愛死−LOVE DEATH

第十五章 窮地


カーイは、パニックに陥っていた。一体何が起こったのか、よく分からないが、自分が非常にまずい状況に陥ったことだけは、分かっていた。とにかく逃げなければ、あの男達からできるだけ遠くにまで逃げなければという思いで、無我夢中で壁をぬけ、床をつきぬけて、移動した。

倉庫から飛び出したということは分かったが、自分がどこにたどり着いたのかは皆目見当がつかなかった。

周りを見て確かめる余裕もなかった。

(一体、何だったのだろう、あの武器は…大した痛みはなかったけれど、でも…)

それから、自分の全身に何か変なものが付着していることに気がついた。

白い霜のようなものが体中を覆っている。凍り付いているのだ。手で払いのけようとしても、既に服の内部まで染みこみ、皮下組織までも侵しつつある低温の物質を拭い去ることはできなかった。

よろよろと立ちあがろうとしたが、途中でカーイの膝は砕け、どさりと床に倒れこんだ。固いコンクリートの床で体中を強打したが、痛みどころか、何も感じなかった。

(眠い…一体、どうしたのだろう、引きこまれるようなひどい眠気が襲ってくる…駄目だ、こんな所で意識を失っては…立ちあがって逃げなければ…あの男達が、やってくる…)

それから、あの男達とは一体誰のことなのだろうと、首を傾げた。意識が朦朧として、思考がまとまらない。

(スルヤ…ああ、あなたのもとに行かなければならないのに…)

カーイは、あがくように床の上で最後の抵抗を試みたが、力の入らない腕を支えにして上体を起こしかけた所で、ついに力尽き、その場に倒れ伏した。

その体を取り巻いていた不思議な輝きも、とうに消え、後には、体中をきらきらした氷の結晶に覆われた、白い美しい人形が、そこに横たわっていた。

意識が途切れる直前に、カーイの耳は捕らえていたかもしれない。すぐ近くを歩く、人の足音を、それが、己のもとに近づいてくるのを。だが、今の彼には、戦うことも、抵抗することも、逃げ去ることさえもできない。

足音は、一瞬も何かしらはっとしたように止まり、それから、ひどく慎重な動きで、カーイのいる場所目指して、歩み寄ってきた。

カーイは、もう何も聞こえず、何も見ない。全ての力を奪われて、凍り付いてた眠りの淵に深く捕らわれている。

ギイッと、さびついて重くなった扉の開く低い音が響いた。廊下から差す、白っぽい蛍光灯の明かりが暗くこの空間に一筋の線となって差しこみ、そこに横たわる美しい吸血鬼の白い横顔に届く。

誰かが、息を飲む密やかな音がし、そして…。 




白い結晶に覆われた床には、砕け散った鏡の破片が散らばっていた。

天井から差す白っい灯りをはね返して、きらきらと輝く、それら鏡の欠片の一つを黒い戦闘ブーツが踏みしめ、砕いた。

傭兵達は用心深く四方を警戒しながら、壁の突き当りまで近づいて、床に転がるガスボンベの陰や辺り一帯を確かめたが、肝心のターゲットの姿は、やはり見つからなかった。被弾はしたはずだが、最後の力を振り絞って、ここから逃げたらしい。

「ジェレミー、ターゲットの位置を調べてくれ」

クリスターに命じられるがままに、司令室のジェレミーが必死になって、監視カメラと熱及び運動センサーを、目を凝らすようにして眺め、消えたターゲットの行方を追った。

(ターゲットは、その倉庫から脱出して隣の工場に逃げ込んだようです。ですが、センサーから、その反応は消えてしまったので、今、奴がどこにどうしているのかは、分かりません。監視カメラにも現在の所、映っていないようです)

緊張を帯びた若者の声に、クリスターは、ゆっくりと頷いた。

「センサーが感知できないのは、彼の体温が下がり、活動も停止状態に陥ったからだ」と、しばし黙って考えを巡らせた後、クリスターが、彼の言葉を待ちうける仲間達に向けて、冷静に言った。

「工場部分のどこかに、意識を失った状態で倒れているはずだ。しらみつぶしに探して、彼の活動レベルがもとに戻る前に確保するんだ」

クリスターは、左腕の時計を見下ろして、時間を確認した。

「MK89の効果が確実に保証されているのは20分だ。それまでに、彼を見つけ出し、輸送用の低温カプセルに収容する。急ぐぞ」

クリスターの命令に、やっとの思いで、二人の犠牲者を出し、これほどまでに手を焼いたターゲットを追いつめた傭兵達は、気迫のみなぎった声で雄々しく答えた。

その時、ジェレミーの遠慮しがちな声が、クリスターの耳に届いた。

「すいません、クリスターさん、一つ、耳にいれたいことがあるんです」

「どうした?」

「その…スティーブンが、何時の間にか、この司令室から消えてしまったんです。初めはすぐ戻ってくるだろうとも思っていたんですが…一体、こんな危険な状況の中に一人でどこに行ったのか、全く見当もつかなくて。どうすれば、いいでしょう」

クリスターは、傍らで怪訝そうに交信中の兄を眺めているレイフの方をチラリと見、それから、やや押さえた声でマイクに向かって囁いた。

「君は、そこから動くな、ジェレミー。ターゲットの捕獲が完了するまでは、無闇に動き回ることは避けた方がいい。スティーブンのことは、後で考えよう。もしかすると、こちらで見つけることができるかもしれない」

クリスターが交信を切ると、待っていたかのように、レイフが、その腕をつかんだ。

「おい、スティーブンの奴に、何か…?」

クリスター、軽く肩をすくめて見せた。

「司令室から急にいなくなったそうだ」

「いなくなったって…一体、どこに…?」

「さあね。それに、そんなことに今は関わりあっているべき時ではない。そうだろう?」

素っ気無くそう答える、クリスターの声には、微かな苦々しさがこもっている。

スティーブンの奴、クリスターをまた怒らせたなと、レイフは、ひやっとしながら思った。それから、この非常時に本当にどこに行ってしまったのかと、その行方と、身の上を案じた。スティーブンに対する負い目をぬぐいきれないレイフには、やはり、彼は気になる存在であるようだった。

「これより、三組に分かれ、工場部分の一階から三階、更には屋上までを、カメラでは捕らえきれないような隅々至るまでを捜索する。シャフトやトンネルの中もだ」

後もう一息。

あの手強いターゲットを捕獲する、これは唯一のチャンスになるかもしれないのだ。

ハンター達は、それぞれ携行する武器を構え直し、気を引き締めて、足早に、手負いの獲物を求め、工場に向かって、移動し始めた。




スティーブンが、ジェレミーから失敬したピストルを手に、戦闘が行なわれている大型倉庫目指して、隣接する工場の一階部分を急ぎ足で歩いていた時のこと―。

ふいに、彼は、がたんと何か重いものが壁にぶつかって倒れこむような音をすぐ傍に聞いて、はっと息を飲んで、立ち止まった。

(誰だ?レイフの仲間の傭兵が、この辺りにもいたのか?それとも、ジェレミーの奴が追いかけていたんだろうか?)

ピストルを胸の前に持ち上げるようにして構え、どくどくとせわしなく鳴り響く鼓動を意識しながら、スティーブンは、じっと息を殺して、相手の気配をうかがった。 

一階のほとんどのスペースを占める、広大な工場の側面に面しているまっすぐな廊下の中ほどに、スティーブンは今立ち尽している。どうやら、先程の物音は、2、3メートル進んだところにある部屋の扉の内部から聞こえたらしい。

どうするか、気配を殺して通りすぎるか、それとも音の正体を確かめるかと迷うように、スティーブンが、様子をうかがっているうちに、またしても、微かな物音が、部屋の中から聞こえた。それとともに微かな人の喘ぎ声のようなものも。

スティーブンの背中の皮膚がぞくりと粟だった。はっきりとは聞き取れなかったが、その声に、聞き覚えがあるような気がしたのだ。

(まさか…まさか……)

スティーブンは、心を静める為に大きく深呼吸して、それから、意を決したように、そろそろと、中に何者かが潜んでいるらしい部屋に向かって前進した。

(そういえば、ついさっきまであれほど激しかった、銃声や爆発音が、今はぴたりと止んでいる。一体、倉庫の方は、今、どういう状況になっているのだろう)

スティーブンは、震える手を伸ばし、スチール製のドアのノブを捕らえた。音を立てぬよう、慎重にノブを回し―幸い施錠はされていなかった―ゆっくりとドアを開いていった。

(ああ、まさか―)

部屋は真っ暗だった。ドアが開かれたことによって、廊下の明かりが部屋の内部に差しこめ、誇りっぽいコンクリートの床に、黒々としたスティーブンの影をうかびあがらせる。

どきんと、スティーブンの胸の中で、心臓がはねあがった。

誰かが、部屋の奥で倒れている。

スティーブンは、目を凝らして、暗がりの中に横たわる人の姿を見つめ、それから、意を決したように、ドアを大きく開け放った。光が、部屋の中に溢れこみ、倒れている人物の上にまで、届いた。

あっという叫びを飲みこむのに、スティーブンは、ありったけの自制心を働かさなければならなかった。

それから、部屋の中によろめき入り、ドアのすぐ横にあった、スイッチに手を伸ばして、明かりをつけると、後ろ手に素早くドアを閉めた。

そこは、工場で勤める従業員用のロッカー室であったようだ。大半は撤去されたようだが、幾つかのロッカーはそのまま、あるいは何故か床に倒れたような形で、がらんとした部屋の中に放置されていた。

頭の中が、まるで、そこにも心臓があるかのように、ガンガンと鳴り響いていた。スティーブンは、ドアに背中を押しつけるようにしたまま、しばし、動かなかった。

彼の目は狂おしく見開かれて、床の上で、身動き一つせずに横たわっている者の姿を一心に見つめている。

カーイだった。

(そんな…一体、なんだって、カーイがいきなりこんな所に…)

彼を探し求めて、司令室から出てきたはずなのに、こんな思いもよらぬ状況で巡り合ってしまったことに、スティーブンは、ちょっとしたパニックに陥っていた。

それから、どうしたらよいのか分からぬように、ピストルを構えて、ピクリとも動かないカーイに銃口を向けた。

「カーイ…おいっ、どうしたんだよ、あんた…?」

緊張のあまり掠れる声で、スティーブンは呼びかけたが、その声にも、何の反応もない。それから、やっとスティーブンは気がついた。カーイの全身が、白い霜のようなものに薄く覆われていることを。同じものを、彼は別の場所で見たことがあった。

「カーイ!」

スティーブンは、カーイの傍に駈け寄った。間近で見下ろすと、やはり、間違いない、MK89の直射を受けたのだ。きらきらと光る白い結晶に覆われたカーイは、精巧に作られた、極めて美しい人形のようだった。

スティーブンは、ジーンズの後ろにピストルを突っ込むと、カーイの傍に膝をついて、恐る恐る、その背中に触れた。じんと冷たい痛みを感じて、すぐに手を引っ込める。零下にまで冷やされ、カーイの体は完全に凍り付いていた。

「まさか、これで死んじまうってことはないだろうな、カーイ?」

パリーの分析では、カーイの体の細胞は、例え超低温にさらされて一時的に機能停止しても、通常の温度に戻れば、すぐに活動を再開するという。だからと言って、実際に、それを実験で確かめたわけではない、あくまで理論上の予想なのだ。

「一体、どうすれば…」

そう呟いた後、スティーブンは、一体、自分はどうしたいのだろうと考えこんだ。今のカーイは、全ての力を失って、赤ん坊さながらに無力だった。今なら、彼を破壊することも、レイフ達に引き渡して、コックス製薬の監視の元に閉じこめることも可能だろう。

スティーブンの喉は、何時の間にか、からからに乾いていた。

(どうしよう、心が引き裂かれてしまいそうだ…)

スティーブンの罪のない親友を餌食にしようとしている、これは、許すわけにはいかない、見逃してはならない敵だった。

(そうだ、この機会を逃したら、カーイを止めることは、俺にはもうできないだろう。ここで、こいつを許してしまって、そのせいで、スルヤが殺されることになったら…今しかないんだ、そう、こいつをレイフ達に引き渡してしまえっ!)

だが、同時に、これは、スティーブンの幼い心にその抗いがたい魅惑で押印し、彼を呪縛し続けた神でもあった。逃れたいと思いながら、ずっと追いつづけてきた、この9年、そして、やっと本当の彼に巡り合えたのだ。

(俺は、あんたが恐ろしかった。けれど、同時に魅せられてもいた。どうしてなんだろうな、俺の人生を変えちまったあんたなのに、憎む気持ちには全くなれなかった。好きな写真を取りつづけながら、俺は、作品の中であんたのイメージを再現しようとし、恋をしても、いつも、相手の中に、あんたに似た部分を探そ出そうとしていた)

スティーブンは、再び手を伸ばして、カーイの白く凍りついた頬にそっと触れた。

(カーイ、俺は…)

その時、遠くから近づいてくる足音を、スティーブンは、聞いた。ぎくりとなって、後ろを振りかえった。

(レイフ達だ。カーイを追いかけて、ここまで来たんだ)

スティーブンの喉が、ゴクリと鳴った。

先程から彼を呑み込み圧倒する二つの思いのせめぎあいのただ中で、よろよろと立ちあがった。

「取り敢えず、この廊下沿いにある部屋を一つずつ、片っ端から確かめるぞっ」

ドアの外でよく通る声がそう命じる声が、ここまで聞こえた。やはりレイフだ。

(カーイ)

スティーブンは、歯を食い縛って、すぐそこにまで危機が迫っているというのに一向に目覚める気配もないカーイを、すがるような目で見下ろした。

彼もまた、追い詰められたような顔をしていた。二つの選択肢のうち、どちらを選ぶのか。ああ、選択肢などなければ、選ぶ自由など初めからないなら、どんなにか楽だったかもしれない。

こつこつと、ハンター達の足音は、次第に近づき、迫ってくる。

スティーブンは、ぎゅっと拳を握り締めた。

凄まじい緊張に満ちた数秒が経過し、ふいに、スティーブンの青ざめた顔に、うっすらと自嘲的な笑いがうかんだ。

(俺は、地獄に落ちるかもしれないな…)

レイフ達が近づいてくるドアの方を眺め、それから、足下のカーイを見下ろした。緊張のあまり強張った手を、意識不明のカーイに向かって、伸ばし―。


そして、スティーブンは、選んだ。  


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