愛死‐LOVE DEATH

第十六章 逆転


彼は、今、無そのものになっていた。

体の組織の機能が完全に停止していたので、その眠りには夢が入りこむ隙もなく、本来彼にとっては無縁の、死の状態に限りなく近かっただろう。  

それでも、本当に死んでいる訳ではなかった。

その体には依然凄まじいエネルギーが秘められており、それが、彼を再び生き返らせるために、体中の組織に、細胞の一つ一つに働きかけていた。

通常ではありえない速度で、組織の中に浸透していた氷の結晶が溶け、ゆっくりとではあるが動き出した心臓が、凍り付いていた血管に、徐々に血を送り出す。

氷の人形にしか見えない彼の中に、そうして命が巡り出した。

血。紅い血。彼の源、力の根源が。

その肌が柔らかさを取り戻し、すべらかな指が動いて、持ちあがるのに、それほど時間はかからないだろう。

目覚めは、すぐそこにまで来ていた。





工場の三階部分を担当していたクリスターとマグナスは、程なくして、そこに目指すターゲットは潜んでいないことを確認した。

天井のユーティリティー・トンネルにももぐりこんで、捜索したが、そこもクリアーだった。

となると、他の連中が調べている下の階のどこかということになる。だが、依然として、他の誰からもターゲットを確保したという連絡は入ってこない。

クリスターは、微かな焦燥感を覚えながら、腕時計を見おしろた。十分を丁度回ったところだ。カプセルに収容するのに要する時間を計算に入れると、そろそろ、ターゲットを発見しないとまずいことになる。

その時、クリスターのマイクロフォンに、一階を調べていたレイフからの通信が入った。

(クリスター、こっちのクリアリングは完了した。奴はいなかったよ)

「そうか…」

(今、取り敢えず三階に向かっている所だが、そっちの首尾はどうだい?)

「ここにも奴はいなかったよ。となると、後は二階か…待て、ジョンから通信が入っている」

マイクロフォンを切り替え、二階部分を捜索していた仲間との交信に入った。

(クリスター、二階部分の捜索完了。トンネルとシャフトも探したが、奴らしい姿は見つけられなかった)

クリスターの眉間に深いしわがよった。

ターゲットの姿が見当たらない。どういうことなのだろう。この工場にはいないということか。それとも、自分達が見落とすような、人目に付きにくい入り組んだ場所に、入りこんでしまったのだろうか。

もう一度、一から探し直すべきだろうか。だが、もうあまり時間はない。

クリスターが思案にくれている時、エレベーターで三階に上がってきたレイフ達が、廊下の向こうからやって来た。

「クリスター」

弟が呼びかけるのにそちらを振り向いたクリスターは、レイフの後ろにスティーブンの青ざめた顔を見つけ、眉を吊り上げた。

「ジョンは、どうだって?ターゲットは見つかったのか?」

期待を込めてそう尋ねるレイフに、クリスターは固い表情で、首を横に振った。

「そんな…それじゃあ、一体、奴はどこにいっちまったっていうんだ?」

レイフも時間のことが気になるのだろう、焦りと不安を、クリスターと同じ琥珀色の瞳にうかべて、つぶやいた。

そんな弟から、クリスターは、視線を、背後で影のようにおとなしくしているスティーブンに向けた。

「一体、どこで彼を見つけたんだい、レイフ?」

いつになく、自分の声がふつふつとたぎるような怒りをはらんだものになっていることを、クリスターは意識した。レイフが、びっくりしたように顔を上げた。

「えっ…この工場の一階だよ。ターゲットを探している時に、会ったんだ」

居心地悪げに身じろぎをして、耐えかねたかのように、クリスターの刺すような注視から顔を背けるスティーブンに、ますます不審の念を深めながら、彼は言った。

「なぜ、よりによって、こんな時に、司令室から脱け出して、工場になどいたのかな、スティーブン?」

尋問するかのような口調で、スティーブンに近づいていきながら厳しく問いただすクリスターに、レイフは、幾分慌てて、彼とスティーブンの間に割って入った。

「ちょっと待てよ、クリスター。こいつが司令室を脱け出したことと、俺達がターゲットを見つけられないでいることとは、関係ないだろう?」

その瞬間、クリスターは、火のような目でレイフを睨みつけた。虚を突かれるレイフを、もどかしげな、苛立ちと同時に憐れみを感じているかのように表情で見つめ、重々しく唇を開いた。

「本当にそう思っているのなら、レイフ、おまえの人のよさは致命的だよ」

それから、何か言いたげなレイフを押しのけるようにして、クリスターは、スティーブンの前に進み出た。

スティーブンは、思わず怯んだように、じりっと後じさりした。

「スティーブン」

顎を上げるようにして傲然とスティーブンを見下ろすクリスターと、その視線にたじろぎながらも、果敢にも睨み返しているスティーブンを、レイフと仲間達は、当惑したように見守っている。

クリスターの鋭い眼差しは、スティーブンの全身をくまなく調べるように素早く動き、何か不審な点はないか注意深く観察した。クリスターの命令に逆らって司令室から脱け出した、そのことを差し引いても、今のスティーブンに態度は、どこか変だ。クリスターを前にしても、呑まれまいと果敢に抵抗しにらみ返してくる気概は残っているようだが、その心がひどく揺れていることは、おちつかなげに揺らいでいる瞳と、緊張のあまりしきりと上下するのどもとに表れている。不自然に発汗しているし、これは、何かを隠しているなと、分析することは容易かった。その時、クリスターの視線が、スティーブンの服の袖口で、ふととまった。

「クリスター、一体、スティーブンが、何をしたっていうんだよ?」 

たまりかねたかのように再び口をはさもうとする弟を、振りかえりもせずに、クリスターは手で制した。

「スティーブン」

再び名を呼ばれて、スティーブンの緊張と恐怖感はぎりぎりまで高まった。この男はごまかせない、そう悟った、まさにその時、この上もなく優しくも聞こえるくせに、ひどくぞっとするような残酷さを帯びた声がささやいた。

「君の服の袖ぐちに付着している、それは、一体なんなのかな?」

ぎょっとなって、スティーブンは腕を上げ、おのれのセーターの袖を調べてみた。すると、そこには、白い氷の結晶めいた、きらきらした物質が付着していた。カーイの体を覆っていた薬品の結晶だ。その体に触れ、移動させた時に、付着したのだ。

しまったと思った、その時には、既に遅かった。クリスターが腰からぬいたデザート・イーグルが、ぴたりとスティーブンの額に狙いを定めていた。

「獅子心中の虫というわけだ」

断罪するかのように冷然と響くクリスターの声を、どこかひどく遠いものに聞きながら、スティーブンは、己にあてられた銃口を呆然と凝視していた。

「スティーブン…おまえ……」

低く喘ぐような声が、クリスターの後ろから聞こえた。レイフが今どんな表情をしているのか、スティーブンには、とても確かめる気持ちにはなれず、観念したように、目を閉じ、がくりとうなだれるだけだった。

「スティーブン、君の言い分を聞くだけの時間的な猶予は我々にはない。私が知りたいのは一つだけだ。答えなければ、この場で君を処刑する。さあ、素直に答えたまえ。彼は、どこにいる?」

ただの恫喝ではなく、本気なのだ。この男なら、そのくらいのことは、顔色一つ変えずにやるだろう。トリガーにかけられた指にぐっと力が込められることを感じながらも、スティーブンは、依然として、顔をうつむけ、口を固く引き結んだまま、沈黙を守りつづけた。

「おい…何とか、言えよっ!」

堪えかねたかのように、レイフが、そう叫んだ。荒々しく、クリスターの横を通りすぎ、スティーブンの横に立つと、彼の髪を乱暴に掴みしめて引き寄せ、こみ上げてくる怒りに任せてぬいた銃口をそのこめかみにぐっと押しつけた。

「おまえ、まさか本当にあいつを庇うために、俺を騙したのか?違うなら、違うって言えよ!」

信じられないというような、その叫びは、思ったよりも、スティーブンには心には痛かった。スルヤを人質に取られた時点で、レイフのことは、憎むべき敵なのだと考えようとしていたはずなのに、どうやら、憎みきれなかったようだ。

「スティーブン!」

頑なに口を閉ざしたまま、レイフの方を見ようとはしないスティーブンに、彼はかっとなった。髪を掴んでいた手を離し、そのまま、スティーブンの頬を張り飛ばした。平手とはいえ、鍛えぬいたレイフに打たれたのだ。スティーブンの体は易々と弾き飛ばされて、床に転がった。呻き声も立てず、歯を食い縛って、痛みにじっと耐えるかのように床の上で身を震わせた。

「レイフ、そこまでにしておけ。今は、スティーブンの話を聞くことが先だ」

まだ殴り足りないかのように、振り上げた拳を震わせる弟に鋭く言って、クリスターは、ルフラーとマグナスに命じて、スティーブンを床から置きあがらせた。

両腕を屈強な男達に捕らえられ、支えられるようにして、スティーブンは、クリスターに再び向き合うことになった。レイフから受けた一撃で口の中を切ったのだろう、引き結んだ唇の端からは、血が滴っている。

「もう一度聞く。スティーブン、彼を、どこで見つけた?」

クリスターのピストルが、スティーブンの顎の下にぐっと押しつけられた。

スティーブンは、すぐ目の前に迫ってくるクリスターの冷酷な顔を、死神と向き合っているのかのような心地で、なすすべもなく見ていた。

「言わなければ、このまま、引き金を引く」

スティーブンを支える傭兵達が、発砲に備えるように体を横にずらした。スティーブンの体は、どうしようもない震えに支配され、一人ではとても立ってはいられないくらいに膝からは力がぬけていった。

だが、それでも、スティーブンの口は開かなかった。強い呪縛に捕らわれたかのように、唇は縫い付けられ、舌は乾いた口の中ではりついていた。これが自分の意思なのか、もっと魂の深いところにすりこまれた、暗示なのか、彼にももう分からなかった。

何故、ここまで? 

クリスターの冷徹な顔に、僅かな当惑が広がり、ついで、それは明確な殺意に変わった。外国人傭兵は、通常、戦場で捕らえた敵を捕虜にすることはなく、その場で殺す。いつ襲い掛かってくるか知れない敵を生かして捕らえておくだけで、戦闘行動の妨げになるし、やがて解放されれば、自軍に戻って再び敵としてぶつかるだけ相手など、倒せる時に倒しておくにこしたことはないからだ。

そして、スティーブンは、今や明らかに彼らの敵に回っていた。生かしておけば、これからの作戦行動の妨げになるかもしれない。

トリガーにかかったクリスターの指に力が込められた、その瞬間、だしぬけに、司令室のジェレミーからの緊急連絡が入った。

(ク、クリスターさん、奴です!)

その悲鳴のような声は、マイクロフォンをつけていたレイフ達にも聞こえた。

(工場の一階部分です、今、廊下をゆっくりと歩いています)

スティーブンの喉に銃口を押しあてたまま、クリスターは、肩で大きく息をついた。それから左腕の腕時計を見下ろした。時間はまだ十五分を回った所だ。信じられない。MK89の直射を受けながら、たったの15分で、歩けるようになるまで回復したというのか。

(近くのビデオスクリーンをオンにしてください。こちらから、奴の映像を中継します)

射殺されることを半ば覚悟していたスティーブンは、己にぐっと突きつけられていたクリスターのピストルが、唐突に下ろされたことに、呆然とした表情をうかべた。

「彼が、目覚めた。これが、君の望んだことなのかな、スティーブン…?」

怒りよりも、むしろ憐れむような一瞥をむけて、クリスターは、スティーブンに背を向けた。

スティーブンの望んだこと。そう、親友の命よりも、ぎりぎりのところで、カーイを救うことを選んでしまった。傭兵達の手が離れるのに、スティーブンは、そのまま、ずるずると床に崩れ落ちてしまう。

(カーイが目を覚ました。そう、俺が、この手で、奴を仕留めるチャンスを潰した…)

床の上で、すべての力を使い果たしたかのように、がくりと坐りこんだままのスティーブンを、監視のための兵士を一人つけたままそこに残し、クリスター達は、近くにある、この工場のシステム管理室に入り、そこにとりつけられていたビデオスクリーンをオンにした。隣の研究施設にある指令室から、ジェレミーが送ってきた画像が、スクリーン上に流される。

「何てこった…」と、クリスターの傍らで、レイフが、何とも悔しげな、絶望的な声を漏らした。さすがのクリスターも、目の前で動いている映像に、声も出ないようだった。

廊下の壁に手をついて、ふらつく体を支えるようにしながら、カーイは、ゆっくりと足を踏みしめるように、廊下を歩いていた。本当なら、その組織はまだ凍り付いているはずなのに、ぎこちないながらも体が動いているところを見ると、恐るべき速度で活動可能なレベルにまで体温は上昇し、組織も修復したのだろう。

「クリスター、どうする…?今なら、奴もまだ本調子じゃないみたいだし、もう一度アタックをかけてみようか。全力であたれば、何とかなるかもしれない」と、レイフが、恐る恐る尋ねるのに、クリスターは、否定的に首を横に振った。

「それをするにも、弾薬は、ほとんど残っていない。MK89も、おまえの言ったように、一度使ってしまったら、あんな絶好のチャンスは二度と得られないだろう。駄目だ、希望的観測で作戦はたてられない」

レイフは口をつぐんで、スクリーンを厳しい顔で睨みつけている兄を、不安げに見守った。そして、体の横で拳をぐっと握り締め、無念でならないというように唇を噛み締めると、思い切ったように、再び口を開いた。

「…撤退しよう、クリスター」

クリスターは、肩を僅かに震わせて、レイフを振りかえった。撤退の選択肢は、丁度クリスターの頭にもうかんでいたのだが、それを先に口に出したのが、この戦闘的な弟であったことに軽い衝撃を覚えていた。

「屋敷に戻って、作戦を練りなおそう。今のままじゃ、あいつを仕留めることなど、無理だ」

クリスターの顔に、迷いがよぎった。必死に訴えるかのような弟の顔を眺め、それから、スクリーンに映るヴァンパイアの方に視線を移した。ここで話し合っている僅かな時間の間にも、その機能はどんどん回復を見せている。これまでのような戦いを、この怪物相手に繰り返すことは、不可能だろう。

では、やはり撤退するしかないのか。ここまで、あの未知の存在に近づき、一時は手に入れる寸前にまで追いつめながら、何も得られぬままに空しく退くのか。次の機会?だが、そんなものは、このミッションに関しては、クリスターは想定していなかった。初めから、チャンスは、この一度だけだと思っていた。

「分かったよ、レイフ」

兄が、そう答えるのに、レイフは、心底ほっとした顔を見せた。だが、クリスターの意味することは、弟の期待とは異なっていた。

「戦いは、取りやめだ。だが、最後に、別の策を試したい」

レイフは、面食らって、目をぱちぱちさせた。

「策って…一体、何をするつもりなんだよ、クリスター?」

「せっかく、我々の手のうちには「人質」もいることなんだし、この際、最大限に利用させてもらうことにしよう」

「えっ?」

戸惑う弟と仲間達をゆっくりと見渡し、クリスターは、後ろのスクリーンに映し出されているヴァンパイアの方を、肩越しに親指で示すようにした。

「これよりターゲットとの交渉に入る。…取引するんだよ、彼と」

レイフが言われたことを理解するのに、少しの間があった。

スクリーンの前で、僅かに首を傾げるようにして、不敵な笑いを薄い唇にうかべている、双子の兄を、レイフは、今初めて出会ったものであるかのように、つくづくと眺め、愕然と呟いた。

「何だって…?」

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