは、自らを意識して引き離すように、スルヤに背中を向け、車のキーとコートを取り上げると、逃げるように、家を出ていった。しかし、それでも、スルヤの切なげな顔は、ずっとカーイの脳裏にちらついて、離れようとはせず、彼を責めつづけた。

(あなたを裏切りつづけることが、こんなに辛くなるなんて…)

カーイは、苦笑しつつ、車を発進させた。みぞれ混じりの雨が、行く手を遮るかのようにフロントガラスにふきつけてくる。

こんな不安定な精神状態でいてはならない。カーイは、これから、戦いに行くのだ。顔を引き締めると、自らを奮い立たせるかのごとく、ガラスの向こうに広がる闇をきつい目で睨みすえた。


一体、何時の間に、こんなにも私は弱くなったのだろう。




クリスターは、受話器を戻すと、そちらにゆっくりと椅子ごと体を向けた。

そこには、怒りに顔を赤らめたパリーが待ち受けていた。病院で治療を受けているとばかり思っていた、というよりも、彼のことなどほとんど忘れていたクリスターは、思いがけないものを見たかのごとく、まばたきをした。

「今度は、何を企んでいるつもりだ、クリスター?」

包帯に包まれた右手を大事そうにもう一方の手で抱え、パリーは、激しい憎悪に血走った目で、彼ら以外には誰もいない、このがらんとした警備室で、ゆったりと椅子に腰をかけているクリスターをねめつけた。彼の右手は、ここでは治療不可能ということで、外部の病院で緊急手術を受けたのだが、念の為に入院治療を進める医師の言葉もきかず、ここに舞い戻ってきたのだった。それは、ひたすらに、こんな仕打ちを自分にしたクリスターに対する、我を忘れるほどの憎しみの為だった。

「奴を挑発して、ここに呼び出すなんて、正気か?ここには、コックス会長もいるんだぞ!会長の命を危険にさらす気か?!」

本当は、パリー自身、もはやそれほどコックス会長に忠誠を感じているわけでもなく、ただクリスターの行動には何であれ批判をせずにはおられないということだった。この男達が現れてから、パリーの運命はおかしくなってしまったのだ。こんなはずではなかった。研究者としての将来を約束してくれるはずの発見をして、これから、パリーの前には洋々たる未来が開けてくるはずだったのに、肝心の発見を手に入れることはできず、パリー自身は、こんな人でなしの野蛮人に馬鹿にされ、恥をかかされたあげく、銃で撃たれて利き手に重傷を追うはめに陥ってしまった。すべては、この男のせいだ。絶対に、許せない。

ここにいたって、これまでの恨みつらみをパリーは一気にぶちまけて、クリスターを攻撃した。

「いいか、クリスター、私は決しておまえを許さんからな。今までは会長が重用しているからと見逃していたが、その会長だって、いつまでもおまえを守ってはくれないんだ。会長が死んだら、おまえを擁護してくれる者は誰もいない。いいか、私の手をこんなことにしてくれた償いはしてもらうからな。そうとも、おまえを訴えてやるっ!」

無事な方の左手の指をクリスターにつきつけて、宣言するパリーを、クリスターは、不思議なものを見るかのような目つきで眺めていたが、微かな笑いをもらすと、興味なげに目を伏せた。パリーの言葉は、今のクリスターにとって、何の意味も力も持たなかった。それを全く理解していない、この男が滑稽でならなかった。

「何がおかしい!」

クリスター無関心さとその冷笑がパリーを激昂させた。馬鹿にされたと思った。

「本気にしていないな。だが、この国の法は、おまえの無法な行為を容認するほど甘くはないんだ。いいか、必ず、おまえを監獄にぶち込んでやるし、こんな傷を負わされたことには、相応の慰謝料を払ってもらうからな」

パリーは本気でクリスターを脅したつもりだったが、自分の言葉が相手に何ら反応らしい反応を呼び起こさないことに気づくと、急に不安になったかのように、一瞬言葉を切った。何かが、おかしかった。しかし、それが、一体何であるのか、あまりにも憎しみに心を捕らわれていた為、悟ることはできなかった。

「レイフが、死んだそうだな」と、この憎い敵のうちに、少しでも感情の発露を呼び起こすため、パリーは、容赦しなかった。

「あれだけの装備をかけて自信満々とりかかった作戦だったのに、残念なことだったな、クリスター。結果は、惨憺たるもので、おまけに相棒の弟まで死なせたんだ。しかし、おまえらの場合は、自業自得というやつだから、同情はしないぞ。今まで、散々、戦争という建前のもとに大量殺人を行なってきた、そのつけが回ってきたのだろうさ。なあ、レイフは、苦しんだのか?」

クリスターは、それでも、無表情のままだった。だが、半ば閉じかけていた目を再び開けて、パリーをじっと見ていた。

「君は、どうして、そこまで私を憎むのかな?」

どうでもよさそうに、クリスターは、ぼんやりと問いかけた。パリーは、ぐっと言葉につまり、答える代わりに、恥辱を受けた人のように頬を染め、火を噴きそうなすごい目で彼を睨みつけた。人殺しのごろつきのくせに、パリーを笑い者にしたクリスターに対する強烈な憎しみの前に、彼の理性は完全に屈していた。パリーが、他の傭兵達の誰よりも、レイフよりも、クリスターを憎んだのは、実はその劣等感ゆえだった。この男には太刀打ちできないという思いからだった。優位に立とうとして、ことごとく失敗し、とても敵わないということを思い知らされたからだ。クリスターの全てが嫌いだった。コックス会長の絶対の信頼を勝ち取り、ならず者の傭兵達を従え見事に統率する、その能力も才覚も、男としての肉体的な力も美しさも、時にパリーが鼻白むほどの研ぎ澄まされた知性も、何もかもが、彼を嘲笑う為にそこにあるようにしか思えなかった。 

「そんなことは、どうでもいい!」

かっとなって、パリーは怒鳴った。

「そうとも、そんなことより…そうだ、おまえが今ヴァンパイアと話していたことは会長に報告するからな。これは、社と会長に対する裏切りだぞ、クリスター、分かっているのか?」

クリスターは、答える気にもならずに、パリーのよく動く口をただ眺めていた。その言葉は、彼にとって、意味のない、壊れた楽器から出る不協和音に過ぎなかったが、それにしても、少々うるさすぎた。彼の頭の中でガンガン響いて、不快な気分にさせた。全く、早く鳴り止んでくれないものだろうか。

(うるさいな)と、クリスターのよく知る、別の声が、その頭の中で囁いた。

(ああ、ったく、やかましいったら、ありゃしない。なあ、もう我慢することなんてないんだぜ、兄さん。そうさ、殺しちまえよ)

クリスターの思いをすぐに汲み取り、言葉にするよりも先に言ってしまう、弟のおかげで、何時の間にか彼は随分と無口になっていた。その心地よさに慣れてしまっていた。なくしてしまった今、つくづくとそのことを実感する。クリスターは、唇を僅かにほころばせ、かろく頷いた。

ああ、そうだな。

クリスターは、椅子の背に預けていた体を、前に屈めた。そうして、右手を脚にそってなめらかに滑りおろすと、そこに装着していたナイフに触れた。使いなれた大型ナイフの柄は、初めからそこにあったものであるかのごとく、彼の手の内にしっくりとおさまった。

パリーは、まだしゃべりつづけている。もし、彼が、さり気なく身を屈めたクリスターの手が触れているものを見てとることができたなら、クリスターの瞳に漂う凍てついた闇を斟酌することができたなら。だが、彼の理性心は、怒りと憎しみに流されて、その口から溢れ出してくる呪いの言葉は、もはや、止めようにも止まらなかった。

びゅんと、何かが鋭く空を切る音をパリーは聞いた。次の瞬間、クリスターの手から走った一筋の光、まっすぐに投げられたナイフが、大きく開けられたパリーの口の中に深々と突き刺さり、後頭部までも貫いた。パリーの声は、途切れた。

パリーの瞳が、大きくなり、椅子の上にゆったりと腰をかけたまま、振り上げた手を緩やかに下ろしていくクリスターを映した。

パリーは喉に詰まるような恐ろしい音をたて、その体を大きく痙攣させたたかと思うと、傍にあった椅子を倒すように、床に倒れこんだ。そして、それきり、動かなくなった。

その様子を、冷え冷えとした、うつろな表情で見届け、クリスターは、ほうっと疲れたように息をついた。

これで、やっと静かになった。ふと耳を澄ますと、外で吹き荒れる風の音が、急にはっきりと聞こえてきた。低く、唸るようなその音は、何者かのたてる叫び、彼方の世界からの不気味な呼び声のようにも響いた。

クリスターは、椅子から立ちあがり、床の上で死んでいるパリーの口からナイフを抜き取ると、その服の端で血をふき取って脚のベルトにおさめ、部屋を後にした。

そのまま、屋敷の外に出ると、たちまち、強風がクリスターに向かって吹きつけてきた。風には、白いものが混じっている。日が沈み、急激に下がってきた気温に、予報通り、雨は吹雪にかわりつつあった。

クリスターは、背中を扉に押しつけるようにして立ったまま、しばし、吹き寄せてくる白い風を凝然と見ていた。

夜の訪れと共に、やがて、彼がここにやってくる。

クリスターは、ふいに大きく身を震わせた。急に、まざまざとそのことを意識したかのように。  

(恐いのだろうか?)

クリスターの顔に、彼らしくもない、心もとなげな表情が漂った。この夜が、光を吸収するように、彼の中の恐怖も吸い取ってくれることを祈るかのごとく、闇の中をひたと見据えた。

その時、また風にまじって、何か別の音が聞こえたような気がした。

クリスターの目がすっと動き、闇と降りしきる雪の中に半ばとけこんだ小さな礼拝堂を木立の向こうに見つけた。

クリスターは、雪の中を、そちらに向けて歩き出した。かつてここに住んでいた一族のものだった礼拝堂は、近年ではほとんど使われることはなかったが、昨夜のミッションで命を落とした犠牲者のために、仮の安置所として、今は用いられていた。コックス会長は、例え金でかき集められた傭兵でも、死者を丁寧に扱った。遺体も、それぞれの家族の元に送られるという。これが戦場なら、そのまま置き去りにされて当然、私物は全て処分されて、簡単な死亡通知書だけが、家族の元に届けられて、それで終わりだ。それに比べれば、幸運な死に方なのかもしれない。

クリスターが礼拝堂の黒っぽく変色した樫製の扉に手を置いて押すと、低いきしんだ音をたてて、それは開かれた。

礼拝堂の中は、真っ暗だ。クリスターは、記憶をたどって、手を壁にはわせ、スイッチを見つけると、灯りをつけた。

外から見るよりも、礼拝堂の内部は、ずっと広々としていた。豪奢な装飾はなく、数枚の絵画が重い緞帳の陰の暗い壁に忘れ去られたかのように残っているくらいで、窓にはめこまれた赤や青や黄のステンドグラスには蜘蛛の巣がかかっていたが、床は綺麗に掃かれ、そうして、中央通路の向こう、聖体拝領台の前には、急ごしらえの安置台が三つ並べられていた。

クリスターは、その場で凍りついたように立ちつくし、大きく息を吸いこんだ。それから、無言のまま中央通路を奥へと進んでいった。

そうして、真ん中にある、台の一つの前で立ち止まった。真っ白なシーツが上からかけられている。それを、クリスターはしばしじっと見下ろし、そして、ふいに手を伸ばしてシーツの端をつかむと、一気に引き剥がした。布は、床の下に全て落ち、白い塊となってわだかまった。

レイフが、そこにいた。お馴染みの黒い戦闘服にブーツを身に付け、長身の体を幾分窮屈そうに台の上に横たえて、その顔は、さすがにもう死者のものになっていたが、生前の面影はまだ残されていた。

クリスターは、魅せられたかのように、じっとその場に立ち尽くした。

(兄さんが戦うことを恐がるなんて、信じられないな)

またも、あの声が、戻ってきた。クリスターは俯き、指先で、こめかみの辺りを軽く押さえた。これほど、自分の想像力が豊かだったとは思ってもみなかった。それとも、本当に、頭がおかしくなりかけているのかもしれない。

「おまえなしで、一人で戦わなければならないんだ。恐くなっても、仕方がないだろう…?」

そう返す自らに、自嘲する。信じるな。これは、夢だ。

(オレなしでって、どういうことだよ?)

クリスターは、顔を上げ、そこで、息を飲んだ。クリスターと同じ琥珀色の瞳が、からかうような表情をうかべて、彼を見返していた。台の上で起き上がって、行儀悪く足を投げ出し、頭を一方に倒して、生きていた時と同じ姿のレイフがそこにいた。

(オレは、いつだってクリスターと一緒の所にいるんだぜ。ほら、感じるだろう?)と、呆然としているクリスターの胸に向かって、指を突き出した。

(ここに、さ)

軽く片目をつぶって見せるレイフの顔を、クリスターは、食い入るように見ていた。夢だと、分かっているのに。

突然強く吹いた風に、窓ががたんと激しい音をたてて、揺れた。クリスター、はっとなってそちらを振りかえった。それから、もう一度、安置台の方に視線を戻した。そして、そこには、やはり、彼の死んだ弟が冷たい体を静かに横たえているのだった。

クリスターは、打たれたように、後ろに数歩よろめき下がった。肩で荒い息をつき、震える手で、顔の半分を覆った。唇を噛み締めた。

手の陰で、彼の顔は、苦しげに歪んでいた。さながら、生きながら二つに引き裂かれようとしているかのようだったが、彼の中で煮えたぎっている魂が、それを許さなかった。

(おまえの死が、レイフ、私に思い出させる。私がすべきこと、おまえや多くの戦友達と同じ死者の群れに加わるより先に、やりとげなければならないことを、思い出させてくれる)

クリスターは、静けさを取り戻した顔で、レイフの傍に再び立った。自分の死体を見ているようだった。レイフらしい生き生きとした表情は消え、激しい光を放った瞳はかたく閉ざされ、そうなると、彼らを区別できるものは、唯一、その髪の長さくらいだった。

クリスターは、手を上げて、後ろで束ねられている己の長い髪に触れ、ほどいた。それから、おもむろに脚のベルトからナイフを抜き取って、つかんだ髪の一房にあてた。切れ味のいいナイフが、左右に動く度に、切り離された真紅の髪が落ち、血溜まりのように、彼の足下でつもっていく。

(オレは、いつだってクリスターと一緒の所にいるんだぜ) 

その作業が終わると、死者の姿をそっくり映しとったもう一つの姿が、礼拝堂の薄明かりの下に立っていた。同じ顔、同じ髪、同じ黒い戦闘服、死んだレイフが、よみがえったかのようだった。

クリスターは、最後にもう一度、台の上で眠る者を見つめた。己の胸の上に手を置いた。力強く打っている心臓の鼓動が感じられる。

(レイフ)

そう、まだ生きている。ここで、クリスターの中で。

クリスターの唇に、自然と、笑いがうかんだ。

(さあ、行こうか)

クリスターは、踵を返した。

礼拝堂の扉を閉ざし、もはや、一度も後を振りかえりはせず、目の前に広がる白い闇の中に臆することなく飛び込んでいった。


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