愛死‐LOVE DEATH

第十七章 間奏曲


遠くで警報が鳴っている。どこかで、おそらく、先程激しい戦いのあったあの倉庫辺りで起こった火を消し止める為に、スプリンクラーが自動的に作動したのだろう。

ひどく現実感のない、他人事めいたもののように、ぼんやりとその音に耳を傾けながら、スティーブンは、茫洋とカーイがいた空間を見ていた。

(カーイ…)

スティーブンが招くことになった窮地を、たった一人で切りぬけて、スルヤを取り戻し、去っていった。スティーブンが救ったと言えないこともない。最後の最後で、どうしても、カーイをハンター達の手に引き渡すことはできなった。では、これはスティーブンの望み通りの結末なのだろうか。

額にうかんだ汗をぬぐおうとのろのろと手を上げかけて、スティーブンは、凍りついた。その掌は、真っ赤な血でぬれていた。

弾かれたようになって、スティーブンは、すぐ傍の床に上に視線を投げかけた。

(レイフ…!)

自らが流した血の海の中にうかんで倒れているレイフの姿を見た瞬間、スティーブンの顔がくしゃくしゃに歪んだ。半ば麻痺していた感情や感覚が、それと共に一気に戻ってきた。

「レイフ…レイ…フ……」

スティーブンは、床を這うようにして、レイフに近づこうとし、手を伸ばした。だが、その背後から、誰かが近づく足音がしたかと思うと、スティーブンは、頭を殴りつけられ、床の上に横様に倒れこんだ。

「この裏切り者!レイフさんを殺したのは、おまえなんだぞ!」

ジェレミーの声だった。スティーブンには、何も言い返すことはできず、顔を上げることさえできなかった。がくりと床につっぷしたまま、肩を微かに震わせていた。

しばし麻痺状態に陥っていた、この待機場所にいる人々も、徐々に我に返って、絶命した指揮官のもとにかけより、駄目だと分かっていても呼びかける者、打ちひしがれて背中を向けじっと黙り込む者、そして、司令室にいるもう一人の指揮官、クリスターに向かって、必死になって呼びかける者と、様々な反応を表していた。

「クリスター、応答してください!クリスター隊長!」

マグナスが、依然として応答に答えないクリスターに向かって、切羽詰った様子で叫んでいる。ビデオスクリーンは相変わらずオンになっているが、部屋の端で手を押さえてうずくまっているパリーが映っているのみで、死角になっているのか、そこにはクリスターの姿はない。あるいは、双子の兄のほうも、ヴァンパイアとの争いで、致命的なダメージを負ったのかもしれない。マグナスは、一瞬声を詰まらせ、唇をきつく噛み締めた。たった一人を捕獲するためだけに、腕に覚えのある傭兵が十二人も集まって、死者が四人、それも指揮官が二人ともやられるなんて、こんな悲惨な負け方があるか?

激しい思いが込み上げてきて、震える手を握り締めるマグナスの注意を現実に引き戻したのは、背後であがった、ジェレミーの怒りの声だった。

「殺してやる!」

振りかえると、激昂した若者は、床の上にはいつくばったままのスティーブンに銃を向けており、それを取り巻くように、ルフラー達が見ている。

「おい、ジェレミー、待て!そいつの処分は後回しだ。クリスター隊長の安否を確認する事の方が先だ。おい、誰か、下の司令室に行って、様子を見てきてくれ」

マグナスのその呼びかけにルフラーが頷いて、そこから出ていこうと動きかけたが、ジェレミーには、周囲の様子が全く理解できていないようだった。父親を殺され、もう少しで仇であるヴァンパイアを仕留められる所にまできていながら、取り逃がし、そうして、目の前でまた一人、尊敬する指揮官の弟であるレイフまで殺されたのだ。怒りに我を忘れても、当然だった。

「ジェレミー、銃を下ろせ!」

マグナスが怒鳴っても、ジェレミーの殺意を止めることはできなかった。彼は、スティーブンの背中に銃口を向け、トリガーにかかった指に、ゆっくりと力を入れた。

その時、何の前触れもなく、この部屋の扉が開け放たれた。

傭兵達は、いっせいにそちらに顔を向けた。そこに集まった誰もが、その瞬間、息を飲み、目を見開いた。

「クリスター…隊長…!」

マグナスの喉から絞り出すような声に、ジェレミーは、大きく身を震わせ、そちらを振り返った。

「クリスターさん…」

大きく開かれた扉の所に、彼らの指揮官が、佇んでいた。その端正な顔は血の気を失って青ざめ、凍りついたように何の感情もうかべてはおらず、左頬の鋭く切られた傷が凄惨な印象を与えたが、他に傷らしい傷は負ってはおらず、生きていた。そう、クリスターは生き残ったのだ。

「よく無事で…」

マグナスが、安堵の思いでそう漏らし、クリスターのもとに近づこうとするかのようにそちらに動いたが、クリスターは、そちらには一瞥も向けずに部屋の中に入ってきた。

瞬間、部屋の中が、重苦しい緊張に包まれた。

レイフの死を、この双子の片割れに伝えることのできる勇気のある者はおらず、誰もが、その事実をつきつけることをためらった。もっとも、その必要はなかった。クリスターには、もう分かっていたのだ。

クリスターは、他の誰にも注意を向けることなく、まっすぐに部屋を横切り、彼の弟のもとに近づくと、そのすぐ傍に膝をついた。

「レイフ」と、低い声で呼びかけた。無論、何の応えもない。

それから、うつぶせに倒れたままのレイフの体に手をかけ、ゆっくりと抱き起こし、腕の中におさめると、その顔をそっと覗き込んだ。顔にかかった、乱れた髪を指でそっと払いのけてやった。

意外に、レイフは綺麗な顔をしていた。背中から心臓を貫く様にして胸を突き破られたのだ。さぞや苦悶に満ちた、恐ろしい無念の思いをうかべた死に顔をしているかと思えば、静かに目を閉じて、まるで遊び疲れて眠りこんでしまった子供のような表情をしていた。今にも目を覚ましそうな、そんな残酷な錯覚を見る者に与えずにはおかないほど、生き生きとさえしていた。

「レイフ…?」

もう一度呼びかけ、目覚めを期待するかのように弟の肩を軽く揺するクリスターから、たまりかねたかのように、見守る仲間達の何人かは、目を背け、あるいは深く頭をたれた。

床に力なく身を伏せていたスティーブンも、顔を上げて、この光景に心を奪われていたように見守っていたが、クリスターが、息絶えたレイフの体を抱きよせ、強くかき抱くのに、これ以上は見ていられなくなって、顔を伏せようとした。しかし、その時、クリスターの視線が動き、スティーブンの顔を正面から捕らえた。スティーブンは、その眼差しのあまりの暗さに、縫い付けられたようにとっさに動けなくなった。哀しみや怒りや憎しみが、そこにあれば、それがスティーブンを飲みこみ食い尽くそうとするような凄まじいものであったとしても、ここまで恐ろしくはなかった。絶望も苦悩も既に突き抜けてしまった、すべての人間的な感情を脱ぎ落としてしまった後の、暗い虚無の海がそこには寒々と広がっていた。あたかも、片割れの死と共に、彼の一部も死に絶えてしまったかのようだった。

「マグナス」

レイフを抱き、目はひたとスティーブンにあてたまま、クリスターは、抑揚のない、乾いた声で言った。

「は、はいっ」と、呼びかけられたマグナスはむろん、他の生き残った仲間達も、背筋を伸ばして、指揮官の命令を待った。

「作戦は失敗した。これより、ここを撤退する。まずは倉庫に残してきたカイルとバースを救出、そして、ベンとムスタファの遺体を回収する。またこの戦闘において、監視カメラによって録画されたテープはすべて資料として持ちかえる。すぐに準備にかかれ」

「はいっ」と、弾かれたように傭兵達は動いた。あまりの結末に、どうすればよいのか分からず途方にくれていたのが、取り敢えず命令を与えてくれる誰かがいることで、そうして、当面の仕事ができたことで気がまぎれるとでもいうかのように、彼らの反応は素早かった。  

「クリスターさん」と、床の上でレイフを腕に抱いたまま身じろぎもせずにいるクリスターに、ためらいがちに声をかけたのはジェレミーだ。

「スティーブンを、一体、どうするんです?どうか俺にこの場で射殺させてください。こいつだけは、許さない…味方のような顔をして、俺達に紛れこんで、最後の最後で裏切った、こいつだけは…レイフさんの仇でもあるんです、どうか…」

クリスターは、若者の言葉にただ静かに耳を傾けていた。あまり静か過ぎるので、聞こえていないのではないか、あるいは、弟を失った衝撃に自失してしまってのではないかと思われたが、しばしの沈黙の後に返ってきた応えは、やはりクリスターらしい冷静な、むしろ以前よりも冷徹さを増したような、空恐ろしいくらいに感情を欠いたものだった。

「いや、ここでは、まだ殺さない。ジェレミー、スティーブンを拘束しろ。彼には、このまま我々と共に屋敷に戻ってもらう」

ジェレミーは、一瞬何か言いたげな顔をしたが、クリスターの命令に逆らうことはできず、しぶしぶながら、スティーブンの腕を背中で縛り上げた。

「殺すなら、今、ここで殺せ…」

スティーブンは、傷ましく、同時に恐ろしいものを見るかのような顔で、クリスターに、囁いた。その腕の中のレイフ、あざやかな髪と同じに紅い血を流して死んだ男、友人と呼ぶには複雑な対立がそれを阻み、敵と考えるには親しみを覚えすぎた相手の、変わり果てた姿に、スティーブンの胸は激しく痛んでいる。

そんなスティーブンの感情を、ただの安っぽい感傷だと笑い飛ばすかのように、クリスターは唇の端を皮肉っぽくつり上げた。

「君に、選ぶ権利はない」 

そうして、これ以上スティーブンと話すことなどないというかのように、レイフの遺体を肩に慎重に担ぎ上げ、彼は立ち上がった。

「いずれにせよ、君の命はそう長くはないものだ。ならば、別に急ぐこともあるまい?」

スティーブンの脇を通りすぎざま、クリスターは、そう冷やかに言い捨てた。スティーブンは、はっと息を飲んだ。

そうして、クリスターは、弟の亡骸と共に、息をつめて仲間達が見守る中、ゆっくりと部屋を出ていった。


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