愛死‐LOVE DEATH

第十七章 間奏曲


クリスターが、己の戦士としての能力を、才覚を、疑ったことはこれまでなかった。

思い上がりではなく、実際に幾多の修羅場を切りぬけることで実力を示してきたからこその自信だった。

だが、いつまでも、このゲームに勝ちつづけることなどできないということも頭の片隅では理解していた。彼に倒された数多くの敵が、数多くの味方が死んでいったのと同じように、いつかは、彼自身も、死者達の群れに加わる時がくる。彼ほどの歴戦のつわものでさえ、時折、うなされる悪夢があった。血みどろの戦場で、無数の死体、その一つ一つが顔なじみの戦友のものである屍を乗り越えるようにして、さまよっている。恨みがましげな顔が、次はおまえもこうなるのだと訴えかけている。そんな夢に、夜中に飛び起きたことは、一度や二度ではなかった。そうして、いつ、その時がくるのだろうと、いきなり冷たい水を浴びせかれられて、戦いの熱にうかされた頭が一気に冷えてしまうような強烈な寒気を覚えながら、なす術もなく震えていた。

それでも、このゲームから降りようとしなかったのは、人でなしの傭兵なりのプロの誇りがあったからか、戦場以外に帰る場所などないということを痛切に悟っていたからか。運命という言葉は、安易過ぎて、使いたくはない。他の誰から強いられたわけでも、初めからそうなるよう定められていたわけでもなく、それは、クリスターが、そして、レイフが、自らの意思で選んだ生きざまだった。

だから、別に後悔している訳ではない。レイフが、クリスターを置いて、先に、多くの戦友達と同じ鬼籍に入ってしまった今でも、戦ったことそのものを悔いてはいない。

だが、片翼をなくして、ただ一人生き残ってしまった今、これまでと同じように戦い続けることはもはやできなかった。だからといって、投げ出すわけにもいかなかった。少なくとも、レイフと二人で始めた、このゲームだけは、最後までやりとおさなければならない。これは、弟が彼に託した形見のようなものだからだ。一人で戦うには、強すぎる敵。クリスターにはほとんど勝ち目はなかったのかもしれないが、レイフが遺したものなら、どんな重荷であれ、すべて受け取る。クリスターのものだった。

カーイを、倒したい。

それだけが、クリスターに残された、唯一の望み、ぼろぼろになった今の彼をかろうじて支え、突き動かしている原動力だった。

そうして、このゲームを終わらせるのだ。

クリスターは、今、一人、屋敷の警備室で、昨夜の戦いにおいて撮影されたカーイの映像を分析していた。何か一つでも、その弱点となりそうなものを見付けようとするのように、目を凝らしていた。

だが、この途方もない力、この速さを、しのぐ方法など、一体、どこにあるというのか。

クリスターの頭の中では、決して無限という訳ではないと言われるカーイの再生能力の限界を予想して、必要とされる破壊力を火薬に換算し、強力な爆薬を用いるしかないという結論に達していたが、実際にそれを使うのは困難だということも理解していた。カーイの速度は、どんな攻撃をも無効にするだろう。

幾つかの有効と思われる作戦をシミュレーションしても、その点に、いつも行き詰まってしまう。クリスターは、コンピュータースクリーンの前で、頭を抱えるようにして、うつむいた。

どれほど緻密な作戦を立てた所で、無駄だった。カーイの圧倒的な力の前では、何もかもが無意味だ。

持てるだけの力と知恵を振り絞っても、人間が神に勝てないように、あの未知の存在、あるいは本当に神々の眷属なのかもしれない、無尽蔵な力を備えた生き物を倒すことなど不可能なのかもしれない。

無力感に、打ちのめされそうになった時、レイフの声が、まるで、彼が今でもすぐ傍にいるかのように、はっきりとクリスターの耳に聞こえた。

(あいつの足を止める方法を見つけるんだよ)

その通りだ。レイフは、何度も繰り返しそのことを言っていた。カーイに勝つには、あのスピードを封じる必要がある。

「けれど、一体、どうやって?」 

これは己の空想に過ぎないと分かってはいたが、思わず、クリスターは、呟くようにそう尋ねていた。

(それは、兄さんが自分で考えないとな。できるはずだぜ、俺だって、ない知恵を振り絞って一生懸命考えて、あいつの足を一瞬止めることに成功したんだ。クリスターなら、また別の方法が見つけられるさ)

クリスターは、身を乗り出すようにして、目の前のスクリーンで展開している映像に見入った。レイフが投じた手榴弾の爆発から、その威力が届くよりも先に、瞬時に退くターゲットが映っている。この時、例え数秒でもその体の動きを止めることができたなら。この瞬間、何かが、彼の身動きを封じて、この爆発から逃げられなくすることができたなら。

そう、カーイの足を止める方法。

その瞬間、クリスターの頭に、天啓のように閃いたものがあった。

クリスターは、スクリーンに見入ったまま、あえぐように肩で息をした。

見つかった。

あまりにも簡単で単純な方法であったので、クリスターは、思いついた途端に、それまで複雑に考えすぎていた自分がおかしくなったくらいだった。

これならば、カーイを仕留められるかもしれない。単純であるがゆえに、予想することはできず、カーイには避けようがない。

この数時間で別人のようにやつれたクリスターの顔に、再び生気と覇気がみなぎってきた。すさまじいまでの熱望をこめて、クリスターは、スクリーンのカーイに向かって手を伸ばして触れ、囁いた。

「君は逃げたつもりかもしれないが、カーイ、私達のゲームは、まだ終わってはいない。少々長引かせすぎたのかもしれない。私も、そろそろ疲れてきた。早く始めて、終らせてしまおう。さあ、これから、最後のゲームを始めるよ」  

彼の琥珀色の瞳は、スクリーンの中で燃えあがる炎を映して、生きながらに既に地獄を覗き込んできた者であるかのように、妖しく不吉な光をたたえながら、狂おしく輝いていた。




強い風によって打ちつけられる雨が、古い窓枠をガタガタといわせている。

傭兵達と共に屋敷に連れかえられたスティーブンは、そのまま、自室として与えられていた部屋に閉じ込められてしまった。外から鍵をかけられ、この部屋が三階にあることを考えると窓からの脱出も不可能、電話も取り上げられ、外部に連絡する手段も断たれて、昨日までは客人として生活していたのが、今は全く囚人扱いだった。

昨夜から降り始め、次第に激しさを増してくる雨を、窓の外に眺めながら、大きな寝台の端に力なく腰かけて、スティーブンは、ふと、これからの自分の運命に思いをはせた。クリスターは、スティーブンを殺すつもりだ。彼にとっては必ずしも重要な問題ではないようだが、それは、間違いない。取り敢えず、今は、生かしておいてもらっているというだけだ。ならば、隙をついて、一刻も早くここから逃げ出さなければならないのだが、朝食がここに運ばれた時も、屋敷を警護する警備員が二人がかりであたっていて、とてもじゃないが彼らを振りきって逃げ出すことは無理だった。それに、スティーブン自身も、まだ昨夜の衝撃から立ち直ってはおらず、ひどく疲れていて、半ば自棄的な気分になっていた。だが、残してきた者、何も知らない父親や、彼のことを心配しているだろうロバートのことを考えるとこのまま殺されるわけにはいかない、何とかして連絡だけでも取りたいという思いにもかられた。そして、カーイが連れ帰ったスルヤが、あれからどうなったかも気になっていた。ひとまず危険な傭兵達の手から逃れることができたと安心するべきなのだろうか。それとも、もっと危険な怪物の手に取り戻されただけなのだと見るべきだろうか。本当に、カーイは、スルヤを殺すつもりなのだろうか。あれだけの思いをして、自らを危険にさらし、傷ついてまで救い出したのは、単に彼の捕食者としての流儀を通すためや、プライドの問題だけなのだろうか。スティーブンには、カーイの真意もまたよく分からないものだった。

(望む、望まざるとにかかわらず、私は殺す。そうしなければならないからです)

教会での対決の時、冷然と言いはなったカーイの声が頭の中に蘇る。スティーブンは、一層混乱した。

(カーイ、あんたは、血が欲しいだけで、不幸な犠牲者に近づいて甘い言葉と優しい顔で罠にかける、何の情愛もない血に飢えた怪物なのか、それとも、あんたの中にも、人間と同じような心があって、迷ったり、苦しんだり…例え殺して血を奪う相手にでも、幾許かの真実の思いを寄せることがあるのだろうか…?)

そんなことを考えていると、スティーブンは、どうすればよいのか分からない、追いつめられた気分になってくるのだが、その時、固く閉ざされた扉の向こうから近づいてくる足音と人の怒鳴り声に、はっと我に返った。

「ロバート?!」

鍵を開ける音がして、いきなり扉が開かれた、次の瞬間、部屋の中に突き飛ばされるようによろめき入ってきた男の姿に、スティーブンは、喫驚して寝台から飛び起き、叫んだ。それは、俺の伯父であるロバート・ブランチャードだったからだ。

「スティーブン?」

その声に顔を上げた、ロバートも、ここにスティーブンが先に閉じ込められていたことに、意表を突かれたようだった。

「一体、どうして、あんたがここに、ロバート?」

この屋敷の外部にいる者で、唯一スティーブンがここにいるということ、コックス会長の関わりを知っているロバートまでもが、捕らわれてしまったという事実に、スティーブンは衝撃と動揺を隠せない。

「今朝早くに、会長の秘書のアダムから連絡があったんだ。おまえが何か問題を起こしたのでその件について話をしたいというものだから、取るものも取りあえずに飛んできたんだが、到着した途端に警備員に取り押さえられてしまった。一体、何があったというんだ、ステーブン?」

スティーブンは舌打ちをした。命令を下したのはクリスターか、それともコックス会長だろうか。スティーブンが行方不明になれば、当然ロバートは黙ってはいないだろう。そして、彼は、雑誌の編集局長である立場を利用して、コックス会長を追及するかもしれない。マスコミに騒がれるのは困るコックス製薬は先手を打って、スティーブンと一緒にロバートの口も封じようという魂胆なのだろう。

「すまない、ロバート、俺のせいだ」

スティーブンは、両手で顔を覆って、再び寝台の端に腰を下ろした。

「スティーブン」

束の間取り乱していたロバートだが、スティーブンの打ちひしがれた様子を見て、自制心を取り戻した。

「一体、何が起こったんだ?説明してくれないか、スティーブン?」

ロバートが穏かに促すのに、スティーブンは夕べ起こったことの経緯を説明した。傭兵達によるヴァンパイアの捕獲作戦が行なわれたこと、罠をしかける為にスルヤを人質にされ、ヴァンパイアとの死闘が繰り広げられたが、後一歩で捕獲できる所まで追いつめながら取り逃がしたこと。戦いの中で、三人が命を落とし、そのうちの一人が、ロバートにも面識のある双子の片割れのレイフだったこと。スティーブンが、カーイを助けるような行動をとってしまったことには、ロバートも思わず何故と問い返してしまったが、スティーブンが苦しげに言葉につまるのに、それ以上は追求しなかった。そして、レイフの死にスティーブンが深く関わっていること。それらを、かいつまんで説明するのを全て聞き終えると、ロバートは、途方にくれ、放心したような表情をうかべて、スティーブンの傍らに腰を下ろした。

「どおりで、屋敷の動きが何かおかしいと思っていたよ。車で敷地に乗り入れた時から、この間来た時とは何かが違うと思っていた。庭に放されている番犬の数が増えていたし、それに警備員も異様に多くて、しかも物々しく武装していた。屋敷に入ってみると、逆にがらんとして…警備員ばかりで、普通の使用人がほとんど姿を消していた。たぶん、どこかに避難したということなのだろうな」

「避難?」

「そういうことだろうと思うよ。今、ここにいるのは戦える者達だけだ。昨夜取り逃がした吸血鬼に、逆に攻めてこられるのを恐れている、そんな様子だったよ」

「カーイが、ここに乗り込んでくるって?」

「おまえの話からすると、彼には、そのくらいの力があるようだ。自分を追いつめた張本人であるコックス会長の命を狙って、本当にやってくるかもしれない。会長さえいなくなれば、その部下達が、これ以上彼を付け狙うことはなくなるだろうからね」

ロバートは、一瞬黙りこんで、何やら考えこんだ。

「そう言えば、ここに連れてこられる時に、あの男、クリスターを見かけたような気がするよ」

クリスターの名前を聞いて、スティーブンは、ぎくりと振りかえった。

「私は、突然拘束されたことで混乱していたし、一瞬通りすがりに見かけただけだったので、どんな様子だったかは覚えていないが…以前会長と面会した時に通された寝室の近くだったな、その辺りで、たぶんセキュリティシステムの工事のようなものをやっていて、そこにいたんだ。一人でいたものだから、弟はどこにいるのだろうと思ったんだが、そうか…彼は、死んだんだな…」

スティーブンは、胸の辺りに重苦しいつかえを感じて、ゆっくりと深呼吸をした。

レイフ。その人懐っこい笑顔が思い出されて、息が詰まりそうになった。

それから、クリスターのことを考えた。弟を失った彼が次に何をするのか、ずっと気になっていたのだが、ロバートが見て来た屋敷の中の様子を聞いて、何となく分かったような気がする。

「すごい風だな」と、ロバートは、気分を変えようとするかのように、寝台から立ちあがって、窓の前に立った。

「スティーブン、どうやらこれは嵐になるらしいよ。今朝の天気予報で、ロンドンを含むイギリス東部および南部では、今後24時間注意が必要だと言っていた。日がくれて気温が下がれば、雨は雪になるだろう。冬の訪れが、いきなりこんな嵐になるなんて、今年はついてないな」

本当に、外の風は嵐と呼んでもいいくらいに激しさを増してきている。雨が雪に変われば、吹雪となって、全てを飲みこむ真っ白い冬の嵐が世界を席巻するのだろう。

「ロバート」と、暗い顔でうつむいていたスティーブンがふいに口を開いたのに、不安げに外を眺めていたロバートは、そちらに注意を向けた。

「やつらは、カーイが会長の命を狙おうとするかもしれないから、それに備えて警備を強化をしているわけじゃない」

死んだレイフを腕に抱きしめたまま、スティーブンを見つめたクリスターのあの暗い凍てついた双眸は、彼がすべての希望も夢も失い、もはやカーイに対する復讐以外に何も望んではいないのだということを、このすさまじい風がひたひたと近づいてくる嵐の到来を予告しているのと同じくらい、はっきりと物語っていた。

クリスターは、決して、カーイを逃がしはしない。命がけでカーイを追いつめ、仕留めるまで、あるいは自らが倒れるまでは、決してこの戦いから手を引かないだろう。

「クリスターは、ここにカーイをおびき寄せる気なんだ。ここを第二の戦場にして、今度こそ、彼との決着をつける気でいる」

そう言った、スティーブンは、自分の言葉が口に出されたとたんに現実となる呪いであかのごとく、ぞっと身震いをした。

クリスターは、決して、カーイを逃がしはしない。

予感ではなく、既に確信だった。

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