愛死‐LOVE DEATH

第十六章 逆転


「いいか、クリスターは、これから、ヴァンパイアの野郎との交渉に入る。こちらには、この坊やって人質があるが、最後まで気をぬくなよ。何よりも、この場所をあいつに知られたら、おしまいだ。だから、何が起こっても、決して発砲はするな。奴の耳なら、銃声があれば、すぐに位置が分かって、人質の救出のために現れるだろう。いいな、銃を使うことは厳禁だ」

司令室にクリスター一人を残し、意識のないスルヤを連れて、研究所の一番上にある、大きなミィーティングルームに、傭兵達は待機していた。

人質を確保しているのはレイフ達の方だったが、愛する兄をカーイとの直接交渉にあたらせているレイフ自身も、気分的には、人質を取られているようなものだった。スルヤという保険が、実際には、思ったほど有効でなかった場合は、どうなる。クリスターを助けに行くとして、果たして、間に合うのか。そんなことばかりを不安にざわめく胸のうちで考えていた。

「レイフ!」

部屋の隅に拘束されていた、スティーブンが、見張りのルフラーの手を振り解くようにして、レイフの方に駈け寄ろうとした。しかし、その足を、途中で、マグナスに払われて、床に転倒したところを、ルフラーとマグナス二人がかりで取り押さえられた。

「レイフ、待ってくれ、頼む…スルヤを…スルヤの命を盾にするなんて、やめてくれ!あいつには、何の罪もないんだ。どうか、あいつを傷つけないでくれ…レイフ!」

レイフは、スティーブンに背中を向けたまま、ふつふつとたぎるような思いを鎮めようとするかのように、肩で息をした。

「そんなふうに二度とオレの名前を呼ぶんじゃねぇ、スティーブン。二度と…オレに逆らうな、さもないと、次は殺す」

「レイフ…」

レイフは、腰のベルトからすらりとコンバットナイフをぬくと、ソファの上に、彼のジャケットをかけられて、眠っているスルヤの方に近づいていった。スティーブンは、息を飲み、戒めを解こうと暴れるが、屈強な傭兵二人がかりで部屋の隅に引きずられるように連れ戻され、床に坐らされると、その喉にルフラーのナイフがぐっとつきつけられた。

「レイフ、やめてくれ!」

喉に押し当てられる鋭いナイフ切っ先にも構わずに叫ぶスティーブンを、レイフのぎらりとつりあがった目が振り返った。

「スティーブン…!」

レイフは、このまま一気に感情を爆発させると自分でも制御できなくなる、手にしたナイフでスティーブンを刺し殺してしまいたくなることを恐れるかのように、一瞬黙りこみ、それから、幾分、抑えた声で言った。

「いいか…おまえが、あの時変な気を起こして、あいつを隠したりしなければ、オレは、今頃あいつを仕留めていた。確実に捕獲して、今頃、あのカプセルの中におさめて、意気揚揚と帰る準備をしていたさ。ああ、おまえさえ、あんな馬鹿なまねをしなければ、こんなことにはならなかったんだ!この子だって、今頃、無傷のまま解放されて、オレが約束通り病院に連れていってた。いいか、おまえのせいなんだぞ、クリスターが、今、あそこでたった一人であの化け物と対峙しなきゃならなくなったのも…もし、あいつの身に何かあったら、ただじゃすまさないからな、覚えておけ!」

ナイフの先をスティーブンにつきつけるようにして、それだけを吠えるようにして言うと、レイフは、もうこれ以上スティーブンなど見ていたくないというように、背を向けた。

完全に心を閉ざしてしまったレイフの後ろ姿を、しばし、スティーブンは、尚も何かを訴えようとするかのように見ていたが、やがて、がくりと首を折り、その場に崩れ落ちるように、坐りこんだ。

確かに、レイフの言う通りだった。これも、スティーブンが選んだことの結果なのだ。





「あ…う…うぅ…」

一体、あれから、どのくらい時間が経過したのか。この暗闇の中で、唐突に意識を取り戻したパリーには、分からなかった。

覚醒した彼が、最初に感じたのは、顔に覚えた激しい痛みだ。あまりの苦痛に悲鳴をあげようとしたが、それは、ほとんど言葉にならないうめき声にしかならず、彼は、自分の顎が砕かれていることに気がついた。

(クリスター…クリスター…!)

怒りと恨みに打ち震えながら、身を起こそうとして、己の両手と両足が細いロープで縛られていることに気がついた。

(おのれ、よくも…許さんぞ、あの野蛮人め…)

それから、自分が押し込められていた場所をぐるりと見渡した。どうやら、司令室のすぐ隣にある部屋らしい。傭兵達が、武器や弾薬を運びこみ、控え室として使っていた。今は、ほとんどの武器は持ち出されているようだが、何か残っているのではないかというように、パリーは、不自由な体を動かし、床をはいずるようにして、動き、その辺りに残された箱の中を覗き込んだり、ひっくり返したりしていた。すると、やがて、机の後ろに、一本のバヨネットナイフが落ちていることに気がついた。パリーは、必死になって机の下にもぐりこみ、足を使って、引っ張り出した。

(これで、手の戒めを切るんだ)

パリーを動かしているものは、今や、クリスターに対する根深い瞋恚と、何としても、貴重なサンプルであるヴァンパイアを無傷で手に入れたいという執念だった。

(クリスターなどの思い通りにさせてなるものか。あの生き物は、私のものだ、私の発見なんだ)

ひたすら、そんなことを頭の中で念じることで、砕かれた顎の痛みを忘れ、パリーは、戒めを解く作業に取りかかった。





(ジェレミー、その坊やの指を切り落とせ)

スピーカーを通して部屋に流れた、クリスターの声に、スティーブンは、弾かれたように、身を起こした。その喉に、再び、ルフラーのナイフが食いこむ。

「な、何を…?」

呆然と呟く、レイフの声が、次いで彼の耳を捕らえた。

「一体、どうしたっていうんだ、クリスター?」

ジェレミーにナイフを譲って、スルヤの傍から離れたレイフは、この突然の展開に、信じられない様子で、スクリーンに映る兄の姿を追っていた。

意識もなく、無抵抗な、それもただの民間人の少年の指を切り落とせとは、あまりにも残酷な命令だ。さすがに、他の傭兵たちも、声が出ないようだった。

だが、父親の復讐だと告げられたジェレミーにとっては、違ったようだ。彼は、初めは、青ざめ、尻ごみしていたものの、スクリーンの中のカーイを見た瞬間に、何かに取りつかれたようになって、ナイフを取り上げ、ソファの上に眠るスルヤに振りかざしたのだ。

レイフは、はっと顔を強張らせ、制止するかのように手を上げかけたが、切迫した戦いのさなかで味方同士が対立してもめることの危険は分かっていたので、兄の命令に逆らい、ジェレミーを止めることはできないようだった。

(スルヤ…スルヤ…!)

スティーブンの心臓は、激しく打ち震えた。スルヤが、傷つけられようとしている。これも、スティーブンの選んだことの結果だと受け入れろというのか。そんなことは、できない。例え、スティーブン自身が傷ついて、倒れることになっても、それだけは、許せない。

スティーブンは、目の前に押し当てられていたナイフにも構わず、ルフラーの腕を振り払い、前に飛び出した。

「こいつ!」

ルフラーも、目の前で展開する出来事に、つい心を奪われていた為、ナイフを構える手の力が少し緩んでいたようだった。スティーブンの突然の反撃にとっさに反応することができず、彼を逃がしてしまった。

「やめろ、ジェレミー!」

スティーブンは、猛然とジェレミー目掛けてダッシュをかけると、スルヤの上に振り上げたその腕に飛びかかり、ナイフごと、彼の体を床に叩きつけた。

その反動で、スルヤの指を切り落とそうとしていたナイフは、床に転がり、部屋の端まで滑っていった。 

「な、何をする、この裏切りものめ!」

激怒したジェレミーが、馬乗りになったスティーブンの体を投げ飛ばそうとしたが、その前にスティーブンが、彼の顔を殴りつけ、胸倉を掴んで、床にしたたかに、その頭を打ち付けた。

この様子を呆気にとられたように見ていた、レイフの眉が、きりきりと物騒に釣りあがった。彼は、床の上で取っ組み合いをしている若者達二人のもとに、つかつかと歩み寄ると、ジェレミーに向かって振り下ろされようとしたスティーブンの腕をつかみ、ぐいっと引き上げ、そのまま、引きずり離した。

「レイフ!」

スティーブンは、かっとなって、その顔に殴りかかったが、軽く流されて、よろめいた所を捕らえられ、見事に投げ飛ばされていた。気がつけば、スルヤの傍の床の上に、はいつくばっていた。

レイフの冷然とした顔が、スティーブンをすぐ上から見下ろしている。兄とそっくりな、冷たく、付け入る隙もない表情を、今の彼は、していた。

「このガキめ、よくもなめた真似をしてくれたな」と、レイフの横に駆け寄ってきたのは、隙をつかれてスティーブンを自由にしてしまったルフラーだ。彼は、怒りに顔を真っ赤にして、ピストルを構えて、スティーブンに狙いを定めている。

「ルフラー、よせ。例え、脅しでも、ここで銃はぬくな」

レイフが、低い声でたしなめた、次の瞬間、スティーブンの体が、動いた。見守る他の傭兵たちの口から、あっという叫びがあがった。スティーブンは、ほとんど、捨て身の格好で、ルフラーに向かって、ぶつかるように突っ込んでいき、銃を握る、その腕にむしゃぶりついたのだ。

たぶん、傭兵達のうちにも、スティーブンに対しては幾分油断があったのだろう。彼らにとっては、スティーブンも、スルヤと同じくらい無力な、戦いの経験など何もない民間人だった。それに、銃を持つ相手に無謀にも飛びかかるような行動をするとは、さすがに誰も考えていなかった。

スティーブンの本気さが、一瞬訓練された兵士の動きに勝ったのか、信じられないことに、彼は、ルフラーの手から、ピストルを奪っていた。

「スティーブン」

凄みのこもった、低い声で、レイフが呼びかけた。それに向かって、スティーブンは、銃を向けた。レイフは、思わず、苦笑しそうになった。スティーブンは、レイフが教授したとおりの構え方で、彼に銃を向けていた。

「教えるんじゃなかったな…」

それから、再び厳しい顔に戻ると、スティーブンに向かって、手を伸ばした。

「スティーブン、その銃を返すんだ。そんな馬鹿な真似はやめろ。今なら、まだ許してやる」

手を差し出したまま、一歩近づくレイフから、スティーブンは、じりっと後退した。しかし、銃を下ろすことはしなかった。

「おまえには、無理だ、スティーブン。人を殺したことなんか、ないだろう?それに、見ろよ、オレは、今、丸腰なんだぜ?武器を持たない相手を撃つのは、それは嫌ァな気分がするものだ。いい子だから、銃を下ろして、こっちにきな。スティーブン、思い出せよ、オレは、おまえによくしてやっただろう?」

レイフが、一歩近づくと、スティーブンも一歩下がる。傭兵達は、スティーブンを刺激して発砲されることを何よりも恐れて、手が出せない。

「なあ、スティーブン、おまえについては、オレも後悔することが色々ある…オレを裏切ったおまえだけれど、そういうオレも、おまえを騙したり、嘘をついたりしなくてはならなかった…残念に思っているさ、今でも」 

それから、胸をカバーする防護ベストに手をやり、何を思ったか、いきなり、それを脱ぎ落とした。スティーブンは、はっと息を飲んだ。

「この距離で、その銃をぶっ放せば、致命傷になるだろうな。おまえに、人一人の命を奪った責任を一生背負えるか?」

そうして、両腕を広げるようにして、レイフは、スティーブンの方にまっすぐ歩いてきた。

「よせ…レイフ、とまってくれ…」

スティーブンの銃を持つ手が震え出した。人など撃てない。ましてや、レイフを殺すことなど、できない。

レイフとスティーブンの距離が、ほんの2メートルばかり縮まった、その時、突然、スピーカーから、銃声が響き渡った。

「クリスター?!」

レイフの喉から迸った叫びが、呆然とするスティーブンの耳朶を打った。




ついに手の縛めを切り、次いで足も自由にすると、パリーは、よろよろと立ちあがり、ドアの方に向かった。すると人の話し声が聞こえてきた。聞き違え様のない、クリスターのものだ。もう一人の声には、聞き覚えはない。

パリーは、何故か、異様な緊張感を覚えて、足音を殺し、ドアにたどり着くと、音を立てないようそうっと開いてみた。

「う…クリスター…?」

ドアの僅かな隙間から、向こうの司令室の明かりが流れこみ、一瞬、パリーはまぶしげに目を細めた。やがて、その明るさになれた彼の目は、モニター前に、いつにない厳しい表情で、銃を構えて佇むクリスターの姿を見つけた。この部屋からだと、丁度クリスターの右側やや後方から、パリーは彼の姿を眺めることになる。クリスターは、全ての神経を前方に向けているようで、パリーに気がつく様子はない。一体、誰と話しているのだろう。パリーは、ドアをもう少し開けて、クリスターの銃口が狙う、相手を見定めようとした。

「ううっ?!」

パリーは、信じがたいものを見つけたかのように、何度も、瞬きし、食いいるように、そこにいるもう一人の姿を見つめた。

信じられない。こんなに近くに、あの生き物がいる。

一体、パリーが目を回しているうちに、何が起こったというのだろう。レイフや他の傭兵達は、どこに行ったのか。

とにかく、ここにいるのは、クリスターとあの生き物だけのようだ。

パリーの頭にかっと血が上った。どうしよう、奴を捕まえなければ。パリーは、部屋の中を見渡し、それから、先程自分が使ったナイフを床の上に見つけて、取りに戻った。

クリスターは、一体、何をするつもりなのだ。銃など構えて、まさか、撃ち殺すつもりではあるまいか。いいや、確かに、クリスターは、あの生き物を殺すこともありうると言ったのだ。

(そんなこと…させて、たまるか…!)

殴られて、砕けた顎は、激しい鈍痛を生じさせ、パリーの頭の中も、その痛みで一杯だった。あまり冷静に物事を考えられる状態ではなかったのだ。それに、彼が欲してやまない、彼の将来の成功を約束してくれる鍵となるかもしれない貴重なサンプルを目の前にした興奮と焦り、クリスターに対する個人的な憎悪と復讐心が、彼の暴走に拍車をかけようとしていた。

(クリスターめ…よくも、今まで、私をないがしろにしてくれたな。これ以上、貴様の好きには、させんぞ…!)

パリーは、右手にナイフを持ち替え、ぐっと握り締めた。それから、音を立てないよう、慎重にドアを開き、光の中に出ていった。

「スティーブン…!」

苦々しげにそうクリスターが呟き、舌打ちをするのが、聞こえた。彼は、ビデオスクリーンの方に顔を向けて、すっかり、そちらに気持ちを奪われている。今なら、この男を攻撃することも可能なように見えた。

視界の端に、ヴァンパイアの白く光る姿が見えた。彼は、突然のパリーの登場に唖然としているようだったが、今は、クリスターを倒すことの方が先だ。パリーは、ナイフを大きく振りかぶり、クリスターの背中に襲いかかろうとした

(クリスター!)

クリスターは、弾かれたように反応して、パリーの方に体を回転させると、瞬時に銃を構え直し、機械のような正確さで、ピストルを発砲した。超大型の・50口径弾は、振り上げたパリーの右手をナイフもろとも吹き飛ばした。

「ぎゃあぁっ!」と、パリーの絶叫があがったが、その瞬間には、クリスターは、体を沈めつつ、視界の端で捕らえた、カーイの動きを銃で追っていた。 

デザート・イーグルが、二発目の弾を撃ち出した。だが、カーイの姿は、既にそこにはない。

「くっ?!」

クリスターの全身を悪寒が襲った。死がそこまで来た、そう感じた瞬間、彼は、大きく体を右側に傾け、倒れていきざまに、ほとんど本能というべき動きで、もう一発の銃弾を撃っていた。機器の間に倒れこんだクリスターの頬を、熱い衝撃がかすめていった。切り裂かれたと、悟ったのは、床に倒れたのと同時に跳ね起き、銃を構え直した、瞬間だ。

カーイが、彼の前に、ふわりと降り立った。クリスターは、切り裂かれた頬の傷から流れ出す熱い血を意識しながら、荒い息をついていた。一体、何を投げたのかと思っていたら、チタン製の冷凍カプセルのハッチの一部が引き千切られている。この怪物に関しては、どんなものでも、人に致命傷を与える凶器にしてしまうのだ。クリスターは、流れる血をものともせずに、凄絶な笑いに唇を歪め、カーイの方にじりっと進み出た。

血の匂いが、余計に彼を戦闘的な気持ちにさせていたが、冷静な頭の端では、同時に、パリーの妨害によって混乱したこの状況で、カーイをいかに屈服させ、捕らえるかを考えていた。

「続きをするか、それとも…?」

カーイは、唇を噛み締めた。その目が、クリスターの後ろのビデオスクリーンを、祈るかのように目で見た、その瞬間、ここではない遠い所で銃声が鳴り響いた。

余裕を取り戻しかけていたクリスターの顔色が、さっと変わった。

カーイは、身を震わせ、周囲をぐるりと見渡して何かを探そうとするかのような動きをした。そう、彼は、探していた、あの銃声が聞こえた方向を、スルヤが捕らわれている場所を。

ヴァンパイアが、じっと耳を澄ませながら音の方向と距離を測っているのを、クリスターは、戦慄を覚えながら、見守っていた。そして、その頭が持ちあがり、この部屋の天井を、その遥か上に位置する、その場所の方を向くのを見た時、彼は、迷わず残った弾をカーイに向けて、連射した。

だが、次の瞬間には、その姿は、この司令室から消えていた。移動したのだ。スルヤを奪い返す為に、まっすぐに、レイフ達のいる、あの場所に向かっている。

(しまった!)

クリスターは、マイクロフォンに手をやり、混乱状態に陥っているらしい三階の待機場所の映像を食いいるように見ながら、弟に向かって、鋭く叫んだ。

「レイフ、作戦は失敗だ!ただちにそこを離脱しろっ!!」

こんなにも動揺した自分の声を聞いたことは、いまだかつてない。どんな追いつめられた状況にも動じたことのない心臓が、激しく、わななき、打ち震えている。一体、なぜ?

クリスターの声が聞こえているのかいないのか、スクリーンの中、銃を手にスティーブンを追いつめるレイフを、彼は狂おしげに見つめた。彼は、ぎりっと歯を食いしばった。

早く逃げなければ。もうすぐ、あの死神がそこにやってくる。

弟と別れる前にかわした、たわいのない約束が、今更ながら、ひどく重みを持って、思い出された。

(心配しないで。すぐに、また会えるから)

命の危険にさらされたことなど、これまでも、数多くあった。だが、一度として、レイフと二度と会えなくなるなどと怯えたことはない。

そう、彼は、恐れていた。レイフ。彼の半身が、まだそこにいるのだ。

「そんな奴らは放っておけ、いいから、早く…逃げろっ!!」

クリスターが絶叫した瞬間、白く光る神のごとき姿が、そこに降臨した。





銃声が聞こえた瞬間、レイフも、スティーブンも、他の傭兵たちも、皆いっせいにビデオスクリーンの方に視線を集中させた。

「パリーの野郎、よりによって、このど修羅場の最中に出てきやがって!」

レイフが、憎々しげにそう吐き捨てるのを、スティーブンは、ぼんやりと聞いていた。スクリーンは、クリスターが、カーイに向かって、銃を撃ちながら、機器の間に倒れこむのを映していた。レイフが、よろめくように、スクリーンに向かって、歩いていく。

「兄さん…?」

スティーブンは、はっと正気づくと、この隙にとばかりに、スルヤの所まで駆けより、その体をソファから抱き起こそうとした。だが、彼の後ろに、ルフラーが忍び寄っていた。

「この野郎、いい加減にしやがれよっ!」

ルフラーの足が、スティーブンの脇腹を蹴った。スティーブンは、苦鳴をあげて、床に転がったが、銃は離さなかった。そして、更に、襲いかかろうとする、ルフラー目掛けて、ピストルを発射した。

銃声が鳴り響き、ルフラーの肩を掠めた弾は、天井の照明の一つを破壊した。砕けたガラスの破片が、床の上に、降り注ぐ。

兄の無事を確認しようと、スクリーンの映像に釘づけになっていたレイフも、後ろで鳴り響いた銃声に、我に返った。彼は、激しい怒りを顔にのぼらせて、スティーブンをねめつけた。

「スティーブン、おまえには、もう…我慢ならねぇ…」

レイフは、スクリーン前の机の上に残していたガンホルスターから、ピストルを抜いた。

「おまえが、邪魔をしなきゃ…こんな負け方はしなかった。いや、オレが、おまえなんか信じなきゃ、こんな所におまえを連れてこなければよかったんだ。クリスターがあいつと戦って、傷ついてる…もしかしたら、致命傷を負ったかもしれない…」

レイフの顔は、苦しげに歪み、汗びっしょりだ。どうしてもおさまらないかのように、その長身の体は小刻みに震えている。彼は、ひどく恐れていた。

クリスターは、どうなったのだろう。冷たい水でも浴びたかのように、一際大きく、レイフは身を震わせた。そして、恐怖をしのぐ怒りの矛先を、スティーブンに向けた。

「もう…もう、許さんぞ、スティーブン!」

レイフは鬼の形相をしていた。今度こそ、殺される。スティーブンは、身を守る為に、再び銃を構えたが、その前に、レイフのパラ・オーディナンスが発射され、彼の手から銃を弾き飛ばした。

「レイフ…」

スティーブンは、床に坐りこんだまま、後ろに下がった。すると、すぐにスルヤの眠るソファに行き当たった。スティーブンは、そちらを振りかえって、ぐったりと力なく横たわる友人を、追い詰められたような顔を見つめ、それから、改めて、レイフに向かって、叫ぶように懇願した。

「ま、待ってくれ、レイフ。今、ここでは撃たないでくれ…俺は、あんたに殺されても仕方がないかもしれないけれど、スルヤは、無関係なんだ。巻きこまないでくれっ!」

だが、その必死の願いが、今のレイフに届いたようには見えなかった。彼は、こみ上げてくる激情に完全に飲みこまれ、ただ憎しみのみを凄まじい光を放つ金色の双眸に宿して、大型拳銃でスティーブンの頭を狙ったまま、ゆっくりと近づいてくる。彼の優しさも、情深さも、双子の兄が目の前で殺されたかもしれないという場面を目撃してしまった衝撃と、そんな事態を招いてしまったのは自分の甘さなのだという圧倒的な思いに支配されて、どこかに消し飛んでしまったようだ。今の彼は、スティーブンや、その後ろに庇われているスルヤにとっては、最悪の敵、死に神そのものだった。

「レイフ…」

スティーブンは、紙のように白くなった顔で、迫りつつある死を見つめながら、せめて、ここを動くまい、スルヤにはあたらぬよう銃弾を受けとめるつもりで、じっとレイフの指がトリガーにかかるその瞬間を、待ちうけていた。

その顔が、ふと訝しげに曇った。

(何だ、あれは…?)

スティーブンの目は、レイフの遥か後ろの壁が白く発光しているのを、やがて、その中から、淡く輝く光の塊のようなものがうきで、人の形をして、生み出されるのを呆然と眺めていた。

音もなく、床にふわりと降り立つのと同時に、長い髪が、翼のように広がり、その体にそって流れ落ちる。上げられた、青く光る瞳が、銃を手にしたレイフを、その向こうにある、スティーブンの引きつった顔を、そして、その後ろに庇われている、スルヤの姿を捕らえた。

「スティーブン!」

レイフの怒声に、スティーブンは、反射的に、顔を庇うかのように手を上げ、目をつぶった。撃たれると、彼は、確信した。

だが、何の衝撃も訪れず、銃声も響かなかった。代わりに、何か鋭いものが肉を突き刺すような鈍い音が間近でしたような気がした。

身を固くして、その瞬間を待ちうけていたスティーブンは、顔の前にかざした手に、顔に、何か温かいものが降り注ぐのを感じ、恐る恐る目を開けてみた。手を裏返して、見てみると、そこには鮮やかに紅い血が飛び散っていた。

スティーブンは、打たれたように顔を上げた。

「レイ…フ……?」

レイフは、スティーブンのすぐ前で、銃を構えたまま、覆い被さるように、仁王立ちをしていた。信じられないといった、呆然とした表情が、その顔にはうかんでいた。その唇が何かを言おうとするかのように震えたが、言葉の代わりに、そこからは血の筋が流れ落ちた。力をなくした手から、ピストルが落ち、激しい音を立てて床に落ち、転がった。

そして、スティーブンは、見た。レイフの胸の真ん中から、彼の体を貫きとおした白い手が突き出していることを。レイフは、最後の力を振り絞って、その手を掴み締めようとしたが、その腕も力なくだらりと落ち、何かを訴えかけるように、スティーブンに向けられた、琥珀色の瞳からは、あの覇気に溢れた激しい光が消え、彼の長身は、膝から崩れ落ちるように、ゆっくりと床に倒れこんだ。

(あ…ああ……)

床にうつぶせに倒れたレイフの下から流れ出した血が、徐々に広がっていくのを、スティーブンは、魂をぬかれたような様子で、声もなく、見守っていた。

こんこんと涌き出るかのように広がっていく血の泉の端に立つ黒いブーツが、スティーブンの目に付いた。ほとんど、無意識のうちに、スティーブンは、顔を上げた。

「カーイ…」

カーイは、どう考えればいいのか分からないといった困惑した表情で、スティーブンをしばし見つめ、その後ろで、どうやら無事な様子のスルヤをほっと安堵の思いをにじませた顔を見つめ、それから、足下に横たわる、今殺したばかりの男を見下ろした。

カーイをぎりぎりの所まで追いつめ、苦しめた双子の片割れだ。ついに一人を倒した。だが、本当にこれでよかったのだろうか。

カーイは、そこに見出すものを恐れるかのように、ゆっくりと顔を上げ、司令室とつながっている、ビデオスクリーンを見た。

カーイの白い顔が、緊張に強張った。

やはり、そこには、あの男がいて、カーイを見返していた。彼は、自分の弟がカーイに背中から胸まで刺し貫かれて殺される一部始終を目撃したのだった。操作機器によりかかり、まるで、己の胸を刺し貫かれたかのように片手で押さえ、今にも死にそうなくらいに青ざめたひどい顔をしている。

そう、カーイが殺したのは、この男の一部なのだ。

このままでは終らない。クリスターの瞳を見た瞬間に、カーイは、そう悟った。

だが、今は…。

カーイは、スクリーンに背を向け、床にぺたんと坐りこんだままのスティーブンの横を通りすぎ、スルヤの傍に立った。やっと見つけた。

「心配しましたよ…スルヤ…」

カーイは、スルヤの上に身を屈め、触れることが怖いというように恐る恐る手を伸ばして、その艶やかな髪に、やわらかなカラメル色の頬に触った。やっとの思いで、取り戻した。もう離さない。

そうして、スルヤの体を、両腕に軽々と抱き上げると、肩越しに、スティーブンを、その後ろで、恐怖にかられた顔で、凍りついたように立ち尽している傭兵達を見まわした。

次の瞬間、彼らの姿は、霞のように、この場から消え去っていた。スルヤを抱いたまま、床をぬけていったのか、天井から外に飛び立ったのか、いずれにせよ、ヴァンパイアは、戦いの場を後にした。そして、指揮官を、仲間を殺されて、意気消沈し、満身創痍の兵士達が、そこに残された。

誰一人として、しばしの間、動くことも、口を開くこともできなかった。





例えば、こんなことがあった。彼らがまだ子供だった頃だ。一人家にいたクリスターが、急に顔の半分が焼けつくような感じを覚えたことがあって、何なのだろうと訝っていると、自転車から転倒して、顔を血だらけにしたレイフが帰って来た。あるいは、こんなこともあった。普通に母親と食事をしていただけなのに、別に哀しい訳でもないのに、いきなり涙がとまらなくなった。気になって、別居中の父親に電話をしてみると、やはり、その日、レイフが、父親と一緒に見にいった映画「ET」のラストに、感動のあまり泣き出してとまらなくなったのだという話を聞いた。

彼らには、時々、意識や感覚を共有しているような瞬間があった。軍に入り、後に傭兵として、戦場に出るようになってからは、余計に、その傾向は強くなった。日常生活ではめったに起こることではなかった不思議が、戦場では、気持ちが悪いくらいに頻々と起きた。たぶん、極限状態にあって、理性よりも本能が優位に立ち、感覚がぎりぎりまで鋭敏に研ぎ澄まされたおかげで、自分に最も近い存在との間を隔てる境を越えて、感応する力が強まったのだろう。それは生き延びるチャンスを少しでも増やそうという本能の働きだったのかもしれない。同じ考えで判断し、それがすぐに伝わり、同じ呼吸で動く相棒が傍にいることで、彼らは、一人でいる時よりも格段に強くなり、サバイバルゲームに勝ちつづけた。

彼ら自身も、その一体感を楽しんだ。時には、ゲームそれ自体よりも、パートナーと限りなく一つに近い状態にあること、つながっているという感覚、共に高めあう昂揚感といったものに、他ではちょっと見つからない、自分達だけに分かる快感を覚えていた。

彼らは、お互いに支えあい、依存しあっていた。一つの胎内で、ひとしく、お互いのために作られたものであるかのように、その関係が、あまりに完璧であったので、それにかわる他の何かなど考えられなかったのだ。

「あっ…あ…」

体を支えるようによりかかっていた操作機器から、クリスターは、ずるずると崩れ落ちた。心臓を貫くような激痛に声も出さずに、震える手で、胸を鷲掴みにし、死につつあるものように床の上でのたうち、転げまわった。空気を求めて口を開き、喘いだが、しばし、呼吸することすらできなかった。 

(レイフ…レイフ…!)

自分ではどうにもならない力に引きずられ、引きずりまわされながら、クリスターは、同時に必死になって手放すまいとしていた。切り離されて、生きることなど、できるはずもない。だが、一緒に行くこともまた不可能だった。

ついに、何かがぷっつりと引き千切られたような気がして、それと同時に、彼を苛む激痛も、苦痛も、潮が引くように消え去った。

永遠に、去っていった。

(レイフ…)

この世に生れ落ちた時から、いや、それ以前から、ずっと一緒にいた。傍にあることがあまりにもあたり前だったので、失う時のことなど、考えたこともなかった。馬鹿げたことではあるが、死ぬ時もきっと一緒に死ねると思っていたのだろうか。クリスターは、何よりも、自分一人が取り残されてしまったことに、呆然としている。

レイフは、死んだ。確かめるまでもなく、分かっていた。

クリスターは、床の上に仰向けに横たわり、しばし、そのまま動かず、ゆっくりと胸を上下させながら、天井を見るともなく見ていた。

頬を、温かいものが伝い落ちるのが感じられた。傷口から、まだ血が溢れているのかと思ったが、違った。

もともと、めったに涙など流したことはなかった。彼は、弟とは違っていた。レイフは、昔から、よく泣いた。哀しければ人目もはばからず大泣きし、嬉しいなら嬉しいで、やはり泣いた。同じくらいよく笑い、怒りも激しかった。クリスターが、めったに感情を揺さぶられることがない分、レイフが、それらを一手に引きうけているかのようだった。そんな弟の傍にいて、よくそれだけ変わるものだと感心するような、表情や瞳の輝きを見るのが、感情の起伏にあわせて、やはりころころ変わる声の調子を聞くのが、クリスターは好きだった。全ての喜びが、心動かされる思いが、レイフと共にあった。もう一人のクリスター、彼の魂の半分。

クリスターは、見開いた双眸から溢れる涙をぬぐうために手を上げることもなく、全ての力を使い尽くしたかのように、そこにじっと横たわり続けた。

この凄まじいまでの喪失感以外は何も感じられないでいた、クリスターだが、しかし、一つの決意だけは、しっかりとその胸に刻み込んでいた。

(このままでは、終らせない…)

彼と弟が二人でしかけた、このゲームは、まだ終わってはいない。そして、今のクリスターにとって、重要なのは、いかに勝つかではなかった。いまやゲームはその意味を変え、クリスターが、考えているのは、それをいかに終らせるかという一点についてなのだった。

クリスターの中で、何か砕けた。恐ろしいまでの虚無感の海を漂いながら、ばらばらに散っていきそうな心をかろうじて繋ぎとめる為に、彼は、こうつぶやいた。

(決して、君を逃がしはしない、カーイ…例え、どこまで逃げても、必ず私が追いつめる)


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