愛死−LOVE DEATH

第十一章 双獣


「えっ、旅行?」

スルヤは、かじりついていたトーストから口を離し、顔を上げると、びっくりしたように瞬きをして、向かい側の席に座って、コーヒーのカップを手にじっと自分をうかがう恋人の、いつにない憂悶の影に沈みこんだ美しい顔を見返した。

「どうしたの、急に?」

「だって…あなたも行きたいって言ってたじゃないですか、ギリシャ…。ターナーの絵に描かれた遺跡を一緒に見に行きませんか?」

戸惑い気味に首を傾げるスルヤから視線を反らすようにして、カーイは、何でもないことのように答えるが、やはり、様子が少し変だ。

「ううん、そりゃ、行きたいとは思うけれど、いきなり来週なんて、突然すぎるかなぁ。今ちょっと課題に追われてるし、学校が冬休みに入ってからなら、もちろんいいけど。俺も、ロンドンの寒さは苦手だから、暖かい所に行きたいよ。でも、冬のギリシャって、どうなんだろう?ここよりは、あったかいだろうけれど」

カーイは、スルヤから顔を背けたまま、軽く溜め息をついた。スルヤは、ますます心配になった。

「どうしたの、カーイ?何か、心配事でもあるの?」

それから、また少し首を傾げて考えこみ、やがて、意を決したような顔をして、カーイに向かって、言った。

「ね、ここでの暮らしが少し退屈になってきた?俺は毎日学校に行ってて、その間、他に友達もいないあなたは一人で過ごしている…もしかして寂しい思いとかさせてるのかなぁ。この所、天気もぐずついて、それだけで気がふさぐし…ねえ、俺のために我慢しないで、言ってよ。もし、どうしても他の所に行きたいのなら、俺、少しくらい学校休んでも…いいから。勉強は後でも取り戻しできるし、あなたのことが俺にとって一番なんだからね」

心からの気遣いに満ちた優しい呼びかけを、カーイはじっと押し黙って聞いていたが、ふいに手を上げ、込み上げてくるものをこらえるかのように口元を押さえた。

「カーイ?」

ついに耐えきれなくなったかのようにぷっと吹き出し、カーイは肩を震わせながら、笑いこけた。

「すみません…真面目に聞いていたんですけれど、何だか、これって人間の夫婦の会話みたいだなと思ったら、急におかしくなって…」

本気で心配したのを笑われて、スルヤはむうっとふくれた。

「変なテレビドラマの見過ぎじゃないの?」

「かもしれないですね。だって、あなたがいない昼間は退屈で、こう天気も悪ければ、家でテレビを見るくらいしかすることがないものですから…」

笑い過ぎてうっすらと目にうかんだ涙を指先でぬぐいながら、カーイは、スルヤの方に顔を向けた。

「旅行のことは忘れてください。あなたの都合も考えずに我が侭を言いましたが…別に今すぐでなくても、あなたが休暇に入ってからでもいいんです」

「でも、カーイ…」

まだ何か言いたげに椅子から身を乗り出すスルヤを、カーイは手で制した。そうして、壁の時計を指差す。

「早く食事を済ませてしまわないと、学校に遅れますよ?」

時計を見て、スルヤはうわぁと叫んだ。慌てて、食べ残していたトーストを口の中に突っ込み、コーヒーで流し込む。

「忙しい朝に、こんな無意味な話をすべきではなかったですね。すみません」

空いた椅子からリュックサックを掴み取り、立ち上がったスルヤは、それでも、まだ納得しきれていないかのように、カーイを見つめた。

「本当に、大丈夫?」

カーイは、とろけそうに優しい笑顔で答えた。

「ええ。でも、なるべく早く帰ってきて下さいね」

スルヤはちょっとくすぐったそうな顔をした。夫婦の会話のようだと笑った、カーイの言葉を思い出したのだ。照れくさくなるくらい、いかにも、ままごとじみていた。

「それじゃあ、いってきます」 

椅子に座ったままのカーイの頬に軽くキスをして、スルヤはバタバタと玄関に走っていった。

その足音をじっと聞いていたカーイだったが、扉が開けられた所でおもむろに席を立つと、ふわりと床から舞い上がり、ヴァンパイアの能力で、壁や柱を通りぬけて二階に向かい、ポーチに面した小部屋の窓の前に音もなく降り立った。

家から出ていったばかりのスルヤの後ろ姿を眼下に見下ろしながら、カーイは、複雑な思いを噛み締めていた。

我ながら奇妙に思うくらいに神経が張り詰めていた。本当なら、片時もスルヤから目を離したくない。別段いつもと何も変わった所のない平穏な朝を迎えながら、一体何をこれほど不安がっているのだろうか。

あれきり沈黙を守っているスティーブンの出方も気になってはいるが、たかが人間、それも強情なだけで何の力もないあんな若者一人を恐れる理由は、カーイにはなかった。それ以上の何か、漠然と形をなさない脅威が、ひたひたと近づいて来ている、知らぬ間にカーイの周囲に罠を張り巡らし、彼を取りこもうとしている、そんな予感に、薄気味悪さを覚えている。

おそらく、カーイの奥深い所にあるヴァンパイアの本能の部分が、彼に警告を発しているのだ。危険が迫ってきている。早くここから離れろと。そう、いつものカーイなら、こんな状況におとなしく耐えていることなど考えられない。彼は自由で、何にも捕らわれず、気の向くまま、風のように世界を渡り歩いてきた。本当に、何ものかに捕らわれるということは、何と不自由で、居心地の悪いものだろう。

(スルヤ…)

カーイの悩みなど何も知らない、無邪気な恋人の後ろ姿を見送りながら、カーイは、溜め息をついた。

ふいに、そのスルヤが足を止め、後ろを振りかえり、カーイが立つ窓の方を見上げた。キッチンにいるとばかり思っていた恋人の姿をそこに認めて、一瞬びっくりしたように目を見開き、ついで、なんともあまやかに笑み崩れた。嬉しそうに手を振るスルヤに、カーイも、ついつられたように微笑んで、窓越しにそっと手を振った。

(本当に、私は一体何をしているのだろう…)

慌てて道路の方に走っていくスルヤを見送った後、カーイは、困惑したように、下ろした自分の掌に見入った。


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