愛死−LOVE DEATH

第十三章 ワルキューレ


ひたひたと、遠くから何者かの足音が近づいてくる。 

彼方で沸き起こる潮騒にも似たざわめきが、初めは緩やかに、次第に激しさを増して、打ち寄せてくる。

一人、工場の二階部分をさまよっていたカーイは、ガラス窓から階下に広がる広々とした製造ラインを見下ろせる長くまっすぐな廊下の中程で立ち止まって、耳を澄ませた。

敵が、近づいてくる。

カーイは、数瞬の間、逡巡するかのように、そこに立ち尽くした。

(敵)

カーイにとっては、あまり馴染みのない言葉だった。

追いつめられたスティーブンは、誰にも打ち明けてはならないというカーイの脅しにも関わらずに、他の何者かに助けを求めたらしい。だが、何の力も当てもなさそうな、普通の学生が頼れる相手などたかが知れている、いずれにせよ、カーイの脅威となりうるものではあるまいと、たかをくくっていた。だが、この廃工場に足を踏み入れた瞬間、自分の認識が甘かったことを、直感した。

ここには、異常な殺気が満ちている。しんと静まり返って、人っ子一人にいないかのように見えながら、実際には、驚くほどの人間臭さが、それも実に珍しいほどの生命力と覇気に溢れた気配が、空気中に漂っていて、カーイにある種の圧迫感を覚えさせていた。

ただの人間達ではなかった。

例えカーイのような人外の生き物が相手でも怯むことがない、訓練され、恐ろしく戦い慣れている感じがした。

(ハンターか…)

そうと悟るなり、気が滅入ってきた。

カーイも、人間社会に紛れこんで、人間に擬態しながら、人間を獲物にして吸血の欲求を満たしてきたヴァンパイアだ。己の正体が明らかになれば、たちまち敵意の集中放火を浴びて、狩られる対象になることは承知してきた。たぶん、ヴァンパイアの仲間のうちには、気が緩んだ隙に正体を突き止められ、教会の権威や昔からの迷信の助けを借りたハンター達に追いかけられたまぬけな連中もいただろう。

だが、カーイ自身は、今まで、そんな失敗をしたことはなかった。これは危ないと予感したら、それまでの生活の全てを捨てて、次の土地に移る掟を固く守りつづけていたし、それに、迷信とは違って、人間とほとんど変わりない暮らしをできるカーイの正体を見ぬくことのできる人間もまれだった。

特に二十世紀に入って、人々の意識も変わり、吸血鬼の存在は映画や小説の中で見られるくらいものとなってからは、カーイにとっては、また余計に暮らしやすくなった。少しくらいの失敗をしても、今では、人間は、そんなことはありえないと自分の目で見た現実さえ、否定するようになっていたからだ。

人間が、カーイを狩ることは、もはやなくなった。

そう、カーイにとってのヴァン・ヘルシングは、今まで存在しなかったのだ。

(どうする?)

カーイが、そこにいることを知っているらしい、迷いのない足取りで、ハンター達の気配は押し寄せてくる。このままでは、すぐに衝突することになるだろう。

カーイは、青い瞳を、迷うかのように僅かに揺らせた。それから、地の重力から解き放たれて、浮かび上がり、瞬く間に天井を抜けて、更に上階に向かった。

とっさに、カーイは、戦いを回避した。

何だか、そんな気にはなれなかった。

カーイの目的は、スルヤを取り戻すことだけなのだ。

別に、人間相手に戦って、不要な血を流したいわけではない。 

たぶん、この考えは、狩人としては間違っている。相手が何者であれ、カーイの正体を知っているのなら、ここで迷わずに殺してしまうか、それができないなら、あっさり手を引いて、ここから立ち去り、彼らの手の届かないどこかに完璧に姿を消すかの、どちらかだ。

だが、カーイは、ここまで来て、スルヤを取り戻さずに帰ることはできない。それに、彼らも、懐深くに飛びこんできたカーイを、むざむざと逃がすことはないだろう。

(何を迷っている、カーイ?スルヤに感情移入したあげく、他の人間に対しても、つい考えが甘くなってしまうほど、おまえは堕落してしまったの…?)

床の下で、用心深く動き回る、複数の人の気配がした。緊張が、足のほうからじわじわと体中に這い上ってくる。

(避けられない…)

どこか哀しげな、憐れみを帯びた笑みをうかべた。憐れんだのは、恐れ知らずにも近づいてくる人間達であったのか、それとも、こんな状況にまで追いこまれた、自分自身であったのか。

カーイは、迷いを振り払おうとするかのように、頭を振りたてた。そして、今はしんと静まり返った。薄明るい廊下の彼方を、鋭く睨んだ。

その顔は、冷たく、表情のないものに変わっていた。

両手を体の脇にだらりと垂らし、力をぬいて、静かだが、いつでも攻撃に移れる俊敏さを秘めて、ハンター達が追いつくのを待ちうけるかのように、じっと佇む。

そう、彼もまた、ハンターであった。 




「ターゲットは、更に上の階に移動している。Hセクション、5ポイントで停止中」

センサーに厳しい視線をあてたまま、マイクロフォンを通じて、冷静な声で、クリスターが、指示を与える。

「レイフ、そこから5メートル前進した所に、搬送用のエレベータがある。それを使って、移動しろ」

「了解」と、即座に応じるレイフの声がする。

(なあ、さっきまでここにいたのに、近づいたと思ったら、また忽然といなくなってさぁ…きっと、また天井を抜けて、逃げちまったんだろう。この調子で、追いかけっこをしても、埒があかないぜ。どうする?)

「そうだね」

クリスターは、センサーから、少し体をずらせて、隣に設置された別の機器の操作パネルに視線を走らせた。

「レイフ、Hセクションには、社員用のカフェテリアがある。11ポイントだ。傭兵達を引き連れてそこに向かい、待機しろ」 

クリスターの指が、操作パネルの上に滑ると、これまで、センサーの感知するターゲットと傭兵達の位置だけを画面の上に示していたスクリーンに、更に別の表示が現れた。黒い背景に浮かびあがる、建物の見取り図の中に縦横に走る複雑な光の筋、その上に所々点滅する光。

「トラップを作動させ、ターゲットを、現在の5ポイントより11ポイントに移動させる。ターゲットが飛びこんできたところを、素早く攻撃しろ。トラップの作動は、これより2分後に行なう。巻き込まれないよう、気をつけろ」

クリスターの双眸が、すうっと細まった。

トラップというのは、戦場においては通常、自陣の防護の為や、敵地から撤退する時に敵の足を止める為に仕掛けられる爆発物のことだが、このミッションのためにクリスターが仕掛けたのは、むしろ、テロ目的にでも使われそうな破壊工作の技術に近かっただろう。この巨大な建築物の壁や天井の内部に縦横に走るユーティリティー・トンネルやシャフトには、全ての電話線や電線、ガス管がまとめられた太いパイプが、生体内を走る血管のようにくまなく巡らされている。クリスターは、それに余分なワイヤーを差し込んで、要所、要所に設置されたトラップ爆弾を、単純に敵が引っかかった時だけでなく、スイッチ一つで、司令室から発信される電気信号で、意のままに爆破できるようにしたのだ。

「ジェレミー、ここに来たまえ」と、クリスターは、ふいに思いついたかのように、背後で、興味深そうに機器の画面に見入っている、若者に呼びかけ、差し招いた。

「は、はい、クリスターさん」

ジェレミーは、はっと背筋を伸ばして、緊張した面持ちで、クリスターのもとにやってきた。

「そんな後ろの方にいないで、私の横で、見ていればいい。君のことは、ベンからも頼まれているんだからね」

「はい…」

親切に言われても、クリスターのような海千山千のしたたか者が相手では、ジェレミーのような人生経験も浅い若者が、相手の迫力に飲まれて、身を固くしてしまうのは無理もないことだった。それでも、ジェレミー自身も設置に関わったトラップを操作する機器の画面を見ることは、彼の興味を引いてやまなかった。

若者が、目を輝かせて、スクリーンを食いいるように見つめるのに、クリスターも、ふと表情を和らげて、穏やかな声で、言い聞かせた。

「いいかい、この点滅する紅い光がターゲットだ。今、ここのカフェテリアにレイフ達に到着した。そこで、レイフ達が待ちうける所に、今からターゲットを移動させる。この表示がトラップだ。ターゲットより僅か二メートル離れた、壁の警報装置の中に仕掛けられている」

クリスターは、先ほどから、ターゲットが、まるでレイフ達の到着を待ちうけるかのようにじっと停止していることに気がついていた。一端は退いたターゲットだが、今度は、覚悟を決めて、正面から迎え撃つ気でいたのかもしれない。しかし、

「猟場を決めるのは、獲物ではない。ハンターの方だ」

低く抑えた声でそう呟いて、クリスターは、操作パネルのスイッチに指を当てた。

「トラップH5、点火」

その瞬間、カーイは、背後から鞭打たれたかのようにびくりとなって、後ろを振りかえった。

オレンジ色の炎の舌が、するりと彼に向かって伸びてきた。人間ならば、なす術もなく飲みこまれ、爆風に容赦なく吹き飛ばされて床に叩きつけられていただろう。

ほとんど何も考えずに、カーイの体は、驚異的な瞬発力を発揮して、火が届く前に退き、駆け出していた。

爆薬の威力を借りて、瞬時に噴き出し、巨大な火炎放射器と化した廊下に沿って広がる火が、その後を追う。

パンとガラスが弾ける音が、カーイの背後で幾つも起こった。高熱の爆炎に舐められて、照明のガラスが割れたのだろう。

カーイは、走った。いや、ほとんど床に足などついていなかったのかもしれない。見えない翼を背中に帯びて、宙を滑った。

廊下の突き当たりに扉が見えた。あっという間にそこに辿りついたカーイは、迷いもせずに、中に飛び込んだ。

火炎が、ドアを吹き飛ばし、そして、引いた。そこまでが、爆薬の威力が届く限界だった。

「一体、何が…?」

弾き飛ばされたドアを呆然と眺めながら、カーイは、用心深く構えていた姿勢を崩し、立ち尽くした。

廊下の向こうから、鋭い警報と共に、火を消火するために自動的に作動したスプリンクラーの放水音が聞こえてくる。

さすがに、何が起こったのか、カーイには、とっさに理解できなかった。

爆薬が仕掛けられていたらしい。だが、自分一人をしとめる為に、こんな大掛かりな罠を張り巡らせる人間がいるということも、その目的も、彼の理解の範疇を超えていた。

カチリ。

しばし、警戒心も忘れて佇んでいたカーイの耳に、微かな金属音が響いた。

複数の銃声が鳴り響いた。

ライフルの一斉放火を浴びた、かに見えたカーイの体は、全ての銃弾を寸前でかわし、鳥のように軽々と舞って、カフェテリアの中央にある太いの柱の陰に、沈みこむように隠れた。

はめられたと、カーイは思った。 

別に今更逃げるつもりはないが、敵が武器を構えて待ちうけているただ中に、まんまと追いこまれてしまったことが、腹立たしかった。

そんなことを考えている最中にも、カーイが、留まる柱に銃弾が叩きこまれ、すぐ横のきわどい所を弾が掠めていく。銃弾などで、カーイを殺すことはできないが、進んで弾幕の前に身をさらしたいとも思わない。不死であり、ほとんど無限の治癒力を備えているとはいえ、痛みを感じない身ではないのだ。

カーイは、頭を巡らせ、周囲の様子を探りながら、どうやって、この状況から抜け出すか、考えこんだ。

ただ逃げるだけなら、それ程難しくはないが、それでは、またさっきと同じ、追いかけっこを繰り返すだけになる。

カーイが知りたいのは、スルヤの居場所だ。それさえ分かれば、こんな所で、銃弾を浴びせかけられながら、じっとなどしていない。よし、あの男達のうちの誰かを、取り敢えず捕まえることだ。そうして、スルヤがどこにいるか、聞き出そう。彼らの正体と、カーイを襲う目的も気にはなったが、それは、ひとまず後回しだ。

視線を前に向けると、正面の壁に、この広いカフェテリアの照明のスイッチがずらりと並んだパネルが見えた。

カーイは、立ち上がった。

その頭上の天井では、やはり、監視カメラの広角レンズが、きらりと光っていた。カーイは、一瞬気になったようにそちらを見やったが、いちいち潰すのもきりがない気がしたし、取り敢えず、今は目の前の敵をどうにかする方が重要だった。

レイフに率いられて、今ここにいる傭兵達は、二人ずつ、三組に分かれて室内に分散している六人。指揮官のレイフは、一番突出した位置にいて、状況を判断しつつ、指示を与えていた。

(丸腰の相手にこんなふうに銃を打ちまくるってのも気が引けるが、化け物相手だから、仕方ないか)

柱の陰に隠れて身動きしないカーイの方を鋭く観察し、他の仲間達にハンドシグナルを送って、一端銃撃をやめさせると、柱の向こうに回りこむよう、ベンともう一人の傭兵に指示した。

その瞬間、カーイが、柱の陰から飛び出した。訓練された傭兵達の銃口は、素早く反応したが、人外の者の動きには追いつけなかった。まさしく、稲妻が走ったかのようだった。

誰よりも早く動いたレイフの発射した銃弾が、カーイのコートの端を掠めたが、完全に彼を捕らえることはできなかった。

カーイは、瞬く間に、広いカフェテリアの端にたどり着き、壁の電気スイッチのパネルに手を伸ばすと、ほっそりとした手に似合わぬ怪力で、簡単に引き剥がしてしまった。

「チッ」

レイフが舌打ちをして、ライフルを構え直した時、室内の照明が落ちた。

「あの野郎…」




モニターの一つが真っ暗になった、その瞬間、クリスターは、僅かに身を乗り出した。軽く片眉を跳ね上げると、監視カメラの操作パネルに手を伸ばし、カフェテリア内の全てのカメラを暗視に切り替えた。

「照明が、やられてしまった…父さんやレイフさん達は、大丈夫なんでしょうか」

不安気なジェレミーを勇気付けるように、クリスターは、その肩を叩いた。

「大丈夫だよ。彼らは、とても優秀な兵士だ。暗闇の中でも、戦い慣れている」

そうして、再び、視線をモニターに戻した。

椅子の上でゆったりと構えて戦況を観察している、その様子には、動揺の欠片もなく、実際その通りだったのだが、クリスター自身は、その時、己の心臓の鼓動が微かに早まっているのを意識していた。レイフが、戦闘状態に入ったからだろう。彼ら兄弟の間でしばしば起こる、共鳴だ。

(レイフ…)

クリスターは、同じ速さで鼓動するもう一つの心臓を意識しながら、なだめようとするかのごとく、胸の上に、そっと手を置いた。 




電気系統が破壊されると同時に、オレンジ色の非常灯が、カフェテリアの所々に、避難経路を示すように、ぼんやりと灯った。 

おかげで完全な真闇とはならなかったが、それでも、このままでは人間の視界には随分と制限が出ることになる。

レイフは、小型マイクロフォンに手を伸ばし、ベンや他の傭兵達に向けて、冷静な声で命じた。

「必要な奴は、暗視ゴーグルを着用しろ」

そういうレイフは、しかし、この程度の闇ならば、まだゴーグルを使う必要はないと思っていた。彼の暗視力は、マイナス4、ほとんど猫並みだ。ゴーグルをつけると、どうしても視界が狭くなるので、側面や背後からの攻撃に対して、防護が甘くなるという点で、彼は嫌っていた。

目をすがめ、闇を透かし見るようにして、レイフは、おぼろな敵の影を捉えようとした。破壊されたパネルから僅かに離れた場所で、微かに揺らめく人影がある。傭兵仲間ではない。

「ベン、カイル、気をつけろ。おまえらの右前方にターゲットがいるぞ」と、マイクロフォン越しにレイフが囁いた、途端に、ベンとカイルのライフルが火を吹いた。

レイフは、銃を構えつつ、身を隠していたテーブルの陰から飛び出し、仲間達のもとに走っていった。

闇は、人の心に不安を与える。必死になって、闇に潜む敵に向けてライフルを連射させているベンとカイルは、歴戦のベテラン兵士だったが、幾分焦りを覚えているようだった。

「うわっ?!」

上擦った男の声が響いた。レイフが、そちらに銃口を振り向けると、ライフルを手からもぎ取られ、床に叩きのめされたカイルの上に、屈みこもうとする白い影が見えた。

「野郎っ!」

レイフは、コルトM16ライフルを撃った。更にもう一発、白い霞のようなシルエットを狙って、撃ちこんだ。今度は、手ごたえがあった。

床の上でぐったりとなっているカイルを残して、敵の気配は、遠ざかった。レイフは、負傷した仲間の上を飛び越えるようにして、ターゲットの後を追った。

「どこだ…出て来い」

見える限り、感じ取れる限り、闇がレイフを取り巻いていた。

ターゲットの動きを見る限り、暗闇は、その活動に何ら支障を与えないようだった。ヴァンパイアというからには、夜目がきいても別に驚かないが、あのスピードと力に加えて、今は、闇の中という、こちらにとってのみ不利な状況に置かれたことについては、幾分危機感を覚えていた。

ライフルを構えたまま、影に満ちた空間を、目の焦点を合わさずにゆっくりと視線を動かし、周辺視力を使って影の中に隠された敵の動きを読み取ろうとした。暗闇の中では、形はめったにものの姿を明らかにはしないので、形を探すことはしなかった。敵が攻撃してくる角度を教えてくれるのは、色彩のひずみなのだ。夜間ものの動きを直視すると、目の感覚器官が見落とすことがしばしばあるので、直視するのではなく、敵の動きを感知した場所よりややずらした場所の地面を見つめるよう、特殊部隊時代に、レイフは訓練されていた。そうすることで、焦点を定めない周辺視力が濃淡をモニターして、攻撃者の接近角度が見つかるのだ。

同時に、耳にも神経を巡らせ、敵が立てる微かな物音、ひそめた息遣いの欠片を捕らえようとしていた。

何も聞こえず、何も見えず、ターゲットは、再び煙と化して、この場所から立ち去ったかのようだったが、レイフは、自分の直感を、本能を信じていた。

(奴は、まだここにいる。それも、近くにいて…オレを見ている…)

背筋に冷たい汗が流れ、近くに何かが潜んでいるという不安な感覚が、レイフの神経を苛み、緊張を強いたが、フラストレーションを覚える一方で、このぎりぎりの状況にいる自分を、彼は楽しんでもいた。これは、もう病気と言うしかない。自分の命を危険にさらし、追いつめられれば追いつめられるほど、感覚がより鋭利に研ぎ澄まされ、敏感になっていくのが分かる。ここしばらく戦場で戦うことからは遠のいていたので、勘も鈍っているのではないかと疑っていたが、実際、必要な状況が生じると、それは、すぐに戻ってきた。

レイフは、戦うことが好きだった。彼の突出した戦闘能力は、平和な場所ではほとんど必要とされることはなく、戦場においてのみ、遺憾なく発揮できるものだった。持てる力の全てを使って、闘争本能をむき出しにして戦う瞬間にのみ、自分が完全燃焼できることを、レイフは痛いほどに分かっていた。戦場ではどれほど有能でも、そこを離れると、もはや何ものでもなくなってしまうことを知っていた。だから、やめられない、ほのかな憧れはあっても、平和な暮らしには、もう戻れない。

更に数歩歩いた所で、レイフは、何故とも知らず、急に足を止めた。うなじのあたりの毛が、ちりちりと逆立っていた。目や耳で感じ取れる警告なしに、ごくたまに訪れる、その直感によって、レイフは、何度か命を救われてきた。

そして、今、恐ろしく危険なものが、すぐ背後にいることを、レイフは悟った。

目に見えない何か、耳に聞こえない何か。

瞬間、レイフは、体を回転させて、己の背中に落ちかかる闇目掛けて、ライフルを発射した。 

閃光が、一瞬、襲撃者の顔を白くうかびあがらせた。レイフは、激しく睨みつけた。

弾丸は、カーイの肩を掠めただけだった。だが、完全に気配を消していたつもりだったのに、ただの人間に過ぎない、このハンターがちゃんと反応して、自分に向かって的確に発砲したことに、驚嘆していた。

「凄腕ですね」

レイフの脇をすりぬけざま、そう囁き、からかうように、その怒らせた肩に触れた。ふわりと着地した場所にも、すぐに銃弾が撃ちこまれ、カーイは、危ういところながらも、避けて、影の中に再び身を沈めた。

今度は、カーイの位置は、相手に捕らえられている。しかし、いざとなれば、天井でも床でも、通りぬけて、あの男のすぐ後ろに出現することだって、できるのだ。そう、すぐ足下から現れて、突然足を掴んだりしてやったら、さぞかし肝を潰すだろう。

隙のない動きで、じりじりと近づいてくる男の厳しい顔を、カーイは、猫のように目を細めて見守った。

どこかで見たことがある。そう、あの真紅の髪には、見覚えがある。

スルヤと美術館に行った折りに、自分達を観察していた怪しい男だと思い至った。

カーイの中で、何かが弾けた。

(捕まえてやる。あの男を捕らえて、スルヤの居場所を白状させ、彼らの正体とその目的も吐かせてやる)

衝動的な怒りに狩られて、カーイは、そう決意した。

カーイは、影の中から踊り出た。目にもとまらぬスピードで、レイフ目掛けて直進した。

「くっ」

レイフは、今度も素早く反応して応戦しようとしたが、カーイの本気のスピードには敵わなかった。それでも、とっさに上げたライフルの銃身で顔を庇い、カーイの凄まじい一撃を受けとめた。

カーイは、怒りを込めて、唸った。レイフのライフルを激しく掴むと、その手の下で、ミシッと低い音を立てて、金属製の銃身が変形した。

使いものにならなくなったライフルを、レイフは、あっさり離した。代わりに、腰のパラ・オーディナンスをぬいた。

奪い取ったライフルを床に投げ捨て、向き直るカーイの胸に、レイフは、続けざまに、5発の銃弾を撃ちこんだ。ストロボのようなまばゆい光に、ぐらりとかしぐカーイの姿が見えた。

(仕留めた!)

レイフの双眸が、はりさけんばかりに見開かれた。

「うわぁっ?!」

思わず、彼は叫んでいた。叫びながら、後方に飛んだが、追いすがったカーイの手が、その胸を殴りつけた。一瞬、息が止まるかと思った。砲弾でも食らったような衝撃だった。スチール製のショックプレートの入ったヴェストを着用していなければ、肋骨の一本や二本はやられていただろう。

壁に打ちつけられたレイフは、しかし、その反動を利用して、カーイに向かって、飛びかかった。その顔に殴りかかったが、難なく避けられた。また、からかうように肩に触れて、脇を通り過ぎるようとする、その手を、レイフは、とっさに捕らえこんだ。

腕をつかんで、凄まじい背負い投げで、固い床に思いきり叩き付け、起き上がる暇を与えずに、至近距離から、・45口径の残りの銃弾ニ発を胸に撃ちこんだ。

敵の細い体が、衝撃に跳ねあがるのを目にして、レイフは、今度こそとにやりとしたが、そう思ったのも一瞬だった。

足を強く払われて、レイフは、床に転倒した。飛び起きようとしたところを、カーイに襲いかかられ、彼らは、組み合ったまま、床を転がった。レイフのパラオ―ディナンスは、そのどさくさにどこかに飛んでいってしまった。

「レ、レイフ!」

駆けつけてきた傭兵達が、銃を構えて、彼らを取りまいていたが、この状態で発砲すると、レイフにまで弾があたる可能性があったので、できなかった。

「この…馬鹿力…」

ついにレイフの上に馬乗りになって、彼の動きを封じたカーイは、華奢に見える手で信じられない怪力を発揮して、その首を容赦なく締め上げていた。怒りと苦痛に歪んだレイフの顔は、見る間に真っ赤になっていく。

「言いなさい、あの人は…スルヤはどこにいるんです?言わないと、この首をへし折りますよ?」

カーイは、数発の弾丸をまともに受けているはずだが、その力は、全く、弱まっていなかった。治癒能力がすごいとは聞いていたが、ここまで、自分達の使う武器が無効だとは思っていなかった。酸欠を起こしてきたのか、レイフの頭は、ぼうっと霞んできた。

「分かった…言う…言うから…」

レイフの闘争心に溢れたオーラが次第に弱まり、ついに降参したように、弱々しくそう呟くのに、カーイは、満足そうに頷いた。投げ出された、彼の手が、何かを探し求めるように床を滑っていることには、気がつかなかった。

「さあ、話しなさい」

「……………」

ぐったりと目をつぶったレイフの唇が微かに動いて、何かを呟くが、ぜいぜいという息に混じってその小さな声は聞き取れない。カーイは、首を締め上げていた手を緩め、身を屈めた。

「何て、言ったんです?」

レイフが、うっすらと目を開けた。完全に戦意喪失したかに思えた、その顔に、決してへこたれないという気迫に満ちた、獰猛な笑いが広がった。

「どけって言ったんだよ。男に上に乗られんのは、趣味じゃねえんだ。さっさとどきやがれ、このオカマ野郎!」

カーイは、さっと頬を紅潮させ、眉を吊り上げた。

その耳に、何かが空を切る音が届いた。振り向きかけた、カーイの目を、レイフが床から拾い上げた、ライフルのストックが直撃した。

カーイは、悲鳴をあげて、傷ついた目を押さえた。それを、レイフの強靭な脚が横になぎ払う。カーイの体は、床に投げ出された。

「そいつを撃て!」

レイフは、反対側に転がりながら、傭兵達に向かって、怒鳴った。途中で見つけた、拳銃を拾い上げ、安全と見られる物陰に飛びこんだ。

レイフからカーイが離れたと見るや、傭兵達は、一斉にライフルを発砲した。続く数秒間、激しい銃声と共に暗闇を光が走った。

・45口径に新しい弾薬を装填すると、レイフは、再び、物影から飛び出した。カーイに危うく追いつめられたことで、怯むどころか、一層その激しい闘争心を燃やしていた。怒りと共に放出されたアドレナリンのせいで、彼の力と敏捷さは更に増していた。

レイフは、ライフル射撃を続けている、傭兵達のもとに駆けより、その援護をしようと銃を構えかけたが、ちっと舌打ちして、叫んだ。

「銃撃を、やめろ!」

傭兵達は、ぴたりとライフルを撃つのをやめた。数名が、腰のベルトからライトを取り出し、ターゲットがいたとおぼしき場所を照らし出す。白い煙が闇の中を漂い、やがて晴れていったが、肝心のターゲットは既に姿を消していた。

「逃がしたか」

ベンが、険しい表情で立ち尽しているレイフに近づいて来て、声をかけた。

「ああ」

ちょっと首を傾げて、周囲の気配を探った後、レイフは、頷いた。

「そうらしいな」

まだひりつく喉に手をやって、レイフは、ほうっと肩で息をついた。

「大丈夫か?」

「ああ、どうってことないよ。それより、カイルは、どうなった?」

「大した怪我じゃないが、足を傷めてる」

「そうか」

レイフは、集まった仲間達の顔を見まわし、そこに、一様に衝撃と恐怖の色が刻まれているのを見て取った。無理もない。銃弾を撃ちこまれてもびくともせずに、レイフに襲いかかるのを、そのスピードと怪力ぶりを、目の当たりにしたのだ。

「あんな奴を…仕留めて捕まえるなんて、本当にできるんだろうか」

その一言は、この場にいるもの全ての不安を代弁していた。

「…できるさ」

低い声が、頑強にそう答えた。皆が振り返った、その視線の先で、レイフは、先ほど、カーイと戦った辺りの床を見下ろしながら、煙草に火をつけていた。

しばし、煙草の煙をゆっくりと吐き出しながら、床の一点を眺め、それから、ふいに膝をついて、床のある部分を手のひらでぬぐうようにした。

「見ろよ」と、集まってきた仲間達に向けて、その手のひらを示した。赤く濡れていた。

「あいつの血だぜ」

レイフは、端正な顔を、どこか凄惨なものを感じさせる笑みに歪めたかと思うと、昂然と立ち上がった。

「俺達の武器が、あいつに全く通用しないって訳じゃないんだ。恐ろしく強くて、タフなのは確かだけれど、ちゃんと傷ついて、血も流せば、痛みだって感じている。俺達の相手は、実体のない幽霊じゃなく、ちゃんとした生身の生き物なんだ。決して、倒せない敵じゃない」

レイフは、敵の流した血に汚れた手のひらを、火のような目で見下ろし、ぐっと握り締めた。

次は、必ず仕留めてみせる。

(レイフ)

その時、小型マイクフォンを通して、クリスターの声が届いた。

(状況を説明しろ)

レイフは、ちょっときまりが悪そうな顔になって、傭兵仲間達に背を向けると、マイクロフォンに手をやりながら、応答した。

「ターゲットは、逃がしちまったよ。交戦中に、カイルが負傷した。あいつにも、銃弾を最低6、7発は、撃ちこんでやったけれど…ほとんど効かなかった。いや、血は流してたから、傷は負ったんだろうけれど、ほら、「パリー先生」が説明してたように、再生能力って奴が、信じられないくらいにすごいんだろうな。負った傷の割には出血量もごく少なかったし、傷なんかすぐに塞がっちまうんだろう。羨ましい体質だよ」

締め上げられた喉が痛むかのように、レイフは、軽く咳込んだ。

(おまえは、無傷なのかい?)

レイフは、ふと和んだ顔になった。

「うん」

それから、暗い天井に目を上げ、カメラらしいものが光っているのを見つけると、よく映りそうな位置に移動して、そちらに向けてにっこり笑って手を振った。

(…そういうまねは、やめろ)

マイクロフォンを通じて、兄が溜め息をつくのが聞こえた。

(真面目な話、ターゲットの能力は、我々の予想を越えていたということだね)

レイフは、素直に認めた。

「ああ。何の武器も持たない、それも、あんなに弱々しい外見の奴に、このオレが、肉薄され、ヤバイことになりかけた。別に戦い慣れてるって感じはなかったけれど、ただ、スピードが尋常でないのと、あの予想外の怪力には参ったな。M16ライフルを素手で握りつぶされちまったよ。あんなのにまともに捕まって、よく助かったと思うぜ。今から考えたら、ぞっとするよ。人間の首くらい、造作もなくへし折りそうだ」

自分の首の辺りを撫でながら、寒気を覚えたように、肩をすくめた。

(MK89を使えるような状態ではなかったようだね?)

レイフは、ベンが背負っている重いその武器を思い出しながら、答えた。

「とてもじゃないけれど、そんな余裕はなかったよ。通常の兵器で弱らせた所をって考えたけれど…もっと破壊力のある火器なら、それなりのダメージも与えられるんだろうがな。それと、やっぱり、あのスピードがネックだよな。あいつの足を止めないことには、MK89なんか、使えないよ」

(それでは、その足を止める方法を考えないとね)と、あっさり言われて、レイフは、一瞬むっとした顔になり、それから、顔をうつむけて、考えこんだ。

「あいつの足を止める方法…か」

カフェテリアの中で、誰かが、驚いたような声をあげた。

レイフは、はっと瞬きをして、そちらを振りかえった。

「うわぁっ、びっくりさせやがって、何かと思ったら…」

レイフは、眉根を寄せ、そちらに足を向けた。

「おい、何を見つけたんだ?」

カフェテリアの奥を調べていた傭兵の一人が、放置された椅子やテーブルが山積みにされている、その向こうの壁をライトで照らしていた。

「何か、変な影が見えたと思って、ライトをあててみたんです。そしたら、ほら…」

レイフは、ひょいと身を屈めて、ライトの光の向こうを透かし見た。

「なんだ、鏡じゃねぇか」

それは、大きな姿見で、カフェテリアの壁に取り付けられたいたものだろうが、今は外れて、そこに無造作に立てかけられていた。

「幽霊かと思ったら、鏡に映った自分の姿に肝を潰してただけだっていう、種あかしかよ」

悲鳴をあげた傭兵仲間に、レイフは、揶揄するようにそう言った。

(何か、あったのか?)

クリスターが尋ねるのに、レイフは、喉の奥で笑いながら、答えた。

「いや、何でもない、ただの鏡さ、鏡」

そうしながら、その目は、闇の向こうに、ぼんやりと浮かびあがる、己自身を写し取った影を見据えていた。

(レイフ、増援の必要はある?それとも、まだやれるかい?)

レイフは、不思議に思って、首を微かに傾げた。こんなにすぐにクリスターが増援を考えるとは、らしくなかった。レイフ自身、まだやれると思っているし、それは、クリスターも分かっているはずだ。

「うん、置いてきた武器で今欲しいってものはあるけれど、もう一度、オレ達だけでやってみるよ」

(そうか)  

レイフは、マイクロフォンの向こうの兄の様子を確かめようとするかのように、じっと耳を澄ませた。

(では、ただちに、次のポイントに移動しろ)

いつもと変わらない、冷徹なその声。しかし、何かが違う。微かな熱狂の予感めいたものが、秘められている。

(工場に隣接する倉庫だ。現在、そこに、ターゲットがいる)

レイフは、はっと息を吸いこんだ。

「あの、ばかでかい倉庫か…。分かった。今から急行する」

それから、ちょっと心もとなげに、呟いた。

「駆けつけたはいいけれど、また、煙みたいに消えちまわないだろうなぁ」

それへ、クリスターが、奇妙な確信を込めた声で、囁いた。

(いや、彼が逃げることはないだろうと思うよ)

レイフは、眉をひそめた。

「クリスター?」

レイフの訝しげな声をマイクロフォンで聞きながら、クリスターは、椅子に深く身を預けた姿勢で、目の前のモニターの一つを、興味深げに眺めていた。

その横に佇んだジェレミーが、憤然として、同じ画面を睨みつけている。

「あいつ、俺達を挑発しているんでしょうか?」

モニターに映っているのは、他の誰でもない、カーイだった。

倉庫内に設置された、監視カメラのすぐ下に、わざと姿をさらし、傲然と腕を組んで、睨みあげている。そのままの姿勢で、先程から、動こうとはしない。ジェレミーの言った通り、カメラを通じて、それを見ている者に対し、挑みかけているのだ。

自分は、ここにいる。そんな所で高みの見物などしていないで、早く戦いに来いと。

クリスターは、顎に軽く指を添えて、カーイをじっと見つめ返した。

その口許に、ゆっくりと微笑が広がっていく。

この敵は、クリスターを、実に楽しませてくれる相手だった。戦場でもどこでも、常に、芯は冷たく冷めたまま、我を忘れるほどにのめりこむことは決してない、クリスターだが、このゲームには、珍しくも、感情が高揚するのを覚えていた。この敵を見ているだけで、心地よい戦慄が、身の内を駆け巡るのだ。




カーイは、瞋恚の炎を、冷たい青い瞳の奥に灯して、監視カメラをひたすら見据えていた。

ここに来いと、念じていた。

銃弾を受けた傷は、弾も綺麗に取り除かれて、今は完全に塞がっていたし、レイフのライフルで殴られた顔には、傷一つない。

しかし、痛みは覚えていた。

捕食の対象として見下していた人間から、これほどの目にあわされたことは実際初めてだったカーイには、許せない侮辱だった。この体を傷つけた、思いあがった人間達に、目にものを見せてやる、血を吸う神の子に手を出したことを、死ぬほど後悔させてやる。ヴァンパイアの誇りを傷つけられて、逆上していた。

だから、逃げはせずに、ここで待つことにした。

この倉庫にも、やはり取りつけられていた監視カメラの前に立って、無言のメッセージを送りつづけた。

先ほど戦ったハンター達は、この知らせをすぐに受けとって、ここに駆けつけることだろう。カーイと戦い、倒す為に。それこそ、望む所だった。

だが、彼らの他に、カーイとまだ直接ぶつかることは避けたまま、全てを見渡せる場所にいて、戦い全体を指揮している、首魁とも言うべき者がいる。

(ここに来なさい…私に殺されるために…)

カーイの心は、血の報復に飢えていた。




クリスターが、おもむろに椅子から立ちあがったのに、少し離れた所で、やはり、モニターに映し出されたカーイに見入っていたスティーブンは、注意を引かれた。

クリスターは、静かに進み出て、カーイが映ったモニターの前に立った。

モニターの画面に手を伸ばし、そこに映し出されたカーイの映像を、ほとんど優しいと言える所作で触れた。

カメラを通じて、クリスターに挑みかけてくる、この青い瞳。ここまで来いと挑発する、死の誘惑をはらんだ、抗し難いその美しさに、魅せられたかのように、クリスターは、微動だにせず、しばし見入った。

クリスターは、スティーブンに背中を向けていたので、彼が今どんな顔をしているのか見ることはできなかったが、何だか、とても気になって、スティーブンは、その動きを息をつめて、見守っていた。その耳に、やがて、クリスターの声が届いた。

「まだだ」と、誘惑を感じてはいても、はねつける鉄のような意思を秘めた低い声で、クリスターは、モニターの中のカーイに向けて囁いた。

モニターにあてた手の指を曲げ、その中にカーイの姿を捕らえこむようにしながら、クリスターの琥珀色の瞳は、獲物を玩ぶ猫にも似た、残酷な愉悦をたたえて、きらめいていた。

一気に仕留めてしまうには、惜しい。最後の瞬間を先延ばしにすることで、楽しむ期間を長引かせ、そうであればこそ、また手に入れた時の喜びも大きい。このゲームの味わい方を、彼はよく心得ていた。

「焦るな」

その囁きは、愛しげでさえあった。

スティーブンは、ふいに胸苦しさが込み上げてくるを覚えて、クリスターから、慌てて目を逸らした。心臓の鼓動が早まるほど、動揺していた。

それから、心を静めてくれるものを探すように、後ろの長椅子に横たえられた、スルヤの方に顔を向けた。

もしかしたら本当に、スルヤにとっては、こうして何も知らずに眠りつづける方が、幸せかもしれない。

「レイフ」

カメラを通して、カーイと睨み合いながら、クリスターは、冷厳さを崩さず、弟に向かって、命じた。

「もう一度、ターゲットを攻撃しろ。だが、深追いはするな。このアタックの結果、現在の装備では、攻略不可能と私が判断した場合は、コックス会長より指定された武器の封印を解き、我々も現場に向かう」

弟の了解という応えを聞いて、クリスターは、マイクロフォンから手を離し、そのまま、軽く腕を組むようにして、モニターの前に留まりつづけた。

戦いは、クリスターにとって、ゲームに過ぎない。

いつだって、彼は、己の戦闘能力と知力を拠り所にした、命がけのこのゲームを楽しみ、慣れ親しみ、その道に通じて、勝ちつづけてきた。

平和な世界に戻ってきても、すぐに退屈して、また次の戦場を探して舞い戻ってしまう程に、中毒していた。

そんな彼が望むのは、より攻略しがたいゲーム、より強い敵以外の何ものでもなかった。戦いを繰り返すうち、より以上の刺激でないと、満足できなくなっていたのだ。

そして、ここにいるのは、長年夢に見つづけてきたような、何かだった。

今まで倒してきたような相手とは、まるで違う、決して死なない敵。その意味では、いつまでもゲームの本当の終わりなど来ないかも知れない、永遠に戦っていられるかもしれない、そんな相手だった。

こんな時が来ることを長年祈っていた。

そして、本当に現れた。

クリスターが、カーイに期待するのは、ただ殺してしまえばそれっきり終ってしまう生命以上のものだった。

この敵を倒せば、あるいは、血を流すことに耽溺したクリスターの心も、ついに真の満足を知るかもしれない。


そればかりか、それ以上の何かを…。


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