愛死‐LOVE DEATH

第十七章 間奏曲


レイフの部屋で、残された彼の荷物を整理していた時、クリスターは、机の引出しの中に一枚の写真を見つけた。

いつも必要最低限のものしか持たない傭兵らしく、机の中もがらんとしていて、ただその写真だけが置き忘れられていたかのように残されていた。数日前に、レイフがスティーブンに頼んで、撮ってもらったものだ。屋敷の大きな居間のソファにクリスターと一緒に坐って寛いでいる所を撮影したのだが、なかなかよく撮れている。写真の中で屈託なく笑っているレイフの顔に、クリスターはそっと指を滑らせた。この写真をどうしようか。レイフは、クリスターの手紙と一緒に母親に送るのだと言っていたが、彼の手紙はまだ書かれてはいない。写真を裏返してみたが、レイフ自身も、いつもそこに短く走り書きしている、母親あての素朴な愛情のこもったメッセージは残してはいなかった。

「私は、いつもおまえのやりのこしたことの後始末をしてきたような気がするよ、レイフ」

クリスターは、もう一度、その写真をつくづくと眺めた。レイフは、クリスターの傍らで、彼にじゃれつくようにもたれかかりながら、あの無邪気な微笑みをうかべている。

クリスターは、ポケットからペンを取り出して、しばらく考えこんだ後、写真の裏にさらさらと何かを書いた。そうして、続き部屋になっている自分の寝室に移ると、机の中に、いずれ母親あての手紙を書くつもりで便箋と一緒に置いていた封筒を一枚取り出し、宛名を書いた後、写真のみをそこに入れて、封をした。




「クリスターさん」

クリスターが、部屋に入ってきたのに、暖炉の前で、レイフが助けた大きなレトリバー犬の背中を撫でてやっていたジェレミーは、慌てて居住まいを正して、立ちあがった。

「よかった、丁度探しに行こうと思っていたところだったんです」

ジェレミーが立ちあがると、気持ちよさそうに横になっていた犬も起き上がり、もっと構って欲しいと訴えるかのように若者の手に鼻先を押しつけた。その犬とジェレミーの様子に、クリスターは、目を僅かに細めた。

「私に、何か話があったのかい?」

昨夜の一件以来、クリスターは、何だか人が変わってしまったようで、とても、ジェレミーの話など聞いてくれそうにない近づきがたい雰囲気だったのだが、この時の彼は、以前のようにとまではいかなくとも、落ち着きを取り戻して、ジェレミーに大しても心を開いているように感じられた。

「ええ、実は、この戦いが終った後のことなんです。俺、父さんの死のことをあれからじっくりと考えてみて、そうして、決めました。戦いが終ったら、母さんの所に帰ろうと思うんです。だって、父さんがあんな死に方をして、その上息子の俺まで同じように亡くしたら、あんまり母さんがかわいそうだ。俺自身、恐くなった…のかもしれません。臆病者だと言われても仕方がないかもしれないけれど、父さんが、目の前で死ぬのを見てショックを受けて、傭兵に対する俺の考えは随分甘かったんだって自覚しました。ただ、この仕事だけは…乗りかけた船の途中で降りるわけにはいかないから、最後までやりとおします」

昨日はほとんど一睡もせずに、考えぬいたのだろう、ジェレミーの目の下にはうっすらとくまができていた。

クリスターは、若者の言葉を全て聞き終えると、半ば予想していたかのように、深く頷いた。

「君が、そう結論を下してくれて、よかったと思うよ、ジェレミー」と、クリスターが満足したように言うのに、ジェレミーは、びっくりして顔を上げた。

「ベンは傭兵として生き、そうして死んだ。だが、息子の君にまで同じ人生を送って欲しいと思っていたわけでは、決してない。ベンが、その死によって、君に同じ道を歩むことを思いとどまらせることができたのなら、彼の死も全く無駄ではなかったということだ。ここでの仕事が終わったら、すぐにでもお母さんの所に帰ってあげるといい。そうして、月並みな言い方だが、ベンの分まで長生きして、幸せになることだ。君が生き続け、そうして、ベンがどんなふうに生きて死んだのかを覚えていることが、彼と言う人間がこの世にいた証にもなるのだからね」

思いもかけないクリスターの優しい言葉に、ジェレミーは絶句し、それから、熱いものが再び込み上げてきたかのように顔を歪めた。

頭をうなだれ、肩を小刻みに震わせている若者の後ろで、レトリバー犬が、小さく鼻を鳴らした。

「あ…そうだ、この犬、レイフさんの犬ですよね?」と、思い出したかのように、ジェレミーは、真っ赤になった目を手の甲でこすりながら、言った。

「引き取り手を探しているんだって聞きました。クリスターさん、その…俺が、こいつをもらっても、構わないでしょうか?父さんを亡くした俺と、飼い主を亡くしたこいつと、何だか似ている気がするし、一人で母さんの所に帰るのも寂しいし…」

クリスターは、レイフがかわいがっていたその犬が、ぴったりとジェレミーに身を寄せている様子に、安堵したような表情をうかべた。

「そうしてもらえると助かるよ、ジェレミー」

身を屈め、手を伸ばして、レイフがやっていたように犬の頭を撫でてやりながら、クリスターは、言った。

「気になっていたんだ。レイフは欲しがっていたけれど、傭兵である私には、犬なんて飼えないから…」

「この戦いが終ったら、クリスターさんは…?」

どうするつもりなのかと聞きかけて、顔を上げたクリスターの目を覗き込んだジェレミーは、とっさに言葉を飲みこんだ。未来のことなど、今の彼にとって、どんな意味があるのだろうか。答えようのない問いを突きつけられたように、困った顔をするクリスターを前に、ジェレミーは、クリスターはもう以前の彼とは違ってしまったのだということを強烈に感じた。二つ揃うことで完成した見事な一対のうちの一つが永遠に失われた。クリスターにとって、一人でいることは、どんなにか不安で心もとないことだろう。生まれて初めて感じるこの不自由さ、不完全さに対するいらだちが、心をじわじわと蝕んでいく、崩壊の最初のきざしがその暗い目の奥に覗いたような気がして、ジェレミーは、ぞっとすると共に、泣きたいような気分になった。

「傷は…クリスターさん、その頬の怪我は、大丈夫なんですか?」

クリスターから、顔をそむけるようにして、ジェレミーは、わざと話題を変えた。

「ああ」と、クリスターは、言われて初めて気がついたというように、左頬を半ば覆っているガーゼに触れた。カーイによって切り裂かれた傷は、思ったよりも深く、屋敷の医療斑によって適切な処置は施されたが、治っても、傷跡は残るだろうと言われていた。

「ちゃんと縫合もしたし、別にどうということはないよ」

「でも、傷跡になるって…父さんみたいなごつい男が顔に怪我したって、何てことはないけれど、クリスターさんは、せっかく、そんな綺麗な顔をしているのに…えっ、な、何をするんです、駄目ですよ、まだちゃんと塞がってないのに」

慌ててジェレミーが止めようとするが、クリスターは、傷を覆っていたガーゼを無造作にむしりとってしまった。

「いいんだよ。別に必要ないし、邪魔だから」と、興味なげに他人事のようにそうつぶやく。また少し傷から出血していたが、痛みも何も感じていないようだった。

ジェレミーは、何となく、言うべき言葉を失ってしまって、黙りこんだ。クリスターの一見以前とそれほど変わらないように見える穏かさの裏に秘められたきしみ、静かに進行していく崩壊を前にかろうじて踏みとどまっている危うい均衡が恐くて、気づいていながら、何もできない自分が情けなくて、ただ立ち尽くしていた。

「そうだ、ジェレミー、君にこれを頼もうと思っていたんだ」と、ふいにクリスターはそう言って、ベストのポケットから真っ白な封筒を取り出した。

「たぶん、君は明日にはここを出て帰ることになるだろう。その時に、どこかで投函してもらいたいんだ。私は、ちょっとしばらくそれどころではなさそうだから。頼まれてくれるね?」 

「は、はい」と、言われるがまま、ジェレミーは、クリスターから封筒を受け取った。

「ヴァンパイアは、会長の命を狙って、本当にここまでやってくるんでしょうか?」

急に、強烈な不安が胸に迫ってきたかのように、ジェレミーは言った。 

「もし、来たとしたら、果たして、奴を止めることなんて、できるんでしょうか。バースは利き手をやられているし、俺達のうちで戦えるのは今は7人だけ、大勢警備員を雇い入れてはいるけれど、とても戦闘のプロって訳にはいかないし…どうやって、あいつと戦うつもりなんです、クリスターさん?」

「彼に勝つには、あのスピードを封じる方法を見つけることだ」と、クリスターは、視線をジェレミーの顔から外し、何もない虚空をさまよわせながら言った。

「レイフが、そう言っていた」

「レイフさんが…」 

また少ししんみりしてしまっだジェレミーの肩を、クリスターは、軽く叩いた。そうして、手紙の件について感謝の言葉を短く告げると、クンクン鳴いている犬の頭をもう一度撫で、そうして、部屋を出ていった。

ジェレミーは、その後ろ姿を黙って見送った後、託された手紙を見下ろして、その宛先を確認した。

「オルソン…?クリスターさんのお母さんだ」

何かしら、はっとしたように顔を上げ、クリスターが出ていった扉を、ジェレミーは見つめた。一瞬、クリスターの後を追いかけて確かめようかとも思ったが、どうしても動けなかった。ジェレミーはクリスターを崇拝していたが、そこまで立ち入ったことができるほど、彼はクリスターにとって近しい人間ではなかったし、それに、もう、クリスターは手の届かない別の世界に行ってしまったような気がしていたのだ。

生き残った仲間達も、彼の唯一の肉親である母親も、もう追いつくことのできない別な世界、そこにいるのは、彼と、彼の敵であるカーイだけ、捕食者同士が、どちらかが倒れるまで戦い殺しあう、凄惨な修羅の世界へと。

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