愛死−LOVE DEATH− 

第一章 始まりの朝

 

窓の外で、小鳥たちが楽しげにさえずる声に、スルヤはパッチリと目を覚ました。一瞬、ここはどこだろうというように頭を巡らせ、自分の部屋であることを確認する。次の瞬間、スルヤはベッドから転げる様に飛び下り、叔父から借りた広いタウンハウスの中を裸足で走りぬけた。

リビングの方から、テレビの音声が聞こえてくる。慌ててそちらに向かい、勢いよくドアを開け放った。

「おはよう、スルヤ。どうしました、そんなに血相を変えて?」 

テレビの前のカウチに優雅に脚を組んで座り、穏やかな微笑みをうかべて彼を見上げるその人の姿に、スルヤはほうっと胸を撫で下ろした。

「よかった。夢じゃなかった」

パジャマ姿に寝起きのばさばさの頭のまま、スルヤは、カーイの隣に腰を下ろす。

「夕べは、よく眠れましたか?」

「あ…う、うん…ぐっすりと眠れて、すっかり疲れも取れて、気持ちいいよ。それに、何だかとてもいい夢を見たような気がするんだ。まるで赤ん坊の時に返った夢ような、すごい安心感があってねぇ…。それにねぇ、そう言えば、とても綺麗な不思議な音楽のようなものが遠くで微かに聞こえていたよ」

「そうですか」とだけカーイは、答える。

スルヤも黙りこんだ。顔をうつ向け、足下のカーペットの模様を、じっと睨みつけながら、しばし、思いを巡らせた。

「今日…行っちゃうんだね」

カーイは答えず、テレビのニュース番組に見入っている。

「何だか、寂しいな。昨日会ったばかりの人にこんなふうに思うの、変かもしれないけれど、でも…」

「まるで私に行って欲しくないような口ぶりですよ」

「うん。どうやら、そう思ってるみたい」

スルヤは、自分の気持ちをうまく言い表す言葉が見つからないのがもどかしいというように唇を噛みしめた。本当に、どうしてこんなに離れがたいような気がするのか。相手のことなど何も知らない、行きずりの旅行者、行ってしまうことなど初めから承知でたった一日を共に過ごしただけの人なのに、どうして、こんなふうに感じてしまうのだろう。

やっと、あなたと出会えたのに。

「行きませんよ」

スルヤは耳を疑った。

はっとなって顔をあげる彼に示すように、カーイはテレビの画面を指差す。ガトゥック空港が映っていた。

「ブリティッシュ・エアウェイズ、ブリティッシュ・ミッドランドなど大手航空会社がストライキに突入したそうです。おかげでエジンバラ行きを含めた今日の便は全部休航」

幾分投げやりに、付け加えた。

「多分、明日は列車が脱線事故を起こすか、いきなりの大雨でロンドンは浸水、交通網は麻痺状態にでもなるんでしょうね」

窓の外からは気の緩みそうなくらい明るい日差しがさんさんと差し込んでいる。

スルヤはしばらく絶句した後、ポツリと言った。

「花市…見に行かない…?」

どうしていきなりそういう話になるのか分からないというように、カーイはまばたきをした。

しかし、スルヤの方は、自分の思いつきが非常に気に入ったようで、

「そうだよ、行こうよ。きっと気に入るから…そうだ、花を買ってきて、飾ろう。この家、広いばかりで殺風景なんだもの」と、嬉々として、勝手に盛りあがっている。

「何をそんなにうかれているんですか。人の旅の計画がまたしても駄目になって、そんなに嬉しいんですか?」

憮然たる表情でたしなめるカーイを振りかえり、ほんの一瞬すまなさうな顔になるが、それでも、こみ上げてくる嬉しさが押さえきれないというように笑って、スルヤは屈託なく言った。

「だって、こうなったら仕方ないでしょう?狂ってしまった予定のことで一日をいらいらしながら過ごすよりは、楽しいものにする方が、ずっと前向きでいいじゃない。それにねぇ、あなたには悪いけれど、俺は、ちょっぴりラッキーだったなって思っているよ。ごめんね。でも、あなたともう一日一緒にいられて、とても嬉しいよ」

結局、スルヤに口説かれるまま、簡単な朝食を済ませた後、この日も二人揃って外出する運びとなった。

「結構強引なんですね…」

苦笑しながらも、まんざらでもない様子で、身支度を整えたカーイがリビングでつけっぱなしになっていたテレビを消そうとして戻った時だ。そのニュースが飛びこんできたのは。

ロンドン市内のAホテルにて、身元不明の外国人男性の遺体発見。室内に争った形跡はなく、金品にも手はつけらていなかった。死因は、失血死。男性の体からはそのほとんどの血が抜き取れらていた。

「どうしたの、カーイ?」

背後から声がかけられた瞬間、カーイはテレビを切った。

「いいえ。別に」

動揺の片鱗すら見せない落ち着いた声でそう答え、カーイはスルヤを振りかえった。

「さあ、出かけましょうか。今日もいい天気でよかったですね。この季節のイギリスでは、珍しいんじゃないですか?」



ロンドンでは曜日によって大小様々なストリートマーケットが開かれている。スルヤがカーイを連れていったのは、その中の一つだったのだが、花市といっても、実際売られているのは花ばかりではなく、ありふれた日常品や、アンティークとは名ばかりの怪しい品々で、人によってはガラクタ市と呼ぶ、地元の住人に親しまれる小さなマーケットだった。

それでも、天気のよい日曜の朝ということもあって、大勢の人々の活気に溢れた、小さな露店の数々をゆっくりと冷やかしながら回るのは、なかなか楽しい時間つぶしだ。

血の色をしたガーネットがはめこまれた銀製のブレスレットを、百年前のいいアンティークだからとしつこく勧める店主の言葉に一応頷きながら、しかし、実際はせいぜい十年前くらいのただの古びたアクセサリーに過ぎないことをとうに見ぬいていたカーイは、向こうの花屋の前でスルヤが手を振って合図を送ってくるのを口実に、これ幸いとばかりに逃げ出した。

「ここの花がね、一番質もよくて安いんだよ。カーイは、どの花が好き?えっと…」

「そうですねぇ…」

切り立ての新鮮な花の香りを吸いこみ、味わいながら、カーイは狭い露店いっぱいに生けられた花々の上をゆっくりと視線を動かす。ひときわ見事な大輪の百合の花に目が止まった。

「では、その百合を…」

カーイと、スルヤ、二人の声がだぶった。びっくりした様に顔を見合わせ、一緒に笑いあった。

「好みが同じでよかったね。喧嘩しなくてすむよ。ああ、すみません、その百合、あるだけ全部下さい」

大きな花束を二つに分けてもらって、その片方をカーイは抱える様にして持った。見た目も華やかだが、香りも非常に強い品種だ。甘い香りに、まるで酒に酔ったような夢心地になりそうだった。

「…きれいだね」と、スルヤがつぶやくのに、カーイはぼんやりと頷いた。

「ええ、本当に」

絢爛たる百合の花に顔を寄せてそう答えるカーイを、スルヤは、憧憬のこもったうっとりとした目で見つめていたが、胸に溜めていた息を押し出すようにほうっと溜め息をつくと、うっすらと頬を染めて、言った。

「花もきれいだけれど、あなたはもっときれい。いつか百合の花の中のあなたを撮ってみたいなって思うよ」

カーイは、あいまいな表情をうかべて、答えた。

「いつか、その機会があればね」

その機会はないだろうと、彼は思っていた。明日の朝には、彼はこの街を去るのだ。先程見たニュースが思い出される。殺しをした街に、長く留まるべきではない。

「お腹、すいたね」

カーイが血への渇望以外に空腹を感じることはないのだが、スルヤに付き合って、家への帰り道、マーケットからほど近い、テイクアウトのフィッシュアンドチップスの店に立ち寄った。

「タラとチップスを二つ。スモールで」

自分はこの道のプロとでもいうかのような態度で、店員に向かって堂々と注文をするスルヤに、カーイは思わず吹き出したくなる衝動を必死でこらえた。

「あのね。ここで間違っても、ラージサイズを注文したりしたら、駄目だなんよ。もう、量が尋常でなくて、さすがの俺も食べきれたことがないんだ」と、そんなことまで、御丁寧に耳打ちしてくれる。

「ここの店のフィッシュアンドチップスは、俺が知っているかぎり、ロンドンじゃ一番うまいんだから。ガイドブックに載ってるような店は、もう全然だめ」

「そうなんですか」

「そうそう」

程なくして、揚げたてのあつあつのタラとチップスが、ごわごわした紙にざっと包まれただけの姿でできあがって来た。

「えっと、このままじゃ、何の味もついてないから、そこに置いてある塩を振りかけて、次にその横のモルトビネガーを思いきり振りかけるんだ。ううん、いい匂い」

「そうですね」

花束が邪魔になるので、二人は、すぐ傍の公園のベンチに座って、そのごく簡単なランチを楽しんでいる。

スモールとはいっても、十分におなかが一杯になりそうな揚げた魚とジャガイモを、スルヤはあっという間に平らげてしまった。指についた油と塩を舐めながら、横に座っている連れの方を見やる。

「あまり口にあわない?」

カーイは、半分も減っていないチップスと魚をもてあまし気味の様子だ。

「そんなことはありませんよ。噂のイギリスの有名料理がこんなにおいしいものだとは知りませんでした、本当に。ただ、もともと私はとても食が細いんです」

人間と同じものを食べ、それなりに楽しむことはできても、彼にとって血に勝るものはないのだから、それは仕方がない。

「風が強くなってきましたね」と、カーイがつぶやくやいなや、ポツリと冷たい雫が、スルヤの頬に落ちた。

「ええっ、うそ、さっきまであんなによく晴れてたのに」

いきなり振り出した雨に、スルヤはぼやくが、それが典型的イギリスの天気であることは重々承知していた。どうせ、数時間もすれば、またからっと晴れるかもしれない。

しかし、今はともかく、家に帰ることが先決。びしょぬれになる前に帰ろうと、二人は家路を駆け出した。

結局、その雨は夕方になってもやむことはなかった。しかし、二人が退屈することはなかった。現在は活動の拠点をパリに移している叔父が、スルヤに預けたこの家に残した作品の数々を、彼はどこからか引っ張り出してきて、実際それはとても貴重なものだったので、カーイは時間がたつのを忘れるくらい楽しむことができた。

「…彼の作品を見て、度々思ったことですが、生きた被写体を撮っているのに、そこには何かしら強烈な死のイメージがある。死の静寂や不変さ、冷たさ…けれど、どちらかと言えば負のイメージのものに取り組みながら、不思議と陰気なものがなくて、むしろそれもあるべき自然の姿の一つなのだというような。生き生きとしている死なんて言ったら矛盾しているようで奇妙ですが、それが、彼の作品が、異界を覗き込んだように気にさせると評される理由ではないかと思いますね。そんな感覚は、彼の出身地がインドだからかなと漠然と考えていました。何だか、あなた方の国では、死がもっと日常的で身近にあるような気がする」

「叔父さんの作品を東洋的って言われたら、えって思っちゃうけれど、こっちの人の目から見るとそうなのかなぁ。でも、気がつかないうちに感覚として身についてるものはあるのかもしれないね。たぶん、死生感ってのも、俺の国とこっちとでは随分違うでしょう。よく分からないけれど、こっちでは、死んだ人は天に召されてそこでひとまず終わるじゃない?でも、俺の感覚では、それは終わりじゃない。もっと、ずっと終わりのない円環みたいにこの世界のどこかで続いてるような気がするよ…叔父さんが作り出す異界が生き生きとして身近に感じられるのは、たぶん、死をただの終わりとして描いていないからじゃないかな」

お日様のように明るい屈託のない顔をして、死を当たり前のことにように話すのが、何だかこの少年にはそぐわなくて、不思議だった。ヨーロッパとアジアの感覚の違いだろうか。それを言うなら、不死者と限られた命の人間との感覚の違いというのは、どんなものなのだろうか。

「ああ、この写真はもしかして…」

そう言って、カーイが示したのは、写真家にとっては初期のものらしい作品群の中の数枚だったのだが、東洋ふうの荒廃した邸宅を題材にしたもので、暗い部屋に筋状にさしこめる南国の強烈な光、その中でゆるやかに動く深海魚めいた人影…写真家が得意とする光と影のコントラストが印象的だ。一目見てすぐにピンときた。この背景となった暗い部屋の片隅に夢見るような眼差しをしたあどけないスルヤいたはずなのだ。

「あ、そうだよ。あの時の写真だ。このアングルからじゃ、俺が見たあの人は映ってないけれど…ううん、他のフィルムもみんな、叔父さんに頼みこんで調べてもらっだけど、結局何も映ってはいなかったんだ」

「……………」

カーイは、目を細め、指先でその写真の表面を探るように触れながら、神経をじっとその写真の中の世界に集中させた。ヴァンパイアの感覚は、人間が認識できる以上のものを捕らえることができる。夏のデリーのむっと熱い空気を、朽ちかけた建物に漂うすえたような匂いを嗅ぎ取り、微かな絹づれの音をさせながら動くモデル達の息遣い、カメラのシャッター音に耳をすませ、そうして、その中にうずくまる小さなスルヤの存在を、その体が発する熱を、小さな心臓がドキドキと鳴り響くリズムを感じとることもできた。しかし、探し求めるその存在の痕跡だけは、どうしても捕らえきれなかった。ヴァンパイアとても、全能ではない。あるいは、実際そこには何も存在していなかったのかもしれない。

「あのね…」

スルヤのもらした呟きに、カーイは、一気に自分が今いる世界に、スルヤと共にいるこの部屋という現実に引き戻された。

「俺、この写真に撮られた場所であの精霊を見た時、すぐに声をかけておけばよかったって、とても後悔したって言ったよね」

「ええ。あなたは、死んだ妹の行方を、その人に確かめたかったのですよね」

すると、スルヤは首を横に振った。

「ううん、そういうこともできたって気づいたのは、もっとずっと後からだよ。それよりもずっと気にかかっていたのはね、その人があんまり哀しげで透き通ってしまうそうで、死ぬことなどないはずの存在なのに、変だね、何だか放っておけない、声をかけて、手をつかんで引きとめてあげないと、たぶん、そのまま消えてなくなってしまいそうな気がしたからなんだ。でも、俺は、実際にはできなかった。そうして、あの人は、消えてしまった」

「…………」

「あなたを初めて見た時ね。その時の気持ちを強烈に思い出したよ。あなたがその人に似ていたからかな…姿形がというよりも、何だか空気がね、同じ場所にいても、違い世界に属している人のような。あなたに出会った時、あんなふうに声をかけて、強引に誘ったりしたのは、たぶん、今度はあの時みたいな後悔はしたくないって思ったからだね」

カーイは、当惑したように、スルヤが自分に向ける真摯な眼差しを受け止めていた。ほとんど虹彩が分からないくらいに真っ黒な、濡れたような瞳は、嘘を知らず、そのためらいのなさで、カーイの瞳と胸を不意打ちのように刺し貫いた。ふいに、カーイは理不尽なくらいの腹立たしさと、激烈な反発にかられた。

「私が、あなたのその幽霊だかに似ているというんですか?哀しそうで、透き通って、今にも消えてしまいそうな?やめて下さい。私は、別に世をはかなんでもいないし、第一まだ生きているんですよ。ええ、まだまだ生きるつもりですとも」

そう、世界が終わるまで、永遠に、カーイは生き続ける。

「うん、そうだね。あなたは、見かけの印象よりも、ずっと強い人みたい。何だかほっとしたっていうか、よかったなって思うよ」

カーイの刺だらけの言葉にも動じずに、あるいは悪意というものに対して本当に鈍いのかもしれない、スルヤはにこにこ笑っている。

怒りの矛先をするりとかわされてしまったようで、カーイは、何だか怒るのが馬鹿馬鹿しくなってきた。全くだ。人間相手に、それもこんな子供相手に、むきになるなんて、どうかしている。

そうして、カーイは、その考えをそれ以上追求するのもやめてしまった。スルヤの見たものは、彼の同族か、そのなれのはてかもしれない。感情を露にして否定したことで、はからずも自らの不安を認める形となってしまった。本心を見透かされてしまった時、人は攻撃に出るものである。しかし、不死者としての誇りと人間に対する優越感に凝り固まっているカーイには、受け入れることのできない考えだった。

「あ、コーヒーができたみたいだから、いれてくるね。ねえ、カーイ、今度は、あなたの旅の話をしてよ」

そんなことを言いながら、ソファから立ちあがって、少し離れたテーブルの方に行き、コーヒーメーカーから熱い湯気を立てるコーヒーをマグカップに注いで、それを手に戻ってくる、スルヤの動きを、カーイは黙ってじっと追っていた。

「熱いから、火傷しないように気をつけてね」

「ええ、ありがとう」

カーイが、火傷をおうことなどない。例え、燃え盛る火の中に手を突っ込んでも、それはまっさらな雪のように白いままだろう。 

「長い間ずっと旅をしているって、言ってたけれど、今までどんな所を訪れたの?ロンドンも、初めてじゃあ、ないふうだよね」

「ロンドンには、昔、遠い親族が暮らしていたものですから、その関係もあって、何度かね…」

ひやりと、冷たい感触が、カーイの胸の奥を掠めたが、一瞬のことだった。顔をぱっと輝かせたスルヤが、興奮のあまり彼の手を取って、熱っぽくささやいたものだから。

「ねえねえ、他には?俺、自分の国を出るのは、今回が初めてだから、この機会に、できたらヨーロッパの他の国にも行ってみたいし、あなたがどこで何を見てきたのか、すごく興味があるよ」

「そうですね…国で言えば、ほとんど行き尽くしましたよ。度々訪れる街なら、パリ、ウィーン、ベニス、フィレンツェ…」 

ヨーロッパは初体験のスルヤは、カーイが旅慣れていると見たとたん、しきりにそれら古い歴史を誇る美しい街々の話をせがんだ。たまたま昨年の冬に、パリでギュスターブ・モローの特別展が開催され、フランスのみならず世界各地からかの名高い幻想画家の有名な「サロメ」のシリーズも含む秀作が集められていた事を知っては見逃したことを悔しがり、ウィーンでは、カプツィーナ教会。近年になって作りなおされた簡素なファサードからは、そこがそれほど歴史ある教会には見えないのだが、これまた目立たない教会の左手にある入り口をくぐり、簡単なテーブルを置いただけの受付を通って、地下への階段をおりきった所で初めて訪れる者達は圧倒される。ほの暗い地下空間に広がるのは、マリア・テレジアを初めとするハプスブルグ家の壮大な墓所なのだ。名だたる王族の棺が収められた霊廟の荘厳たる静けさ、御く控えめに灯された明かりの下で訪問者達によって手向けられた花々の色彩、それら棺に施された華麗な装飾の描写に、スルヤは圧倒された。それから、フィレンツェのファルマチーア・ディ・サンタ・マリーア・ノヴェッラ、700年あまりも昔の修道僧たちによって作られた薬舗の中に漂う各種香料や香油のえもいわれぬ香り、本物の麝香、乳香や白檀、これまた高価な薔薇のエッセンス等が渾然なって、鼻腔を刺激する心地よさに溜め息をもらし、そこのローションや石鹸だけは旅先でもどうしても持ち歩いてしまうというカーイの手をおもむろに取って、広げた掌にそっと鼻を近づけると、「それで、こんなにいい匂いがするんだね」と、感心したように言った。

外の気温はかなり下がってきていたが、セントラルヒーティングによって程よく暖められた室内は快適だ。

「…スルヤ、そう言えば、私はまだあなたの作品を見せてもらっていませんよ?」

自然とそういう話になって、スルヤは、照れくさそうに、笑わないでよと、念押しして、ワインボトルが入っていたものらしい木の箱を大事そうに抱えて持って来た。

「ちぇっ、こんなことになるなら、先に叔父さんの作品なんか、見せるんじゃなかった」

人物は撮らないといっていたが、確かにそれら写真の大部分は、道端のありふれた花々や、梢の上の鳥たちやリスといった小さな生き物たちがほとんどで、けれど実にそれらの表情をよく捕らえた、強いインパクトにはかけていたが、温かみのあるものだった。

「なぜ、人物は撮らないんですか?」

「さあ、何でだろう」と、スルヤは首を傾げた。

「ただ、今まで撮りたいと思う対象が見つからなかったから…本当に自分が撮りたいものを見つけたら、俺はもっと延びるだろうって、叔父さんは言うんだけれど」

黙って耳を傾けているカーイを、スルヤは、ふいに思いつめたような真剣な目になって、見つめ返した。

「あのさ、カーイ…」

その時だ。突然、電話の音が鳴り響いたのは。

「ったく、誰だよ、もうっ」

舌打ちして、スルヤはリビングのソファから立ち上がった。

「ハロー?ああ、何だよ?えっ、パーティー、今から?」

電話の向こうの相手と何やらもめているスルヤの背から、カーイは興味なげに目を逸らし、手元の写真を眺めた。

やがて、戻ってきたスルヤは、言いにくそうな顔をしていた。

「パーティー、ですか」

「ごめん。学校の友達がさ、どうしても来いって言うから…」

「そう」

「うん。なんかさ、俺に紹介したい女の子がいるんだって」

「それはそれは…」

「行っても、いい?」

「とめなければならない理由など、私にはありませんから」

素っ気無いカーイの態度に、スルヤは悲しそうな顔をした。

「本当は、あまり気が進まないんだけれど」

訳もなく、カーイは少しイライラし始めていた。

「せっかく女の子を紹介してもらえるんでしょう?」

「うん。俺、ただの友達なら女の子でもたくさんいるんだけれど、それ以上には誰も見てくれなくってさ。それで、今紹介してくれるって言ってくれた、そいつ、いつも心配してくれてて」

「分かる気はしますね。大人びたイギリス娘には、子供のような顔をしたかわいい男の子、安心していい友達はできるけれど、彼氏としては対象外というわけなんでしょう」

実際、彼を嫌う人のできる人間はそう多くないだろうが、それは、愛らしいこまどりや仔リスを好きにならずにはいられないのと同じような感覚に近い。

「ひどいな…」

図星であったらしい、スルヤは、しょげ返った。

「でも、実際、紹介してもらったって、俺、女の子の扱い方なんて、よく分からないし…どうしようって…」

だから、なぜそんな相談を、カーイがうけなければならないのだ。

「では、一つだけ、教えてあげますよ」

一体何がそんなに腹立たしいのか、自分でも戸惑いながら、冷たい声でカーイは言った。

「目をつぶりなさい」

すなおなスルヤは言われるがまま、目を閉じた。

音もなくソファから立ち上がると、じっと目を閉じたまま立ち尽くしているスルヤの両頬に手を添え、その軽く開いた杏色の唇にカーイは軽くくちづけた。

「行ってらっしゃい。いい夜を」

呆然となっているスルヤの胸を、カーイは軽く押すようにして、突き放した。

「カーイ…」

ソファに身を沈め、冷たく顔をそむけてしまったカーイを、スルヤは、大きく見開いた目でしばらく見入っていた。何か言いたげに口を開いては、適当な言葉が出てこないようにすぐに閉ざし、何気に上げた手で唇にそっと触れてみたところで、そこに押し当てられたカーイの唇の柔らかさを思いだし、急にうろたえたように目を伏せ、それ以上そこに立ってはいられないというように、無言のまま背中を向けて、部屋を走り出ていった。

逃げるように外に出て、玄関の扉を背中で押すようにして閉ざした。霧のような細かい雨が降っていることに気づいたが、コートの襟を立てるようにしてそのまま、歩き出した。冷たい湿り気を帯びた空気に触れられても、強い酒でも飲んだかのようにほてった頬には、少しも冷たくは感じられなかった。頬だけではなく、体中が熱かった。おまけに心臓もどきどきして、何だか息苦しい。体のどこかが悪いのかもしれない。

どうしようと、スルヤは、妙にふわふわした現実感のない足取りで歩きながら、ぼんやりと思った。ひょっとしたら風邪でもひいたのかもしれない。風邪をひいているのに、パーティーなんかに行って騒いだりするのは、よくないことだ。やっぱり、帰った方がいいのかもしれない。そこで、家に残してきたカーイの姿が、その白い花のような顔といい匂いのする綺麗な手、その唇の甘い味わいが思い出された。とたんに、スルヤは、雨に濡れた歩道で足を滑らせ、危うく転びそうになった。

「どうしよう…」

両手で顔を覆い、途方にくれたように肩を大きく息をした。

そうして、また、歩き出した。パーティーに誘ってくれたクラスメート、スティーブンに悪いなと思ったからだ。いつも、イギリスの生活に不慣れなスルヤのことを何かにつけ気にかけてくれる、ここに来て最初にできたイギリス人の友達。人がよすぎることで損をしそうで、見ていられないと、スルヤのことは対等な友達というよりも世話の焼ける弟みたいに思っているようだ。女の子のことも、ここに来た当初、ステーブンに引っ張られて行ったクラブで知り合った子にちょっと絡まれて困った体験をして以来、まともなガールフレンドを見つけてやることに、彼の方がむしろ躍起になっていた。そんなふうに構われるのが、元来人恋しい性質のスルヤは嫌いじゃなくて、紹介された女の子達とも何回かデートをしたことくらいはあったけれど、本当に誰かと付き合いたいのかと自問すると、分からなくなる。イギリスの女の子達は、自分というものをしっかりと持っていて、男の子相手でも負けずに自己主張するし、時々圧倒されるけれど、一緒に遊びに行くのは楽しいし、これまで見たこともない華やかな花々や美しい羽をした珍しい異国の鳥をうっとりと眺めるように、漠然とした憧れは抱いていた。けれど、彼女らに対して、こんなふうに胸がどきどきしたことはない。実際、これは、思い出すだに恥ずかしい話なのだが、おくてのスルヤでも、一応女の子とキスだけならしたことはあったのだ。スティーヴンに連れていってもらったクラブのパーティーに出席していた、同じ学校に通う生徒で、スルヤも顔くらいは何となく覚えていた。クラブも初体験というスルヤを面白がって、強引に踊りに誘って、それは、なかなか楽しかったのだけれど、打ち解けた感じでお酒を飲んでいるうちに、その女の子はだんだん大胆になってきた。ちょっと飲みすぎていたようだ。

「あんたって、何にも知らない赤ちゃんみたいで、本当にかわいいわ」と囁いて、いきなり耳打ちをしたのだ。

「ね、キスしてあげようか?」

当惑して振りかえるスルヤの返事を待つまでもなく、彼女は彼の方に身を乗り出してきた。口紅を塗った女の子の唇は、ちょっとべたべたしていて、何杯もお代わりしていたリンゴのお酒の味がした。スルヤは硬直して、逃げることも、女の子を押しのけることもできなかった。酔っ払っていた女の子は、体のバランスを失って、そのままスルヤの上に覆い被さってきて、結構ふっくらとしていたその子の体重を支えきれずに、スルヤは後ろにひっくり返ってしまった。隣のテーブルの端にしたたかに頭をぶつけ、情けなくも、そのまま、彼は気を失った。その後、その話は学校で結構噂になってしまって、スルヤの方は、女の子に次に会う時どんな顔をしたらいいのか、こんなふうに噂になってしまって彼女の方こそ嫌な思いをしているんじゃないか、しかし、あんなことをするなんて、もしかしたら彼女は自分のことを好きだったんじゃないかとか、色々悩んだのだが、女の子は全然気にしていなくて、学校で会っても、普通に友達にするように話しかけてくるその様子を見る限り、スルヤのことなんかなんとも思っていないがはっきり分かって、拍子抜けもしたが、それよりも、むしろほっとしたというのが正直な気持ちだった。

(あの子のことも、別に嫌いじゃなかっだけど、キスしても、全然どきどきなんかしなかったよ。こんなふうに、苦しいみたいな気持ちには、少しもならなかったよ。他の女の子が相手でも、あまり変わらないような気がする)

(けれど、今はこんなに体中がかっかして、心臓の鼓動がさっきからうるさいくらい、半分夢でも見ているような心地で、あの人のことばかり考えてるなんて、変)

次の瞬間、スルヤは、打たれたようになって、足を止めた。

(もしかして、俺は、女の子より男の人の方が好きな体質だったんだろうか…??)

そんなことは今まで考えてもみなかっただけに、結構ショックだった。女性だけでなく、男性のモデルとも時々恋に落ちる叔父は「相手の美しさに惚れ、人間性の素晴らしさにも惹かれれば、性別なんかどうでもよくなる」なんて話をしてはスルヤをびっくりさせていたが、彼のおかげでそれはスルヤにとっても全く未知の世界というわけではなかったが、それが自分に起こることは夢想だにしていなかった。

(でも…でも、そうしたら、俺は、例えばスティーヴンなんかとキスしても、どきどきするんだろうか…??)

動揺のあまり、そんなことまで考えてしまって、スルヤは、両腕で自分の体を抱きしめるようにして、「ひやぁっ」と悲鳴をあげた。駄目、駄目。そんなこと、考えられない。

(でも、カーイにキスされても、嫌じゃなかったよ。ねえ、どうしてかな)

じっとしていられなくなって、またスルヤは歩き出した。

(カーイは、今まで会った他の誰とも違う気がする。男の人でも女の人でも、あんなふうな人は、この世にはいない。あの人は、何だかとても「人間じゃない」感じがする。そう、空気の精霊だって、初めて見た時に思ったんだ。この世のものではない、不思議な人、同じ場所にいて、同じ空気を吸って、親しげに肩を寄せ合って、話していても、ふっと目を離した隙に消えていなくなってしまいそう)

消えて、いなくなってしまいそう。

「どうしよう…」

またしても、スルヤは呟いた。

細かい雨に濡れながら、しんと冷えこんでいたイギリスの夜の空気を吸いながら、スルヤは、あの夏の日の午後の暑さを、暗い部屋に差しこむ黄金色の光の筋を、光の向こうの影の中に白くうかびあがっていた淡い幻を追っていた。

どうしよう、どうしよう…。

ほとんど機械的に動いていた、その足が唐突に止まった。

スルヤの調度目の前に、オレンジがかった街頭の灯りに照らし出されるように、公衆電話のボックスがある。

(カーイ)

答えが見つかった。

途方にくれたようだったスルヤの顔に、やっと吹っ切れたというような、晴れ晴れとした笑いが、ゆるやかに広がっていった。

今度は迷わずに、電話ボックスの中に滑りこみ、受話器を取り上げた。

(俺がまだ子供だったあの日、見つけ、見失ってしまったあの瞬間から、ああ、俺は、あなたをずっと探していたんだよ)


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