愛死‐LOVE DEATH

第十四章 死闘


じっとりと汗ばんだ額にはりつく艶々した黒髪を、気遣わしげな手でそっとかきあげてやりながら、触れた肌の熱さに、微かに慄く。

スティーブンの見守る視線の下で、眠り続けるスルヤの熱をはらんだ体、少し荒くなった息を苦しげに吐き出す乾いた唇、薬による不自然な眠りに捕らわれながらも夢にうなされているかのようにかすかに震える瞼。

痛々しげに見下ろして、スティーブンは、己の不甲斐なさにたまりかねたかのように、唇を噛み締めた。

何よりも、一番に守りたかった、大切な存在を、結果的にこんな最悪な形で巻き込んでしまうなんて。

手に握り締めたハンカチで、スルヤの汗を優しくふき取ってやる。そのくらいしか、今のスティーブンが、この優しい罪のない友人のためにできることはない。

(畜生。また熱が上がってきたみたいだ。こんな所に、スルヤをいつまでも置いてはおけない。何とかして、早くここから連れ出して、医者にみせてやらないと…)

太陽の光の溢れる国で生まれ育ったスルヤにとって、初めて体験するイギリスの厳しい冬は、さぞかし体にこたえるものだろう。ましてや、こんな異常事態に巻きこまれて、ろくな治療も看病もできないこんな不自由な場所で、人質として捕らえられるなどと、どれほどその弱った体の負担になることだろう。 

「…あまり調子はよくないようだね、その子は」

感情のこもっていない冷たい響きの声が、そう呼びかけるのに、スティーブンは、弾かれたように顔を上げた。

クリスターが、モニター前の椅子に腰を下ろしたまま、スティーブン達の方を眺めやっていた。

「もうしばらくの辛抱だよ。ターゲットを捕獲さえすれば、君にもその子にも、もう用はない。ここから一番近い病院に送ってあげるよ。私はともかく、レイフがそうしたいと言っていたからね」

これは、スティーブンにとっては朗報だったかもしれないが、クリスターの口から出ると、あまり心慰められる言葉には、聞こえなかった。何故かは分からないが、スティーブンは、クリスターに嫌われているようだった。スティーブンをまともに見る時、ほとんど感情の現れない、冷めた瞳の奥に、刺すような光が灯っている。彼のやり方に、公然と反抗し、逆らったからだろうか、ミッションの現場にまで強引についてきたからだろうか。

「レイフは…スルヤのことは、責任を持って守ると言ってくれたからな」

クリスターは、首を僅かに傾げた。それだけの所作で、彼が不興を覚えていることを表すには、充分であるかのようだった。スティーブンは、思わず、緊張に身をすくませた。

「弟は、人がいいんだよ」

相手の迫力に呑まれまいと己を奮い立たせながら、スティーブンは、反抗的に言い返した。

「双子なのに、あんたとはあまり似ていないんだな、そういう所は」

クリスターは、目を細めるようにして、そんなスティーブンをしげしげと眺めた。あんな憎まれ口を叩いて、次に何を言われることかとスティーブンは構えたが、案に反して、彼は何も言わず、急速にスティーブンから興味をなくしたかのように、再びモニターの方に体を向けた。

傍らのジェレミーが、すごい目で、スティーブンを睨みつけている。クリスターを恐れつつも、傾倒し、心酔しているこの若者にとって、スティーブンの敵意に満ちた態度は許しがたいものであるらしい。

スティーブンは、うんざりしたような表情をうかべて、彼らから顔を背け、スルヤの方に注意を戻した。

「レイフ、そちらの状況はどうだ?」と、クリスターが、マイクロフォンごしに弟に話しかけた。

仕事に私情は差し挟まない主義なのか、弟に話しかける時も、素っ気無いくらいに淡々としていたが、それでも、その声には僅かな温かみがこもっている。

(…今、例の倉庫の中だ。奴を探しているんだが、姿が見えない。モニターには映っているか?)

「いや…先ほどまでは同じカメラの前で、じっとしていたんだけれどね。たぶん、おまえ達が到着したことに気づいたんだろう。急に姿を消してしまったよ。だが、そこにいることは間違いない。センサーは、そう示している。その倉庫は、広いし、カメラで追いきれない物かげも多い。隠れ潜んでいるターゲットに背後や側面から不意打ちを受けないよう、気をつけろ」

レイフは、兄と交信しながら、静まりかえった倉庫の中を、用心深く、奥へ奥へと進んでいた。

「了解。それじゃあ、しばらくマイクロフォンをきるぜ。また、ちょっと背中の辺りがぞくぞくしてきやがった。奴が、近くにいる」

交信を終了すると、レイフは、ターゲットの捕捉に全神経を集中させて、他の仲間達の先頭に立ち、ゆっくりと歩を進めていった。その手には、先ほどの戦闘で駄目になったM16の代わりのライフルが構えられている。足を負傷し、激しい戦闘は不可能になったカイルが、レイフに渡したのだ。

今は、傭兵達の全てが、敵の実力をよくわきまえている。先程よりもずっと緊張感と闘争心をみなぎらせて、全方向をくまなく警戒しながら、すぐにでも戦闘状態に突入できるよう身構えていた。

かつてはイギリス中に発送される、様々な医薬品や医療用具が積まれていた巨大倉庫だったのだろうが、今は、がらんとして、むき出しのコンクリートの床から薄暗い高い天井にまで伸びる鉄柱や、錆の入った鉄の仕切り、壁に沿って据えつけられた虚ろな棚が、寒々とした印象を与えている。高い天井から差す蛍光灯の明かりは、視界を助けてはくれるが、充分ではなく、傷んできた鉄柱の陰や、壁の隅等に取り残された影の中に、何かが潜んでいるのではないかというような不安感を見る人に覚えさせた。

「お、おい、ちょっと待ってくれ!」

その時、後方を歩いていたベンが、動揺した声をあげた。

「どうした、ベン?」

レイフは、はっとして、そちらを振りかえる。

「カイルは…カイルは、一体、どこに行ったんだ?」

ベンが言った通り、一番後ろを歩いていたカイルの姿が、忽然と消えうせていた。

傭兵達は、一気に緊張感を高めて、周囲を見渡した。

「カイル、カイル、どこにいる?答えろ!」

先頭を歩いていたレイフが、後方を守るベン達の所まで駆け戻ってきて、消えた仲間を呼んだ。

切羽詰ったようなカイルの叫び声が聞こえたのは、その時だ。続いて、ピストルが続けざまに発射される音。

「カイル!」

銃声のした方目指して、レイフと他の傭兵達は、駆け出した。今歩いてきた道を引き返し、途中で、横にそれるように伸びた、コンクリートの壁にしきられた別の区画に飛び込む。

瞬間、真っ先にそれを見つけたレイフの足が、何かにぶち当たったかのようによろめいて、止まった。

がらんとした通路の中程に、もがくカイルの首に背後から腕を巻きつけ、自身は宙に半ばふわりとうかびあがって、相手を吊り上げようとしている、ヴァンパイアがいた。

「うぅっ…」

我知らず、レイフはうめいていた。鳥肌が立っていた。映画ならばいざ知らず、現実にはあまり見たくない、感覚的に受けつけない情景だった。それでも、戦友を救おうと、果敢にも前に飛び出した。

「カイルを離せ、この化け物!」

レイフを認めて、カーイは、冷たい嘲笑を、その人間ばなれして整った顔にうかべた。力尽きたようにぐったりしてきたカイルを捕まえる、その腕が、何の重みも感じていないかのように滑らかに動くのを、レイフは、見た。

次の瞬間、すごい勢いで、投げ出されたカイルの体に、レイフは、正面から激突した。とっさに避けることはできたのだが、それでは、カイルは、そのままの勢いで床に叩きつけられることになってしまう。レイフは腕を広げ、かろうじてカイルを受けとめることはできたが、支えきれず、その場に膝をついた。

「カイル、大丈夫か?」

駈け寄ってきたベンが、そう呼びかけて、レイフに抱きとめられた戦友を覗き込む。カイルは死んではいなかったが、ひどいショックを受けたらしく、半ば意識を失い、真っ青な顔で、荒い息をしていた。

レイフは、ベンにカイルを預けて、立ちあがり、カーイの方に向き直った。

「壁を抜けたり、素手でライフルを握りつぶしたり、宙に浮かんだり…さっきから、色々とおもしれぇ芸当を見せてくれるじゃねぇか」

レイフは、らんらんと輝く双眸に力を込めてそう呟くと、足下にぺっと唾を吐いた。

カーイは、銀色の頭をそっと傾け、後ろに回した手を軽く組むようにして、そんなレイフを眺めている。その足は、床から数インチ、いまだに離れていた。

傭兵達の構える幾つものライフルの銃口がその姿をぴたりと捉えているにもかかわらず、何の恐れ気もなく、逃げようとする気配もない。

レイフは、右手を上げかけたものの、撃てという号令を発するのを躊躇った。レイフの合図で、決して死なない、この怪物と自分達との凄まじい総力戦が始まることは分かっていた。

カーイも、レイフも、しばし、睨み合ったまま、動かなかった。まるで、どちらもが、戦いの開始を告げる、未知の合図でも待ちうけているかのようだった。

「何故、撃たないんです?」

静かだが、よく通る声で、カーイが問うてきた。

「さあな」と、レイフ。

「あなた方の武器では、私に傷一つつけられないことは、先程の争いで分かったはずですよ」

本当に傷一つ残っていない、カーイの白く滑らかな顔を目の当たりにして、さすがのレイフも慄然としていたが、そんな感情は、おくびにも出さず、ふてぶてしい態度で、「さあ、どうかな」と、答えた。

「仲間を呼んだ方が、いいんじゃないですか?」 

「何だと?」

レイフの眉根が、訝しげに寄せられるのに、カーイは、妖しく目を細め、誘うような艶然たる笑みを口許に浮かべながら、囁いた。

「あなたの持つ力では、私には敵わない。時間をあげますから、助けを呼びなさい。あなた方の指揮官に、ここに来てもらいなさい」

レイフの頭の中で、何かが音をたてて、弾け飛んだ。彼は、頬に血をのぼらせると、怒りにかられた獣のように歯をむいて、激しくカーイをねめつけた。上げられた、その手が、さっと振り下ろされる。

「撃てっ!」

だが、そう叫んだ瞬間に、レイフは、愕然となった。目の前のカーイの姿が、急に眼前に迫るかのように大きく見えたかと思った、次の瞬間には、それは、すっとかき消えたのだ。

一斉に発射された、ライフルの銃声が響き渡り、そして、止んだ。

レイフは、息を呑んだ。硝煙が立ち昇る、遥か向こうに、同じように背中で手を組んだカーイの姿があった。

目の迷いかというように、レイフは、瞬きをし、頭を左右に振った。いや、錯覚などではない。移動する速度があまりに早い為、目が、追いつかなかったのだ。

「くそ…」

傭兵達が、呆然とそこに立ち尽す間にも、カーイの姿は、再び消え、また少し離れたところに現れることを繰り返して、どんどん彼らから遠ざかっていき、ついには、別の区画につながる通路を曲がって見えなくなってしまった。

レイフは、舌で唇を湿しながら、しばし、考えを巡らせた。確かに、今の装備では、戦闘を続けることに、幾分不安があった。その手が、装着した小型マイクロフォンに伸びかけて、迷うかのように止まり、下ろされる。カーイの言葉を思い出してしまったのだ。

クリスターを、ここに呼びたくない。あの化け物とぶつからせたくはない。

指揮官としての判断というよりは、もっと感情的なものだった。

レイフは、彼の命令を待ちうける仲間達に向き直って、言った。

「カイルは、ここに残していく。何、あいつを追いつめて仕留める、少しの間の辛抱だ。そうして、俺達は、これより、二手に分かれて、あいつを追う。バースとルフラーは俺と一緒に来い。ベンは、ムスタファとマグナスと共に、反対側から回りこむようにして、奴にあたれ。だが、もしまた奴が途中で壁ぬけでもして逃げちまったら、深追いはせずに、仲間と合流するまで待て。間違っても、自分達だけで奴を追撃しようなどとは思うな」

まだ正体をなくしたままのカイルを、通路の隅にそっと横たえると、レイフは、仲間達に向き直り、「行くぞ」と、頷いた。




幅広い通路を、カーイは、床に足をつけることなく、ふわりふわりと舞うように、移動していた。天井には、やはり幾つかのカメラが設置してあったが、カメラの傍を通過する時には、意識的に速度を増して移動していたので、監視する者が、カーイの姿を追いつづけることは難しかっただろう。

そうしながら、カーイは、これからどうすべきか考えこんでいた。

(まずは、一人倒した。だが、後6人残っている。援軍が控えるているだろうことを考えると、早めに残りのハンター達を倒した方がいいのかもしれない…)

ハンター達の気配が、二つに分かれて、それぞれが移動しているのが感じられた。たぶん、カーイを挟み撃ちする気なのだろう。

カーイの能力をどれほど見せつけても、脅しを与えても、戦い慣れている男達に、諦め退かせるほどの恐怖感を抱かせることはできないらしい。執拗にカーイを追いつづけ、どうあっても仕留める気でいる。カーイは、獲物で遊ぶ猫のように、一人、また一人と彼らを倒していくつもりにしていたのだが、こうなると、何だかそれも面倒になって来た。

(それにしても、一体、何が目的なのだろうか。私を、ヴァンパイアと知って、あえて、こんな罠にかけるようにして、追いつめ、殺そうとしている…けれど、それで、あの人間達にとって、どんなメリットがあるというのだろう?)

スティーブン辺りがカーイを殺そうと画策するのは、理解できる。彼には、そうするだけの理由がある。しかし、全くカーイと関わりのない、それも明らかに誰かに金で雇われたこと分かる、訓練されたプロの兵隊達を、どう考えばいいのだろう。誰が、何の目的で、彼らを雇い、カーイを襲わせているのか。この陰謀の首謀者は誰だ。

あまり、物事の陰に隠れた、込み入った事情を洞察することは得意ではないカーイは、そんなことを考えて出すと、無性に苛立ちを覚えてくるのだ。どうして、これほどの目に、この自分が合わされなければならないのだ。再び、この理不尽な仕打ちに対する怒りが込み上げて来るのを覚えた。

カーイは、唐突に立ち止まった。そして、後ろを振りかえった。 

(一人ずつとは言わず、一気に倒してやる。特にあの紅い髪の男、スルヤと私に付きまとい、私の体を傷つけた、あの男だけは、絶対に許さない)

カーイは、じっと耳をすませた。彼を追い求めて、近づいてくる、人間達の足音が聞こえる。それに混じった微かな声の中に、聞き覚えのあるものがあった。

カーイは、白い顔に酷薄な微笑をうかべた。獲物を定めた、捕食者の顔だ。

彼は、今来た道を引き返し、今度は、人間のように、床に足をつけてゆっくりと歩き出した。

カーイの体中を怒りが駆け巡っていた。今なら、充分に戦える。なくしかけていると不安を覚えていた、狩人の本能が次第に戻ってくるのを、カーイは確かに感じていた。




通路の向こうに、ちらちらと何かが光って見えたのに、レイフは、とっさに足を止め、目を細めるように見透かした。

淡い光の塊のようなものが、近づいてくるにつれ、それが人の形をしていることが明らかになってきた。

(あいつだ)

レイフは、奇妙な圧迫感を覚えて、大きく息をした。

「なあ、あいつ…あいつの体、何だか光って見えないか?」

レイフの横で、やはり立ち尽くしていたバースが、打たれたように呟く。レイフの目にも、そう見えていた。錯覚かとも思ったが、どうやら、違うらしい。薄暗がりの中を緩やかに歩いてくる、その全身を淡い燐光にも似た輝きが取り巻いている。熱を感じさせる光ではない、色らしい色もなく、冷たく凄烈で、ごく柔らかな明るさながら、長く見つめることができないような不思議なまぶしさがあった。

レイフの脳裏にうかんだのは、スティーブンがいつか見せてくれた、カーイの写真だった。光に覆われるばかりで、ぼんやりとした輪郭以外、ほとんど何も写っていなかった。クリスターは何と言っていたのだったか。生体の発するエネルギーがものすごいから、それが光として写るのではないか。確か、そんなことを言っていたのだった。だが、今は肉眼でも充分に分かる。その顔や手が、月さながらにほの白く輝いているのが、その長い髪が、光の翼のように背中で広がるのが、身につけた服を通しても、体の奥から発せられる未知の光が、全身を覆っているのが、分かる。

レイフと共にこの不思議を目の当たりにしたもう一人、アフガニスタン人のルフラーが、震えを帯びた低い声で、何か呟いた。

「おい…何て言ったんだ?」と、視線は近づいてくるカーイにあてたまま、レイフが鋭く問うた。

「ああ…俺の故郷に伝わる魔よけの言葉だ。闇に住む悪霊を払ってくれる…だが、あれは…光っている…まるで神聖なものであるかのように…」

レイフは、ふんと鼻で笑って、ライフルを構えた。だが、その顔は厳しく引き締まり、微笑みは強張っていた。

「悪魔は、光の御使いを装って現れるって…そう言えば、ガキのころに、教会で聞いたことがあったかな」

恐れるな。恐怖に圧倒されれば、戦う前から、既に負けてしまう。

レイフは、胸の奥に忍び寄って来る恐怖を、意識して振り払い、己を奮い立たせなればならなかった。全く、こんな厄介な敵は初めてだった。  

彼らの間の距離が5メートルほどに縮まった時、カーイの動きが止まった。その薄青い瞳が、他の誰でもない、己にのみぴたりとあてられていることに気づいて、レイフの背中に冷たいものが走った。

「おい…」

意識することなく開いた口から、自分のものとは思えない程掠れた声が漏れるのを、レイフは呆然と聞いていた。

カーイの足が、ふわりと床から離れた。

レイフは、かっと目を見開いた。

「バース、ルフラー、オレから離れろ!」

そう叫びざま、レイフ自身も後ろに飛びすさった。

見開いた目で、カーイの動きを追ったが、その全てを捕らえることはできなかった。彼が認識できたのは、光輝く何かが、天井近くまで舞いあがった所までで、とっさに後ろに飛んで逃げたのは、見えたからではなく、直感的にそうしなければ死ぬと感じたからに他ならない。

まさしく間一髪という所で、レイフが立っていた場所に、何かが凄まじい勢いで降ってきた。コンクリートの床に亀裂が入り、砕け散った欠片が周囲に飛びちった。

カーイだ。

レイフには、ぞっとしている暇もなかった。稲妻のごとく床に降り立った次の瞬間には、カーイは、態勢を立て直して反撃しようとするレイフの懐に、波が打ち寄せるように飛びこんできたからだ。その腕が振り上げられ、レイフの胸を引き裂こうと、鋭くなぎ払われる。

「く…うっ…」

今度は、完全には避け切れなかった。ヴァンパイアの光る爪の一閃が、レイフの防護ヴェストを横に引き裂いた。衝撃で、レイフの長身の体は、横様に床に投げ出された。

レイフは床を転がったが、その反動を利用して、起き上がりざま、追いすがろうとするカーイにライフルを連射した。

その果敢な戦いぶりに触発されるように、一瞬凍りついたように動けなかったバースとルフラーも、カーイの背中を狙って、ライフルを撃ちこんだ。

またしても、カーイの体が霞み、消えた。

「うおっ?!」

レイフは、息を飲んだ。見失ったと思ったカーイの顔が、すぐ眼前にうかびあがったからだ。瞬時に持ち直したライフルのストックで、相手の顎目掛けて打ちかかった。

カーイは、軽々と避けて、レイフから身を引いたが、また、すぐに襲いかかってきた。

早い。

胸に鈍い衝撃を受けて、レイフは弾き飛ばされ、壁に叩きつけられた。力を失った手からライフルが床に落ちる。衝撃にぼうっと霞んだ頭の片隅で、防護ベストのスチール性のショックプレートがへこんだことを意識した。

ここで意識を失ったら駄目だ。生き延びたいなら、立ちあがって、反撃しろ。 

レイフの本能はそう叫んでいたが、その膝は力を失って、ゆっくりと砕けつつあり、その目は、近づいてくる優しい姿をした悪魔を映してはいたが、もはや何も見てはいなかった。彼は、半ば気を失いかけていた。

壁に背中を押しつけたまま、ずるずると崩れ落ちていくレイフの脳裏に、その時、雷鳴にも似た、凄まじい叫びが鳴り響いた。

(レイフ!)

耳に聞こえる肉声ではない、頭の中で誰かが大声で叫んだような、わんわんという反響が頭蓋内を揺るがして、思考停止状態に陥りかけていた彼の脳を叩き起こした。

レイフの体が、電流でも走ったかのようにぶるっと震えた。途端に、弛緩しかかっていた四肢に再び力がみなぎり、虚ろだった瞳には激しい光が蘇る。

「…調子…こいてるんじゃねぇぞ…この野郎!」

強靭なばねのような足が、床を蹴った。

カーイは、不意をつかれたようだった。まさか、レイフがここで反撃してくるとは思っていなかったのだ。

レイフは、カーイに殴りかかった。そのパンチは、カーイの顔をぎりぎりの所でかすめるだけだったが、逃れようとする彼の長い髪の一房をしっかりと掴みしめ、乱暴に引いた。

「あっ」

もともとあまり体重はないカーイは、よろめいた。そこに、レイフの抜いたパラオーディナンスの銃口がぴたりとあてられた。

「さっきのお返しだ」

カーイは、胸と顔を押さえて、よろめき、下がった。だが、すぐに立ち直って、レイフを激しくねめつけた。

およそ7秒で新しい弾薬をピストルに装填し、レイフは、再び、カーイに向かって、連射した。だが、今度は案の定、避けられた。一瞬見えなくなり、またすぐ正面に現れたカーイは、レイフの右手首を押さえこんだ。だが、何時の間にか左手に握られていたナイフの一撃が、傷ついたその胸をまたしてもえぐった。

カーイは、低く唸った。捕まえていたレイフの右手も離してしまった。

「よくも…」

低い呪詛の言葉を、カーイは吐き出した。

「この代償は、高くつきますよ」

レイフは、嘲笑うかのように唇を歪めて、更にナイフで切りかかった。カーイの手が、それを弾き飛ばした。

カーイは、怒りに任せて、レイフにつかみかかった。レイフは逃げきれず、その手に胸倉を捕らえられた。カーイは、レイフの喉に手をかけたまま、自分よりも上背のある男の体を軽々と持ち上げ、苦しげなその顔を眺めつつ、殺意のこもった冷たい口調で、言った。

「このまま、この首を引き千切ってあげましょう。あなたの血は、きっと、その髪と同じ綺麗な紅い色をしているんでしょうね?」

空になったピストルを握っていたレイフの手が動き、カーイの脇で、わざと離した。重い銃が床に落ちた音に、神経が過敏になっていたカーイは、はっと身を震わせ、そちらに視線を向けた。その瞬間、レイフの拳が、彼の頬に強烈な一撃を加えていた。

カーイは、とっさにレイフを突き飛ばした。

バランスを失って、床に倒れるかに見えたレイフは、途中で体を反転させて、その勢いで、カーイの首に渾身の蹴りを食らわせた。

決まった瞬間に、レイフは、やったと思った。人間相手なら、今の一撃で確実に首の骨をへし折っていた、そう確信できるほどの、会心の蹴りだった。

確かに、カーイの軽い体は、吹っ飛ばされたしたが、それにしては、あまりにも手ごたえが感じられなかった。まるで、風でも、なぎ払ったかのようだった。

床から飛び起きたレイフは、カーイが、何事もなかったかのように、3メートルばかり離れたところに降り立つのを見た。

(今のが効かないなんて、そんなのありかよ?)

彼は、歯噛みをして悔しがった。

「レイフ、無事か!」

ベンの野太い声が、響いた。レイフは、カーイの後方に、分かれて反対方向から回りこんできた仲間達が駆けよってくるのを認めた。

カーイは、ベンの声がした方にゆっくりと顔を向けた。その拳が、噴き上がる怒りを掴みしめるかのように固く握られるのに、レイフは、はっと息を飲んだ。

「逃げろ、ベン!」

カーイの姿が消え、救援に駆けつけた3人のすぐ前に現れた。男達は、至近距離に突然出現した敵に仰天しながらも、銃を向けようとしたが、ヴァンパイアの電光石火のスピードは、すべての反撃を無効にした。

その無慈悲な手が、空を切って、ベンの胸に吸いこまれ、続いて、傍にいたムスタファも襲った。

男達の絶叫が、広い倉庫の中に響いた。 

(あ……)

レイフは、ベンのずんぐりした逞しい体そのままがくりと沈みこむのを、ムスタファが鮮血の噴き出す首の傷を手で押さえ、その場でぐるぐると回った後、やはり力をなくして倒れるのを呆然と眺めていた。

(ベン…ムスタファ…)

床の上で動かなくなった仲間達から視線を上げると、その後ろに立ち尽すカーイの姿が見えた。彼自身、何故か、自分でしたことの結果に呆然としているように見えた。襲撃された三人のうち、生き残ったマグナスが、怯えた声を上げて、銃口をカーイに向けつつ、じりじりと後退していくのにも、一切注意を引かれる様子はなかった。その顔が上げられ、レイフに向けられた。そこにうかぶ途方に暮れたような表情を見た途端、レイフの中に激しい憎しみが込み上げてきた。

レイフの目の前で戦友を二人も殺しておきながら、こんな無防備な、汚れのない子供のような顔をするなんて、許せない。とっさに腰のガン・ホルスターに手が伸びたが、そこには何も残っていなかった。ああ、目で相手を撃ち殺せたら。

火を吹きそうな金色に輝くレイフの瞳から、カーイは、顔をそむけるようして、背中を向け、次の瞬間には、煙と化したかのようにかき消えてしまった。

カーイが立ち去った後も、レイフは、肩を怒らせて、その場にしばし仁王立ちをしていたが、やがて、がくりとその場に膝をついてしまった。

「ベン、ムスタファ!」

バースとルフラーが、血の海の中で動かなくなった二人の方に走っていくのを眺めた。レイフは、そこからしばらく起きあがれなかった。力尽きたかのようにそこに坐りこんだまま、震える手を上げて、己の頭を押さえた。

(畜生…畜生…)

彼は、血がにじむほどに唇を噛み締めていた。指揮官の役目は、作戦の成功と共に、一人でも多くの仲間を生きて戦場から返すことだ。レイフの失敗だった。

「レイフ…!」

ルフラーの不安げな呼びかけが、レイフを現実に引き戻した。まだ、戦いは終わってはいないのだし、ここには生き残った仲間がいて、彼の指示を待ちうけている。

レイフには、仲間の死を悼む間も、落ちこんでいる余裕もなかった。ここで感じてもいいのは、怒りだけだ。それも、我を忘れるほどの激情ではなく、じっと抑制された怒り。押さえ込むことで、怒りは次の戦いを戦うためのエネルギーとなる。

レイフは、床から起きあがって、戦友達の遺体と、それを取り囲む残った三人の仲間達のもとに歩いて行った。精悍な顔には、混乱は既になく、研ぎ澄まされた怒りが、必ずこのミッションを成功させるという決意と共にみなぎっていた。


NEXT

BACK

INDEX