愛死−LOVE DEATH−
第十一章 双獣
五
「37.9度。やっぱり熱がありますよ。今日は、学校は休みなさい」
ベットの中で、だるそうに体を横たえ、潤んだ目を上げて、カーイが体温計を調べるのを、スルヤは見守っている。
「昨日より、上がってる?」
紅い頬をして、気だるげな溜め息をつく恋人を、カーイは、心配そうに覗き込んで、その熱い額に、己のひんやりとした手をのせた。
「ええ…やはり風邪をひいたんですね。病院に、行きますか?」
「ううん。寝てれば、大丈夫だと思う。ごめんなさい、心配させて」
「何を謝っているんですか…」
カーイは、苦笑し、スルヤのじっとりと汗ばんだ額を撫でた。その感触が気持ちいいのか、スルヤは、うっとりと目を細める。カーイは、その様子に愛しさがこみ上げてくるのを覚えたが、人間の体のことはよく分からないヴァンパイアでもあり、本当にただ寝かせておくだけでいいものか、やはり、病院に行って、自分だったら絶対嫌かもしれないが、あの注射の一本でも打ってもらった方がいいのではないかと、真剣に悩んでいた。
「ねぇ…カーイ、喉、乾いたよ…」
甘えた響きを帯びた声がそう囁くのに、カーイは、夢から覚めた人のように目をしばたたいた。
「ジュースを飲みますか?それとも、熱いお茶の方がいいんでしょうか?」
「リンゴのジュースがいいな」
カーイが、心底自分を心配して、慣れない病人の看護に戸惑いながらも、優しい気遣いを示してくれることが心地よくて、スルヤは、つい甘えるモードに入っている。異国で一人きり、普段は平気でも、体を壊すと途端に気が弱くなるものだ。楽天的で明るいスルヤにしても、さすがに今は心細いのだろう。
「心配しないで。あなたの面倒はちゃんと私がみてあげますから」と、柄でもなく、頼もしげに微笑んで見せると、カーイは、ジュースを取ってくるために部屋から出ていった。そうしながら、後でインターネットで調べてみようと考えていた。風邪をひいた病人の世話の仕方とか、何を食べさせたらいいのとか、カーイにもできることが少しくらい見つかるだろう。
それにしても、人間というのは、何とか弱い生き物なのだろうか。少しくらい気温が下ったりしただけで、体を悪くして寝こんでしまうなんて。こんなことが、寒い冬の間、そうしょっちゅう起こっては、心配で、一歩も外に出したくなくなるではないか。病気も怪我も知らない自分のタフさを、少しくらい分けてあげたいくらいだ。
そんなふうに嘆く反面、風邪のおかげで、思いがけずもスルヤを一日独占できること奇妙な喜びも感じているカーイだった。
「…ピストルってのは、少なくとも500発試射してみないことには、故障しないって保証はないんだ。新品の銃を持って戦場に出て、いざ戦闘中にそれが使えないなんてなってみろ、しゃれにならないだろう?」
自分のやや斜め後ろに立つスティーブンにそう話しかけながら、レイフは、広大な屋敷の敷地内にある丘の端に設置した、簡単な射撃練習場所で、支給されたピストルの試射を繰り返していた。コックス会長が調達させた武器の中でレイフが選んだのは、・四五ピストルのパラ・オーディナンスP−14。弾層がダブルなので、通常の七発ではなく十三発装填できる。
「パラ・オーディナンスは、グリップが少し太めだって聞いてたけれど、確かに少し大きいかな…」
彼らから少し離れた所では、三人の傭兵が、やはりガン・シューティングをしている。時々手をとめては、レイフとスティーブンの方を眺めて、ひそひそと何事か囁きかわしていた。
(レイフはどうしたっていうんだよ。あんな民間人のガキなんかに随分親切にしてやってんだな。まさか、ミッションにまで連れていく気じゃないだろうな。それだけはやめてくれよ、素人なんか連れてたら、仕事の邪魔になって仕方ねぇや)
(まさか、それはしないだろう。まあ、放っておけよ。あの坊やの助言も作戦立てるにはそれなりに役に立ったんだろうし、レイフは、今、いつも一緒の片割れの兄貴が出かけてるから、寂しいんだろ?)
傭兵達は互いのうちで笑い合った。この距離では、ましてや銃声が響く中自分のたちの声が届くはずはないと安心していたのだが、30メートル先の的を打つことに専念しているかに思えたレイフが、いきなり腕を下ろして、
「おい、そこの奴ら、全部聞こえてるぞっ!」と、怒鳴ったのに、ぎょっとなって振りかえった。
至近距離でガンガン鳴り響く銃声のおかげで耳が少々おかしくなりかけていたスティーブンは、訳が分からない顔をして、そんなレイフを見つめていた。
「ったく、気分悪いぜ…」
怒った猫のようにきつい目で睨みつけ、ふうっと息をついて、足下に唾を吐いた。すると傭兵達はばつが悪そうな顔をして、こそこそと後ろを向くと、また射撃練習に戻っていった。
「レイフ?」
スティーブンの方を振り向くと、レイフは、ちょっと首を傾げて、思案するように彼を見つめた後、「よし」と言って、笑いかけた。
「スティーブン、おまえにも銃の使い方の基本を教えておいてやるよ」
「え、えっ?」
スティーブンは、戸惑った。本物の銃など、レイフ達に会うまで、触ったことは無論、見ることもなかったのだ。それに人を殺すための武器の迫力にさすがに尻ごみをしていた。しかし、レイフはそんなことはおかまいなしで、スティーブンの手を引っ張って、自分がいた位置に立たせると、
「大丈夫。簡単だって。おまえが使っているカメラより、ずっと操作はシンプルだと思うぜ」と、スティーブンの目の前に45口径を持って来て、新しい弾を手際よくこめるのを見せてやる。
「持ってみな」
スティーブンも意を決して、ずっしり重いその銃をレイフが扱ったように構えてみた。
「その銃は、結構反動がきついぜ。両手で支えないと…って、そっちの手は、まだうまく使えないんだよな。まあ、右手がぐらつかないように支えるくらいは、何とかできるだろう」
持ち方から姿勢まで丁寧に指導をしているレイフと、緊張してそれを聞いているスティーブンの方をまたさっきの傭兵達が見ていたが、今度は、レイフは無視した。
「それじゃあ、一発撃ってみな」
スティーブンは、大きく息を吸いこみ、思いきって、引き金を引いた。鈍い銃声と共に後ろに押されるような衝撃がしっかりと銃を握り締めた手から体に伝わり、思わず数歩後ろによろめき下がった所をレイフの腕に支えられた。反動で跳ねあがる右手を押さえるように添えていた、まだ固められたままの左手には、鈍い痛みを覚えた。
「どうだい、すかっとするだろう?」
「手がしびれてる…」
呆然と拳銃を持ったままの自分の手を見下ろし、スティーブンは呟いた。
「こんなの連射できそうにないよ。あんたは、それを片手で平気で撃ってたよな」
信じられないものを見るかのごとく、傍らのレイフを見返した。
「慣れだよ、慣れ。何といっても、オレらはこれでメシ食ってんだから」と、何でもないことのように笑いながらレイフは片目をつむってみせるけれど、スティーブンは、せめてよろめかずに立っていることくらいできなかったのだろうかと悔しい思いをしていた。結構背丈もあって、スポーツもできて、今まで自分が貧弱などと思ったことはなかったけれど、レイフやその他の傭兵達のように鍛えぬかれた本物の男達の前では、スティーブンなど、取るにたらないほんのひよっこでしかないのだ。
「スティーブン…Think positive、前向きにやろうや…」
またしても考えていることが顔に出ていたらしい、レイフの手が頭をくしゃくしゃにかき撫でるのに、スティーブンは、赤くなって、ううっとうめいた。
「ちぇっ…ガキ扱い、すんなよ」
怒ったように手を振り解くが、レイフが、大げさに驚いた振りをして、降参したように両手を上げるのに、それ以上反抗する気も失せてしまった。そんなスティーブンを、レイフは、からかっているようでもどこか温かみのある表情で、目を細めるようにして眺めていたが、ふいに何かを感じ取ったかのように、後ろを振りかえった。
「どうしたんだい?」
レイフの視線の先をスティーブンも追った。初めは何も見えなかったが、屋敷へと続く緩やかに傾斜をした乗馬道の向こうから、やがて二つの人影が現れた。背の高い一人は、その紅い髪の色で誰かすぐに分かった。クリスターだ。
レイフは自分に近づいてくる兄を見つめたまま、待ちうけるかのようにしばらくそこに佇んでいたが、やがて、自分からも歩いて行った。スティーブンは、ついその様子に目がいってしまっていた。
二人は、ほとんど同時に足をとめた。スティーブンには、レイフの肩越しにクリスターの顔が見えたが、薄情そうな彼でもこんなふうに暖かな表情をすることがあるのだと、密かに驚いていた。クリスターは、レイフを見つめたまま、ポケットから煙草を取り出した。レイフが近づき、ライターで火をつけてやる。
「首尾は?」と、自分と同じ琥珀色の瞳を覗き込んで、レイフが問うた。
「うん…9割方、トラップは完成。後ろの坊やも、助手として思ったより役に立ったよ」
背後に立つ、ぐったりと疲れ切った様子のジェレミーを指し示す。
「そうか…」と、レイフは、ジェレミーに軽く頷いて見せ、それから、また兄の方に注意を戻した。
「それじゃあ、いよいよ…」
「ああ」
弟の中で高まってくる闘争心と高揚感を敏感に感じ取ったかのように、クリスターは、どこか凄惨なものを感じさせる微笑みをうかべた。
「ハントだ」
レイフの顔にも同じ笑みがうかぶ。彼は、クリスターが指から吸いかけのタバコをさっと取り上げると、これ見よがしにそれをうまそうにふかした。
「よかった。そろそろ、待ちくたびれてた所だったんだ。やるんなら、さっさとやっちまいたいって思ってた。武器も揃ったし、トラップも完成した…で、決行はいつだよ?」
「明日の夜」
「いいねぇ…」
今回のミッションには腰が引けてると言っていたのが嘘のように、戦えると聞いたレイフは、とっておきの御馳走を前にした猫のように舌なめずりせんばかりだ。
スティーブンは、何となく目を離すことができなくて、親密に話し込んでいる兄弟を眺めていたのだが、そうしながら、不思議な圧迫感のようなものがこの二人から放射されているのをひしひしと感じていた。一人でも、その体から発散されるエネルギーや存在感は相当なものだったが、二人揃っているとそれが増幅されたようなど迫力で、その体躯さえ一回り大きく見えるような気がする。それは、彼らが、二人が組めば恐いものなどない、無敵なのだと感じているからであり、実際その通りだからなのだろう。
レイフは煙草を足下に投げ捨て、それから、兄の後ろの方で所在なげに立ち尽しているジェレミーを、口を軽くすぼめて、しげしげと見つめた。
「それにしても、どういう風の吹き回しだい?兄さんが、あんなガキのお守りなんかするなんて。ベンに頼まれたってわけでもないんだろ?」と、どことなく不満そうに言った。
クリスターも、弟の後ろに視線を投げかけた。クリスターの鋭い眼差しに射すくめられるように、スティーブンは一瞬顔を強張らせたが、目をそらせることはなかった。
「おまえも、あの坊やに随分優しいじゃないか」
スティーブンの緊張した顔に目をあてたまま、弟の耳にそっと口を寄せた、囁いた。
「あまり情をかけ過ぎないことだよ、レイフ…あの坊やは、今一つ信用ならない。飼い犬だと思って可愛がっていて、いきなり手を噛まれるなんてことになりかねないからね。ねえ、今度の作戦行動について、まさかあの坊やにべらべらしゃべったりしてないだろうね」
「部外者の素人に仕事の内容なんて明かさないよ。でもさ、信用ならないって、なんで…?」
目をぱちぱちさせて問い返す弟に、クリスターは、辛抱強く答えた。
「目を見れば分かるよ。あれは、味方を見る目じゃない…おとなしくしているけれど、状況次第では、いつ立ち向かってくるか知れない、敵の捕虜みたいだね」
「でも、あいつは俺達の助けを必要としているんだぜ?」
釈然としないように首を傾げるレイフの肩を、クリスターは、なだめるように軽く叩いた。
「私の言いたいのは、あまり構いすぎるなということさ。まあ、いずれにせよ、そんな時間ももうないだろうけれどね…ああ、危うく忘れるところだったけれど、パリーが呼んでいる。例の試作品の武器が届いたから、テストをしたいって言うんだ」
「ああ…コックス・ケミカルが開発プロジェクトに噛んでるって、例の奴か…あんまり期待はしてなかったけれど、ぎりぎり間に合ったって訳だな。にしてもさ、何でそこでまたパリーが出てくるんだよ、あいつは研究スタッフで、捕獲作戦には直接関わりはないはずだろ?畑違いのくせに、やたらと首を突っ込んでくるの、いい加減、なんとかならねぇかな。理屈ばっかり言いやがって、うざいんだよ」
「そうだねぇ…」と、クリスターは、どことなく酷薄な顔をして、呟いた。
「パリーは、きっと自分が今回のプロジェクトの中心だということを会長達、社の幹部にアピールしたいのだと思うよ。捕獲計画に関しては、実際私達プロに頼るしかないと分かっているのだけれど、何だかお株を持っていかれたようで、落ちつかないんだね。だから、自分が上司なんだということを、お行儀が悪くて生意気な傭兵達に分からせたいんだよ。それは、ちょっと無理な話だと思うけれど。全く、仕事が終ればすぐにここを立ち去ってしまう傭兵なんて無視すればいいのにね。じっとしていてもパリーの出番はその後回ってくるはずになのに、馬鹿な男だよ」
「だからって、オレらにからまれてもな。大体さ、つい昨日あんなことがあったばかりなのに、それでも、しゃしゃり出てくるって、一体どういう神経なわけ?」
「おまえのパンチは、結構効いたと思ったんだけれどね」
二人は、肩を並べて、屋敷の方に向かって、ゆっくりと歩き出した。スティーブンもジェレミーも、それを黙って見送りかけたが、その背中を目で追ううちに、はっと思い出して、叫んだ。
「レイフ」
「クリスターさん」
二人の若者達は、驚いたように、互いを見た。何だ、こいつと、訝るような顔をどちらもしていただろう。
「おい、そこの二人」
顔を上げると、レイフが、立ち止まって、彼らに向けて手を振っている。
「ついてくるなら、早く来いよ。オレらは、別にどっちでも構わないんだぜ?」
ジェレミーは、最後にスティーブンを睨みつけ、それから、丘を下りていくレイフとクリスターを追いかけて、慌てて走り出した。
スティーブンは、どうするかと束の間悩んだが、後ろの方で、興味津々彼らの様子を眺めて話の種にしていた傭兵達と一緒に取り残されるのもあまりいい心地がするものではなかったので、やはり、双子の後を追いかけることにしたのだった。
地下の研究施設にエレベーターで降りてきた赤毛のヴァイキング兄弟を見つけた時、パリーの神経質そうな目は、底の深い敵意と悪意に燃えあがった。初めて会った時から、いい感じは持たなかったが、同じ屋敷の下で暮らし、食事や仕事の席でたまに顔を合わせる度に、彼の悪感情はどんどん増すばかりだった。
パリーは頭脳派のエリートだから、体を使うしか能のない傭兵連中のことは、自分より劣っているとはなから馬鹿にしていた。それなのに、自分よりもこの兄弟の方が会長の信頼が厚いようなのは、パリーは甚だ侮辱だと考えていた。パリーは科学者なのだから、捕獲作戦そのものに影響力を及ぼそうとしても無理な話だし、取り敢えず捕獲することが先決と考えられる今の状況では、彼よりも傭兵達の出番が多いのは仕方のないことで、パリーもその点は理解すべきだったが、どうしても生理的に受けつけない傭兵という野蛮な人種に、エリートの自分が馬鹿にされていると感じられるのは、許せなかったのだ。確かに、レイフ達根っからの兵士は、理屈ばかりで実戦能力は皆無のパリー達科学者を男のうちに入らないと馬鹿にし、からかいの種にしていることも事実だった。
パリーは、双子の片割れのレイフを、当初から、ろくに考える頭などない、暴力的で野蛮な男だと毛嫌いしていたが、単純に野蛮人なだけの弟よりも、その兄はもっと性質が悪いと、今ではクリスターの方も嫌悪していた。レイフになら、嫌みを言っても、すごまれたり、軽く小突かれたりと直接的で分かりやすい反応が返ってくるだけですむが、クリスターは、それだけではすまないような得体の知れない恐さがあった。だから、レイフに対するように、ストレートな言葉の暴力を振るうことは避けていた。しかし、その無感動で冷めた目が、レイフと言い争っている自分をじっと見ていることに気づいた時は、思わず背筋が寒くなった。クリスターは何も言わない。それだけに薄気味が悪く、また、ひどく馬鹿にされたようで不愉快だった。ただの戦争屋の癖にインテリぶっているところにも反感を覚えた。クリスターの弱みを掴めたらと、そのこ憎らしい顔を見る度に、パリーは白昼夢に浸ることが多くなった。言葉のナイフをぐさりと胸に突き刺して、あの取り澄ました顔が、屈辱に引きつる様が見られたら、どんなにか気分がすっとするだろう。
そのうちにパリーは、傭兵連中や会長の秘書のアダムに兄弟の過去の経緯を尋ねるようになっていた。ハイスクール卒業後、陸軍時代を経て、傭兵に転じ、戦場から戦場を渡り歩いている経歴は凄まじいものだったが、そんなものには、パリーは興味はなかった。パリーが知りたかったのは、自分が付け入る隙になりそうな、クリスターの過去の挫折や汚点だったのだ。パリーが求めていたものと少し違っていたかもしれないが、それでも、弱みになり得そうなものは見つけることができた。それを聞いた時は、嘘だろうと仰天したが、結局クリスターはエリートになりそこねた人生の落伍者なのだと、そう結論付けて、パリーは自分を納得させたのだった。
「ミスター・オルソン」と、パリーが慇懃な口調で呼びかけた時、クリスターは、傭兵達が溜まり場にしている、真ん中にビリヤード台が置いてある部屋の片隅のソファに寝そべって、雑誌を読んでいた。低俗な男性誌だったら可愛げがあったかもしれないが、パリーも購読している「サイエンス」の最新号だ。だから、こういう所が癇に障るのだ。
「…何か?」
めったに自分には近づいてこないパリーが、わざわざ苦手な傭兵達のたむろする遊戯室までやってきて声などかけたことに、クリスターはさすがに不思議そうな顔をしていた。ソファから起きあがって、自分をじっと見下ろすパリーの何か含みのあるような薄笑いを、その意図を読み取ろうとするかのようにじっと覗き込んだ。
その様子を、弟のレイフは、仲間とビリヤードに興じながらも気にしたようにちらちらと眺めていた。
いつもと違って親しげに、隣に腰を下ろして、たわいのない世間話をべらべらとしゃべり始めるパリーを、クリスターは、初めは何を始めるつもりだろうと興味深げに見ていたが、すぐに飽きてきたらしく、飲み物を取りにいく口実で席を立とうとした。それを、パリーの何かしらねつい声が引きとめた。
「ミスター・オルソン…クリスターと呼んでもいいですかね、実は、ちょっと小耳に挟んだんですが、ハイスクール時代は非常に優秀だったそうですね、あなたは」
クリスターは、どうしてパリーがいきなりそんなことを話し出したのか分からないというような顔をした。
「成績はいつもトップで、教えることがないと教師も舌を巻いたくらいだとか。両親の自慢の息子…周り中から将来を嘱望されたそうですね…そうして期待通りに見事にハーバード大に入学許可が下りた、と。エリートコースって奴ですよね。ご両親は随分と喜んだでしょう?どちらかと言えば平凡なご両親にとって、過ぎるくらいに優秀な息子は、自分たちになし得なかった夢を託せる希望だったわけですからねぇ」
クリスターは、途中で言葉を差し挟むこともなく、眉一つ動かさずに、パリーの口が動くのをじっと眺めていた。あんまり反応がないことに居心地の悪さを覚えて、ここで沈黙してしまったら相手の迫力に呑まれて負けてしまうと感じ、パリーは更に話を続けた。
「しかし、あなたは結局大学には行かずに軍隊などに入ってしまったのだと聞いた時は、私は、正直言って仰天しましたよ。それから、どんな事情があったかは知りませんが、とても残念だと思いましたね…アメリカの知の殿堂で学べる機会を棒に振るなんてどうかしていると…失礼、でも常識的に考えて、その通りでしょう?一体、軍隊のどこがそんなによかったんです?まあ、それも国のため働く立派な仕事のうちなんでしょうが、それも結局やめた後、まともな仕事にはつかずに傭兵になって、戦争ばかりして…これは純粋に興味なんですが、そんなにはまるものなんですかね、殺しあいというのは。国のご両親は、どう思ってらっしゃるんでしょう…いえ、今は身内は母親一人なんですよね。父親は、確か、あなたが自分の意向に背いて軍隊に入ったことで激怒して、勘当同然に別れて、一年もたたないうちに脳溢血で急死されたとか…お気の毒に…それって、やはり憤死という奴では…」
ビュッと何かが空を切る音が聞こえたと思った瞬間、パリーは、レイフが投げたビリヤードのキューに肩を直撃されて、ぎゃっと悲鳴をあげた。
「な、何を…?」
たじろいで、そちらに顔を向けた時には、ビリヤード台を飛び越えるようにして突進してきたレイフに胸倉を掴まれ、ソファから引きずりあげられていた。
「もう、おまえには我慢ならねぇ…ブチ殺す!」
激昂したレイフがパリーを床に殴り倒し、更に掴みかかって鋭い平手でその頬を張り飛ばすのを見て、傭兵達は、最高の見物だというようにわっと歓声をあげた。
パリーは、レイフを制しようと何か言いかけたが、更にもう一発顔に食らって、呆気なく伸びてしまった。
「レイフ、そのくらいにしておけ。おまえが本気でやると、その男を殺してしまう」
レイフはまだ怒りがおさまらないらしく振り上げた拳を震わせて、ぐったりとなったパリーの血まみれの顔と、兄の平静そのものも顔を見比べたが、やがて、言われたとおりに手を下ろした。
弟がパリーを叩きのめすのをソファに坐って冷静に眺めていたクリスターは、やれやれというようにそこから立ちあがり、部屋の端の小卓の上に置かれていた花瓶を取り上げると、そこに活けられた花ごと、床に長々と伸びているパリーの顔にぶちまけた。パリーは一瞬で目を覚まし、水を飲んでげほげほと咳き込み、ついで殴られた顔の傷が痛むのか、ううっとうめいた。
「パリー研究員」
パリーが恐怖に引きつった顔を上げると、床に膝をついたクリスターがじっと彼を覗き込んでいた。今度は何をされることかと、パリーは、ひっと小さく叫んで、身を固くした。
「君が、専門の分野では非常に優秀な人間であることは分かっているつもりだよ。そうでなければ、会長は君をこのプロジェクトの責任者になどしなかったろう。以前、君の論文を「ネイチャー」で読んだこともあるが、とても興味深かったよ。いい仕事をしてきたんじゃないか、君は」
穏かに言い聞かせるような声音で、クリスターは、パリーに語りかけた。
「パリー、君の優れた能力と情熱を、どうか自分の専門にだけ傾けてくれないかな。それが今回のプロジェクトに関わる全員のためになることだし、君自身のためでもあるんだよ。もっとプロ的な考え方をしたまえ。いずれここを立ち去る傭兵などに敵愾心を燃やして、何になるんだい?そう、私達は捕獲作戦が終了すれば、すぐにここを出る。その後、君の本領を充分発揮すればいいんじゃないか。焦る必要など、どこにもないんだよ。自分に任せられた仕事を、プロとして着実にこなしていけば、人の尊敬や評価は自ずとして集まってくるものだよ。私には、君の野心になど興味はないし、君の仕事にも一切関わるつもりも口を差し挟む気もない…だが、君が私の仕事に首を突っ込んでくる気なら、それが私の仕事の妨げになるようなら、こちらもプロとして対処せざるを得ない…分かるかな?」
パリーの頭の中は真っ白になっていたが、クリスターの優しい言葉が実は恫喝なのだということだけは分かった。逆らえば、何をされるか分からない恐ろしさがあった。うっかり忘れていたが、相手は人殺しのプロなのだ。
必死になって頷くパリーの肩をクリスターは軽く叩いて、うっすらと微笑んだ。しかし、その目は少しも笑っておらず、ぞっとするほど冷たかった。
「君のおかげで昔のことを少し思い出したよ」と、言われた時には、どうしよう殺されると震えあがったが、クリスターの穏かさは変わらなかった。
「誤解のないように言っておくけれどね、パリー、私は自分の生き方を後悔したことは、これまで一度もないんだよ。今の自分の状況に満足しているし、幸福だとも思っている。傍から見て、どんなに狂った生き方でもね。むしろ、あの時、自分の意思を殺して大学になど進んでいたら、私は今頃どんなにか不幸だったろうと想像するくらいだよ。唯一の後悔は、私の我が侭の犠牲になってしまったのが、愛する家族だったということだけれども、それも仕方がなかったのだと思っている。私には、彼らの意向に逆らっても、一点だけどうしても譲れないものがあったからね…そう、だから…」
クリスターが目を上げると、パリーの後ろにまだ気持ちが鎮まらないというように肩を怒らせて立ち尽くしているレイフがいた。
「…これでよかったんだよ」
エレベーターを降りて、研究用のフロアーが広がる地階に足を踏み入れた時、真っ先に兄弟が気がついたのは、出迎えにきたスタッフに混じって現れたパリーだった。レイフに殴られてできた顔の青痣も生々しい、その敵意に満ちた顔を見るとどうしても昨夜の不愉快な出来事が思い出され、レイフは、鼻をしわめて獰猛に呟いた。
「あの阿呆、兄貴に言われたこと、全然分かってないみたいだぜ。一体、どの面下げて、俺達の前にのこのこと現れることができやがるんだか…ああぁっ、嫌ぁな目でこっちを見てやがる。なあ、やっぱり、ブチ殺しちゃ、駄目?」
「本当に懲りてないみたいだね。理性的なようでいて、実際はとても感情的で執念深いたちなんだろうね…さて、どうする気なんだろう、私達の仕事の粗探しをして、足を引っ張るつもりでなければいいけれど」
「なあ、あいつって、秀才ぶってるけれど、本当はすごい頭悪いぜ。俺達相手に喧嘩を吹っかけて勝てるはずなんかないのにさ。いざとなれば、プロジェクトの主任って地位が守ってくれる、会長なら俺達を止められるなんて、本気で思ってるんだろうか。あんまり弱っちくて、お話にもならないから、少々のおいたは見逃してやってるだけなのにさぁ。うん、決めた。クリスター、今度、おまえにああいう無礼な口をききやがったら、オレぁ、あいつの腐った頭をショットガンで吹き飛ばしてやるからな」
パリーに聞こえることもおかまいなしに、うそぶくようにそういうレイフに、クリスターは苦笑するが、レイフの挑発に怒気をはらんで赤くなるパリーの顔を見ると、その微笑みも消えた。確かに、弟の言うとおり、少々うるさすぎるかもしれない。
双子の後に続いてエレベーターから降りてきたスティーブンとジェレミーは、初めて見る研究施設を面白そうに見渡していた。それへ、早速パリーの厳しい声が飛ぶ。
「何故、こんな部外者まで連れてきたんだ。ここは、子供の遊び場じゃないんだぞ」
横柄なパリーの言い様に、スティーブンはむっとしたし、ジェレミーは、反抗的に睨みつけて、何か言い返そうと口を開きかけたが、さっと手を上げたクリスターにとめられた。
「うるせぇよ、おまえ。オレ達ゃ、忙しいの。大体、オレ達にとっちゃ、こんなとこ、子供の遊び場以外の何ものでもないぜ」と、レイフが、獰猛に睨みつけながら言うのに、パリーはぐっと詰まった。さすがに昨日の今日で、レイフに噛みつく勇気はないようだった。
「ともかく、届いたものを見せてもらおうか」
クリスターが平静な声で促すのに、スタッフ達は、彼らを研究施設の更に下の階にある、体育館くらいの広さもありそうな、だだっ広いスペースに連れていった。そこでは、見慣れない二人の男が彼らを待っていた。
アメリカから到着したばかりだというその男達の一人は、コックス・グループの化学部門、コックス・ケミカルの特別プロジェクトの主任で、もう片方は、武器メーカーとして名高いMK社の開発部門から派遣されてきた男だった。現在、二社は、アメリカ陸軍の要請で、新型の武器の開発に携わっているという。まだ試作段階にある、その武器が、今回の捕獲作戦に有効ではないかと、コックス会長の直々の依頼によって、急遽、試作品と共に担当者二人がイギリスまでやって来たのだ。
挨拶もそこそこに、二人は、広々としたそのスペースの片隅でスライドを使った試作品の説明をし始めた。
「では、早速始めさせて、いただきます。ええ…開発中のこの製品は、敵を殺傷する能力を重視した、これまでの火器とは全く異なった発想から生まれたものです」と、時差ボケのぼんやりとした頭をしゃんとさせるように、両頬をぱしっと手で打って、銃器メーカーの男が説明を始めた。
「例えば、テロリストが群集に混じって攻撃をしかけてきた場合、もし、通常の火器を用いて応戦すれば、民間人をも巻き込んでしまうことになります。それは、軍隊にとって、時として非常に厄介な問題を後に残すことになるのです。そこで、軍が求めたのが、敵を殺傷するのではなく、一時的にその戦闘能力を失わせ、武装解除を容易にするような新型兵器であったわけです」
新しいスライドが映し出され、件の新兵器が映し出された時、前置きは退屈そうに聞いていたレイフが、たちまち好奇心を刺激されたように身を乗り出した。
「MK89・プロトタイプ2は、弾薬を用いず、特殊な薬品を充填したカプセル300個を40ミリ弾に挿入したもの発射するようになっています。有効射程距離は最大200メートルのグレネード・ランチャータイプの武器となります。さて、ターゲットが被弾すると、40ミリ弾内部のカプセルを散弾状に半径10メートルに撒き散らします。カプセルは衝撃ですぐに壊れ、内部の薬品が外に撒き散らされます。この薬品は、空気に触れることによって化学反応を起こし、急速な温度低下を接触したものにもたらします。霧状になった薬品は、物体に接触するとすぐに付着して瞬間冷凍してしまうわけです。これが生体に行なわれた場合、急速な体温低下によって、瞬く間に活動不能の状態に陥ります。しかし、温度低下以外の作用を生体に対して持つわけではないので、やがて体温がもとに戻れば何の後遺症もなく、通常の活動が再会できるようになる…もちろん、被弾した場所の損害もほとんどありません。人にも環境にも優しい新時代の兵器、それが、我々の目標とするものなのです」
レイフがあまり面白くもない冗談を聞いたというように、顔をしかめて、疑わしげに呟いた。
「ううん、発想は、確かに面白いよなぁ…でも、オレにとっては、あんまり楽しみのない武器だよな。敵さんにちょっと冷たい思いをしてもらうだけの武器なんて…」
「プロトタイプだということだが、実戦の場で使える程度にはできているのかな」と、クリスターが、突っ込むのに、開発担当者は、ちょっとすまなそうな顔になった。
「実は、現段階では、これは実際に使えるような代物ではないのです」
「なんだぁ?」
短気なレイフが、不機嫌そうに吠えるのに、男は、びくりと震えあがった。
「いえ、実は、薬品の反応が強すぎて、これを抑えないことには、生体に対して用いることはできないというのが現状なのです。急激な温度低下によって、薬品が付着した組織は、重度の凍傷や下手をすれば壊死を起こしますし、もし、至近距離から直撃を受け、救出が遅れた場合、最悪死ぬことも…そうなると、これは、本来の開発目的から大きく外れてしまいますからね」
男が、スライドを、また代えた。
「200、100、50メートルの距離から被弾した場合に生体が受ける影響を、ラブラドール犬を用いて実験した時のデータです…50メートルの距離で直撃された場合、直後で活動を停止しました。そして体温の変化ですが、被弾後三十秒以内で一気に5度まで下がっています。2分後には心臓、呼吸共に停止し、その後も温度は下がりつづけ…組織の凍結が表層部から始まり、内部組織にまで及んでいきます。ピークは10分後で、マイナス50度まで体内部温度は達しました」
レイフが、ひゅっと口笛を吹いた。
「そんなものを群集にぶっぱなしたら、悲惨の一語につきるような結果になるだろうぜ。何が人にも環境にも優しい、だよ?」
クリスターは、しばらく目の前に表示されたデータを眺めながら、じっと思索に更けるように黙りこんでいたが、やがて、相変わらず感情の波の少ない淡々とした声で言った。
「人間には使えないけれど、私達が相手にする、今回のターゲットに対しては有効かもしれないということだね、パリー?」
クリスターに名指しで問われて、パリーは、瞬間身を固くしたが、自分の能力をアピールできる絶好の機会だとばかりに、意気込んで答えた。
「それは、充分期待できると思う。とにかく、あの細胞が反応したのは低温に対してだけなんだ。細胞が完全に休止したのはマイナス80度以下でだったが、生体の通常の活動を停止させるには、そこまで下げなくてもいいだろう、マイナス40度以下なら、おそらく動くことはできなくなるはずだ」
「ターゲットの体の大きさを考えれば、被弾後何分、活動停止の状態は続くのだろうか…」
二人の開発担当者がデータを探し出し、計算した予測をクリスターに伝えた。
「被弾後30分はおそらく必要な低温状態を維持できる…20分ならば、確実に奴の活動を抑えられるというわけだね。では、その間に移送用の処置を施してしまえばいいわけか」
「何だか、面倒くさいな」と、あまり乗り気ではなさそうなレイフが口をはさんだ。
「大体、グレネード・ランチャータイプの武器じゃ、奴のスピードにはついていけねぇんじゃないか。奴の動きに追いついて、避け切れないような至近距離で撃ちこむには、あんまり適さないだろう、こいつは」
「それは、もともと接近戦よりも、遠距離からターゲットを撃つために開発されたものですからね」
レイフの意見に、開発担当者はあまり歯切れのよくない口調で答えるが、パリーは、強硬にこの武器の使用を訴えた。
「しかし、あの生き物を無傷のまま、確実に仕留められる武器は、今の所、これだけなんだぞ。おまえ達傭兵の頭では、単純に銃を撃ちまくれば何とかなるくらいに容易く考えているのかもしれないが…」
パリーの人を馬鹿にしたような言い方に、レイフはカチンときたようだった。パリーを遮り、むきになって、言い返した。
「あのさ、オレ達が使う銃器をその辺のおもちゃみたいな銃といっしょにしないでくれよな。SPASあたりの大型ショットガンでダブル・オー弾の一発でも食らわしてみろ、至近距離なら人間の胴体を木っ端微塵に吹き飛ばせるくらいの威力なんだぜ。それでも、起きあがってくるんなら、対人手榴弾もおまけしてやるよ。あんたが、ちっぽけなサンプルでどんな実験をしてきたのが知らねぇが、結局、どんな生き物でも、血の通った肉体を持って生きてる限り、殺せないはずがないんだよ。どんなに強くたって、人間だろうが化け物だろうが、死ぬ時がくれば、やっぱり死ぬんだ」
相手の胸にぐっと拳をつきつけるようにして、レイフは、獰猛に言いはなった。パリーは、たじたじとなって口をつぐむ。そんにレイフの肩に軽く手を置いて、なだめるように囁いたのは、クリスターだ。
「レイフ…論点が少しずれてるよ。私達の目的は、殺すことではなく、捕らえることなんだからね、忘れないで」
レイフは、傍らの兄をちょっと鼻白んだ顔で振りかえった。
「ちぇっ。分かってるよ、それくらい…」
が、パリーの方は、レイフの発言に一層気色ばんだ。
「今の言葉は聞き捨てならんぞ。あの生き物を殺すなどと、会長が聞いたら、どんなにお怒りになるか。捕獲作戦については、会長は一切おまえたちに任せるつもりのようだが、手榴弾だのなんだのと万が一にも奴を破壊するような可能性がある武器を使わせることは、プロジェクトの主任として認められない…!」
一気にまくし立てた、パリーは、次の瞬間、いきなり顔を引きつらせ、それ以上の言葉をぐっと飲みこんだ。自分をじっと見据えるクリスターの冷たい目が、すうっと細められるのを見てしまったのだ。獲物に飛びかかる直前に一瞬静止する猫めいた静けさだった。それから、昨夜の記憶がどっと蘇ってきた。自分の仕事を妨げるのなら許さないと、脅されたのだ。怒りをストレートに表すレイフよりも、どう出るか分からないクリスターの方が、ずっと恐ろしかった。
「その…ともかく、一度MK89の試射をしてみてください。理屈ばかり言っても、実際、撃ってみないことには、どの程度使えるものか、実感が得られないでしょう?」
険悪なものになりかけた、オルソン兄弟とパリーの間に割って入るように、コックス・ケミカルの担当主任が提案した。
「それも、そうだな」と、レイフは、パリーを睨みつつ、席から立ち上がった。クリスターも続いて立ちあがり、MK89の担当者達に促されるままスペースの真ん中辺りに向かって歩いて行った。
後ろの席に座ってじっとおとなしくことの成り行きを見守っていたスティーブンとジェレミーも、一瞬顔を見合わせた後、兄弟の後を追いかけた。それから、何とも、不本意そうな様子のパリーも。
「これが、先ほど説明しましたMK89・プロトタイプ2の実物です」
部屋の中央の台の上に、予め組みたてられた武器が置かれていた。
「軽量化を図りましたが、それでも3000gあります。シングル・ショット式で、一発ごとに弾を装填しなければならないのも、今後改良していかなければならない点ですが。最も威力を発揮する距離は100メートルですが、おっしゃるように至近距離で用いる場合、10メートルは離れて撃って下さい。さもなければ、MK89の威力に射手も巻きこまれかねませんから」
「10メートルね…」
「それでは、試射実験を行ないます」
担当者の合図で、スタッフが走り、衝立のようになった壁でしきられた一角から、こまのついた2メートル四方くらいの大きさのケージを押してきた。スタッフ二人がかりで先ほどスライドを見ていたのとは反対側の壁の前に置いた大型のケージの中で、哀しげな鳴き声をたてているレトリバー犬を見た時、レイフは、口の中でううっとうめいた。
「標的までの距離はおよそ二十メートルです。念の為、射手以外の方々は、もう少し後ろに下がってみますか」
事務的な担当者の声が説明を続ける間、レイフは檻の中の生き物を困ったようにじっと見ていた。
「おい、試射するのにどうして生きた犬なんか連れてくるんだよ」と、ついに傍らの担当者に向かって言った。
「それは、実際生体に向けて発射した時の威力を見たほうが分かりやすいかと思いまして…」
レイフの戸惑いを担当者は不思議そうに見返すばかりである。
「何をためらっているんだ、レイフ」
後ろから、パリーの意地の悪い声が飛んできた。
「まさか犬が可哀想なんて思っているわけじゃないだろうな。人間は平気で殺すくせに、犬は殺せないなんて、そんな馬鹿なことは言わないだろうな」
レイフは、パリーの方をすごい目でじろりと睨んだ。
「私が、やろう」
クリスターが、レイフの代わりにそう答え、前に進み出た。3000gとなかなか重い武器を軽々と台から取り上げ、ためらいのない動きで構えて、ターゲットに照準をあわせる。ケージの中では、自分の運命を本能的に悟ったのか、レトリバー犬が、ガタガタと震えながら、哀しげな鳴き声をあげた。
「クリスター!」
堪り兼ねた様に、レイフは兄にかけよって、MK89の長い砲身に手をかけた。
「オレがやる。貸せ」
何か言いたげなクリスターからMK89を奪い取ったレイフの背中に、パリーの嘲るような声が刺さった。
「人殺しのプロの傭兵が、犬一匹に何を手間取っているんだ、情けない…」
レイフは、口の中で呪いの言葉を呟いた。それから、
「オレは犬が好きなんだ。悪いか?」と、言いはなって、MK89を構えたまま素早く体を反転させて、発射口をパリーの方に向けた。
「どうせ撃つんだったら、犬以下のくそ野郎の方がいいぜ!」
ぎらりと釣りあがった目をして、そう怒鳴るレイフに、パリーは、とっさに殺されると思った。ひっと叫んで、両腕で頭と顔を覆うように覆い、情けなくもその場にしゃがみこんでしまう。レイフの剣幕に担当者二人も仰天し、逃げるようにパリーから離れた。
レイフは、なす術もなく震えるだけのパリーを軽蔑しきった目で眺め、床にぺっと唾を吐き捨てると、MK89を正面のターゲットに向けた。スコープの中心におびえきったレトリバー犬が捕らえられる。人間というのは、つくづく残酷な生き物だ。生きるために必要なわけでもないのに、軽々しく他の生き物の命を奪う。レイフは、戦場で男同士が闘争本能をむき出しにして殺しあうのは全然平気だが、自分よりも確実に弱いものを悪戯にいたぶったり、こんな檻の中に入れられた無抵抗の生き物を殺したいとは全く思わない。スコープの照準を横に滑らかに流した。
(10メートル…)
目算でケージから10メートル以上離れた位置に先ほどスタッフがケージを押し出してきた衝立状の壁があった。よし、あれを狙おう。
レイフが、トリガーを引くと、ズドンと腹に響くような衝撃音と共に弾が発射され、標的である壁に命中した。瞬間、甲高い破裂音がして、白煙がさっと広がり、壁を飲みこむ。
爆発音に驚いた犬が、必死になって吠えている、その鳴き声を聞きながら、人々は、白煙がおさまるのをじっと見守った。
「寒いな…」と、呟いたのは、レイフとクリスターの立つ位置からずっと後ろにいて、この実験を観察していたスティーブンだった。MK89が炸裂した瞬間、冷気が緩やかな風となって、彼らのいる場所にまで押しよせていた。大型の倉庫くらいあるこのフロアー全体の温度が、一瞬で零度近くにまで下がっていた。
レイフは、目をすがめるようにして、次第に煙のおさまりつつある標的を眺め、MK89を足元に下ろすと、ゆっくりと近づいていった。その後に、クリスターが、更にパリーを除いた他の者達が続く。パリーだけは、その場に立ち尽くしたまま、屈辱と怒りに顔を真っ赤にして、自分を振りかえりもしない赤毛の兄弟を睨みつけていた。
「すげ…ドライアイスに覆われてるみたい…この壁、完全に凍り付いてるぜ」
壁には一面に白いシャーベット状の層ができていた。まだ、ぐずぐずと表面を泡立てながら、白い煙を上げている表面を、興味津々眺め、手を伸ばしかけるレイフを、担当者の厳しい声がとめた。
「表面が落ちつくまでは、素手では触らないことです。薬品が皮膚に付着して、そこが凍傷を起こしますから」
「ああ…」と、叱られた子供のような顔をして、レイフは素直に手を引っ込めた。
「案外、使えるかもしれないね、この武器」と、クリスターが、めったなことでは驚きを表さない瞳を、面白そうに瞬かせながら、言った。
「そうだな」と、レイフが答える。
スティーブンは、凍り付いている壁のすぐ前まで近づいて、それに触らないように気をつけながらも、その効果に度肝を抜かれながら、食い入るように見つめていた。こんなとんでもない代物を、カーイに撃ちこむ気なのだ。背筋がぞっとしたのは、周囲に立ちこめる冷気の為ばかりではないようだ。教会でカーイと格闘し、その能力を見せつけられ、赤ん坊の手をひねるように簡単に叩きのめされたスティーブンにとって、彼を倒すことなど不可能なように思えていたのだが、その考えは、ここに来て少しずつ変わりつつある。もしかしたら、倒せるのかもしれない。そうして、あの夢の場面、撃ち倒されるカーイの姿が脳裏に蘇る。緊張し、心臓の鼓動が高まるのを意識した。そうして、密かに自問する。これが、俺の望んでことなのだろうか。
「おいっ」と、レイフの怒鳴り声がするのに、スティーブンは、我に返った。見ると、レイフが、ケージの中でクンクン鳴いている犬を指差しながら、傍を通りかかったスタッフを呼びとめている。
「この犬、オレにくれよ。テストは終ったんだし、どうせいらないだろ?」
クリスターが、その後ろで、がくりと頭をうなだれて溜め息をついている。
(子供みたいな奴だなぁ…戦争のプロで、特殊部隊時代は武器が専門だったから、火器なら大抵のものは使えると言ってた…その気になれば素手でも人を殺せるくらいに強いくせに、気は結構優しいんだよな、あいつ…)
スティーブンは、その様子に、半ば呆れつつ、暖かい微笑みがこぼれそうになるのを感じた。たぶん、レイフがいなかったら、誰も信用できるもののいないこの場所で、一人自分でも理解できない複雑な憂悶を抱えて、スティーブンの心は随分と殺伐としたものになっていただろう。レイフは、いい奴だ。できれば、こんなおかしな場所ではなく、普通に出会いたかった。そうすれば、いい友達になれたかもしれないのに。
それから、再び、視線をMK89によって凍りついた壁の方に戻した。
(レイフは…あいつらは、カーイを仕留めるつもりなんだ…本当に、やるんだ、明日…くそ、何をびびってるんだ、俺は。もう、ここまで来たら、引き返せない…)
急に、そのことが、実感を伴って、ひしひしとスティーブンの胸に迫ってきた。
レイフが、ふと気づいたようにスティーブンをじっと見て、それから、手を上げながら、笑いかけた。どうやら、スティーブンが暗い顔をして、考えこんでいるので、気になったらしい。
それに向けて、無理して笑って、返しながら、スティーブンは、胸の中でじっとその事実を噛み締めていた。
(明日…明日…ああ…)
慄くスティーブンの脳裏で、彼を呪縛し魅了してやまぬ死神の冷たく青い瞳が、嘲笑うかのように、誘うかのように、きらきらと輝いていた。
「ようし、よし…いい子だな、ほら、厨房でもらってきた上等のステーキだぜ。今日は、本当にえらい目にあったから、特別にご馳走してやるよ」
テストが終了し、集まった者達が解散すると、外は早くも夕暮れを迎えていた。レイフは、結局スタッフからもらいうけた犬を、自分たち傭兵が寝起きをしている棟に連れていき、皆の集まる遊戯室の片隅で、厨房で分けてもらった肉を与えている。
よほどおなかを空かせていたらしい犬ががつがつと餌を食べている様子を、その傍にしゃがみこんで飽きもせずに眺めている弟の後ろに、呆れ顔のクリスターが立っていた。
「そんな犬なんかもらって、どうする気なんだい?自分の家も持たない傭兵の私達が、ペットなんか、飼えはしないだろう?」
もっともな兄の意見を、レイフは、ろくに聞いてもいないようだった。
「ううん…それは、考えてなかったなぁ」と、すっかり自分になついて、差し出した手をペロペロ舐めるレトリバー犬に目を細めている。
クリスターは、軽い頭痛でも覚えたかのように、こめかみの辺りを指で押さえた。
「明日のミッションが終ったら、引き取り手を探さないとね」と、溜め息混じり、しかし、優しい目をして、弟の頭を軽く叩いた。
「うん…」
レトリバー犬が、クンクンと鼻を鳴らしながら、レイフにじゃれ付いた。レイフは、笑いながらそれを抱きとめ、頭を撫でてやっている。クリスターの冷たい顔にも、自然と微笑がうかぶ。しかし、
「…レイフ」
やがて、クリスターは、口を開いた。
「明日のミッションのことだけれど、それとは別に、おまえに一働きしてもらいたいんだ」
犬と遊ぶのに夢中になっていたレイフは、振りむきもせず、弾んだ声で尋ねた。
「いいぜ、何だよ?」
「おまえが嫌いそうな仕事で、悪いんだけど」
犬の頭を撫でていた手をとめ、レイフは、怪訝そうに振りかえった。
「って、何?」
クリスターは、自分も気が進まないのだというような顔で、レイフを見返した。それから、ゆっくりと噛んで含めるような調子で言った。
「私は、トラップは9割方完成したと言ったね。後一つ、足りないものを追加したいんだよ。ねえ、やはり獲物を罠にかけるには、餌があった方がいいだろう?」
クリスターの穏かそうな顔を、レイフは神妙に見つめていたが、やがて、顔をしかめて、気の重そうな溜め息をついた。
「何となくそういう気はしてたんだけれどさ…街から離れた所にトラップを作るって聞いた時から…」
「反対する?」
レイフは、困ったように口をすぼめ、自分と同じ、もう一つの顔を凝然と見つめた。
「するわけねぇだろ。分かってるくせに、いちいち確認するなよ。ただ…あ〜あ、スティーブンの奴、知ったら、怒るだろうなぁ…。オレぁ、言い訳するの、苦手なんだよ…」
「その犬と一緒で、誰彼構わず、ちょっと可哀想だったり、頼りなくて放っておけないからというだけで、簡単に情をかけるからいけないんだよ」
少し意地悪な口調で言うクリスターに、レイフは、不満そうに、ちぇっとつぶやいた。
「それに、あんな坊やがどう思うかなんて、関係ないだろう?」
クリスターは、レイフの前に膝をついて、その顔を覗き込んだ。
「おまえと私だけが、全てを決めるんだよ。他の人間は関係ない、誰にも私達に指図をすることも、影響を及ぼすことも、止めることもできはしない。父さんだって、そうだったろう?」
レイフは、僅かに瞳を揺らして、兄の揺るぎ無い確信に満ちた顔を見つめた。クリスターは、いつでも迷わない。自分の中で絶対的な優先順位を定めて、より大切なものを守るためなら、それ以下のものは容赦なく切り捨てる。よくできた自慢の息子のこういう冷酷さを、彼らの父親は、自分が切り捨てられる側になるまで、全く気づかなかった。そうして、対立したまま別れた父親の急死の知らせを受けた時も、レイフは打ちのめされたが、クリスターは涙一つこぼさなかった。クリスターの方が、いつでも、情に流されやすいレイフより、ずっと強固な心を持っていた。そんな兄を恐ろしいと、レイフでさえ、感じる時がある。同時に、自分には絶対に敵わないと思う。クリスターの優先順位の一番上に位置しているのは、他ならぬ自分であることを知っているレイフは、もちろん兄のことは愛しているが、そういう徹底した愛し方には、とてもじゃないが太刀打ちできなかった。降参して、従うしかなかった。
息子達に裏切られたように死んでいった父親のことを思い出して、ちょっと沈んだ気分になっているレイフに、クリスターは、相変わらず穏やかな声で、慰めるように、言い聞かせるように、訴えた。
「レイフ、私達が必要とするものは、お互いだけだ。いつだって、私達は二人だけで充分やってこれた…求めるものが初めから傍にあったから、他には何も必要としなかった。不幸な父さんは理解できなくて、私達を引き離そうなどとしたけれど、そんなことは不可能なんだ。罪悪感なんて、感じる必要はないよ…私達は、こうするより他ないんだからね」
「…うん」
優しい愛撫にも似た呪縛の言葉に、レイフは、素直に頷く。仕方がない。こいつは、一生の相棒なのだ。離れることなど、できない。複雑に絡まり合って伸びた二本の蔦のように、どこからどこまでが自分なのかも分からない、このまま、生まれてから死ぬまで、ずっと一緒にいるのだろう。
すると、クリスターは、レイフの首に軽く腕を巻きつけ、抱き寄せると、弟の頬に己の頬を寄せるようにして、楽しげに囁いた。
「明日のゲーム、楽しめるものになったら、いいね」
レイフも、クリスターの肩を軽く抱いて、囁き返した。
「ああ、そうだな」
自分と同じ、血を吸ったように紅い髪が視界の端に揺れるのを、レイフは意識する。これまで戦った戦場で殺してきた大勢の人間の流した血を思い出させる色だ。時としてぞっと寒気を覚えるものではあるが、クリスターも自分も、共にその色彩に魅せられている。殺しあいという、血の色をした夢に酔っている。
めったに興奮しないクリスターが、明日のミッションには随分心を昂ぶらせていることをレイフは敏感に感じ取っていた。これまで相手にしてきた敵とは違う、あの特別なターゲットに執心している。これもまた、何事にも冷めた目を向けるのみのクリスターには、珍しいことだった。レイフ自身は、今回のミッションに対してそれ程食指が動くわけでもなかったのだが、兄の高揚した感情の影響をもろに受けたように、己の心臓が高鳴ってくるのを覚えた。
仕方のないことだ。こんなふうな感情の連動も、自分たちにとって、よくあることだ。
「一緒に楽しもうぜ、兄さん」
片割れの体を確かめるようにしっかりと抱きしめて、レイフは目をつぶった。そうしても、紅い血の残像は彼の瞼の裏にこびりついて、いつまでも離れようとはしない。生きているかぎり、ずっと消えはしないだろう。
命をかけたゲームの中で二人が屠ってきた獲物の、そして、明日のゲームで流されるかもしれない新たな血の色を思って、彼らの体の中を流れる血は、自然と熱くなる。
身の内に秘めた闘争本能と力を高めあうかのごとく、じっと寄り添いあう、二頭の獣達が、そこにいる。そうしていれば、この世に恐れるものなどないというかのように、ぴたりとついて身動きもせず。嵐の前の残りわずかな静寂な時間を味わうかのように、押し黙って。
明日。そう、明日。
待ちわびた、新たな死闘が、すぐに始まる。
ふいに、戦いの予兆めいた興奮が突きぬけていったかのように、どちらもが、微かにその身を震わせた。