愛死−LOVE DEATH− 

第十章 いのち


「残酷なことですね…己の命をつなぐ為に、他の命を犠牲にしなければならないというのは」

カーイが、捕食者でありながら、柄にもなくこんなことを呟いたのは、スルヤと一緒にアフリカの野生動物の生態を扱ったドキュメンタリー番組を見ていた時だ。まだ少し感傷的になっていたのだろう。スティーブンが彼に対して叩きつけた非難は、思いの他、その心にこたえていた。

だから、チーターの子育てを扱ったその番組の中で、まだ生まれて間もないインパラの子供が、必死に守ろうとする母親の努力も空しく殺されて食べられてしまう場面で、つい溜め息をもらしてしまった。  

「でも、それが生きるということでしょう…?」

同じソファに腰を下ろして、同じ場面を考え深げな顔で見ていたスルヤが言うのに、カーイは、振りかえった。

「残酷というのとは、違うよ」

カーイは、少し微笑んだ。自分とスルヤと、何だか言うべき台詞が逆になっている気がしたのだ。

「おや、だって、さっきのインパラの子供をかわいいねって、あなた、言ってたじゃないですか。殺されてしまって、かわいそうだと思うでしょう?」

「それは、思うよ。でも、あの子が犠牲になったおかげで、チーターの親子はこの日生きていけるわけでしょう。インパラの子の命は、そうやってちゃんと他の命に受け継がれていく…自然の中には、無駄になるものは何一つないんだね。それを、惨いとかかわいそうとか言うのは、人間の見方で、そういうのって一種の思いあがりなんじゃないかって思うよ」

「おや…」

カーイは、小首を傾げて、スルヤを覗き込んだ。

「思いあがりなんですか、他の生き物の運命に同情するのは?」

「うん…何と言えばいいのかなぁ…」と、スルヤは、頭をかきながら、考えをまとめようとするように黙りこんだ。

「こっちに来てから思うようになったんだけれどね…ほら、イギリスって動物愛護の運動がすごいじゃない。それは、俺もいいなと思うんだけれど…たまに、極端に走っている人もいてね…。あのね、俺の学校の先生で、動物愛護運動家でベジタリアンの人がいるんだ。菜食主義は、俺の国でも宗教中の理由で多いし、別に全然違和感ないよ。こっちでは、健康志向で菜食をやってるって人が多いみたいだけれど…でも、中には彼女みたいに、動物を殺して食べることは残酷で野蛮なことだから菜食をしているんだって言う人もいて、その意見については、俺は、賛成できないんだ。何だか、それって、自分もまた生き物なんだ、生きるために他の命を犠牲にしなければならない自然の一部なんだってことを否定している気がする。彼女は、植物を食べるから、生き物を大事にしているなんて言うけれど、では、植物は、生き物ではないんだろうか。それに、パンを作る小麦や野菜がどこから来るかといえば畑でしょう、その畑があった所には、もともと住んでいた動物がいたわけで、人間が彼らからその土地を奪って追い出したわけじゃない。それは、間接的に、やっぱり他の生き物を犠牲にしていることなんだよ。それなのに、自分は生き物を食べないから、生き物を大事にしているなんて言うのは、とても間違っているし、単なる自己満足だと思うよ」

カーイは、スルヤの言葉をじっくりと考えてみながら、ぽつりと言った。

「人間は…自然の一部だという事を忘れてきている…?」

「そうなんだよ、俺が言いたいことって。食べることと殺すことは切り離せないのに、現代的な生活の中では、その生々しさを感じることはめったにないから…皆スーパーに並んでいる綺麗に処理されて包装された姿しか見ていないから、それがもともとは生きていたんだって実感できないんだね。命を食べてるって気がしないんだね。今の子供達に生きた鶏をつぶすところなんか見せたら、皆、気持ち悪くなって食べられなくなるんじゃないかな。でも、それは、本当は不自然なことなんだよ。それでね、さっきのチーターの話に戻るけれど、俺は、ああやって命は他の命に受け継がれていくと思うんだよ。死んだインパラの子の命は、チーターの親子の中に取りこまれてその一部となって生きていく…生き物の命は、それを生かす為に犠牲になった他の無数の命によってできている…だからこそ尊いんだって、そんな気がするよ」

カーイは、ゆっくりと息を吸いこんだ。スルヤの口から語られる言葉には、彼の胸に何かしら響くものがあった。他の命に取り込まれ、受け継がれていく命。犠牲になった無数の命によってできている命。声には出さずに、胸の奥でそっと噛み締める。カーイの不滅の命を維持するために死んでいった無数の人間の恋人達は、彼の一部となって永遠に生きつづけていると言えるのだろうか。それから、顎にそっと指を添えてうつむき加減で思いにふけっているスルヤの優しい横顔を、改めて、つくづくと眺めた。

「そう思えるのは、でも、あなたが、他の生き物に襲われる心配などない人間だからじゃないですか?」

奇妙なほどにうろたえて、それを打ち消す為に、カーイはわざと意地悪な口調で言った。

「人間が他の生き物の犠牲になることは、今の世の中めったにないことですからね。生き物の頂点に立って、他の生き物から搾取するばかりで、与えることはない…そうして、どんどん数を増やして、世界を食い尽くそうとしている人間だから…そう、もし仮に、ここに人間を捕食する天敵のような生き物がいたとしたら、そんな余裕のある言葉は言えないはずですよ…?あなただって、あの哀れなインパラの子供みたいに食べられたくはないでしょう?」

言った後で、自らの言葉に慄いたように、口をつぐんだ。

「ううん…それはそうだけれど…」と、スルヤも、一瞬答えに困ったように首を傾げたが、すぐに思いついたらしい、素直に感じたままを口にした。

「でも、人間に天敵があるとしたらは、それは同じ人間なのかもしれない。人間ほど同族同士で殺しあう生き物ってないよね。もしかしたら、それって、他には天敵を持たない人間が自分たち自身で淘汰し合うような、それで数のバランスを保とうとするような本能じゃないかとさえたまに思うことがあるよ。でもね、そういう殺し合いで死ぬ命、他の命に必要とされて死ねわけじゃない命のこと思うと、やりきれない…その点では、もしかしたら、野生の生き物達よりも人間の方が不幸な気がするよ」

ふいに恋人が体に腕を巻きつけて引き寄せるのに、スルヤはびっくりして目をしばたたいた。

「カーイ?何?」

カーイは、スルヤの頭を胸にもたれさせるようにして抱きしめて、その髪に愛しげに唇を押し当てた。

「あなたを食べてしまいたい…」

恋人のあまやかな戯れに、スルヤはくすぐったそうな笑い声をたてた。

「さっきのインパラみたいに?」

カーイは、抱きしめる腕に力を込めた。私は、生きるために、あなたを殺して命を奪う。あなたは何も知らずに笑っているけれど、本当です。本当なんです。それとも、他の命を取りこんで生きていくのが自然のあり方なのだと言う、あなたなら、この恐ろしい真実でも受け入れ、許してくれるだろうか。

一瞬、魔が差したように、そんな考えがカーイの頭の中にうかんだ。誘惑と言ってよかったかもしれない。

「スルヤ、もし私が…」

声が、自分のものとは思えないほど震え、掠れていることを意識した。

「ん…何て言ったの?聞こえないよ?」

腕の中でスルヤが、身動きした。恋人の抱擁から逃れ、顔を上げて、黒々と塗れた瞳に無邪気な笑いをたたえて、覗き込んでくる。

カーイは、はっと息を呑んだ。目が覚めた気がした。

「いえ…何でもありません…すいません、ちょっとぼんやりして…」

馬鹿なことを考えた。自分を殺すものを愛する人間はいない。スルヤがあんまり優しいから、その言葉が胸に迫ってくるものだから、カーイの抱えている秘密でさえを受けいれてくれそうな錯覚をつい起こしそうになるけれど、それだけは不可能だ。自分の命を脅かす天敵をそうと知っても愛することは、生存本能に逆らうことで、それこそ不自然だろう。

(では、殺さなければならない獲物を前にした、私のこの動揺は、躊躇いは、一体どういうことのなのだろう。ただの同情?捕食者の思いあがり?)

いずれにせよ、不自然なことだ、これも。だが、どうすれば、押さえても込み上げてくる、この思いをとめられるのだろうか。答えの見つからない問いを前に、カーイは途方にくれて立ち尽すしかなかった。

(スルヤが愛しい…)

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