愛死−LOVE DEATH−
第十一章 双獣
三
スルヤは、学校の帰りに今日もまた、スティーブンのフラットを訪ねてみた。今日こそはとの期待を込めて、インターフォンを鳴らしてみるが、やはり、誰も応えない。一体、どこに行ってしまったのだろう。学校ももう2週間以上休んでいる。何か事情があって、休んでいるならいるで、連絡の一つくらい入れてくれいもいいのに。
仕方がないので、郵便受けに、予め家で書いてきた手紙を落としこむ。
どうしてるの、心配しているんだよ。
元気なら、久し振りに顔を見せてよ。
せめて、電話くらいちょうだい…。
そんなふうなことを書いた手紙は、既に何通目になるだろうか。
どうやら、スティーブンは、少なくともこの4日間は、自宅に帰って来ていないらしかった。
(何ともなければ、いいけれど…スティーブン…)
名残惜しげに、フラットの扉を振りかえり、振りかえり、スルヤは、そこを立ち去った。
(俺は、一体、こんな所で何をやってるんだろう。ここにいることは、正しいことなのだろうか。あの男達に協力して、カーイを仕留めさせる…それが俺の本当の望みなんだろうか)
早い日暮れを迎えつつある外の風景を、大きな暖炉のある応接室の窓から眺めながら、スティーブンは、そんな取り止めのない自問自答を繰り返していた。
この日は、夕べ到着した傭兵達とのミーティングがあり、その中で、スティーブンは、以前オルソン兄弟やコックス会長を前にしたような説明を求められたのだ。男達は、初めは、皆、半身半疑だったが、例の血液の分析結果やビデオの映像を見せられて、やっと納得したようだった。
唯一ヴァンパイアと格闘したことのあるスティーブンに対して、傭兵達は、カーイの具体的な能力を知りたがって、質問を浴びせたが、本当に不死なのかとか、刺されても死なないのは、再生能力がすごいからだそうだが、仮に対人手榴弾で吹き飛ばされたくらいのダメージを与えてもその再生能力は追いつくのかとか、そういう問いは、スティーブンには答えようがないことだった。
そういったより仔細な部分は、少ないサンプルで可能な限りの分析を試みているパリーが、もっともらしく答えていた。スティーブンは、話の途中で辟易して、部屋から出ていってしまった。結論からいえば、そこまでの再生能力は、高等な生物は持ちえないだろうという予測を、イモリやプラナリアの再生の仕組みを例に挙げながら、パリーは説明していた。そんな下等な生き物と一緒にされて、カーイが聞いていたら、きっと激怒するだろうと、スティーブンは思った。ヴァンパイアの神秘も、科学者という特殊な人種の分析にかかっては、形無しだ。
そんなことを思って、スティーブンの暗く沈んだ顔に、ふっとほのかな笑みがうかんだ。オレンジ色を帯びた淡いグレーの空を眺め、それから、眼下に広がる広々とした庭園に視線を向ける。その目が、何かを見つけて、僅かに見開かれた。
庭園の向こうに広がる、乗馬用の緩やかな丘の方から、誰かが走ってくる。屋敷の誰かがジョギングをしているのだろうが、それにしても、鍛えられていない人間がやったら瞬く間に息が上がってしまいそうな、すごいペースだった。次第に近づいてくる、黒いトレーニングウェアに身を包んだ、その男は、かなりの長身で、鮮血のような紅い頭をしていた。レイフだ。
スティーブンが見守るうちに、レイフは、徐々に速度を落として、屋敷のすぐ傍まで戻ってき、ついに足をとめると、今度は、まだまだたっぷり体内に残されているエネルギーを発散させるかのように、実に敏捷な動きで、武術の技を組み合わせた、鋭いキックやパンチをし始めた。
しばらくその様子を見守っていたスティーブンだが、やがて、意を決したように、階下に向かった。
外の空気は、既にじんと体に染みとおるような冷たい夜気を含んでいた。血のように紅い太陽が地平にゆっくりと傾きつつあり、名残を惜しむかのように地表に降り注ぐ弱々しい光の中、キック、スピン、パンチ、完璧なアングルで、力強くしなやかな肉体が、動く。
ゆっくりと近づいていき、声をかけようとしかけて、スティーブンは、途中で足を止めた。
そうやって体を使うにつれ、敏捷な反射神経がますます研ぎ澄まされていくのだというように、いっそう激しく、早く、彼は動いた。手刀で大気を切り裂き、旋回し、蹴った。沈みゆく太陽よりも鮮やかに紅い髪が、その度に揺れる。あたかも体内で沸騰する熱い血が、そのまま髪に出てしまったかのような色だった。
スティーブンは、動かなかった。声をかけることをためらったというよりも、その光景に、ついくぎづけになってしまったのだ。
目の前に敵をイメージして、それを全力で倒そうとするかのように、容赦なく、複雑に組み合わせた技と力で、打ちまくった。そして、一休みするかのように、唐突に、レイフは、動きをとめた。
さすがに呼吸を荒くしていたが、まだ燃焼したりないといった様子で、スティーブンに背中を向けたまま、乱れた髪を無造作にかきあげた。
「おい、そこ、黙ってつったってないで、声くらいかけろよ」
いきなり、そんなふうに呼びかけられて、スティーブンは、はっと息を呑んだ。
「オレぁ、見せものじゃないんだからさ」
しかし、肩越しに振りかえる顔は、悪感情の欠片もなく、無邪気に笑っていた。
「あ…すまない、何となく声をかけ損ねて…」
スティーブンは、一瞬ばつが悪い思いをしたものの、その親しみにあふれた表情に安心して、レイフの方に近づいていった。
「カラテ、できるんだ。なあ、もしかしてブラックベルトも持ってる?」
自分の声に僅かな憧憬と感嘆がこもっていることを意識した。
「純粋にカラテだけじゃないさ。テコンドーとかマーシャルアーツとか他の武術も入ってるし、オビなんか持ってないよ。オレの技は敵を殺すためのものだから、寸止めとかできないの…それで試合相手に大怪我させたら、まずいだろ?」
「ああ…」
「どうも、ここに来てから、ろくに体を動かしてなかったから、体中の筋肉が痛んでさ。少しは解しとかないと、いざ実戦って時に、動きが鈍くなっちまう」
ぼうっと何かを考えこんでいるスティーブンの顔を、レイフは、ひょいと覗き込んだ。
「どうかしたのかい、スティーブン?」
スティーブンは、夢から覚めたように、瞬きした。
「いや、俺も、武術の一つくらい何かやってればよかったかなぁって…」
軽い溜め息をついた。
「今から習えばいいじゃないか…あっ…と…」
スティーブンの憂鬱そうな顔を、首を傾げるようにして眺めながら、レイフは言った。
「もしかして、気にしてんのかよ…吸血鬼、自分のやり方で始末をつけたかったのに、それができなくて、訳の分からないことを言いたてるコックス会長やその番犬どもに頼らなければならない…そういう状況が、不満なんだろ?」
「不満とか…じゃないよ。そこまでガキじゃないよ…」
「そうか?」
レイフは、ポケットから煙草を取り出してくわえ、火をつけると、スティーブンにも勧めた。
「あ、ありがと」
レイフから火をもらい、深く煙草の煙を吸いこんで、吐き出した。自分の中にたまった、理解不能のもやもやも、こんなふうに簡単に吐き出してしまえればいいのだけれど。
「な、喧嘩にいつも勝つための秘訣って何か分かるか」と、ふいにレイフがそんなことを言ってきた。
「へえ、そんなものがあるのかい?何だよ、教えてくれよ」
レイフはにやにや笑って煙草をふかしながら、言った。
「不利な戦いには初めから手を出さない。ヤバイ喧嘩ははなから避けろってことさ」
スティーブンは、がくりと肩を落とした。
「何だよ、それだけのことかよ」
「それだけ、でも大事なポイントさ。俺達傭兵なんか、特にその辺はシビアだぜ。この船に乗ってたら、一緒に沈むだけだなって悟ったら、さっさと見切りをつけて、次の船に移っちまう。俺達には、守ってくれる国も組織もないし、自分の身を守れるのは自分だけ。好きでやってる仕事でも、結局命があっての物種だろう。俺達は、ずっと戦っていたいけれど、正直言って、死にたくはないのさ。だからさ、おまえが、あの化け物相手に自分では太刀打ちできないって分かって、コックス製薬や俺達の力を利用して、あいつにぶつけてやろうとするのは、全く卑怯でもなんでもなく、正しい戦法なんだよ。実際、おまえはよくやってると思うよ。そんな怪我までして、怪物に立ち向かって、あの血を手に入れた。それで、あのコックス会長を動かしたんだ。本当に、素人の坊やにしては、がんばってるさ。だから、自分が非力とかそんな下らないことで、落ち込むなよ」
「レイフ…」
なんと答えればいいのか、とっさに分からなくて、スティーブンは、己をまっすぐに見る、レイフの琥珀色の瞳から視線を反らした。
「それに…ここだけの話、俺も、化け物相手のミッションってのは今回が初めてだから、ちょっぴり腰が引けてるの」
手を口許にかざして、とっておきの秘密を打ちあけるように、レイフはそっと囁いた。
「え、マジ?」
「マジ、マジ。でもさ、クリスターはやる気満々だし、ここまできたら、引けないだろ。だから、自分を最高のコンディションに整えることで、戦闘意欲を奮い立たせようとしているわけ」
「クリスター…」
スティーブンは、レイフと同じもう一つの顔を思い出した。見た目は、ちょっと区別がつかないくらいにそっくりだが、実際に接してみると、これほど印象の違う双子も珍しいかもしれない。初めは、もっと気短で暴力的かと思っていたレイフは、案外気さくで親しみを持てることが分かったが、クリスターの方は、何を考えているのか、相変わらず少しも分からない。レイフは、この仕事に乗り気になっているのはむしろクリスターの方だと言うけれど、淡々と冷めた口調や物腰からは、そんな様子はうかがえなかった。穏かに微笑んでいても、本心からそうしているのではないような、得体の知れなさを秘めた顔は、目の前で屈託のない明るい笑みを浮かべている顔と、似ていて、何と異なっていることだろう。
「クリスターとあんたって…それでも、いつも一緒にいるんだよな…」
一瞬二人の気性の違いを考えて、それで本当に気が合うのだろうかと不思議に思って、スティーブンは、そう呟いた。
「な、そういや、今、あんたの兄貴は何してるんだい?」
「屋敷のセキュリティシステムのチェックと強化にかかってるよ。クリスターは、アメリカのコックス・バイオメディカル本社のチーフ・セキュリティ・オフィサーも勤めてたんだぜ。あいつが考案した新システムを導入してここ一年、社内での犯罪や、産業スパイやコンピューターウィルスの感染は、ほとんどゼロに押さえられている。あんまり評判がよかったものだから、ライバル会社から破格の待遇でヘッドハントのオファーもきたくらいでさ…もっともホワイトカラーの仕事は、やっぱり馴染めないって、すぐにそれは辞めちまったんだけれど。同じシステムが、ここにも入ってるんだ。ただ、今回のプロジェクトにあたって、それでは不完全だからって、見直しにかかってるんだよ」
自分のことのように得意げに兄の自慢をするレイフを、スティーブンは、少し呆れたような目で見た。こいつ、もしかして、かなりブラコン?
「ふうん、兄貴は仕事中で、自分は暇だから、一人寂しくジョギングしてたわけだ?」
さっきはあんなにカッコよかったのにと、少しがっかりしていた。
「でもさ、自分と同じ姿をした奴がすぐ傍にいつもいるって、どういう気分なんだ?たまには、離れてみたいとか、思わないわけ?」
「そうだなぁ」
レイフは、二本目の煙草に火をつけた。
「俺達にとっては、自分と同じ顔が傍にない状況って奴の方が、逆に想像しにくいよ。だって、生まれた時から…いや、おふくろの腹の中にいた時から、隣に相棒がいたわけで…それが当然のように育ってきたんだから。それでも、離れよう、逃げようと思ったことはあったよなぁ…ほら、思春期って、自我も目覚めるし、自分とそっくりな奴が傍にいて、比較されるのは、やりにくいわけよ。それが、またすごい優秀な奴とくると、もう最悪」
「反抗した?」
「したよ、親にも兄貴にも。ぐれて、暴れたけれど…それも、クリスターに言わせると、自分に構って欲しいって信号を発しているのが分かりすぎて、こっちが居たたまれなくなるんだって。親には結構愛想をつかされたんだけれど、クリスターは、変わらなかった。そうして、俺も、なんだかんだとあいつに丸めこまれて更正しちまった…別に本気で駄目になるつもりはなかったし、クリスターの言ったように、結局ポーズをつけてただけなんだ。そういうことを兄貴はちゃんと分かっていやがったんだな、俺以上にさ」
「へえ…」
「今は、離れようなんて思わないな。こんな危ない仕事を始めてから特に、あいつがいてくれてよかったと思うようになったよ。どんなヤバイ戦場でも、迷ったら抜けられなくなりそうな密林の中でも、あいつがいると恐れずに済む。どんな困難な状況も二人が組めば切り抜けられるし、どんな厄介な敵でも倒せるという自信がある。死線を何度も共に越えてきた戦友だって、こうはいかない。あいつは、呼吸も、動きも、考えることも、何もかもが、あつらえたように俺にぴったりとあうんだよ。あいつなしで傭兵稼業をするのは、かなり辛いだろうな…自分の傍のあいつの場所が空いてることが心もとなくて、その死角を敵に突かれることが恐くて。だからさ、クリスターがやらない仕事は俺もやらないし、今度みたいに、あいつが引きうけた仕事なら、俺もあいつ一人だけに任せたりは絶対しないのさ」
そう言いきって、地平に薄く広がる雲の中に落ちかけて死につつある太陽の方に顔を向け、目を細めた。スティーブンも、その視線の先を追うように、夕暮れの空を眺めた。
「な、スティーブン、ちょっと頼みがあるんだけれど、いいかな?」
「頼み?」
「おまえ、写真が得意なんだろ。今度さ、俺とクリスターの写真撮ってくれないかな。故郷のおふくろに送ろうかと思って…」
「おふくろさん、元気なんだ」
「うん。もう、5年くらい会ってないけどさ。クリスターはまめに手紙を書いて、近況を知らせているけれど、俺は、どうも手紙で自分の気持ちを伝えるのって苦手でさ、たまに思い出したように写真を撮って、その裏に「元気でやってます。心配しないで下さい」くらい走り書きして、それをクリスターの手紙と一緒に送ってもらうんだ」
「元気です、心配しないでください、か…」
照れくさそうにそんなことを頼むレイフが、何だかかわいく思えてきて、スティーブンは微笑んだ。
「いいよ、写真くらい、いつでも撮ってやるよ」
「サンキュ」
レイフは、嬉しそうに破願した。つられたように笑いながら、スティーブンは、どうしよう、こいつを好きにならずにいることは難しそうだと思っていた。コックス会長やその配下は基本的に信頼できないと思って心を閉ざすつもりでいたけれど、レイフは、いい奴だ。
「そろそろ中に入ろうか。日が沈むと急にまた冷えこんできたな」
「ああ」
レイフに促されて、スティーブンは、屋敷に戻るため、歩き出した。その頭に、ふっとレイフが自分に対してかけてくれた言葉が思い出された。あれは、やはりスティーブンの落ちこんだ顔を見て、慰めようとしてくれたのだろう。
「…ありがとな、レイフ」
前を歩いている広い背中に向かって、そっと呟いた。
本当は、スティーブンが抱えているのは、レイフが指摘したような単純な悩みではなかったのだが、それでも、どちらかというと不器用そうな人間が自分を気遣ってくれた気持ちが素直に嬉かったのだ。