愛死−LOVE DEATH

第十二章 罠


メアリー・E・コックスは、浅い夢の波間をゆったりとまどろんでいた。眠りは、彼女にとって、既に安らぎではなく、今度眠ったら次に寝覚めることはないのかもしれないという恐怖を覚えさせられる、死の影に満ちた暗い場所となって久しかったが、この時は、実に久々に幸せな夢が彼女を訪れていた。

(メアリー)

懐かしい声に呼ばれて顔を上げると、もう何年も前に事故で死んだ夫が、穏かで優しい笑みを浮かべて、彼女に寄り添っていた。

(君は、相変わらず戦いつづけているんだね。でも、もう充分だよ。そんなに苦しい思いをしてまで、がんばる必要はない)

大企業のトップとしての重責を女ながらに背負った彼女を励まし、時にいさめ、適切な助言を与えて、40年以上支えつづけてくれた人生のパートナーを亡くした時、彼女を現世に繋ぎとめる最後のくびきも消し飛んでしまった。これ以上失うものなどないと思えば、どんなことでもできた。世間の風評も、法の手が伸びることも恐くなかった。メアリーは、目的のためには手段を選ばない、酷薄な女となっていた。

(父さんの言う通りだよ、母さん)

夫のものよりも随分若い声がそう呼びかけるのに振りかえると、利発な明るい目をした二人の若者達が、彼女を心配そうに覗き込んでいた。不治の病のため幼くして亡くした、彼女の二人の息子達が大きくなった姿なのだと、母親の直感で、メアリーにはすぐに知れた。ああ、こんなふうに成長していたかも知れないのだ。メアリーの社が得意とする最先端の技術が、あの当時確立されていれば、息子たちは死なずにすんで、この年になるまで、いやそれ以上に長生きをして、メアリーの人生をどんなにか豊かで喜びに満ちたものにしてくれただろう。子供達の死を境に、メアリーは、ひたすら攻撃と挑戦を続ける人生を選んだのだ。普通の母親ならば、亡くした子供達を思って泣き暮らすのみで、やがては諦め、現実を受け入れていくしかなかったろうが、メアリーは、ただ泣いてばかりいる女ではなかった。愛する者を立て続けに奪った死に対する戦いを始めたのだ。不屈の闘志を燃やしつづける社長に引っ張られるように、メアリーの社は急成長をし、彼女の子供達の命を奪ったアデノシンデアミナーゼ欠損症を初め、数々の難病に対する画期的な治療法を編み出していった。メアリー自身も名声を手に入れたが、それでも、彼女の心は、少しも満たされることはなかった。彼女が欲しかったのは、本当は、こんな人生ではなかったのだ。好き好んで、こんな勝ち目のない戦いに人生を捧げたわけではない。

ただ、愛する者達を失いたくなかった。この手に取り戻したかった。それだけが、彼女の望みだった。

(お母さんは、充分努力しましたよ。もう、楽になってもいい時です)

気遣わしげにそう訴える下の息子を見つめながら、メアリーは、どうしようもない哀しみが押し寄せてくるのを感じた。何という長い年月だっただろう。孤独に耐え、幾度となく挫折と無力感を味わいながら、死を克服する方法を探しつづけた。初めは誰もがメアリーの試みを夢物語と嘲笑っていたが、近年の素晴らしい科学の進歩のおかげで、今では、死のプロセスを解明できる糸口は掴めて来ている。それなのに、メアリー自身が、ついに死の手に捕らえられようとしていた。今ここでは死ねない。そんな思いも、進行する病には通用しなかった。死を打ち負かすことはついにできなかった。メアリーは、負けたまま、死ぬしかない。絶望しかかった時に、あの不死の生き物の存在を知った。メアリーの中で、消えつつあった希望の火が再び狂おしく燃えあがり、彼女に最後の戦いの決心をさせた。

(ありがとう、マイケル…。可愛いトビーに、ショーン。でも、私は、まだやめるわけにはいかないの…)

三人の姿が、急に霞み、遠のいていく。メアリーは、自分が目覚めつつあることを意識した。

(あなた達の為なの)

そう、メアリーは、信じていた。メアリー自身が、死を逃れ、不死の秘密を手に入れることで、死んでしまった愛する者達も蘇らせることができるに違いない。

(その為には、あの生き物を捕らえなければならない…)

メアリーは、ゆっくりと目を開けた。瞬間、目の縁から、一滴の涙がこぼれた。体の奥深いところから発する痛みが全身に伝わるのを意識する。すっかり耳になじんだ、生命維持装置が酸素を送る音。昼も夜もなく、暗く締め切った部屋。そう、これが現実だ。首を僅かに動かし、ベッドサイドの小卓の上に飾られた写真たての方を見た。家族は、今でもすぐ傍にいて、彼女を見守っていてくれる。大丈夫、まだ負けない。

その時、扉が控えめにノックされ、秘書のアダムが姿を表した。

「会長、お目覚めでいらっしゃいますか?」

「ああ、起きているよ」

途端に、メアリーは、コックス帝国に君臨する女帝の顔に戻っていた。彼女に妻や母親の顔があることを知っている人間は、既に生きている者達の中にはいなかった。

「実は、パリー様が、緊急に会長にお目にかかってお話したいことがあるとおっしゃられているのですが、どういたしましょう」

「パリーが?」

メアリーは、首をかしげて、数瞬の間、考えこんだ。

「いいだろう。通しなさい」

アダムに案内されて部屋に入ってきたパリーは、おちつかなげで、神経質そうにこの異様な部屋を見渡していた。あまり会って楽しい客ではないと、メアリーは思ったが、こんな感情はおくびにも出さずに、自分の枕もとに来るよう、促した。近づいてきたパリーの顔が、暴行を受けたかのように青い痣を幾つも作っていることに、メアリーは気がついたが、わざと知らないふりをした。パリーが、傭兵達、特にオルソン兄弟とうまくいっておらず、度々トラブルを起こしていることは、寝たきりの彼女に耳にも入っていたのだ。

「何があったのだい、パリー?」

病人らしく、気だるげに、しかし、薄く開いた目でパリーを厳しく観察しながら、メアリーは問うた。

「は…実は、明日の捕獲作戦のことで、実は会長の耳にぜひ入れて、判断をあおぎたい重大なことがありまして…」

そうして、パリーは、レイフがうっかり口を滑らせた「吸血鬼を殺す」という言葉を話して聞かせ、傭兵達が、実際に吸血鬼を破壊する可能性のある、破壊力の大きい武器を使用するつもりでいることを打ち明けた。

「私は、彼らに説明したつもりです。いくら不死とはいっても、高等な生物が、体をばらばらにされてもよみがえってくるような再生能力を持つことはありえない、と。それなのに、奴らは、まるで戦争でもしかけるような勢いで、殺傷能力の高い大型の火器や爆薬の類を使うつもりでいるんです。私には、認められません。それで、万が一にも、あの貴重なサンプルが失われることになったら…」

「クリスターは、賢い男だよ。それにどんな時でもプロの仕事に徹するという点で、私は彼を信頼している。雇い主である私の意向を理解し、この仕事を引き受けたからには、取り得る最善の方法を用いて、あれを捕らえてくれるだろうと、私は思っているのだがね」

メアリーの少しも動揺しない声に、パリーは、何だか自分が軽侮されているような気がして、ますます居心地が悪くなった。しかし、ここで引き下がることはできないとばかりに、食い下がった。

「クリスターが何を考えているかなど、私は知りません。私は、ただ彼らが準備しているような火器を吸血鬼の捕獲に用いることには反対だと言っているんです。あれを無傷で捕らえる為に、あなたは、アメリカからわざわざ開発中のMK89まで取り寄せたんじゃないですか。それに、クリスターはともかく、他の傭兵達が、あれを無事な姿で捕らえなければならないことを、それ程理解しているとも思えないんです」

「ふむ…」

パリーの必死に訴えに、メアリーも、微かに心を動かされたようだった。それに、確かに、吸血鬼を無傷で捕らえることは彼女の最優先課題なのだった。

「分かった、パリー。使用する武器について、おまえの求める制約を彼らに課すことにしよう」

思ったよりも簡単に自分の主張が聞き入れられたパリーの顔は、思わず、してやったりというような笑いに引き歪んだ。しかし、メアリーは、そんにパリーに釘をさすことも忘れなかった。

「いいかい、パリー、すべてはあの生き物を無事にここに連れてくる為なんだよ。おまえが、オルソン兄弟にどんな感情を抱いているかは問題にならないし、すべきでもないんだ。いいかい、くれぐれも彼らの仕事を妨害するようなまねはしないでおくれ。おまえには、彼らに協力をしてもらいたいんだ。彼らが、まずあれを捕まえてくれないことには、おまえの本領を発揮できる、研究など少しも始まらないんだからね。その点を、忘れないでおくれ」

「は…はい…」

雇い主の手前、パリーは、おとなしくその戒めを受け入れるしかなかったが、内心では、やはり自分は軽んじられている、という失望と焦りを強めていた。会長自身の口からクリスターを信頼していると語られたことにも、反発を覚えた。

(どうして、あんなはみ出し者の傭兵などを重用するんだ…あんな奴らが、契約をまともに守るとも思えない。いつ何時、裏切るか知れない、人でなしのクズじゃないか…。何がクリスターはプロの仕事をする、だ。あんな奴…昔は少しばかり頭がよかったことを鼻にかけているだけで、実際には何もできやしない、社会の落伍者じゃないか、それを…)

会長の意向に従って傭兵達に協力すると誓いながらも、パリーの胸には、彼らに対する憎しみと妬みが一層つのっていくばかりだったのだ。 




ミッション前夜、オルソン兄弟に呼び出されたスティーブンは、その部屋の扉を叩き、開けた所で、ふと立ち止まった。この大きな暖炉のある応接室は、今回のミッションのために呼び寄せられた連中が集まってくつろぐために用いられているのだが、今そこにいるのは例の兄弟だけで、彼らは、ブランデーのボトルとグラスを脇に置いて、明々と火の燃える暖炉の前の炉床にうずくまり、揺らめく炎を眺めながら、親しげに語らっていた。レイフの傍らには、例の実験で殺されかけたレトリバー犬がすっかりリラックスした様子で体を伸ばし、頭を撫でている主人の手の感触に気持ちよさげに目を瞑っている。レイフが何か冗談を言ったのか、首を傾げるように聞いていたクリスターが、肩を揺らして、笑った。とても明日戦いに行く男達とは思えないほど、寛いでいて、穏かだ。スティーブンは、一瞬声をかけることをためらった。この二人の中に入っていくことには、誰もが一瞬抵抗を覚えるに違いない。単に、仕事の上で息のあうパートナーというだけでない、そこにあるのは、二人揃うことでそれぞれに欠けたものを補完しあう、見事な完成品だった。クリスターの人を寄せつけない冷酷さも弟が傍にいる時は和らいで、冷たい顔には人間らしい暖かみが通ってくるし、良くも悪くも感情的で、一端激昂すると誰にもとめられないレイフを止められるのは兄だけで、それに冷静なクリスターが傍にいると精神的にレイフはずっと安定する。そんな彼らの間に入ってきた人間が、自らを余計な闖入者として認識してしまうのは無理のない話だった。それほどに、彼らは完璧な一対だったのだ。

スティーブンが躊躇しているうちに、二人は気がついたらしい、同時に彼の方を振りかえった。

「よお、スティーブン、そんな所で何してんだよ。こっち、来いよ」

同じ顔に二つに振り向かれて一瞬ひるむスティーブンを、レイフが、屈託のない笑顔で、手招きする。

「なあなあ、これ見ろよ。本物の暖炉なんだぜ。200年くらい前に作られたんだってさ。それが今でも使えるって言うから、アダムに頼みこんでつけてもらったんだけれど、こういう古いものを大事にする所って、イギリス人は偉いよなぁ」

心底感心したようにそう言って、レイフはひょいと身を起こし、少し暗くなった火の中を、火掻き棒で楽しそうに突つきまわした。

「何、はしゃいでんだよ」と、思わず噴き出しそうになるのを堪えながら、スティーブンはレイフの後ろに立った。

「だってさ、珍しいんだから、仕方ないじゃないか。いいよな…カッコいいな、こういうのがある家って」

クリスターが、ブランデーのグラスを持ち上げながら、揶揄するように付け加えた。

「だから、そろそろ私達もどこかに家を建てないか、なんて言い出すんだよ、暖炉つきのね」

クリスターに話しかけられるとつい緊張してしまうのが常なのだが、この時の彼はいつになく和んでいて、スティーブンにも親しみやすく感じられた。たぶん、弟が傍にいるからだろう。

「クリスター、俺に何か用があるって話だったけれど…」

スティーブンがそう切り出すのに、クリスターは、ふっと微笑みをやめて、またいつもの怜悧さを取り戻した。

「ああ、そうだったね」

そう言って、起き上がり、レイフは暖炉の前に残したまま、スティーブンを部屋の真ん中にあるソファの方に誘った。

「実は、明日のミッションのことなんだ」と、スティーブンがソファに腰を下ろすや、早速クリスターは口を開いた。

「ターゲットの捕獲は、もちろん私達に任せてもらえばいい。ただ、気になるのが君の友人の存在なんだ。私達は、民間人を巻き込みたくはないから、ターゲットをできるだけ街中から離した上でアタックをかけるつもりでいる。しかし、それでもターゲットの一番身近に君の友人がいるという状況は、幾分不安でもあるんだ。つまり、ターゲットを彼から引き離すだけでもこちらとしては余計な気遣いをしなくてはならないし、万が一にも巻きこんでしまったら、君にも、コックス会長にも申し訳がたたないからね」

「スルヤは巻きこまないとあんた達は約束したはずだ」

僅かに顔をこわばらすスティーブンに、クリスターは、分かっているというように頷いた。

「そこで、君に頼みたいんだが、明日一日、君の友人をターゲットから引き離して欲しいんだ。君と同じ学校に通っているそうだから、そこであの子を捕まえて、どこかに連れ出すことはできるだろう。何の連絡もなく姿を消した友人を、あの子はとても心配していると思うよ。君が久し振りに現れて、話をしたいと言えば、きっと一も二もなくついてくるだろう。君のフラットでも、よく知っている店でもどこでもいい、後は、できるだけ遅い時間まで引きとめてもらいたい…本当は一晩返さないくらいが安全なのだけれどね。どうだろう、引きうけてもらえるだろうか?」

スティーブンは、クリスターの一見文句のつけようがない程真摯そうに見える顔を、用心深く見据えた。たぶんスティーブンは、少し警戒しすぎるのだろう。民間人を巻き込みたくないというのは、彼の雇い主の意向でもあるはずだ。クリスターを疑う理由はない。

「分かったよ。とにかく、スルヤを引き止めりゃいいんだな」

「そうしてもらえると助かるよ、スティーブン」

クリスターは、これで気になる問題が一つクリアーできたというように、ほっとした顔をした。

レイフは、そんな彼らに背中を向けたまま、何も口をはさもうとはせず、ひたすら、暖炉の中で燃えさかる炎に見入っている。スティーブンがクリスターの申し出を受け入れた瞬間、その口から微かな嘆息が吐き出されことに、スティーブンはまるで気づかなかった。  


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