愛死−LOVE DEATH− 

第十章 いのち


部屋の電話が鳴った時、右手一本で不自由そうにパソコンを操作していたスティーブンは、とっさに左手をそっちに伸ばそうとかけて、それが今ギプスに固められて肩から吊るされていることを思い出し、顔をしかめた。

「はい?」

椅子から立ち上がって、電話の傍まで行き、左手で受話器を取り上げると、ここ数日待ちわびていたロバートの声がした。

「スティーブン、私だ…」

スティーブンは、大きく息を吸いこんだ。

「ロバート、ずっと連絡を待っていたんだぞ。俺があんたに渡したあいつの血は、あれからどうなったんだ?ちゃんと調べてもらえたのか?」

スティーブンの勢いに、ロバートは一瞬ひるんだようになった。それから、何かしら不安をはらんだような、ためらいがちな口調で続けた。

「ああ、実はそのことなんだが…私の知っているある研究者にあの血の分析を頼んだ…面白いことが色々分かったよ、確かにあれは人間の血ではないらしい」

「それで、分かったのか、あいつの弱点とか、そういうものの手がかりか何か…」

「いや…それが、その研究員、パリーも驚いていたんだが、彼が考えつく限りの手段で、高温とか低温であの細胞を殺そうとしたんだが、どうしても死なないことが分かった。更に詳しい検査をするために、もっとサンプルが欲しいと頼まれたが、それは無理だと断ったよ。ただ、話のなりゆきであれが何の血かということも話してしまった。それが、どうやら間違いだったようだ。パリーは、あの血に非常に興味を抱いて…彼が援助を受けているある企業にこの話を持ちかけた…」

「ちょっと待てよ、他には漏らさないようにする約束だったろう?」

「ああ、だが、パリーは黙っていられなかったようだ。私も、まさか彼がこんな途方もない話にここまで関わってくるとは予想していなかったのだが…ともかく、おまえが私のもとに持ちこんだ血は、思いの他、大きな波紋を生みつつある。スティーブン、実は、今、パリーから連絡が入ったんだが、あの血の持ち主である吸血鬼について、俺達の話を聞きたいという人物がいるそうだ。どうする、会うかね?」

「誰なんだよ、それは?」

「今、ニュース番組などで渦中の人となっている人物だ。コックス製薬の会長メアリー・E・コックスが、私達に会いたいと言っているそうだ。色々胡散臭い噂のある女だが…スティーブン、しかし、うまくいけば、おまえの吸血鬼退治に力になってくれるかもしれん。はっきり言って、どうすればよいのか、ただの一般人に過ぎない私達の手にはあまる問題だからね」

スティーブンは、躊躇した。しばし、受話器を握り締めたまま、じっと考えをめぐらせていた。自らの傷ついた腕を見下ろした。あの時のカーイ美しく残酷な姿を、その圧倒的な力を思い出していた。

「分かった」

重々しく、彼は言った。

「会おう、その女に。向こうの目的が何なのか分からないのは気持ちが悪いけれど、吸血鬼と聞いて、馬鹿にするかわりに、会って話を聞くつもりになるってことは、それなりに本気で関わろうって気なんだろう。いいさ、コックス会長と話をするよ」




それから一時間後には、スティーブンは、ロバートと共にパリーの運転する車に乗って、バッキンガムシャーのコックス会長の居城に向かっていた。家を出るのも午後遅くだったので、また、早くに日が沈むこの季節のことだったから、目的地に着くころには、辺りは真っ暗になっていた。ほとんど灯りらしいもののない広大な丘陵地を車のライトだけを頼りに進んでいくと、曲がりくねった田舎道の果てに、ついに暗い森を背景に淡くうかかびあがるような城の、亡霊じみた陰気な姿が現れたのだった。

「コックス会長は健康を害しておられるので、それ程長く話はできないだろう。君達が知っていることをなるべく正確に簡潔にお伝えするようにしてくれ」と、それまでほとんど口を開かなかったパリーが、建物にいよいよ近づいてきた時、ぽつりと言った。

スティーブンは、何だかこの男が好きにはなれなかった。ロバートから固く口止めをされていたにもかかわらず、あの血の話を外部に漏らしたことに、信用ならない奴だという悪印象を覚えたし、それに、その打ち解けない態度も話し方も、いかにも後ろ暗い秘密を抱えているようで、警戒心を刺激された。

これから会うことになるメアリー・E・コックスについては、スティーブンは、また別の得体の知れない不気味さを覚えていた。

ロバートの話によると、彼女の一族は、南北戦争の時代からアメリカの北メリーランドに拠点を置く薬品会社を経営し、財をなしたのだという。だが、会社が世界に進出できるような大企業に成長したのは、40才で社長に就任した、メアリーの手腕による所が大きい。男顔負けの商才に恵まれた、闘争心の旺盛な女社長のもとで会社は急成長した。鮭の卵から抽出された骨粗しょう症治療剤やある種のきのこから発見された抗がん剤などのヒット商品を次々に市場に送り出して、莫大な利益を生み続ける一方で、政治的な読みの深さを発揮して、有力な議員達に多額の献金をすることで政府の手厚い保護を勝ち取ることにも成功、70年代後半には、この業界では全米トップ10入りする優良企業にあげられるようになった。会社がバイオ産業に参入したのは、早くも80年代初頭からだった。高名な遺伝子学者でもあった夫との子供を、二人とも、アデノシンデアミナーゼ欠損症で亡くしたことが、この分野に関する並々ならぬ関心をメアリーに植えつけたようだ。「もしも、私の二人の子供達が、ニ十年遅く生まれていたなら、彼らは、今、後継者として私の隣に立っていてくれたてしょう。それを思うと未だに口惜しくて仕方がありませんが、彼らの死が、どうしてもこの病の治療法を見つけてみせるという私の情熱を生み出したのです。遺伝子治療に関する現代の技術の目覚しい進歩は、せっかく生まれても、治療法もなく死を待つだけの子供達に生きる機会を与えてくれるものです。世界中の母親達の望みを叶えるこのプロジェクトを、私は誇りとしています」と、メアリー自身が自らの自伝で語ったように、90年代、会社はコックス・バイオ・メデイカルとして独立したバイオ部門において主に業績を伸ばしていった。そうして、今話題の人胚幹細胞を使った研究において大規模なプロジェクトを勧めていたが、アメリカの政権が変わり新たな保守政権が生まれたことで、業界を巡る状況は大きく変わってしまった。新政権は人クローンを作ることにもなりかねない胚肝細胞の研究に非常に厳しい規制をかけることを方針としたのである。メアリーが贈賄によって長年かけて築きあげてきた政府との密接な関係も今度ばかりは功をなさなかった。そんな折、彼女が心血を注いで築き上たバイオ帝国を根底から揺るがす事件が起こった。実験用の胚を提供した、不妊治療患者の一人が、無断で自分の胚を実験に使われたと、会社を相手に訴訟を起こしたのである。丁度この分野に世間の注目が集まっていた時期だったから、マスコミは、こぞってこの事件を取り上げて記事をかきたてた。過熱した取材合戦は、他の疑惑もかぎ当てて、大企業によって行なわれた違法行為の実体は人々の知るところとなり、司法当局も動かざるを得なくなった。そうして我が身の危険を感じたメアリーは、アメリカを離れ、イギリスにやってきたというのである。彼女自身も健康を害し、これから待ちうける、数多くの裁判に耐えられるだけの体力も残されていなかった。

メアリーは、製薬業界において、斬新で革新的なプロジェクトを幾つも推し進めることで難病に苦しむ人達に貢献してきた偉大な人物だが、その行動は、途中から少々極端なものになってきたというのが、ロバートの意見だった。特に、長年連れ添った夫を自動車事故で亡くし、自らも重傷を負ってあわや半身不随となりかかった10年前くらいから、会社の方針も最先端を追求するあまりに強引さや軽率さが目だったきたし、メアリー個人についても何かしら常軌を逸した噂が付きまとうようになっていった。大怪我を負って一時はそのまま引退するのではないかと囁かれていたのが、見事な復活をとげたのは、研究途中にあった、幹細胞由来の組織移植を受けたせいだとか、その若さと健康を保つためにも我が身を実験台として、あらゆる最新の技術や薬品を試しているのだかといった、得体の知れないものだ。体調を崩して、ついには長年勤めていた社長職を辞任し会長となってからは、公の場には姿を現さなくなったが、彼女の不調の原因までが、これまで試みてきた、安全性も今だ確立されていない技術の悪い結果なのだと見る意見もある。そして、ここ数年、メアリーが、本当の所は、どんな状態にあるのか知るものは、ほとんどいない。

(何だかよく分からないけれど、この女は、とてもヤバイ相手のような気がする…)

それは、ほとんどスティーブンの直感のようなものだった。 

そうして、その予感は、ロバートと二人、この幽霊屋敷のような古びた城にのりこんでコックス会長と面会した時、的中した。

出迎えに現れた秘書に案内されて、どれだけの数の使用人がいるのかどうかも定かではない静まりかえった城の長い廊下を歩いて、コックス会長の私室に繋がる控え室に通される。意外なことに、そこには先客がいた。

スティーブンは、部屋の入り口で一瞬足を止めて、訝しげな目をして、しげしげと彼らを見つめてしまった。何となくこの暗いトーンの部屋とはそぐわない、大柄で目立つ風体の、一目で外国人と分かる男達が二人。鮮血を思わせる、真っ赤な髪が印象的だ。新しい客達の到着に興味を引かれたように、こちらに向けられた二つの顔は、驚くほどよく似ている。双子なのだった。

「クリスターとレイフのオルソン兄弟です。こちらは、ロバート・ブランチャードとその甥のスティーブン・ジャクソン」 

赤毛の兄弟の片方、兄だというクリスターは、冷たい目つきでスティーブン達をじろじろと眺め回した後、すぐに興味をなくしたように、顔を伏せて、読みかけの本に集中し始めたが、弟のレイフは、人好きのする笑顔をうかべて、二人に向けて手を上げてみせた。

双子の兄弟ではあるが、受ける印象が違うのは、その見事な赤銅色の髪を、クリスターは長く伸ばして後ろで一つにまとめているのに対し、レイフは奔放にはねるのにまかせていることや、体つきもレイフの方が兄よりが更にがっしりと逞しいことだけではなさそうだ。幅の広い皮張りのソファの両端に寛いだ様子で腰をおろし、熱心に活字を追っている兄の注意を引こうとするように子供じみたちょっかいを出している弟という二人の姿は、毛色のよく似た猫科の猛獣がじゃれあっている様を連想させた。年齢は、二十代の後半というところだろう。

共にここに通されたパリーは、既に彼らとは面識があったようだが、どうやらあまり親しみを覚えているとは言い難い様子で、ろくに目もあわさずに部屋を横切って、一人、窓際に立って外を眺めるふうにして背中を向けてしまった。

一体何ものなのだろう。そんな疑問を胸に抱きながら、スティーブンがロバート共に部屋の隅に陣取って、声を潜めて、これからのことについて相談をしていた時である。しばらく奥の部屋に姿を消していた秘書が戻ってきた。

「会長がお会いになられます。皆さん、どうぞ中にお入りください」

五人の男達は、無言でその言葉にしたがって、薄暗い部屋に足を踏み入れる。そこで出会ったコックス会長の姿に、スティーブンとロバートはさすがに衝撃を受けるのだが、彼女の申し出には、更に驚愕させられた。

「私は、あなたが見つけたという生き物を捕らえ、その不滅性の秘密を解き明かしたい。これまで発見された微生物や動植物など比較にならない程、それは私達人間に多大の恩恵をもたらすものになるだろう」

「何だって?」と、スティーブンは、我が耳を疑って思わず聞き返した。その姿以上に異様なものを見るかのごとく、大きな寝台の中に埋もれてしまいそうなほどに病み衰えた、しかし、目だけは強い光を放っている、コックス会長をまじまじと見つめてしまった。

「あなたの伯父がパリーに検査を依頼した血液に、私は大変関心がある。今の段階では、まだ分からないことがほとんどだが、少なくともあの細胞が不死であり、恐るべき再生能力を備えていることは明らか。私の会社は、これまでも、世界中で薬品となりうる未知の物質を探しつづけ、新しい医薬品を開発してきた。あの細胞は、それ以上の素晴らしい可能性を秘めている。想像してご覧…あの細胞の遺伝子を解析して、不死の因子を突き止めれば、今の技術を持ってすれば、それを人間の遺伝子に組みこむことも充分可能…一つ一つの病気に対する治療法や薬品を開発するのに必死にならなくとも、人間の体自体を、決して病気にもかからず、老化もおこさない不滅のものにできれば…実現すれば、どんなにか素晴らしいだろうと思わないかい?」

スティーブンは、この女はもしかしたら狂っているのかもしれないと思った。一目で末期にあると分かる病気のせいで、精神にまで異常をきたしたのかもしれない。

「一体、何を言っているんだ?あいつを捕まえて…調べるだって?あんた、正気か?」と、喘ぐように言った。

「いや、あんたは全然分かってないんだ…パリーが勝手に送ってよこした血液のサンプルとデータだけを見て、これは何だか面白そうだと軽い気持ちで調査する気になっている…。だが、あれはそんなものじゃない。吸血鬼だと言ったのは、嘘じゃない。人の血を吸って生きている…何才なのか分からないけれど、年はとってなかったし、たぶん、本当に不死なんだろう。とにかく、とても危険な奴なんだ。捕まえようとするだけ無駄だし、そんな試みをするなんて、全く正気の沙汰じゃない。やめるんだ…俺は幸い怪我くらいですんだけれど、下手に手出しすると、本当に死人が出るようなことになるかもしれない」

己の傷ついた手を突き出して示すようにして忠告するスティーブンだったが、彼のその言葉は、コックス会長にさほど感銘をもたらさなかったようだ。

「大きな成功を目指す時は、それなりの危険も覚悟しなければ。それにね、見れば分かるだろうけれど、私には、あまり時間が残されていないし、だから、おまえの言う危険など少しも恐ろしくはないのだよ。こう言えばもっと分かりやすいかもしれないね。その吸血鬼を捕まえたら、私は、その細胞をまっさきに私の治療に用いてみるつもりなんだよ。この屋敷には、私のための医療チームが常に詰めていて、あらゆる手段を使って延命処置を施しながら、最新の遺伝子治療も含めた方法でこの体を救おうとしてくれている。しかし、そのうちそれも限界に達するだろう。苦痛もある…決してあきらめるまいと自分に言い聞かせて耐えてきたけれど、この頃では、痛み止めのモルヒネに耐性ができてきたし、それにあれを使うと意識レベルの低下が避けられないので、私は困るのだよ。少しでも生き延びる可能性があるのなら、それに私はかけてみたいし、そうすることで、病と死の恐怖に怯える人類に貢献できるなら、本望というものじゃないか」

スティーブンは、絶句した。常軌を逸していると思った。しかし、死を前にしてかくも貪欲に生を求め、何としても生き延びようとするその精神力には、何かしら圧倒された。死を克服することは、彼女の波瀾に満ちた生涯をかけた究極の目的であるかのようだった。

「ステーブン・ジャクソンとロバート・ブランチャード、おまえ達は、言わば部外者だ。私の計画をとめられる立場にはないんだよ。けれど、この話は、決しておまえたちにとっても悪いものではないと思うのだが…パリーに、あの血のサンプルを渡したのも、そもそもどうやって吸血鬼を倒せるのか、その弱点を探る為だったとか…。吸血鬼を倒したくても、その方法も分からず、力もない、ただの一般人のおまえたちは、困り果てていたのではないかい。だが、私には、吸血鬼の弱点を解明する組織もあれば、捕獲しようと言えるだけの力もある。私の目的はあれを生かして利用することだから、殺すことはできないが、その吸血鬼がおまえ達に害を及ぼせない所に隔離してあげられるんだよ。それは、おまえ達にとって問題の解決とはならないのかい?」

今度ばかりはスティーブンは、反論もできずに黙りこむしかなかった。カーイの圧倒的な力を見せつけられて、とても自分には歯が立たないと途方にくれていたのは事実だった。コックス製薬がカーイを捕獲し、実験でも何でもして二度と外に出て来れないように隔離してくれるとは、まさに渡りに船のような話ではないのか。そうして、カーイが二度とスルヤのもとに戻ることができなくなれば、彼はその牙にかかって死なずにすむ。だが、何故か、スティーブンは、この申し出を素直に喜ぶことができなかった。カーイを、「生き物」だの「サンプル」だのと呼んで、珍しく貴重な実験動物のように捕まえ、その体を調べまくって細胞を取り、それを自分の治療に使うというコックス会長に、理屈でない反発を覚えて、どうしても信用できなかったのだ。スティーブンは、とっさにどう答えたらいいのか分からず、傍らでずっとスティーブンとコックス会長のやり取りに耳を傾けながらも沈黙を守り通してきたロバートを、助けを求めるように振りかえった。

「コックスさん…本当に、吸血鬼を捕まえることができるんですか」と、ロバートは、慎重に口を開いた。

「その…それをあなたがどう利用するかについては、私は何も言えません。あなたが、これまで押し進めてきたどのプロジェクトよりも、画期的で、危険を伴うものとしか…倫理的な問題など、この際、あなたは取り上げる気にもならないのでしょうしね。あなた自身そこまで追いつめられていなければ、こんな無茶な、そして、性急な計画は立てなかったかもしれない。いえ、それも、追求するのは止めましょう。私達は、確かに部外者です。それに、あなたが指摘したように、吸血鬼なんてとてつもないものと対峙する羽目に陥って、私達は大変困っています。このスティーブンは、私にとっては大切な甥っ子です。吸血鬼は、彼の手にこんな怪我まで負わせた。私は、もう二度と、彼をこんな危ない目にあわせたくない。だから、どうか奴を捕まえてください。私達も、その為に必要な情報は提供しましょう」 

「ロバート…!」

抗議するような口調で、スティーブンはその名を叫んでいた。ロバートは、考え深げな顔で、そんな甥を見返し、黙っていろというようにかぶりを振った。

「それは結構なこと」

コックス会長は、枯れ葉がたてるかさかさという音めいた、掠れた笑い声をあげた。

「では、どうか、今回の捕獲プロジェクトに関わる者達におまえたちの知っていることをすべて話してあげて。パリーは、あの血を調べているから何となくつかめているようだけれど、オルソン兄弟は、まだとても信じられないという顔をしているからね」

そんなふうに声をかけられて、赤毛の兄弟は、低い含み笑いでこたえた。スティーブンは、自分のすぐ後ろにこの二人が立っていたことをすっかり忘れていた。パリーの方は、神経質そうな咳払いや身じろぎする気配が時々していたので、その存在を意識していたのだが、兄弟は、振り向いてみなければそこに人がいることなど全く分からないくらいに気配がなかった。

「私はそろそろ休ませてもらおう…近頃では、少しの時間人と会って話すことにも非常な体力を要するのでね。…アダム」 

会長が呼びかけるのに、忠実な秘書は、その枕もとから離れ、静かな声でスティーブン達に退出を促した。

「では、どうぞ、これから案内します別室にお移り下さい。そこで、細かい打ち合わせをいたしましょう」




案内された部屋は、この館に幾つもある、来客用の応接室の一つであるらしかった。壁にはターナーの風景画を初め、何枚もの油絵がかかっており、それがこの広々とした一室に美術館めいた重厚さを与えていた。

クリスター・オルソンは、それらの絵に興味を引かれたらしく、他の連中は部屋の中央のソファに腰を下ろして、早くも話し合いを始めているのに、一人そこから離れて、ゆっくりと絵画観賞をしている。

秘書のアダムは、そんなクリスターにこちらに来るよう声をかけるべきか一瞬迷うような顔をしたが、結局そのままにしておくことにしたらしい。そうして、スティーブンに向かって、吸血鬼についての詳しい話を求めた。

「その…初めに会ったのは、9年も前になるんだが…」

ためらいながらも、隣に坐ったロバートに促されて、スティーブンは、重い口を開いた。子供のころに目撃した殺人。9年後の思わぬ再会。彼が全く年をとっていなかったこと。人間に化けて、自分の友人と共に生活しているが、その目的はやはり血を奪うことで、正体をばらしたらすぐに友人を殺すと脅されたとも語った。さすがに、この得体の知れない男達に対しスルヤの名前までを明かす気分にはなれなかったが、カーイを本気で捕獲しようとするならば、すぐに探り当てられてしまうだろう。それを考えるとスティーブンの胸は、またしても不安に満たされてきた。スルヤを巻きこんでしまうのではないか。そして、つい確認するように尋ねてみた。

「おい、あんたらは吸血鬼を捕らえることだけが目的なんだよな。間違っても、俺の友人を巻きこんだり、危害を加えたりはしないだろうな?」

アダムは、ほとんど感情の見えない礼儀正しさで辛抱強く答えた。

「私どもは、この計画をあくまで秘密裏に行ないたいと考えています。ですから、一般市民を巻き込むことは何としてもさけたい事態の一つなのです。その点については、御心配なさらなくても大丈夫だと思いますよ、ジャクソンさん」

それから、隣に腰を下ろしたレイフ・オルソンに念を押した。

「君達はプロだから、ジャクソンさんの心配には充分気を配って行動すると信頼してもいいだろうな、ミスター・オルソン。吸血鬼の捕獲時には、決して彼の友人やその他の一般人を巻きこまないよう気をつけてくれ」

レイフは、軽く肩をすくめて、あまり気のない声で言った。

「そりゃあ、もちろん気はつけるさ。けれど、100%とは言えないな。雇い主はいつだって、ああしろ、こうしろって、現場の大変さを知らないから、好き勝手に注文をつけるけれど…」

「もちろん、その点については、細心の注意を払うようにしますよ」と、それまで部屋の中をぶらぶら歩きながら絵を眺めていたクリスターが戻ってきて、弟の後を引き継ぐように話に加わった。

「ここは、私達が今までいたようなジャングルの中や山岳ゲリラが跋扈するような無法地帯ではないのだから、もちろん荒っぽいことは極力避けるようにします。…スティーブンといったね」

そこが当然自分のおさまるべき場所というように弟の隣に腰を下ろして、スティーブンの方に顔を向けた。何となく、スティーブンは緊張した。知性的で端正な面差しの、一見物静かで穏かそうなクリスターだが、瞳の奥にぞっとするような鋭さがある。

「吸血鬼の捕獲は、君の友人からは離れた場所でするつもりだ。そして、その点については、君の協力があればありがたいと思っているんだが、どうだろうか」

スティーブンは、はっと息を呑んだ。

「待ってくれ」と、動揺もあらわなロバートが、クリスターの話を遮った。

「君らの仕事にこの子を加担させないでくれ。一般人は巻き込まないと、今約束したばかりじゃないか。スティーブンにそんな危険な仕事はさせられない」

しかし、クリスターは、そんなロバートの抗議にも全く動じることなく、ただ事実を述べるように、淡々と答えた。

「巻きこむもなにも、あなた方はもうとっくに当事者なんですよ。大体、これは、そもそもあなた達が自力で解決しなければならないトラブルだったんでしょう。私達に押しつけて、これで安心だと、自分たちは高見の見物だなんて虫がよすぎる。別に、何も吸血鬼と格闘しろなんて言っている訳じゃない。私達は、明日にでも下見に出かけるつもりなので、ターゲットを確認する助けをしてもらいたいということと、必要ならば、君の友人の安全を確保するために、どこかに連れ出してもらうかもしれない…あるいは、人目に付かないどこかにターゲットを呼び出すといったことも」

スティーブンは、相手の感情の読めない冷静そのものの顔を凝視した。どうやら、本気で吸血鬼と戦うつもりでいるらしい。正体不明の敵に対して警戒はしているが、恐れている感じは全くない。コックス会長とはまた違って意味で、死の危険も顧みない、あるいはそんな生き方を当然としている男なのだ。

「あんた達は、一体何者なんだ?」

スティーブンが投げかけた疑問に、クリスターは退屈そうに瞬きをして、ソファの背もたれにもたれかかった。

「ハンターだよ」と、クリスターと同じ声がスティーブンに答えたが、それは、隣に坐った彼の弟のものだった。

「コックス会長お抱えの何でも屋と言った方がいいかな」

この二人に比べるとあまりにも陰が薄いパリーがぽそりと呟いた。

「殺し屋だ」

スティーブンはぎょっとなって、思わずそちらを振りかえった。

「ああ?」と、ちょっと不機嫌な声を出して、レイフがそちらを睨みつけるのに、パリーは、真っ赤になって顔を伏せてしまう。どうやらかなり仲が悪いらしい。

「その…オルソン兄弟は、もともとはアメリカ陸軍の特殊部隊の出身なのです」と、険悪なものになりかけたこの場を振り繕おうと、アダムが二人の間に入って、続けた。

「コロンビアの密林に潜伏した麻薬王を捕まえる作戦等で活躍した優秀な隊員だったのですが、訳あって軍を辞めた後、さる上院議員の紹介で、当初はコックス会長の護衛として雇われました。この二年ばかりは、地の利がある南米で、密林を探索してある植物を探す我が社のプロジェクトに携わってくれています。原住民が儀式用に使うある種の麻薬なのですが、そのアルカロイドにモルヒネ以上の鎮痛効果が認められるらしいのです。そして、習慣性がないという、夢の鎮痛剤です。ただ、その植物が分布している地域が密林の奥で、しかもゲリラの残党が隠れ住んでいる危険な地域であるものですから、プランツハントといっても、軍隊並み装備が必要でして、それで、その道のプロであるオルソン兄弟は大変頼りになる存在なのです」

「それが、そのプロジェクトよりも重要な新プロジェクトができたから、至急イギリスまで来いって知らせがあって、仕方なく現地スタッフに後は任せて、地球を半周してここまでやって来たって訳」と、レイフが、面白がるようににやにや笑って、言った。

「まさか、待ちうけていたのが吸血鬼騒動だとは、夢にも思っていなかったけれど」

クリスターに比べると、レイフは、まだとっつきやすかったが、それでも、兄と同じ、危険な橋を渡りなれている、どこか平和な日常を超越した雰囲気はあった。

「ところでさ、スティーブン、そいつが吸血鬼なら、お約束の十字架とか太陽の光、それから、ほらニンニクはきくんじゃないのかよ?」

興味津々、身を乗り出して、光の加減で金色にも見える琥珀色の瞳を輝かし、そんなことを聞くレイフに、スティーブンも少し緊張をやわらげた。レイフには、どこか子供のようなところがある。

「俺も初めはそう思ったんだけれど、あいつは明るい昼間でも平気で歩くんだ。十字架も、駄目だった…教会の中にも平気で入ってきたよ。ニンニクは…そう言えば、一緒に食事をした時に、確かニンニクを使った料理があったんだけれど、平気で食べていたところをみると、あいつにとっては意味ないんじゃないかな」

レイフは、感心したように、へえっと呟いた。

「何だよ、それじゃあ、昔からある吸血鬼映画とか、あれって全部嘘だったのかな。ニンニクを食べる吸血鬼って、何だか冗談みたい。…にしてもさ、スティーブン、一緒にメシを食ったって、随分仲がいいみたいじゃないか、そのばけものと」

からかわれたスティーブンは顔をしかめて、黙りこんだ。その様子がおかしかったのか、レイフは、逞しい肩を揺らせて笑った。

「つまり、私達が考えてる吸血鬼と違って、そいつには弱点はなく無敵なんだね、本当に」と、クリスターが考え深げに呟いた。

「そして、パリーの話では、不死だという」

スティーブンは、ギプスで固められた右手を見下ろし、言った。

「ああ。それは本当だよ。俺は、あいつの胸をナイフで刺したんだ。心臓を一突きだった。普通の人間なら死んでただろうけれど、あいつは全く平気な顔をしていたよ。それでも、血は出たし、痛みも少しは感じるらしいけれど…」

レイフが、驚いたように口笛を吹いた。

「へえ、吸血鬼をナイフで刺したのか。素人の坊やにしては、なかなか度胸のあることをするじゃないか」

パリーが、遠慮がちにこほんと咳払いをした。

「その…弱点が全くないかという話だが、少なくとも低温下ではある程度活動レベルが押さえられるということが分かっている。だから、それを捕獲作戦に利用できないかと今研究スタッフか準備を進めているところだ」

あまり期待はしていないというように、レイフが言った。

「急いでくれよ。準備中なんて悠長なことを言っている暇はないんだろう、我らが会長には」

それを、パリーは憎らしげな目で睨みつける。

「スティーブン、君はカメラマンの卵らしいが、ターゲットの顔を認識できる写真はないのかい?」と、クリスターが尋ねるのに、スティーブンは、一瞬考えこんだ後、ジャケットのポケットの中から一枚の写真を取り出した。

「顔は分からないよ、残念ながら」

差し出された写真をオルソン兄弟は顔を寄せあうようにして覗き込んだ。

「駄目だな。カメラをやってるくせに、何だよ、この写真は。ひどい失敗じゃないか」 

レイフが口を尖らせて文句を言うのに、スティーブンは、やはり見せなければよかったと胸のうちで呟いた。

「別にちゃんと撮影しようと思って取った写真じゃないから…それでも、顔が分かるくらいには写っているかと思ったんだけれど、それが、こんなふうにひどいハレーションを起こして、人物全体が飛んでしまうなんてさ。そう言えば、以前スル…俺の友人が見せてくれた別の写真でも、あいつの姿は同じような光が入ってしまってまともに写っていなかった。吸血鬼は鏡に映らないって話も、確かあったよな。何だかさ、写真とかにそういうものにはもともと写りにくいんじゃないかなって気がするよ」

「キルリアン写真というものがあったね。生体が発するエネルギーを写すとかいう…例えば、この化け物の発するエネルギーがものすごいものだから、こんなふうにそれが写真に写ってしまうことがあるとか…?」

クリスターの真剣な感想に、パリーが「非科学的だ」と、吐き捨てるように言った。それでは、吸血鬼の存在は、科学的にはどう説明がつくのか追求したい気持ちにスティーブンはかられたが、あまり、この神経の細そうな相手を刺激するのもどうかと思ったので、黙っていた。パリーにとって、吸血鬼などという馬鹿げた話に大真面目に取り組むのは、自分の理性に反することなのだろう。目の前にどんな証拠をつきつけられても、懐疑的になってしまう、かっちん頭の学者タイプなのだ。

「スティーブン」と、そんなパリーをあっさりと無視して、クリスターは言った。

「さっき言ったように、私と弟は、明日、ターゲットを確認しにいこうと思っている。相手が相手だから、その場でいきなり捕まえることはないと思うが、どんな奴なのか、取り敢えずこの目で見てみないことにはね。つきあってもらえるだろうか?」

優しげな微笑みさえうかべ、穏かにそう頼むクリスターの顔を、スティーブンは、気おされまいと自分に言い聞かせながら、見つめ返した。礼儀正しく頼んでいるようで、決して嫌とは言わさないというような迫力がある。

傍らのロバートが、心配そうに、スティーブンの腕に手を置いた。

「分かったよ」と、スティーブンは、用心深く答えた。

「あんた達に協力する。けれど、スルヤにだけは近づかないでくれ」




「なあ、本当の所、あの吸血鬼って話、どう思う?」

当面の計画がたった所で、既に夜も遅い時間になっていたので、この夜、ここに泊まることになったゲスト達は、それぞれ用意された寝室に引き取っていった。

クリスターとレイフの兄弟も、与えられた二部屋続きの寝室に引き上げて、先程の話あいについて、これからの計画について、パートナーだからできる本音の部分を語り合っていた。

「コックス製薬が絡む話でなければ、信じかねる所だね」

シャワーを浴びてさっぱりした顔のレイフが、バスローブ姿で、裸足のまま部屋を横切り、隅に置かれた小さな冷蔵庫から缶ビールを取り出すのに、クリスターは、少し眉をひそめた。

「スリッパくらい履いたらどうだ。それから、髪も、ちゃんと拭いてからバスルームから出てくればいいのに…雫がたれているよ」

「あー」と、面倒くさそうに言って、レイフは、水から上がったばかりの獣がするように、ぶるぶると頭を振った。

広々とした寝台に寝そべって、その様子を見ていたクリスターは、はあっと溜め息をついて、話をもとに戻した。

「コックス会長のあの様子を見た時は、彼女の妄想かとも思った…」

「けれども、今では、信じているんだろ?」と、レイフは、ビールを片手に、クリスターの枕もとに腰を下ろした。

「ああ」

眠たげに目を閉じて、クリスターは、つぶやくように言った。

「吸血鬼の話をした時のスティーブンの目にうかんだリアルな恐怖と、あの写真を見た時にね…ああ、これはどうやら本物らしいなと。少なくとも、私達が今まで戦ったような相手ではないなと、思ったよ」

「なあ…実は、オレ、今回の仕事はあまり乗り気じゃないんだ」

「そうなの?」

「うん…何となく、嫌ぁな予感がする。別に恐がっているわけじゃないけれど、これはちょっとヤバイぞって、深入りする前に逃げ出した方が賢明だって、そんな感じがするんだよ」

「おまえの直感は、動物なみだからねぇ」

弟の言葉に、クリスターは、しばらくじっと考えをめぐらせるように沈黙した。

「コックス会長には恩がある。それに、軍隊と違って、おまえといっしょに好きなようにできる密林での仕事も気に入っていた…棒に振るのは、惜しいかな」

その言葉に、レイフはふと神妙な顔になった。

「ごめん…クリスターだけなら、もっとまともな仕事にだってつけるだろうに、俺の経歴が悪いから…」

レイフには、兄に対して色々と負い目があった。それは、優秀な兄の足を自分が引っ張っている、お荷物になっているという意識である。

スウェーデン人移民の両親を持つ赤毛の兄弟は、外見はそっくりだが、性格は水と油ほどにも異なっていて、頭がよくて品行方正な兄は両親や周囲の期待の星だったが、粗暴でむら気で短慮な弟には、誰も見向きもしなかった。双子というのは普通の兄弟以上に何かにつけ比較されるもので、おかげでレイフはすっかりぐれてしまった。ハイスクール時代は暴力沙汰を繰り返し、危うく退学になりそうだったことも一度ではない。自分が駄目になったのは兄のせいだとクリスターを逆恨みしたこともあった。だが、そんな弟にクリスターはいつも愛情深かった。レイフも、本当は兄のことを愛していた。ただ、クリスターの傍にいると、自分が取るに足りない存在に思えて哀しくなるので、彼から離れて独立しようと、陸軍の兵士募集に応募したのだ。この仕事は自分に向いている気がしたし、実際その通りだったのだが、唯一の誤算は、クリスターがせっかく受かった大学を蹴って、レイフについてきてしまったことだ。

「だって、レイフ、私は別に大学なんかそれ程行きたいわけでもなかったんだよ」と、内緒で入隊手続きをし、何時の間にか配属まで同じになっている兄は、あまりのことに声も出ない弟に、何故そんなに驚くのか理解できないというように、淡々と答えた。

「おまえの行く所に、私は行く。だってね、おまえがいなくなってしまったら、私の人生はたちまち意味をなくして、とてもつまらないものになってしまうんだよ。どうか、帰れなんて言わないでくれ…頼むよ」

クリスターが、レイフに頼みごとなどをしたのは、たぶんこれが初めてだった。レイフには、拒否できなかった。捕まってしまったという気がしないでもなかったが、クリスターの強い愛情にがんじがらめに縛られるのは、それ程悪い気はしなかった。この世にこれほど自分を愛してくれる人は他にはいないと思うから。そう、本気でクリスターから離れたいと思ったわけではない。愛していた。

それからの兄弟は、お互いを最高のパートナーとみなして、協力し合い、瞬く間に実力をつけていって、同期の兵士達の中から頭角を現すようになっていった。特殊部隊の候補生として先に白羽の矢がたったのは、レイフだった。生まれて初めてクリスターより先に認められたことに有頂天になったが、すぐに兄と離れての任務に着くことに不安を覚えた。だが、半年とたたないうちにクリスターにも同じ指令がくだり、磁石の両極が引き合うように、結局最後にはいつも二人は一緒になれるのだった。

部隊での3年は、兄弟に実力にふさわしい活躍の場を与え、その中で二人は更に伸び、困難な任務となると二人が名指しで選ばれるほどになった。頭の切れるクリスターは、部隊長の副官役を勤め、その指令のもと実戦部隊を率いるのはレイフだった。彼らは誰もが認めるエリートだった。二人にとって、万事がまさしくうまくいっているように見えた。

ようやく見つけた居場所を二人が失ったのは、レイフの失敗が原因だった。負傷した上官のかわりに着任した新しい部隊長とうまくいかず、ある日、些細なことで口論となり、ついには激昂したレイフがその男を殴り倒して重傷を負わせてしまったのだ。レイフは、すぐに除隊となり、クリスターは、またしても弟を追うようにあっさり軍を辞めた。

「だってね、軍の仕事はそれなりにやりがいがあってよかったけれど、おまえがいなくなってしまっては、それももう意味がない。だから、これでいいんだよ。前にも言っただろう、私は、おまえの行くところに行くんだよ」

自分の短慮な行動のせいで、軍における兄の将来まで閉ざしてしまったと落ちこむ弟に、やはりクリスターはそう答えたのだった。本当に、クリスターは物事には執着しない男だった。彼が固執したのは、いつもレイフだけだ。

「謝ることなど何もないよ」と、いまだに、軍を辞めた経緯については、こだわっているレイフに、クリスターは穏かに言い聞かせる。

「私は、これでも自分の好きな生き方をしているつもりだからね。これといって特にやりたい仕事があるわけでもないし、今更、一般市民に戻って平和で退屈な日常生活ができるとも、あまり思わないし…おまえと一緒にいられれば、他にも何も…」

クリスターは、目を開けて、申し訳なさそうに自分を見下ろしている弟に微笑みかけた。どんな場所を渡り歩き、どんな人々を相手に生きていこうとも、己の傍には必ずこの仲間がいる、全てを分かり合える魂の片割れがそこにいるのだという完璧な幸福感が、クリスターの顔にはうかんでいた。

「この仕事が終わったら、しばらく休暇をもらおうか」と、気持ちよさげにまどろみながら、クリスターは囁いた。

「どうもこの国の暗鬱な天気は好きになれない。早く仕事を片付けて、どこか南の島でゆったりと過ごそう。平和に飽き飽きして、退屈で死にそうになって…次の戦場かジャングルの中に舞い戻りたくなるまで」


NEXT

BACK

INDEX