愛死−LOVE DEATH− 

第十章 いのち


薄曇りの土曜の朝。閑静な住宅街の片隅に、この付近では見かけない黒塗りの大きなバンが停車していた。休日の早朝に、どこからともなく現れ、何かを待ち受けるように、それからずっと動かない。あまり静かなものだから、中には誰も乗っていないのではないかと思われる程だったが、実際には、そこには三人の男達が乗りこんでいた。防音設備の完璧な特殊車だったので、彼らがたてる物音も話し声も外に漏れることはなかったのだ。

「もう10時か。そろそろ外に顔だけでも見せてくんないかなぁ」と、さすがに3時間以上も待ちつづけて、退屈しだしたレイフが、大きなあくびをしながら、窓の向こうのある一件の家の扉を眺めながら、ぼやいた。

「もう一時間待ってターゲットが出てこなかったら、スティーブンに電話を入れてもらうとしよう」

少し倒した車のシートにもたれかかりながら、相変わらず淡々とした口調で言うクリスターの頭を、後ろの座席に坐ったスティーブンは、緊張した顔で見つめた。

「そんなにびびるなよ、坊や。吸血鬼に立ち向かっていった時の度胸を思い出せ」と、レイフが、からからと笑う。

スティーブンは、小さな溜め息をついて、首を巡らせ、座席の後ろの空間に備えつけられている、何に使うのかよく分からない様々な機器を興味深げに眺めた。刑事ものやスパイ映画にでも出てきそうな設備だ。こんな車を、一体どこで調達してきたのだろう。

「珍しいかい?」と、スティーブンの考えていることを読み取ったかのように、クリスターが言った。

「コックス会長は、ここの警察機構にも顔がきくんだね。捜査用の特殊車両を貸し出してもらったようだ」

そんなことをしていいのだろうかと一瞬考えこんだスティーブンだが、カチャリという金属音がレイフの座席からするのに顔を上げ、思わず目を見開いた。レイフの手に握られているのは、紛れもない拳銃だったからだ。一瞬、レイフが今にも静まりかえった住宅街で発砲し出すのではないかと、スティーブンは焦った。

「それって本物の銃か?おい、まさか街中でそんなものをぶっ放す気じゃないだろうな?」

常識的なスティーブンの訴えに、レイフはきょとんとした顔で振りかえり、それから、苦笑しながら片目をつぶって見せた。これだから、一般人はとでも言いたげな顔だ。

「大丈夫、大丈夫。ただの護身用だって」

そうして、弄ぶように点検していたその銃をダウンジャケットの内側に隠してあるガンホルダーに落としこんだ。

「カメラとマイクの確認もしておこうかな…おい、スティーブン、そこのテレビスクリーンのスイッチを入れてくれ。それから、その横のスピーカーも」

言われたようにスティーブンがテレビとスピーカーの電源を入れると、スクリーンに、レイフの隣に坐って弟のジャケットの襟元をいじっているクリスターの顔が映った。どうやらジャケットのボタンにでも小型のカメラをしこんでいるらしい。同じようにマイクもどこかに取りつけているのだろう。

「オレの歌を聞くかい、スティーブン坊や?」と、ふざけた口調で言うと、レイフは、どこか外れた調子でスティングを歌い出した。スピーカーを通して聞こえてくる歌を、耳をふさぎたい衝動をぐっとこらえてワンフレーズを聞き、それから、スティーブンはスイッチを切った。

「そんなに歌いたかったら、カラオケの置いてあるパブにでも行けよ」

くっくっとクリスターが肩を揺らして、笑った。次の瞬間、微かに彼は息を呑んだ。

「さて、遊びの時間は終わりのようだ」

レイフがフロントガラスの方に顔を寄せ、スティーブンもその肩越しに外を見た。ずっとはり込んでいた家の扉が開いて、黒髪の男の子が外に出てきたのだ。一瞬寒そうに肩をすくめ、暖かそうな紺色のコートのボタンをきちんととめていく。すると、彼の後ろから、もう一人が姿を現した。

レイフのはっと息を呑む音がした。そして、口笛。

「すげえな。おいおい、あんな美人だなんて、聞いてないぞ?」

この車から彼らが今出てきた玄関前までは、結構距離があるが、レイフの視力はかなりいいらしく、二人の顔かたちもよく分かるらしい。

「でも、男性なんだよね?」

クリスターは冷静に、少々疑いながらも確認するようにそう呟いた。

三人の注視に全く気づく様子もなく、銀髪の青年と黒髪の少年は仲良く寄り添いあうようにして、通りを歩き出した。

「レイフ」

クリスターが、呼びかけるのに、レイフは、バンの扉を開けて、外に出た。

「じゃ、また後でな」

レイフは、兄と、スティーブンの方にも軽く手を振り、道路の突き当りを曲がって姿を消した二人を追って、軽く駆け出した。

こうして、彼らの尾行が始まった。




「二人は地下鉄に乗って、ヴィクトリア駅方面に向かっている」とスピーカーを通してレイフの声が言った時、スティーブンとクリスターのバンは、同じ方向を目指して走っていた。テレビスクリーンには、レイフが携帯している高性能のカメラから送られてくる、地下鉄に乗った二人の画像が映っている。レイフの尾行は、今の所完璧で、二人は、自分たちに向けられた秘密の眼差しに気づく気配はまったくなく、そこそこ混み合った車両のドア付近に向き合って立ち、親しげに何か話している。

カーイはカメラに向かって背中を向けていてその顔は見えないが、スルヤの姿はよく分かった。カーイに向けられたその顔、安心し信じきったような微笑みに、スティーブンは、今更ながら、胸をつかれた。スルヤにこんな表情をさせておいて、それを裏切るなんて、やはり許せない。コックス製薬にカーイを捕獲させることに理屈でない抵抗を覚えていたスティーブンだったが、深く信頼しあっている恋人同士にしか見えない二人の様子を見ているうちに、忘れかけていた怒りの火を再びかきたてられ、それも仕方がないと思うようになっていた。

二人は、やがてピムリコ駅で降りた。レイフも、他の客たちが降りるのを待って、ドアが閉まる寸前に飛び降りる。改札に向かう他の客達に混じって、少し向こうに覗いている銀色の頭を追いつづけた。

その時、ふとスティーブンは、カーイが旅行者であることを思い出した。ピムリコ駅といえば、近くに有名なテート・ギャラリーがあるので、観光客がよく利用する場所だ。

「美術館でも行く気かな」と、呟く。

「テート・ギャラリー?」と、クリスターが聞き返した。レイフに確認をすると、実際二人が向かっているのは、その美術館のようだったので、クリスターは、車をそちらに向かわせた。

「美術館ねぇ」と、一定の距離保って、二人をつけているレイフが小さな溜め息をついた。

「オレ、ああいう所は、辛気臭くて苦手。どうする、中に入るか?それとも、外であいつらが出てくるのを待っていようか?」

「そうだね。いや、そこまですることはないだろう。私達は、間もなくテート・ギャラリー前に出る。そこで合流しろ」

「OK」

そうこうするうちに、テート・ギャラリーの、巨大なコリンソス式円柱が正面にそびえたつ堂々たる姿が、街路樹の向こうに見えてきた。

二人は迷わずそこに向かう様子である。レイフは、道をそれる振りをして、ひとまず二人から離れた。

大きく迂回して、レイフがテートギャラリー前に到着すると、クリスター達のバンが先に着いていた。

「ターゲットは美術館に入っていったよ」

助手席に乗り込んできた弟に向けてクリスターが言う。

「じゃあ、またしばらくここで張り込みだな」

レイフは、大きなあくびをした。シートを後ろに倒し、どさりと身を預ける。

「オレ、ちょっと一眠りをするよ。奴らが出てきたら、起こしてくれ」

言うやいなや、スイッチを消したように瞬く間に眠りに落ちて、静かな寝息をたて出すレイフを、スティーブンはしばらく呆れたように見つめていたが、やがて視線を外の美術館に向けた。カーイがスルヤと共にそこにいるかと思うと、ひどく気分が落ち着かなかった。

スティーブンは、ジャケットのポケットを探り、そこから愛用のライターを取り出して、手の中でぐっと握り締めた。そうすれば、心が静まるとでもいうかのように。

(カーイ…スルヤ…)

そんなスティーブンを、クリスターの不思議そうな目がそっと眺めていた。その狂おしげな視線の先をたどって美術館の方に目を向け、再びスティーブンの横顔に戻る。眠ってしまった弟の代わりの楽しみの種をそこに見出しというように、興味深げな顔をして。

その手が、座席の前のラジオに伸びてスイッチをつけた。スティーブンは、夢から覚めたように、震えあがった。その様子に微笑みながら、クリスターは、ラジオのボリュームを低くした。

車内には今スカルラッティが流れている。これも悪くないが、時間があったら、自分の好きなCDの一枚や二枚を買っておくことにしよう。

レイフには選曲はさせられない。弟の音楽の趣味ときたら、相棒といってもこればかりは認められない、全く頭の痛くなるような俗悪なものだから。





カーイが、この日、スルヤを誘って出かけたのは、観光客向けのロンドンの情報誌で見つけた、テート・ギャラリーで開催中の特別展だった。「太陽と月」をテーマにした作品を一堂に集めた展示では、普段は非公開のターナーの作品をはじめ、有名画家の珍しい絵画を見ることができるらしい。

絵画観賞は、あまり興味のない連れと一緒の場合は、非常に気を使うものである。幸いスルヤは絵を見ることも好きだったが、カーイは、好きな絵を前にすると、ヴァンパイア独特の想像力と集中力を発揮して、何時間でも平気で一枚の絵の前に立っていたりするものだから、さすがに今回はそこまで自分の世界に浸るわけにはいかず、いい絵だなと思っても、あまり時間をかけすぎないように気をつけていた。心残りがあるのなら、また日を改めて訪れ、今度は自分のペースで回り、気に入った場所で一日はりついていればすむことだ。  

「これ、どこだろう」と、スルヤが長く足を止めて呟いたのは、ターナーの作品の一枚だ。円柱が並ぶだけのギリシャ神殿の廃墟を、煌々と輝く満月が青く照らし出している、神秘的な静けさに満ちた作品だ。

カーイは、その絵を眺め、それから脇の小さな注釈を読み、言った。

「ギリシャのスニオン岬ですよ。岬の先端の切り立った断崖の上にあるポセイドン神殿には、ギリシャを愛した詩人バイロンの残したサインがあるそうです…今は神殿の中まで入ることはできませんから、見れないでしょうが。ここから眺める夕日は有名ですが、 ターナーは月夜を描いたんですね。この静謐な雰囲気は、私も好きですよ」

「ギリシャも行った?」

「ええ」

「いいなぁ」

「いつか、一緒に行きましょうか?」

「本当?」

無邪気に微笑みかけてくる恋人から、さり気なく目を反らして、カーイは、絵を観賞するふりをした。

いつか一緒に?いつか?恋人を喜ばせる為の優しい嘘をつくことが、こんなにも苦しいのはなぜだろう。

二時間ほどかけてその特別展も含めて美術館内を回った後、地下のカフェで軽い食事を取り、最後にミュージアムショップで買い物をした。スルヤは、故郷の両親や友人達に送るのだろう、絵葉書を何枚か買っていた。カーイも、それを見て、二枚の絵葉書を買ってみた。別に出すあてがあるわけではない。親しい友人にあてるような文面で、ハガキを書いて、宛名は空白のまま、投函してみようか。ロンドンでの新しい恋人との暮らしのこととか、一緒にいる時間が長くなるにつれ、どんどん気持ちが彼に傾いていること、幸せだけどとても辛いのだとでも書いてみるか。行くあてのないハガキは、どうせ処分されてしまうのだろうけれど。




「出てきたよ」と、クリスターの冷静な声がそう言った途端、レイフはぱっちりと目を開いた。

「ああ、本当だ」

スティーブンも、窓に顔を寄せて、美術館の入り口から今まさに出てきた二人を眺めた。手の中のライターをしきりにいじり、カチッと火をつけて、すぐに消すことを繰り返した。

「どうする?見た感じでは、やっぱり人間にしか見えなかったけれど…また少しつけて様子を伺ってもいいけれど、尻尾を出すように、こっちから仕掛けてみるか?」と、兄に尋ねる。

「そうだね…」

クリスターは、美術館の階段を下りてくる二人に目をあてたまま、考えを巡らせる様子だった。運転席の窓を開け、目を細めるようにして、彼らの姿を追う。二人が下りた歩道は、クリスターのバンが停車している場所からは、車道を挟んだ向かい側になる。

カチッ。カチッ。

レイフもクリスターも黙りこみ、スティーブンのライターの音が、車内に響いていた。

どう見ても人間にしか見えないカーイの様子を、どこか違うところがあるのではないかと探し出そうとするような執拗に観察していたクリスターの目にふと訝しげな表情がよぎった。歩道に立ってスルヤと何か話し込んでいたカーイが、ふいに、何か別のものに気を引かれたかのように反応し、周囲をぐるりと見渡したのである。一体、何を探しているのだろう。クリスターは、初めは分からなかった。

カチッ。カチッ。

またしても、カーイは、びくりとなって頭を巡らせた。

カチッ…。

「…………」

クリスターは、後ろの座席を振りかえった。カーイの姿にすっかり目を奪われているスティーブンが無意識にいじっているライターを見た。

「スティーブン」と、微かな慄きを秘めた声で言った。

「ライターを触るのは、やめるんだ。奴に聞こえているぞ」

運転席の窓も再び閉めた。

「まさか」と、レイフ。

「レイフ、おまえの言うとおりだ。このまま、ただ見ているだけでも埒があかない。奴をちょっと刺激してみよう」

これまでとは違って幾分緊迫した表情で弟を振りかえり、クリスターは言った。それから、後ろのスティーブンに向かって、

「スティーブン、そのライターをちょっと貸してくれ」と、声をかけた。

「え…これは駄目だ。大事なものだから…」

「吸血鬼の注意を引くのに使わせてもらうだけだよ。どうやら、この音に彼は反応しているようだからね。すぐに返すから、心配しないで」

クリスターにこうかきくどかれて、スティーブンは、しぶしぶ父親からもらったライターをレイフに渡した。

「へえ、随分いいライターを使ってるんだなぁ」

レイフは感心したように言ったが、スティーブンがじろりと睨みつけるのに、肩をすくめ、再び外に出ていった。

「彼らの立つ歩道から見える所に立って、ライターに火をつけてみろ」

運転席の前にも設置されている小型のスクリーンを見ながら、クリスターはレイフに指示を与えている。

バンからは用心深く離れ、車の行き交う車道ごしに、カーイとスルヤの姿を見据えながら、レイフは、ジャケットのポケットから煙草を取り出し、一本を口にくわえ、スティーブンから借りたライターで火をつけた。カチッ。

これまでずっと後ろ姿か横顔だったカーイの顔が、初めて、レイフの方にゆっくりと動いて、正面から彼を見た。一瞬、レイフは、加えたタバコを落としそうになった。レイフの視力は2.0を超えている。この距離でも、カーイの表情の細かい所まで分かるのは確かだ。だが、それだけでは、この衝撃の説明はつかない。広い車道を挟んだ位置に立ちながらも、何かしら、恐ろしく危険なもの、人食いの虎とでも顔をつき合わせて向き合っているような恐怖感が彼をつきぬけていったのだ。全く、こんな感覚は始めてだった。うなじの毛がちりちりと逆立ってくる気がする。

(う…こいつは、ヤバイ…!)

そう思った瞬間、レイフは背中を向けて、早足で歩き出した。カーイから早く逃れたいというかのように、大通りを離れ、人気のない裏通りにに入っていく。

その姿を、カーイの鋭い目が追っていた。彼は、傍らのスルヤに向けて、囁いた。

「スルヤ、ここでしばらく待っていてください」

突然のことに、スルヤは戸惑い、彼を見た。

「えっ」

しかし、スルヤが問い返すより先にカーイは動いていた。ロングコートをあざやかにひるがえし、目はずっと、反対側の細い通りに駆けこんで行った男の背中にあてたまま、一瞬車が途切れた車道を軽い身のこなしで横切って渡っていく。

「動いたね、彼」

クリスターが興味深そうに言った。どうやら、カーイは、このバンの存在にまで気がついてはいないようだ。バンの傍を通りすぎ、姿を消したレイフを追って、裏通りにずんずん入っていく。

その様子をしばらく見守った後、クリスターが、スティーブンを押しのけるように、座席の後ろの色々な機械が並んだスペースにもぐりこんで来て、それまでスイッチの入ってなかった別のスクリーンをつけ、パソコンを操作しだした。

この車両自体にも、外を映せるようなカメラがどこかに取りつけてあったらしい、スクリーンは、外の風景を映し出し、クリスターの操作にあわせて、少しずつアングルを変えて行く。ついには反対側の歩道に取り残されたスルヤをカメラは映した。一瞬大写しになったその顔に、スティーブンは、一瞬どきりとした。行ってしまったカーイを待つスルヤの顔の不安そうなこと。今にも消えてしまいそうなものをひたむきに追いかけているかのようだ。

「スティーブン、ここで大人しく待っているんだ」

クリスターの声に我に返って、そちらに目をやる。彼は、レイフのものと同じジャケットを着、外に出るところだった。

「ど、どこに…?」

レイフと違ってあまり愛想のないクリスターは、何も答えず、車のドアを閉じた。

一体、何をするつもりか?スティーブンが戸惑いながら、見ていると、クリスターは、車道を渡り、向かいの歩道に立ち尽しているスルヤへと、歩いていくではないか。

「クリスター?」

スティーブンは動揺した。一瞬、車から飛び降りて、彼の後を追いかけようかとも思ったが、自分がスルヤに秘密で一体何をしているかを思いだすと出られなくなった。仕方なく様子をうかがっているうちに、クリスターは、極めて自然な様子でスルヤに向かって近づいていく。そして…。

「すみません」

いきなり後ろから声をかけられて、びっくりしたスルヤは飛びあがりかけた。当惑しながら振りかえると、真っ赤な髪をした、一人の男が、スルヤに向けて微笑みかけている。長身だなぁとスルヤは思った。スティーブンよりも大きいかもしれない。イギリスの人ではなさそうだけれど、どこの国の人だろう。

「あのテート・モダンに行きたいんですけれど、ここから、どう行ったらいいのか…教えてもらえませんか?」

丁寧だが、少したどたどしい英語で話すところを見ると、やはり外国人旅行者なのだ。スルヤは、にっこり笑った。思わずつられて笑い返したくなるような表情だった。

「テート・モダンは、ここからは結構離れてるんですよ。地下鉄のサザーク駅まで行かないといけないから…」

スルヤが、旅行者と信じたクリスターに、テート・モダンまでの生き方を親切に教えている時、カーイは、レイフを追いかけていた。

人通りの少ない裏道とはいえ、街中でヴァンパイアの超人的な身体能力を発揮することはためらわれたので幾分押さえてはいたが、それでも充分驚異的な脚の早さで、カーイは謎の男の姿を追い求めた。

スルヤとの楽しい休日も、いきなり街の喧騒に混じって耳に届いた、あの音、スティーブンの癖であるライターを鳴らす音を聞いて、台無しになってしまった。てっきり彼が近くに来ているのだと思い、性懲りもなくスルヤに近づいてカーイの秘密を教える気なのかと怒りを覚えながら、その姿を探した。しかし、スティーブンは見つからず、代わりに見たこともない背の高い男が、カーイ達を観察するかのごとく見ていたのである。他のライターの音が同じように聞こえただけ、自分の勘違いかとも思ったが、カーイの顔を見るなり、いきなり逃げ出した所を見ると、やはり怪しい。相手が何者なのか、その目的も何も分からなかったが、カーイには追わずにはいられなかった。少し神経質になっているのかもしれない。スルヤとの平和な暮らしに、これ以上余計な邪魔者が入ることは許せなかった。 

カーイの早さをもってすれば、普通の人間の脚に追いつくことは容易いはずだった。しかし、男は予想以上に逃げ足が速く、裏通りを奥へ奥へ進んでもその姿は一向に見えてこない。結構細い路地に幾つも分かれた入り組んだ場所だったから、そのうちの一つに逃げこまれて見失ってしまったのだろうか。そう思った瞬間に、視界の果てに赤いものがちらつくのが分かった。あの男だ。と見るや、男は角を曲がってしまったので、またしてもその姿は見えなくなった。カーイは、少し本気になった。

ごうというような一陣の風が、薄汚い裏通りを吹きぬけていく。人間の感覚では、カーイのその速度は、そんなふうにしか捕らえられない。

男が消えていった角を曲がった所で、カーイは、立ち止まった。風もやんだ。

厳しく張り詰めていたカーイの顔に、困惑の色が広がっていった。

その先は、コンクリートの高い壁に遮られた行き止まりになっていたのだ。

それでも、カーイは、左右に視線を巡らせながら、突き当たりまで歩いてみた。やはり男の姿は、どこにもない。左右の建物の中には数個の人らしい気配が蠢いているのは感じられたが、それらはどうもあの男のものではなさそうだったし、この目の前も壁も、カーイの身長よりもはるかに高く、普通の人間が越えるのは、ちょっと難しそうだ。この壁の先も確かめてみるべきかどうかカーイは一瞬悩んだが、何だかきりがない気がしてきた。それに、待たせているスルヤのことも気になったので、あきらめて、引き返すことにした。

(一体、何者だったのだろう…)

カーイの正体を知って監視していたと考えるのは、しかし、いくら何でも、取り越し苦労かもしれない。旅行者を狙った、スリとかひったくりとか、そういう類の犯罪者という可能性もある。カーイが、気づいたようなので、慌てて逃げ出したのかも。しかし、ただのスリにしては、逃げ方があまりに見事過ぎる気もする。

(ただの気のせいであればよいのだけれど…)

やがて先ほどの大通りに、カーイは、戻ってきた。すぐに向こうの歩道の上を、スルヤの姿を求め、眺める。

カーイは、ぎょっとなって、立ちすくんだ。スルヤが、誰かと熱心に何事か話し込んでいる。見ると、その相手は、先程路地で見失った、背の高い赤毛の男ではないか。とっさにカーイは、自分の見ているものが信じられなかった。人間がこんなに早く戻ってこられるはずがない。もしかして、同族だったのだろうか。それならば、一体、スルヤに近づくのは、どういう目的があるというのか。かっと頭に血が上るのをカーイは覚えた。

(スルヤ!)

自然と体が動くのを、カーイはとめられなかった。

「えっ?!」と、思わず叫んでしまったのは、バンの中で戻ってきたカーイの姿を認め、じっと息をひそめて見守っていたスティーブンである。彼には、カーイの姿がかき消えたようにしか見えなかったのだ。




「一体、どこの国の人だろうと思ってたんだけど、それじゃあ、スウェーデンから来られたんですね。休暇ですか?」

ただ道を教えるだけのつもりが、その旅行者から「あなたも「太陽と月展」を見に行かれたんですか?」と尋ねられ、それからついついおしゃべりをしてしまっていた。カーイを待つ間ぼうっと立ち尽しているのも退屈だったスルヤにとっては、むしろありがたかったかもしれない。

「いいえ。ロンドンには仕事できているんですよ」と、赤毛の男、クリスターは、穏かに答えた。

「この週末は、せっかくだからロンドン観光をしようと思って」

「何のお仕事?」

「そうですね…人助けのようなものでしょうか」と、薄く笑ってクリスターが答えた、次の瞬間、その冷静そのものの顔が、はっと強張った。風のような音を聞いたと思って、顔を上げた彼が、スルヤのすぐ後ろに見たものは、静かな敵意を青い瞳に燃やしたヴァンパイアの顔だったのだ。クリスターの背中を、冷たいものが走ったが、思わずそこから退きたくなる衝動を、彼は必死でこらえた。

「あれっ?カーイ?いつの間に戻ってきたの、ちっとも気づかなかったよ」

肩越しに振りかえって、びっくりしたような、ほっとしたような顔をして、スルヤは言った。その肩を抱きよせ、カーイは、クリスターの琥珀色の瞳を用心深く睨み据えた。

「誰…?何を話していたんです?」

「うん、テート・モダンの場所を聞かれたんだよ。つい皆テート・ギャラリーの傍だろうって思っちゃうみたいだね。シャトルバスくらい出てたら、いいのにね」

スルヤは、カーイの警戒心などまるで気がついていないらしく、甘えた声で答えた。

そんな二人の様子に、クリスターはすうっと目を細めた。

「待ち人が帰ってきてくれてよかったね。それでは、私はこれで。よい週末を」 

そんな言葉を残して、クリスターは二人に背を向け、歩き出した。

その後ろ姿を、カーイは、疑い深げにじっと追っていた。先ほどの男ではなかった。一瞬同一人物かと思ったが、あんなに髪は長くなかった。しかし、あまりに似過ぎている。追いかけて、問い詰めるべきだろうか。しかし、一体、何と?

カーイの沈黙を不思議に思ったのか、腕の中のスルヤが小さく身じろぎした。

「どうしたの、カーイ?」

カーイは、溜め息をついた。

「何でもありませんよ。すみません、私の気のせいだったようです。もう、行きましょうか。待たせてしまったおわびに、セーターか何か買ってあげますよ」

「そんなの、いいよ。ほんの五分くらいのことなんだし、それに服なら、この間あんなにたくさん買ってもらったもの」

「それじゃあ、あなたの好きな写真集か本を買いましょう。そうさせてください。この近くにも、結構大きな本屋がありましたね」

自分がそうしたいのだというように、カーイは、強引にスルヤの手を引いて、歩き出した。クリスターが向かった地下鉄とは反対方向だ。どうしても同じ方向には歩いていきたくなかった。

説明しがたい不安が、カーイの心に暗雲となって重くのしかかってきていた。危険が迫っていると本能が訴えているのにそれが何なのか分からないもどかしさ。攻撃することも、逃げることもできない彼は、じっと息を殺して待ちうけるしかない。

己の手のうちにスルヤの手の暖かさを感じ、それを離すまいとするように力を込めた。

(誰にも、渡せない…)




スティーブンは、はらはらしながら、何時の間にかカーイが向かいの歩道に現れて、クリスターと話しているスルヤを引き離すようにして彼を睨みつけるのを見守っていた。一瞬争いにでもなるのではと危ぶんだが、やがて、クリスターは二人から離れ、カーとスルヤも、それとは逆の方向に歩き去った。それを見送って、ほっと緊張を解いた時である、バンの窓を叩く音がして、スティーブンは、ぎょっとなって、そちらを見た。

「レイフ…」

窓越しにレイフはスティーブンに向けてにやりと笑いかけると、助手席の方に回りこんで、中に乗りこんできた。

「ううっ、参った…危うく捕まるところだったぜ…!」

まだ先ほどのカーイの追跡の興奮が冷めないかのように、レイフはぶるっと身を震わせて、そう叫んだ。

「本当にヤバイところだった…逃げきれたのは、単に運がよかっただけのような気がするよ。こんな気分になったことは、初めてだ」

そうかと思うと、急に押し黙って、放心したように窓の外に視線をさまよわせる。その様子を、スティーブンは、不安そうに見守り、そして、言った。

「あいつを捕まえることなんか、できるのか?」

レイフは、肩でゆっくりと息をついた。

「そうだな…初めに思っていた以上に難しい仕事になるかもな。だが、クリスターはやろうと言うんだろうな。あいつは、案外、敵が厄介な相手ほど燃えるタイプだから」

「あんたは?」

「人間相手なら、よかったんだがな。しかし、クリスターがやるっていうなら、俺もやるしかないだろう。手強い相手だが、まあ、俺達二人が本気でやれば、何とかなるんじゃないかな」

そうして、後ろを振りかえって、借りていたライターをスティーブンに投げた。スティーブンは、慌てて、それを受けとめる。

「ほら、ちゃんと返したぜ」

「あ…ああ…」

二人の間に、また沈黙が流れた。

すると、今度は、運転席のドアがいきなり開いて、どこかに歩き去ったかに見えたクリスターが、入りこんできた。

「レイフも戻っていたのか。どうだった、首尾は?」

「もう、最悪。うなじの辺りの毛が逆立つくらいにぞくぞくしたよ。あんなに必死になって逃げたのなんて、もう何年ぶりくらいだろう。部隊に配属されて初めての任務についた時以来じゃないかな」

スティーブンの方を、クリスターは振り向いた。その瞳がこれまでにない興奮に輝いているのを、スティーブンは認めた。

「見たかい、さっきの?」

スティーブンは、ぎゅっと唇を噛み締めた。

「おい、スルヤには近づかないって、約束だったはずだぞ」

「道を尋ねただけだよ。それよりも…見たんだろう?」

スティーブンは、クリスターの顔を避けるように、視線を伏せた。

「おい、一体、何があったって?」

訳がわからず、レイフがきょとんとして問いかける。

クリスターが、バンの後部座席に設置してあるテレビスクリーンの所にやってきた。機械を操作し、録画していたテープを巻き戻して、再生する。

「いいかい、見ているんだよ」

レイフも後部座席に回りこんできた。路上で話をしているクリスターとスルヤを小さく映したテープの端に、反対側の歩道に出てきたカーイの後ろ姿が現れた。次の瞬間、その姿が消えた。そして、瞬き一つしたくらい後に、その姿は、車道の向かい側に忽然と現れたのである。

「一体、どうなっているんだ?」 

顔をつき合わせるようにして画面に見入っているクリスターとスティーブンの後ろから覗き込んでいたレイフが、心底びっくりしたというようにそう呟いた。

クリスターは、再びテープを巻き戻した。

「今度は、再生の速度を遅くしてみるからね」

すると、微かにだが、こちら側の歩道から向こう側まで、車道を横切る何かの残像のようなものが映っていた。

「早過ぎて、カメラでは捕らえきれないのか?」

レイフの呟きには答えず、クリスターは、流れていく画面をじっと見つめていた。ロンドンに来てから初めて興味を引かれるものを見つけたというかのように、その瞳は、楽しげな表情をたたえていた。画面は、スルヤをひしと抱きしめて、クリスターを睨みつけるカーイを映している。その様子に、クリスターは唇をほころばせた。

「そろそろ、引き上げようか」と、唐突に彼は言った。

「このビデオは城に帰ってからパリー達研究スタッフにも見せて、検証する必要があるだろうね。捕獲作戦についても、一から考えなおすことにするよ。この化け物の力は、これだけのものではないのだろう。何より不死身だというのが、ネックだね。だが、思ったよりも…ある意味人間的ではあるようだ」

クリスターの言葉を、スティーブンは、どこか遠いものに聞いていた。

彼は、視線を、窓の外、カーイとスルヤが消えていった方向にさまよわせた。

このまま、この双子に付き合って、カーイを捕獲する為の協力などしてよいのだろうか。ここでこのバンを下りて、立ち去るべきなのかもしれない。しかし、スティーブンが心を決めるより前に車は発進し、彼は、逃げるきっかけを逸してしまった。

(スルヤを死なせたくない、だからカーイをあいつから引き離したい、それが俺の願いだったはずだ。こいつらにカーイを捕まえさせて、その体を好き勝手にいじらせることとそれは、少し違うような気がする…)

後部座席に一人うずくまるスティーブンの心は、揺れつづけていた。

だが、彼に迷う間も与えずに、戦いの時はすぐにでも訪れそうだ。果たして、人間が不死のヴァンパイアに勝てるのだろうか。少なくとも、戦いをしかける人間達の方は、それを恐れてはいはいないようだ。貪欲な人間の手は、不老不死という神の秘密を奪い取ることにも、ためらわない。

カーイは、勝てるのだろうか。忍び寄る人間たちの手を見事に払いのけて、あの誇り高い孤高の生き方を続けることができるのだろうか。

もし、カーイが勝てば、スルヤはどうなる?

前の座席では、闘争心にあふれた男達が、ラジオから流れる最新のポップソングに半分耳を傾けながら、今後の計画について、意見を交し合っている。

(一体、俺は、どうするんだ?)

戦いの予感を噛み締めながら、スティーブンの憂悶は、一層深くなるばかりで、絶えることなどないかのように思われた。

 

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