愛死−LOVE DEATH

第十二章 罠


スティーブンが、取り敢えずスルヤを連れていったのは、彼のフラットの傍にある、こぢんまりとしたカフェだった。常連客が主に利用する小さな店で、静かで落ち着けるので、気に入っていたのだが、5時には閉まってしまうので、その後はまた別の場所に連れていかなければならない。いつも学校の友人達と集まるパブに行くのもいいが、この3週間以上学校を無断欠席していたスティーブンにとって、今大勢の友人達と顔をあわせるのは、わずらわしくもあった。このまま、自分のフラットに連れて行った方がいいかもしれない。できる限り長い間スルヤを引きとめて欲しいというクリスターの言葉が、スティーブンの頭の中でひたすらぐるぐると回っていた。

明らかに落ちつかない様子の親友を前に、しかし、スルヤは、何も言わなかった。いつも潤んでいるように見える、大きな黒い瞳で、ひたむきに、親友の無事を確認するかのように見つめていた。スティーブンの手のことや、今までどこで何をしていたかなど、スルヤが当然質問すべき疑問はたくさんあったのだが、どことなくやつれ、悩みを抱え追いつめられているようなスティーブンの姿を前に、いきなり、それら全てを問いただそうとするほど、スルヤは馬鹿でも身勝手でもなかった。

「ねえ、スティーブン、作品は作っていたの?ジーン先生の言ってた展覧会にスティーブンも出品することになってたんだよね。締め切りは来週だって言ってたけれど、その手じゃ、もしかして、間に合わない…?」

そう言えば、そんな展覧会の話もあったのだと、今更のようにスティーブンは思い出した。何だか、そういう普通の日常からは離れて久しかったような気がする。どのみち今のスティーブンにとっては、あまり重要なこととは思えなくなっていた。

「ああ…この手じゃ、さすがに作品を間に合わせることはできそうもないな。残念だけれど、仕方ないさ」

「そう…もったいないね。でも、また次の機会に挑戦したらいいよね、スティーブンって才能あるし」

スティーブンは、スルヤの優しい気遣いに頷いてみせるが、写真に対するかつての情熱が一向に沸いてこないことにも気づいていた。スティーブンの心は、今や、すっかり過去の悪夢から蘇った死神の顔、カーイという美しいヴァンパイアに占められていた。考えてみれば、これまでだってそうだったのだ。ただ、実体を持たないイメージを作り上げる媒体として写真を選び、それを学ぶことに集中していただけだ。そして、現実の存在としてのカーイと出会った時に、写真の重要性が薄れるのは自然なことだった。

取りとめもない世間話や、自分の回りの近況をしばらく話した後、スルヤは、思いきったように、こう告げた。

「あのね、バレリーが、スティーブンがいなくなったって聞いて、すごく取り乱してたよ…。もしかして、自分のせいかもと思っちゃったみたい。ねえ、よかったら、電話だけでもいれてあげてよ。かわいそうだよ、彼女」

嫌な思いをして分かれたもと恋人の話など、スティーブンは、今聞きたい気分ではなかったので、少し不愉快そうに眉をひそめた。

「スルヤ、あいつに変に同情なんか、するなよ。あいつは、おまえのことを嫌ってるんだぜ。それに今更電話なんかして、何になるんだよ」

「でも…」

スルヤは、少し考えこんだ後、別に責める訳でも怒るわけでもなく、ただ心からの気遣いに満ちたまっすぐな目を向けて、続けた。

「バレリーだけじゃなくて、他の友達も、俺も、ずっとずっとスティーブンのことを心配していたんだよ?」

スティーブンは、はっと息を飲みこんだ。

「すまなかった」と、何とかそう言って、うろたえたようにスルヤから顔をそむけ、ポケットから取り出した煙草に火をつけた。

「色々、厄介なことが起きちまったんだ…手の怪我のこともあって、学校にも行けなくなって…皆心配しているだろうとは思ったんだけれど…本当にごたごたがあって…」

「ごたごたって…友達には、説明できないような何かだったの…?」

スルヤは、問いかけるかのように瞬きをして、スティーブンの答えを待つかのごとく、

言葉を切った。

「スルヤ…」

スティーブンは、適当な言い訳を必死で探しながら、唇を舌で湿した。「今まで、どこで何をやっていたんだ」と、荒げた声で追求される方がまだしもだった。こんなふうな哀しげな顔で、静かに訴えられるのには、本当に困った。

「すまない…けれど、俺は…」

スティーブンは、居たたまれなくなって、スルヤのテーブルの上に置かれた左手を掴み取るようにして、取り、訴えかけた。スルヤを守る為に始めたことだった。この何も知らない、罪のない、優しい生き物を傷つけないよう、全てを秘密にして、その命を守ると誓って、ここまできた。こんな袋小路に迷いこんで、スティーブンはあがいているけれど、こうして無事なスルヤの姿を見ると、その苦労のかいも少しはあったような気がして、安堵できた。

しかし、おまえのためだという言葉を言うことは、スティーブンには、どうしてもできなかった。嘘ではなく、そのとおりなのだから、言ってしまってもよかったかもしれない。こんな歯切れの悪い言葉でスルヤをこれ以上ごまかすくらいなら、自分がこれまで何をしてきたか、包み隠さず話した方が、いいのではないか。

だが、それを打ち明けるということは、スティーブンとカーイの深い因縁をスルヤに明かすということでもあった。

正体を明かせばスルヤを殺すといったカーイを、今更恐れることはないのかもしれない。今夜、オルソン兄弟が率いる傭兵達が計画を成功させてくれれば、カーイは、二度とスルヤには手を出せなくなる。

だが、それだけでなく、スティーブンには、自分のカーイに対する執着をスルヤに知られることが恐いのだ。スティーブンは、単純に自分を正義だと言いきれない、自分でも説明しがたい迷いがあることを知っている。この9年間捕らわれつづけたあの顔、あの青い瞳、逃れたいと思いながら、気がつけば彼のことばかり、まるで恋でもしているかのように思い出さずにはいられない。そんな妄執を、この澄んだ瞳の前にさらすことは恐い。親友の自分を見る目が変わるのではないかと、実はどうしようもなく恐ろしい。

(でも、こいつに嘘をつくのも…何だか、耐えられなくなってきた。思えば、こいつを避け続けたのも、連絡を取ろうとしなかったのも、会えば、全てを打ち明けるか、嘘をついて騙しつづけるか、選ばなきゃならなくなるからだったんだ)

スティーブンは、スルヤの手を掴んだまま、迷うように瞳を揺らせた。

「ねえ、スティーブン、俺は、スティーブンのことを信じてるよ」と、その時、スルヤがいきなり口を開いた。

「スティーブンは、俺達の心配を分かってなかった訳じゃない。それでも、連絡を取らなかったのは、そうしなきゃならない理由があったんだってことくらい。ただ、俺は、心配なんだ…何だか分からないけれど、スティーブンは一人で重大な問題を抱えている…助けてあげることはできないんだろうか、他に助けてくれる人はいるんだろうか、黙っているけれど、本当は誰かに何か伝えたいことがあるんじゃないかって…。ねえ、俺じゃあ、頼りなさ過ぎて、駄目かなぁ」

スティーブンの心は、ぐらりと傾いた。鈍感そうに見えるスルヤだが、時々人の心が読めるのではないかと思うくらい、胸の中の何かを的確についてくる。

「スルヤ、俺…」

己の中にふいに沸き起こった感情に押されるように、スティーブンは、口を開きかけた。しかし、その時、彼らのテーブルにやってきたウエイトレスに、その言葉は遮られた。

「お客様、申し訳ありません。もう、そろそろ閉店の時間になりますので…」

若い男の子二人がテーブル越しに手を握り合っているという奇妙な状態に気がついた二人は、不審そうなウェイトレスに笑いかけてごまかしながら、手を引っ込めた。

「今の女、俺達のこと、ゲイのカップルだって思ったかもな」

「ええっ、嫌だなぁ」

照れ隠しに上擦った笑い声をあげながら、二人は、ばたばたと清算をすませて、その店を出た。時間は、5時過ぎ。外は既に暗いが、まだスルヤを家に返す時間には、早すぎた。

「スルヤ、せっかくここまで来たんだから、俺のフラットに寄って行けよ」と、スティーブンが、意を決したような顔をして、後ろのスルヤを振り返った。

「そこで、おまえに見せたいものがあるんだ」と、スティーブンは、大きく息を吸いこみ、意識して胸から押し出すようにして、言った。彼の頭の中には、コンピューターの中で作りつづけた、あの画像、カーイに似せて作られた彼の神の像が思い出されていた。

「スルヤ、おまえに話すことがたくさんあるよ。きっと長い長い話になるし…おまえにとっては、ショックなこともあると思う。ひょっとしたら、おまえは、俺に愛想をつかすかもしれない…でも、俺は、おまえに聞いてもらいたいと思ってる。…来てくれるか?」

つい先ほどまでの逡巡ぶりが嘘のように、晴れ渡った気持ちで、スティーブンは、そう言った。スルヤには、人の気持ちを癒し、元気付ける魔法の力でもあるかのようだ。スルヤに、全てを打ち明けよう。スルヤ自身も傷つくかもしれないが、それを乗り越えるまっすぐな強さも彼は持っている。

傷つけない為であっても、嘘は嘘だ。騙すよりは、真実を伝えたい。この汚れのない瞳に対して、誠実でありたい。スティーブンは、そう決意した。

「おい、そういや、さっきおまえの手を握った時、何だか、妙に熱いなって思ったんたけれど、熱があるんじゃないか?」

「うん、実はちょっと風邪をひいているんだ。大丈夫だよ、大したことないから」

スルヤは、何でもないというように笑ってみせるが、スティーブンは、少し心配だった。だが、まさか家に帰すわけにはいかない。取り敢えず、早くフラットに連れていって、暖房をつけてやろう。

そうして、二人は歩き出した。

「薬か何か持っているのか?」

「うん、カーイが解熱剤を持たせてくれたよ。フラットについたら、お水をちょうだいね」

恋人の名を呼ぶ時のスルヤの声の何とあまやかなことだろう。スティーブンの胸は微かに痛んだが、決心は揺るがなかった。 

スティーブンは、スルヤの前に立って、まっすぐフラット目指して歩いて行った。途中ではほとんどしゃべらなかった。スルヤに何をどう話すべきか、頭の中を整理しなくてはならなかったからだ。

やがて、二人は大通りを離れ、人気のない細い道に入っていった。ここまで来ると、スティーブンのフラットはすぐだ。

くしゃんとスルヤが、スティーブンの後ろで大きなくしゃみをした。

「おい、大丈夫か?」

スティーブンは、立ち止まって、振り返った。

「うん、大丈夫…」

その瞬間、スルヤの背後に、大きな黒い影が忍び寄った。スティーブンは、目を見開いた。いつの間にか後をつけられていたのだろう、その影は、スティーブンが見守る前で、スルヤに手を伸ばした。

「や、やめ…!」

制止の叫びを上げるが、遅かった。その影は、スルヤ体を背後から押さえ込み、その鼻と口許をハンカチを持った手で塞いだ。スルヤの体は、驚愕したように跳ねるが、おそらくハンカチに即効性の薬が染みこませてあったのだろう、すぐに昏倒して、襲撃者の腕の中に沈みこんだ。

「レイフ?!」

闇の中からうかびあがったその顔が、見知ったものであったことに、スティーブンは驚愕した。

レイフは、続く言葉が見つからないように絶句しているスティーブンを一瞥し、それから、スルヤの口を押さえていた手をそっと外して、すっかり意識を失っていることを確かめるように、その顔を覗き込んだ。

「なあ、この坊や、一体幾つなんだ?全くガキにしか見えねぇが…何だか、いたいけな子供を誘拐するひどい悪人になったような、すごい嫌な気分だぜ…」

レイフの逞しい腕の中では、か細いスルヤは、本当に子供のように見えた。

「一体、何をするんだ、レイフ…!スルヤを離せ!」

ようやく、束の間麻痺していたスティーブンの思考が戻ってきたようだ。彼は、そう叫んで、レイフに駈け寄り、その腕からスルヤをもぎはなそうとした。

「よしな、スティーブン」

しかし、レイフは、軽々と腕を振って、そんなスティーブンを弾き飛ばすと、スルヤを肩にひょいと担いだ。

「レイフ!」

突き飛ばされて、一瞬よろめいたスティーブンだったが、ここで引き下がるわけにはいかなかった。彼は、急いで歩き去ろうとするレイフの前に回りこんで、両手を広げるようにして、立ちはだかった。

「待てよ!一体、これは、どういうことなんだ、説明しろ!」

レイフは、舌打ちした。

「あの化け物を仕留める為なんだ、スティーブン。この坊やも当事者なんだから、ちょっとくらい協力してもらったって、罰はあたらないと思うけどな?」

「何、言ってんだよ、レイフ!スルヤを、どこに連れていこうっというんだ?」

「こいつは、ターゲットを誘き寄せるための「餌」なんだよ…そう言うとすごく聞こえが悪いけれど。俺達は、街中から離れた所でターゲットを攻撃し、捕獲する。民間人を巻き込んで、世間にこのプロジェクトのことを知られることを避ける為だ。それで、罠をはった場所までターゲットを確実に呼び出すのに、こいつを使おうってことになったんだ」

スティーブンの顔に、衝撃が走った。

「スルヤは巻きこまないと約束したじゃないか…あんただって、うけあったはずだ…嘘だったのかよっ!」

そうなじられて、レイフはぐっと詰まった。

「いや…まあ、そういうことになっちまうな…悪いとは思うよ、スティーブン。けれど、考えてみなよ、いつこの子を取って食うつもりか知れない吸血鬼の傍に置いておくよりは、まだしも俺達の傍に置いておくほうが安全だとは言えないか?」

無論、レイフの苦しい言い訳がスティーブンに通用するはずがない。裏切られた怒りと失望をみなぎらせて睨みつけるスティーブンの目から、レイフは、堪り兼ねた様に視線を反らした。

「レイフ、俺は、あんたのことは信頼できると思ってた。気が優しくて、まっすぐで、情に厚くて…こんなやり方は全然あんたらしくない。本当は、スルヤを浚って人質になんてしたくないんじゃないのかよ?なあ、お願いだ、レイフ…スルヤを、離してくれ!」

レイフは、スティーブンから顔を背けたまま、拳をぐっと握り締めた。

「この子の身の安全は保障する。絶対に危険な場所にはやらない、いざとなれば俺が体をはってでも守ってやる。スティーブン、頼むから、そこをどいてくれ」

「裏切るのかよ、レイフ!」

レイフは唇を噛み締め、それから、険しい顔つきでスティーブンを振り返った。

「ああ、そうだよ。本当に残念だけれどな。俺もおまえのことは結構気にいっていたんだ、本気でさ。けれど、クリスターがこの坊やを欲しがっている…俺は、どうしてもあいつにだけは逆らえない。悪いが、諦めろ」

獰猛にそう吐き捨てると、ジャケットの内側からピストルを抜き、スティーブンに向けた。

「そこをどけ、スティーブン」

スティーブンの顔が紅潮した。彼は、レイフを負けじと睨みつけたまま、そこから一歩も動こうとはしない。レイフの面には、びりっと癇筋がはしり、何かしら険しく物騒なものをはらんできた。

その時、車が近づいてくる音が聞こえたかと思うと、ライトが、睨み合う二人を照らし出した。

「レイフ、何やってんだよ」と、セダンのドアを開いて、男がそう怒鳴った。スティーブンにも見覚えのある、傭兵の一人だ。

「ああ…」

レイフは、爆発寸前になっていたのをこの男の登場で気をそがれる形になったわけだが、同時にほっともしたようだった。弟のようにかわいがっていたスティーブンに向かって発砲などしたら、いくらレイフでも、さぞかし寝覚めが悪いことだろう。スティーブンを押しのけるようにして車に近づき、傭兵の助けを借りて、スルヤを中に押しこんだ。

「レイフ、待ってくれ」と、スティーブンは、顔を強張らせた。スルヤを連れていかれてしまう。必死になっていた。

「レイフ、どうしても、そいつを連れていくのなら、俺も連れていってくれっ!」

レイフの腕にしがみつくようにして、スティーブンは迫った。

「おまえも連れていけ…だって…?」

レイフは、当惑したように瞬きをして、スティーブンの顔を覗き込んだ。

「分ったよ、俺には、あんたをとめられない。だから、せめてスルヤの傍についていることを許してくれ…俺には、こいつに対して責任があるんだよ。こいつを一人で、あんたらの中に放りこむわけにはいかないんだ。もし、それで、スルヤが傷つくようにことがあれば、俺は、自分を許せなくなる…。それに、こいつは、今、病気で、熱があるんだ。そんな状態のスルヤが連れていかれるのを手をこまねいて見ていることなんか、できないよ」

レイフは、顔をしかめ、車の後部座席に横たえられたスルヤの額に手を伸ばして、触れた。

「本当に、熱がある。ったく、間が悪いな」

参ったように頭をかいて、レイフはジャケットを脱ぐと、スルヤの上にそっとかけてやった。

「レイフ、お願いだ、俺も連れていってくれ。こいつをみさせてくれ…」

執拗にかき口説かれて、レイフは、途方にくれたように天を仰いだ。

「兄貴の奴、怒るだろうなぁ…」

はあっと大きな溜め息をつくと、スティーブンをじろりと睨みつけた。

「分った。連れいってやらぁ」

「レ、レイフ!」

「その代わり、おとなしくしているんだぞ。ミッションの時は、俺達も気が立っていて、おまえのような部外者が視界をうろうろしたら、それだけでかっとなって、殴り飛ばすかもしれねぇしな。ほら、ぐずぐずしないで、早く乗れよっ」

レイフに促されるのに、スティーブンは弾かれたようになって、車に飛び乗った。

「スルヤ…」

スティーブンがスルヤのいる後部座席に身を落ちつけると、車はすぐに発進した。

「すまない、スルヤ…」

意識のない友人の体を、自分の方にそっともたれさせ、スティーブンは、すまない気持ちで一杯になりながら、その罪のない顔を見つめた。

スルヤを守ろうと思ってしたことなのに、結果的に、危険に巻きこんでしまった。 

(けれど、俺はおまえについているから…危ない目にあわせないよう、何としても、守るから…)

スルヤの額に手をのせて、気遣わしげな眼差しを向ける。少し熱が上がってきたようだ。

そんなスティーブンの様子を、レイフの琥珀色の瞳が、肩越しにそっと見やった。こんなはずではなかったのだがと、自分の行動に苦笑していた。クリスターにいつも指摘されることだが、自分はやはり情に脆い。スティーブンの必死の顔を見ていて、どうしても拒否できなかった。全く、プロ的ではなかった。

だが、今更悩んでも、遅い。それに、部外者が一人混じったところで、まさかミッションに支障をきたすようなことにはなるまい。判断を誤ったという意識はついて回ったし、それはレイフの冴えた直感が発する信号であったのかもしれないが、ひとまずそう自分に言い聞かせて、彼は、気を鎮めようとしていた。




ロンドン北西の郊外に、その巨大な工場は、打ちすてられた要塞然とした姿をさらしていた。かつてはコックス製薬のヨーロッパ最大規模の薬品工場兼研究施設であったのだが、コックス社のヨーロッパでの活動規模縮小のあおりを食らって、およそ一年前に閉鎖されて以来、他に何もない丘陵地の中にぽつんとうかぶその建物を訪れる者はなく、工場が活動中は通っていたバスの便もなくなり、従業員向けに近くの道路脇にぽつんぽつんとあったパブやレストランの類もほとんど姿を消して、この付近には、少し離れた所に北西にずっと伸びたハイウェイで通りすぎる車の音が風に乗って届く以外は、本当に人気というものが存在しなくなって、久しかった。

だが、この夜は違った。幽霊が出ると言っても少しもおかしくはなさそうな、建物の死体と呼んでも納得しそうな廃工場の内部に明かりが灯っていたのだ。

さらに、工場の裏の目立たない所には、三台のバンとセダンが一台止まっている。そのすぐ傍にある、巨大な倉庫のシャッターは開いており、そこから内部に入ってみると、更に、空気が何かしら生き生きとした活動力に満ちていることが感じられる。長い間死んでいた建物が、久々の人の訪れを受けて、息をふき返していた。建造物に意思というものがあるのなら、この工場は、彼ら訪問者達を歓迎していただろう。彼らがどんなに物騒な存在であり、ここでどんなに過激な罠を張り巡らせているか、例え、知っていたとしても。

そう、ここは、コックス会長が、彼らハンター達の為に用意した戦いの為の舞台だった。罠を張り巡らせ、準備万端整えて、後は、実際にターゲットを呼びこむばかりとなっている。

「…い、一体何でここにパリーがいやがるんだぁっ?!」

工場に隣接する研究施設にある、巨大な保安室を傭兵達は司令室としたのだが、今そこに遅れ馳せながら到着したレイフは、部屋の片隅のソファに縮み上がるようにして坐らされているパリーを見るなり、瞬時に爆発して、そう叫んだ。

「どういうことなんだよ、クリスター!」

レイフの怒声にびくりとなるパリーを指差しつつ、彼は真っ赤な顔で兄を振り返った。

「うん…おまえのいない間に、ちょっと問題が起こってね…」

クリスターは、案の定パリーを見るなりいきりたつレイフを、静かに見つめ返しながら、パリーの提言によって、武器の使用についてコックス会長と話し合い、その結果こういうことになったのだと説明した。それを聞いたレイフは、激怒した。

「余計なことを言いやがって、貴様…ど素人のくせに俺達の仕事にケチをつけようとはいい度胸だぜ。武器のことなんか、何も分ってないくせに、そんなおまえが、俺達のアドバイザーかよ、おかしすぎらぁ!」

そう言い放って、パリーの頭を軽く小突いた。もっともレイフの「軽く」は、それなりのパンチも同然であったので、パリーは悲鳴をあげ、それから、きっとなって顔を上げた。パリーも、その瞬間に、切れたようだった。

「おまえの雇い主の命令だぞ、レイフ。おまえがどう思おうが、ターゲットを無傷で捕獲する為、私の判断には従ってもらうからな。私がいいと言うまでは、封印された武器の使用など、させんぞ」

「開き直りやがって、この野郎…!」

レイフが、少し本気になって、パリーのおしゃべりな口を黙らせようと振り上げた腕は、クリスターによって押さえられた。

「邪魔するなよ、兄貴」

まだ気持ちがおさまらないレイフはじろりと睨むが、クリスターは首を横に振って、それから、司令室の片隅の長椅子にそっと横たえられているスルヤと、その傍で彼を守るように付き添っているスティーブンの方を顎で示した。

「そんなことよりも、レイフ、何故、あの坊やまで連れてきたんだい?」

レイフは、悪戯を咎められた子供のような顔をした。

「う…ごめん…スルヤを連れていくなら自分も一緒にって、どうしても言うことをきかなくて…」

「言うことを聞かなくてって、子供相手に一体何をやっていたんだい?私達は、仕事をしにここに来ているんだよ?大体おまえは、いつも…」

「兄さんだって、お荷物にしかならないパリーなんか連れてきたじゃないかっ」

「それとこれは、話が違うだろう」

この司令室に詰めている、ベンやジェレミーも含めた数名の傭兵達が、「兄弟喧嘩か?」と、物珍しげに、口論している双子に視線を集中させた。

自分のことで兄弟が言い合っているのを、スティーブンは、身を固くして、見守っていた。もしかしたら、彼らは自分をつまみ出そうとするかもしれない。しかし、何があっても、スルヤの傍から離れないぞ。きつい目で、スティーブンは、今は声を低めて囁きあっている兄弟を睨みつけていた。

「スティーブン」

やがて、がくりと頭をたれているレイフの肩を慰めるように軽く叩いて、クリスターが、スティーブンに近づいてきた。

「私のやり方については、君も色々言いたいことがあるだろう。だが、こうしてミッションの現場にまで来た以上、君の非難も反抗も許さない、全て私の指示通りにしてもらう。それが嫌なら、今すぐここから叩き出す。もちろん、君の友人には残ってもらうが」

悪びれるどころか、憎らしいくらいに冷静そのもののクリスターの顔を、スティーブンは、用心深く睨みつけていたが、本当にここを追い出されるわけにはいかないので、不承不承頷いた。

「結構。では、我々の仕事が終るまで、決してこの司令室から外には出ないようにしてくれ。移動の必要が生じた場合も、我々の指示に従うように。これは、君自身の安全を保障するためでもある。分ったかな?」

「…ああ」

クリスターは、薄く微笑んだ。見ていてほっとするどころか、鋭いナイフの切っ先のように、下手に近づけばずたずたにされてしまいそうな、危険な凄みがあった。スティーブンは、どうやら、クリスターの癇に障ったらしい

「では、ターゲットに連絡をいれてもらおう」と、クリスターは、ふいにそう言って、ポケットから取り出した携帯電話をスティーブンに投げてよこした。

「えっ…?」

慌てて、手を伸ばしてそれを受けとめ、スティーブンは、問いかけるかのごとくクリスターを見返した。

「前にも一度やったんだろう?あのヴァンパイアに電話を入れて、ここに呼び出すんだ。君の友人も一緒だと言ってね。私達のことは言う必要はない。どのみち怪しまれずにはおかないだろうが…それでも、彼は来るだろうと思うよ。なまじ力を持っている者は油断しやすいし、何より、あの子を取りもどすためにね」

スティーブンは、躊躇した。カーイに連絡するなんて。一体、何をどう言えばいいのか、混乱して、うまくまとまらない。それでも、やがて、詰めていた息をゆっくりと吐き出すと、思いきったように、スルヤの自宅の番号にダイヤルした。




「ほら、あなたの好きなツナ缶ですよ」

スルヤが帰ってこないので、カーイは、おなかを空かせてすり寄ってくる猫のために、缶詰をあけて、キッチンの隅のいつもの場所においてやった。しかし、白い猫は、何が不満なのか、匂いをちょっとかいただけで、顔を上げ、自分が欲しいのはこれではないというように、レモンイエローの瞳で、カーイを見る。

「いつも食べているでしょう?せっかく開けたんだから、食べてしまいなさい。そんな目で見ても駄目ですよ、私は、スルヤと違って、そんなに甘くはないんですから」

猫は、不満そうにチラリと皿の方を見、またカーイを見上げて、恨みがましそうに、にいとないた。

本当に、何と我が侭な生き物だろう。スルヤがかわいがっているのでなければ、外に放り出す所だ。カーイは、足下にじっと坐りこむ小さな生き物をいらいらと睨みつけ、いきなり何を思ったか、白い牙をむいて、威嚇するように「にい」と言ってみた。

猫は、すっと後ろを向き、すたすと歩き去った。何だか、馬鹿にされたように気がする。カーイは、舌打ちをした。

キッチンの壁の時計を仰ぎ見た。もうすぐ7時になろうというのに、一体、スルヤはどこで何をしているのだろう。友達とどこかに寄り道をしたにしろ、いつもなら、とっくに帰っているべき時間だし、それに、今日は調子が悪いはずだから、外をふらふらしているとも思えない。

カーイは、考えた挙句、スルヤの部屋に行って、アドレスブックを探しだし、その中から知った名前を幾つか見つけて、電話をかけてみた。いつか病院で会ったことのあるスルヤの学校の生徒達だ。学生は、皆、いきなりカーイから電話などもらって、喫驚した。幸い、彼らの中で、スルヤがどこに行ったのかを知っていた者がいた。アニーという、はきはきした、感じのいい女学生だ。

「ええ、スルヤなら、クラスが終った後、スティーブンと一緒に帰ったわよ。久しぶりだし、カフェかパブにでも寄って行ったんじゃないかしら」

スティーブン。一番、聞きたくなかった名前を聞いて、カーイは、内心歯噛みをしていた。アニーの電話を切った後、すぐにスティーブンのフラットの番号を探して、ダイヤルするが、通じない。一体、スルヤをどこに連れていったというのか。カーイは、神経質に唇を指先で触れ、爪をかんだ。

その時、電話が鳴った。カーイは、即座に受話器を取った。

「スルヤ?!スルヤなんですか?一体、どこにいるんです?」

己の声がおかしいほどに上擦っていることを意識した。

「……カーイ」 

受話器から漏れた声は、カーイが期待したものではなかったが、これも、ある意味待ち受けていたものだった。

「スティーブン!」

かっと、カーイの頭に血が上った。

「今、どこにいるんです?スルヤは、一緒なんですか?!」 

カーイの剣幕に、スティーブンはひるんだように、息を飲んだ。

「あなたが、スルヤを連れ出したんでしょう?あの人は、熱があるんですよ?それを、こんな時間まで連れまわして、一体、どういうつもりなんです?とにかく、今どこにいるのか、言いなさい、車で迎えに行きますから」

スティーブンの言い分なで聞きたくないとばかりに、一方的にカーイは、言いたてた。それから、相手の応えを、激しい敵意を燃やしながら、じっと待つ。

「スルヤは…スルヤを、あんたの所に帰すわけにはいかない」と、スティーブンは、ゆっくりと言葉を選びながら、言った。

「なぜかは、言わなくても、あんたには分かっているはずだ」

カーイは、ぎりっと唇を噛み締めた。やはり、スルヤを一人で外になどやるのではなかった。

「あの人に…話したんですか?」

恐る恐る、聞いてみる。

「いや…まだだ…。けれど、そのことも含めて、あんたと話しあいたいんだ。車があるんだな…なら、俺の指定する場所まで、今から来て欲しい…この電話を切った後、ファックスで地図を送るよ。たぶん、一時間もあれば、着くと思うが」

「そこに…スルヤもいるんですね?」

「ああ」

カーイは、本当に逡巡もしない。スルヤを取り戻すことだけに必死になっている。罠だということを全く気づいていないのか、それとも、おかしいと思っても、問題にしていないのか。

スティーブンは、携帯を持ったまま、迷うように沈黙した。目を上げると、腕を組んでじっと己を見下ろすクリスターの冷たい顔、その後ろから、心配そうに覗き込んでいるレイフの顔がある。そして、この部屋に集まっている傭兵達も、ぐるりと見渡した。ふいに、説明しがたい衝動がスティーブンの胸の奥から突き上げて来た。彼は、にわかに携帯を両手で持ちなおし、カーイに向かって、叫びかけた。

「カーイ…ここには…」

さっと伸びてきた力強い手が、スティーブンから、携帯をもぎ取った。クリスターだ。スティーブンは、はっと息をついた。

クリスターは、取り戻した携帯を手に、スティーブンの顔を冷やかに見下ろした。ふと、携帯から流れてくる声に、気を引かれたようだ。

「スティーブン!スルヤがそこにいるなら、代わってください!あの人の声を聞かせなさい!」

その声を聞いた時にクリスターの顔にうかんだ笑みの、何と残酷だったこと。なまじ人より整っているだけに、ぞっとするものがあった。

クリスターは、携帯を己の耳もとに持ち上げた。スティーブンは、息を飲んだ。一瞬カーイに話しかける気かとも思ったが、それはせず、クリスターは、ただ、携帯を通じて呼びかけるカーイの声にじっと聞きいっている。

「スティーブ…」

カーイは、はっとなって、口をつぐんだ。電話はまだつながっているし、誰かが自分の言うことに耳を傾けていることも分ったが、この相手はスティーブンではないことに気がついたのだ。自分の知らない、誰かが、そこにいる。急にカーイの心臓の鼓動が、速くなった。カーイは、声を低めて、囁いた。

「誰…?」

クリスターは、その呼びかけに目を細め、そして、携帯を切った。

「さて…」

息を詰めて己を注視する弟を仲間達を鋭い眼差しでゆっくりと見渡し、クリスターは、鋼のような声で宣言した。

「ミッション開始だ」

カーイは、切れた電話をしばし当惑したように見下ろしていた。一体、何者だったのだろう。全く知らない気配でもなかったような気もするが、ひどくぞっとした。肌が今でも泡立っている。

危険。彼の本能が、そう訴える。

罠。行くなと、告げている。

(けれど、スルヤがそこにいるのなら、私は、行かなければ…)

たかが人間一人、いずれ殺す獲物を取り戻す為だけに、我が身を危険にさらすのか。それだけの価値が、この短い「恋」にあるのか。馬鹿げている。全く正気の沙汰ではない。だが、そんな問いかけなど、今のカーイには無意味だった。

(危険など恐くはない。私を滅ぼすことのできるものはこの世には存在しないし、人間ごときが何をしようと、後れを取るとは思えない)

カーイの古い血の末裔としての誇りは、強情にそう言い放つ。また、彼の胸の中で燃え立つ、抑えようのない激情が、叫ぶ。

(じきに終る恋だからこそ、誰にも邪魔はさせたくない。私以外の者の手で、終らせるとはできない。あの人は、私のもの)

やがて、送られてきた地図を取り、外出の準備を済ませると、カーイは、車庫の黒いボルボに乗り込んで、静かに発進させた。

(スルヤは、必ず取り戻す…) 

自らが捕らわれているものが、我が身を滅ぼしかねない狂恋であるかもしれないなどと、カーイは、意識することもなく、青ざめた顔を車のフロントガラスの向こうに透ける闇に向け、ひたすらに恋人のもとに急いだ。

 


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