愛死‐LOVE DEATH

第十七章 間奏曲



暗闇の中、いつも決まって同じ時間、朝6時にタイマーによって作動するセントラルヒーティングがたてる音に、スルヤは、ふと目を覚ますことがよくあった。

朝まだ早い時間、ベッドの中にじっと体を横たえたまま、給湯設備が湯を沸かし、それが家中に巡らされた配管を通っていく流れていくごく静かな低い音に耳を傾けていると、何故だか、ひどく物悲しい気分になってくる。故郷を離れて、こんな遠い場所に一人でいるという孤独に、今更ながら、気づかされるような。

たぶん、本当に一人きりでここにいたなら、涙ぐんでいたかもしれない。けれど、そんな時、傍らに伸ばした手に触れる温もりに、その柔らかく滑らかな感触に、ほっと安堵する。甘えるように身をすりよせ、そのしなやかな髪に顔を埋め、ほんのりと甘い花のような香りをかぎながら、いつしか、スルヤは再び安らかな眠りに落ちていくのだ。

そう、スルヤは、一人ではなかった。傍には、いつでも、こうして愛する人がいてくれる。

そんな幸福な思いを噛み締めながら、口の中でそっとつぶやいてみる。

ありがとう、と。 




「カーイ…?」

朝まだき、しんと静まり返っていた家が目を覚まし、配管を通じて、温められた湯が巡り出すおなじみの音に、スルヤが覚醒して、最初に見たものは、己を心配そうに覗き込む恋人の白い美しい顔だった。

一瞬、いつもと同じ朝、暗闇の中で目が覚めて、寂しい気分に沈みかけた時に、傍らを見ると、そこには既に起きていたらしい恋人がいて、黙ったままスルヤの体に腕を回して抱きしめてくれる、そんな平穏な朝がまた明けたのかと思った。だが、この時のカーイは、いつもとどこか違っていた。

スルヤは、微笑もうとしたのだが、まだ意識が朦朧として、すぐに瞼を閉ざしてしまった。一体、どうしてこんなに体がだるく、力が入らないのだろう。熱のせいだろうか。そう言えば、体中がかっかと燃えているかのようだ。

もう一度、どうにかして意識を集中させて、瞼を上げると、スルヤは、カーイに向けて、笑いかけた。彼が、あまりに不安そうで、それに、なんだか哀しげで、ひどく打ちひしがれているように思えたので、そうすることで少しでも元気付けたかったのだ。

「カーイ」と、スルヤは、掠れた声で、呼びかけた。

「ありがとう、傍にいて…守ってくれて…ありがと…」

思わず口をついて出てしまった、その言葉を聞いた瞬間、カーイの顔に、どう答えればいいのか分からないというような戸惑いと混乱がよぎった。彼は、微笑みながら頷こうとしたようだが、失敗したらしく、途方にくれた、今にも泣き出しそうな顔をして、大きく見開いた目で、呆然とスルヤを見返しているのだった。

カーイのその哀しみが何を意味するのかスルヤには分からなかった。自分が訳の分からないことを言ったから、当惑させたのだろうか。時々言われることだが、あまりよく考えないで、思いつくまま言葉にして、それでひどく驚かれたり、不審がられることがある。スルヤは、カーイがそこにいるということに、言葉では言い表せないくらいの感謝を覚えていた。いつ失ってもおかしくない存在と、こうして一緒にいられる幸福をつくづく感じていた。守られているという気がしたのは、どうしてだろう。カーイがスルヤに向ける、この包みこむような温かい眼差しのせいだろうか。

「俺、一体、どうしたんだろう…昨日…確か学校の帰りにスティーブンとどこかに一緒に行って…それから…どうなったんだろう…?」

急に、今度はスルヤの方が不安になった。必死になって思い出そうとするのだが、気持ちを集中させようとするとまたすぐに意識がばらけていってしまう。これも熱のせいだろうか。ひどく疲れていて、眠く、脱力感が全身をおおっていた。

一体、昨日、何が起こったのだろう。確か、そうスティーブンとカフェでお茶を飲んで、その後、彼のフラットに向かったはずなのに、いきなり記憶がそこから途切れている。長い夢を見ていたような、その中で、人の声や物音が聞いていたような気がする。そう、スティーブンが必死に何かを叫んでいる声を聞いた。ああ、あれは、本当にあったことなのだろうか、それとも?

眉間をしわめて、混乱する頭の中の記憶を手繰り寄せようとしているスルヤの額に、カーイのひんやりとした手が乗せられた。

「今は何も考えないで」と、優しく穏かな声が囁きかけた。

「もう少し眠って、スルヤ…私が傍にいてあげますから、今は何も考えずに、安心して眠りなさい」

スルヤは、何か問いたげにカーイを見ようとしたが、その目は恋人の白い手に覆い隠され、開きかける唇はいたわるような優しいキスにそっと封じられた。

スルヤは、カーイに言われたように力をぬいて、もうしばらく休むことにした。大丈夫。恐ろしいことなど、何もない。

安心させようとするかのように、しっかりと己の手を握り締めるカーイの手を、スルヤは感じていた。離れてはいかない、傍にいると無言のうちにスルヤの心に囁きかけてくる。

もう少し、眠ることにしよう。この暗闇が完全に明けるまで。

大丈夫、朝の光が満ちて、スルヤが再び目覚めた時も、彼の天使はそこにやはりいるはずだから。 


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