愛死‐LOVE DEATH

第十六章 逆転


カーイが、初めに意識したのは、息の詰まりそうな窮屈さだった。どこだか分からない、異様に狭苦しい場所に押し込められているらしい。だが、目を開けようとしても、瞼は持ち上がらず、指一本動かせない。体の感覚も、ひどく鈍く、ほとんど全身が麻痺していた。

意識も記憶も初めは混沌として、何故自分がこんな状態になっているのかも分からず、激しく誰かと戦ったような覚えはあったものの、全ては夢の中の出来事であったかのように現実感を欠いていた。

一方で昔のことばかりが思い出された。幸福だった子供時代に、ソファでぐっすり眠りこんでいたカーイを、優しく揺すって起こした母の声が、すぐ耳元で聞こえたような気がして、彼は、我知らず微笑んでいた。それから、強張っていた顔の筋肉が、何時の間にか動くようになっていることに気づき、ゆっくりと瞼を開けた。そして、狭い箱のようなものに己が閉じ込められていることに気がついた。一体、誰が、こんなところにカーイを押し込めたのか。

それから、ふいに全ての記憶が奔流のように脳の中に流れこんできた。カーイは、ぞっと身震いして、この箱の中から逃げ出そうとあがいた。力の入らない腕を伸ばして、目の前の壁を押したり、足で蹴ったりしているうちに、がたんという音を立てて、目の前がいきなり開かれた。白っぽい光が上から降り注いで来て、カーイは、まぶしげに手を目の前にかざした。それから、重い体を引きずり上げて、やっとの思いで、その狭い箱のようなものから這い出ると、床に崩れるように、落ちた。そうして、そこに坐りこんで、しばらく、荒い息をついていた。

(一体、ここはどこなのだろう?あの倉庫での戦いで、私は…そう、私は、奇妙な武器の直撃を受けて、ほうほうの態で逃げ出したんだ。あの状態で、敵に見つかってはいけないと思って、必死で逃げて、ついに意識を失った…どうやら、彼らは私を見つけることはできなかったようだけれど…)

それから、後ろを振り返って、自分が隠れていた場所を、改めて、つくづくと眺めた。少々情けない気分になって、カーイは、唇をすぼめた。追っ手を避ける為に、無意識のうちに、自力で逃げ込んだのならば、我ながら大したものだが、それにしても、もう少しましな場所を選べなかったのだろうか。床の上に倒れていた、ありふれた、がたついた大型ロッカーとは、あんまりだ。カーイの美学に反する、こんな恥ずかしい話は、永遠に、誰にもできないだろう。

(体は、どうやら、ちゃんと動くようだ。まだ、少しふらついているけれど、こんな所で、いつまでもじっとしているわけにもいかない。スルヤを早く探さないと…)

追われることにも、戦うことにも、もう、うんざりしていた。できるなら、あの男達と再び接触する前に、スルヤを見つけて、助け出したい。そうすれば、こんな場所、すぐにでも出ていってやる。

そうして、カーイは、だるい体を叱咤して、起き上がり、それまで隠れていた部屋から出ていった。

とぼとぼと歩いているうちに、どうやら、ここは初めに足を踏み入れた工場らしいことに気がついた。このどこかにスルヤが隠されているということは、ありうるだろうか。上の階にもあがって、調べてみるべきだろうか。それとも、ここと隣接している、もう一つの巨大な建物に行ってみるべきだろうか。

歩いているうちに、また体がひどくふらついて、カーイは、立てなくなった。壁に寄りかかって、しばらく休んでいると、天井に、光る監視カメラを見つけた。そうだった、この建物内では、カーイの行動は、ほとんど敵側に筒抜けなのだ。本当に、気を失っている間、よく見つからなかったことだと、自分の運のよさに感謝した。だが、カーイがここにいるということは、既に傭兵達に知られている。今は、静かに息を潜めているけれど、やがて、またカーイを追いかけ、攻撃してくるだろう。今の状態では、彼らの攻撃を受けとめるのは、きつかった。多分、逃げるのが精一杯だろう。それも、完全に逃げきれるかも自信がない。だが、それを言うなら、彼らの武器もそろそろ尽きてきたころではないだろうか。状況は、お互い、五分五分というところかもしれない。

考えるのも、頭が疲れていて億劫だったが、考えないわけにはいかなかった。この行き詰まった現状をどう打破するべきか。スルヤを取り戻したい。

カーイは、衰えた力を取り戻そうとするかのように、じっと目を瞑って、時がたつのを待った。どのくらい、そうしていたのか、あるいは、また少し意識をなくしかけていたのかもしれない。

(カーイ・リンデブルック)

いきなり、天井近くでカーイを呼ぶ声が響いたのに、彼は、飛び上がるようにして身を起こした。反射的に振り仰ぐと、天井近くに設置されたスピーカーが目に付いた。

(私は、クリスター・オルソン。君と戦った傭兵部隊の指揮官だ。手近にある、社内通話用の電話を取りたまえ)

スピーカーを通しても凛とよく響く声がそう命じるのに、カーイは、唇を噛み締めて、しばらく思案を巡らせていたが、やがて、廊下の壁に備えつけてあった電話の受話器を取り上げた。

(君の回復力の早さには、感心するばかりだよ)

受話器を通してカーイの耳に語りかれる声は、敵意を感じさせるものではなく、穏かな笑いさえ含んでいた。とても、ついさっきまでカーイを殺そうとしていた男のものとは思えなかったが、それだけに、余計に不気味で底知れない恐ろしさを感じさせる。ここに呼び出された時、スティーブンの携帯を途中で奪ってカーイの声を聞いていたのも、この男なのだろう。カーイの心臓の鼓動は、天敵を前にした獣のように、早くなってきた。

「残念でしたね。私を捕まえられなくて。せっかくの機会でしたのに」

努めて冷静に響くよう、カーイは答え、天井のカメラをにらみつけた。

(ああ、そうだね。とても残念だった。それについては、君は、スティーブンに感謝すべきだな。何しろ、君を見つけながら、我々に発見されないよう隠したのは彼なのだから)

カーイは、瞠目した。

「何ですって?」

カーイの動揺ぶりを楽しむかのようにしばし黙した後、クリスターは、言った。

(君はそうして再び動けるようになったが、さすがに、かなり消耗しているようだ。そして、君の捕獲の機会を失って、我々の作戦も行き詰まっている。そこで、一端休戦とし、君と交渉する機会を持ちたいのだが、どうだろうか)

カーイは、当惑して、黙りこんだ。それに、スティーブンが、カーイを救ったという話にも衝撃を受けていた。にわかには信じがたい話だ。大体、何故彼がカーイを助けなければならないのだ。もしかしたら、これも、カーイの心理状態を揺さぶろうという策略なのかもしれない。カーイが、用心深く、答えるのを躊躇っていると、クリスターは、穏やかな声で、付け加えた。

(ああ、そう、もちろん君が探している、あの男の子の身柄をどうするかについても、相談するつもりだよ)

カーイが、はっと息を呑むのを見計らったかのように、僅かな凄みのこもった声で言った。

(心配しなくてもいい。あの子は、無事だよ、今の所はね)

カーイは、憎々しげにカメラを睨みつけた。

「交渉というより、脅迫に聞こえますよ」

カーイの憎まれ口を、クリスターは平然と無視した。

「その廊下をまっすぐ行きたまえ。渡り廊下を通って、隣の研究所に移るんだ。玄関の広いフロアーに出たら、突き当たりの廊下を左折しろ…」

クリスターが指定する場所への行き方を頭の中に刻みこみながら、カーイは、そこにスルヤもいるのだろうか、そのことばかり考えていた。

(さて、では、君がやって来るのをここで待つことにしよう)

カーイは、息を吸いこんだ。

「待ちなさい、そこにスルヤは…?」

だが、カーイが問いをぶつけるより先に、通話は一方的に切られてしまった。こうなっては、実際に、指定場所に行って、確かめるしかない。

受話器を叩き付けるようにもとに戻すと、カーイは、心を静める為に深呼吸をして、それから、疲れ切った体に鞭打つように、指定場所目指して、歩き出した。





「クリスター!」

クリスターの指示通りに、「交渉」のセッティングをすませ、後はターゲットを呼び出すばかりとなり、他の仲間達が、別の待機場所に引き上げていくのを見計らって、レイフは、兄の腕をつかんで、自分の方を振り向かせた。

「やっぱり、こんなことはやめよう。危険過ぎるよ、兄さん」

「危険な仕事なんか、これまでだって、しょっちゅう引きうけて、やり遂げてきたと思うけれどね」

笑って、その手を離すクリスターに、レイフは、なおも言い募った。

「それなら、オレが、ここに残って、奴と会う。その役、オレに代われよっ」

クリスターは、肩をすくめた。

「おまえには、交渉ごとなんて、逆立ちしたって無理だよ、レイフ」

「じゃあ、おまえの護衛として一緒に残るくらい、いいだろう?」

「それも駄目だ」

レイフは、ぐっと言葉につまり、黙りこんだが、その目は、不安そうに大きく見開かれて、無言のうちに、必死にクリスターに訴えかけていた。離れたくない。

クリスターは、そんな弟を、ちょっと困ったように見返した。全く、こんな顔をすると、レイフは、見ているクリスターの方が気恥ずかしくなるくらい、子供の頃のままだ。ごく小さかった頃、彼は、双子の兄と片時でも離れることを嫌がった。それでも、離れ離れになったことはあって、クリスターが事故で入院したり、両親が短期間別居状態になった時など、大泣きして、嫌だとごねる弟をなだめるのは、精神的にずっと早熟な兄の役目だった。

(大丈夫、すぐに、また会えるよ)

そんなことを、一体何度この片割れに言い聞かせてきたのだろう。大人になると、そうした照れくさい思い出は、レイフ自身は都合よく忘れてしまって、たまに話すと非常に嫌な顔をするのだが、中身は、やはり大して変わっていないのかもしれない。

そんなことを、クリスターは、多少頭が痛くなるような思いで考えながら、レイフの頭に手を伸ばし、引き寄せた。こつんと、お互いの額を軽く当てるようにして、それから、自分でもこんなに優しい声が出せるのかと驚くくらいに、深い愛情のこもった声で囁いた。

「全く、何て顔をしているんだい、レイフ」

そう、いつだって、クリスターの中から人間的な優しさや暖かさを引き出してくれるのは、レイフだった。同じ修羅場をくぐりぬけてきながら、相変わらず、昔と同じ柔らかい心を持ちつづけているレイフが羨ましく、それだけに可愛い。想像もつかないことだが、もしレイフがいなくなってしまったら、クリスターは、本当に、何の感慨も覚えずに人を殺しつづけるだけの、殺伐とした、ただの殺人機械になってしまうかもしれないとさえ思う。

「心配しないで。すぐに、また会えるから」

レイフは、まだ何か言いたげだったが、どんなに反対しても最後には兄になだめられまるめこまれてしまう、いつものように、不承不承ながら、頷くのだった。

「仕方がないな。でも、クリスター、くれぐれも用心してくれよ」

「ああ。万が一、交渉決裂ということになって、ターゲットと戦うことになっても…その時は、おまえが助けに来てくれるまで待ちこたえてみせるさ」

「うん」

何ものにも彼らを引き離すことはできない。最後にはいつだって、この唯一の相手のもとに戻ってこれた。

彼らは、複雑に絡まりあって伸びた二本の蔦だった。離れて生きることなど、不可能だ。

だからこそ、必ずまた会えると、ひとかけらの迷いも疑いもなく、クリスターは、そう言ったのだ。

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