愛死−LOVE DEATH

第十三章 ワルキューレ


目的地近くに差しかかったころから、ぽつぽつと弱い雨が降り始めた。どうせ、降り始めたと思ったらすぐにあがる、おなじみのイギリスの雨だ。車のフロントガラスを濡らし、伝っていく雨の雫に、そのことをぼんやりとカーイは意識したが、彼の心の大半を占めているのは、これから向かう先にいるだろう恋人のことだった。

一刻も早くスルヤのもとに駆けつけたい、この腕に取り戻したい。

ロンドン郊外の指定された場所までの道中、病気だったスルヤの体を案じ、また今どういう状態でスティーブンと共にそこにいるのか、一体どんなことを二人は話し合ったのかという不安に苛まれ、とにかく急がねばという気持ちばかりが急いて、カーイの運転をかなり荒っぽいものにさせていた。

何かがおかしい、スティーブンだけでなく、他の何者かが、話に噛んできている。そんな気もしていた。たぶん、この間のように簡単に、スティーブン一人を力でねじ伏せてスルヤを取り返すというわけにはいかないだろう。

それを考えると、尚更、スルヤが本当の所、今どんな状態で、一体誰に捕らわれているのか、不安で仕方がなくなる。スティーブンが一緒にいるのなら、まさか危害を加えられることはないと思うが、それも確信は持てない。

先ほどからずっと、喉に刺さった小さな骨のように気になっていることがある。スティーブンと電話でやり取りをした時、ふいに彼の声が途切れて、代わりに別の人間がカーイの声を聞いていた。その気配は、何かしら、カーイを慄然とさせた。何者だったのだろう。スティーブンと行動を共にしている目的も何も分からないが、あんな得体の知れない危険な気配がスルヤの傍にいるというのは、全くカーイの気にいらなかった。

(スルヤ、どうか、あなたに何事もありませんように…もうすぐ、私が傍に行きますから…無事でいてください…)

いずれ殺す獲物の無事を、ヴァンパイアである自分が祈るのか。そのことの矛盾をまたしても思ったが、錯綜する思いは、今は心の奥に押しやった。

それほど激しくはないが、雨にぬれてフロントガラスが少し見えにくくなってきたので、ワイパーをローモードで作動させた。カーイのボルボは、ハイウェイを降りて、道路脇に時々農家らしい家や柵が見えるだけの牧草地の間に伸びる道を進み、丘陵地帯の奥へ奥へと入りこんでいった。ロンドン程の大都会でも、一歩外に出るともうこんな広大な緑地帯が広がっている。もっとも、季節のよい時の昼間にピクニックに来るならともかく、こんな冬の夜に、車で猛スピードで通りすぎるだけでは、その風景を楽しむ余地などなかったのだが。

あまりに何もない土地だったので、カーイは、指定された場所に自分が間違いなく向かっているのか、段々自信が持てなくなってきた。どうして、スティーブンは、あるいその後ろにいる何ものかは、わざわざ街から離れたこんな不便な場所に、スルヤを連れ去ってまでして、カーイを呼び出したのだろう。その理由をつきつめていくと、何ともいえない嫌な予感がしたが、だからと言って、引き返すわけにもいかない。見事に弱みにつけこまれた気がする。こうなるともう認めない訳にはいかないが、何も知らない、か弱い人間の恋人であるスルヤは、何時の間にか、何にも脅かされることなく200年以上を生きてきたカーイの唯一の弱点となっていた。

(本当に、何て無様なことだろう。たかが人間一人にこんなに振りまわされて…ブリジットが警告したとおりだ。血を吸う者が人間に情をかけてはいけない…分かっているのに…!)

道を間違えたのではないかとカーイが疑い始めたその時、ほのかな明かりが、道路の向こうに見えてきた。近づいていくにつれ、こんな寂しい場所あるには幾分不似合いな、現代的な作りの巨大な建造物が、そこにそびえ建っていることが分かった。これが、指定された工場なのだろう。無機質な白いコンクリートの建物は、工場というよりは、研究所といった方がしっくりするが。

カーイは、建物に向かって緩やかに回りこむように下って行く道の途中で、一度ボルボを停車させ、外に出、闇の中に怪しく浮かびあがる建物を見下ろした。

明々と輝く光をともして、まるで、カーイに、ここだと呼びかけているかのようだ。

早く来いと、不気味な誘いをかけているかのようだ。

カーイは、大きく息をついて、眼下にある工場を厳しい顔で睨みすえた。あそこにスルヤがいる。

カーイは、再びボルボに乗りこんだ。

もう、何の迷いもためらいもなかった。


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