愛死−LOVE DEATH− 

第一章 始まりの朝



「…幽霊を見たような顔していたから」

そんなことがあった後、街の中心に戻り、今日の礼にとカーイが誘った、今はやりのおいしい新イギリス料理を出すと評判のレストランで、既にあの時の衝撃から立ち直っていたカーイは、改めてその話を持ち出した。衝撃というほどでは実際なかった、ただあんなふうに思い出されたことが、不意打ちとなっただけだ。そうして、そんな一瞬無防備になっていた自分を、よりによってこんなぼうっとした相手に見透かされてしまったかもしれないということが、先ほどから彼のプライドをちくちく刺激していた。

「幽霊、ですか」

軽く眉根を寄せて、微かな皮肉を込めた冷たい声で、馬鹿にしたようにカーイは言った。

「うん。そんなふうだったよ。だから、よく分からなかったけれど、とにかくあそこは離れた方がいいのかなって思って、逃げたんだ」

カーイの嫌みも全く届いていないのか、極めて真面目な顔つきで、スルヤは大きく頷いた。

カーイは、少しいらいらした。我にもあらず、むきにさえなっていた。

「幽霊なんか、見てはいませんよ」と、頑強に彼は言い張った。

「ただ、昔来た場所だということにいきなり気がついて、それで少し驚いただけです。大体、あなた、幽霊なんているわけないでしょう?」

スルヤは、また、あの恐れ気のない目でまっすぐにカーイを見る。カーイは、今度はひるまずに睨み返した。

「うん、見てないんなら、いいんだけれどね」と、拍子抜けするくらいに、スルヤはあっさりと言った。それから、少し首を傾げるようにして、何とも言えない真摯な顔で、問うた。

「でも、目に見えないものは信じない?何だか、あなたがそんなふうに言うと、どうしてだろうって思っちゃうよ。あなたの方が、俺よりもずっと向こうの世界に近いように思えるのに」 

カーイは、口をつぐみ、用心深く探るような眼差しをスルヤに向けた。気づいたのか。いや、そんなはずはない。

「あのね」 

そうすると、スルヤはふいに声を低めて、秘密を打ち明けるような調子で囁いた。

「俺ね、子供の頃一度、見たことがあるんだよ」

「何を見たと言うんです?幽霊?馬鹿馬鹿しい」

「さあ、幽霊なのか、それとも精霊か何かなのか、分らないけれどね、実際…」

そうして、スルヤは語り出した。

彼には、昔小さな妹がいた。レヌと言って、七つ下のかわいい子だった。この世で一番素晴らしいもの、神様からの贈り物だと思うくらいに、スルヤは妹をかわいがり、親から頼まれるまでもなく、よく彼女の世話をして、少し大きくなったからはいつも一緒にいて遊んでやっていた。

「お守り役のおばさんがね、お風呂に入れてやってる時も、レヌはいつも俺の姿を見たらさ、ぱあっと笑って、ぷくぷくした小さな手を伸ばして、遊んでってねだるんだよ。その時のレヌの笑った顔と、葉っぱみたいな形をしたかわいい手が、今でもずっと忘れられない…」

それは、結局お守り役の不注意からきた事故だった。スルヤは十才でレヌはやっと三才になったばかりの暑い日の午後、兄妹がよく遊びに行っていた川で、お守り役が川辺りでつい居眠りをしている間に、遊びに夢中になっていたスルヤと小さな妹は安全な川辺りからつい離れ、流れの速い深みに落ちて溺れたのだった。すぐに気づいたお守り役がスルヤを助けたが、小さすぎた妹は流されてしまって、ついに生きては戻らなかった。

「俺ね、レヌを助けようとしたんだよ。水の中で、レヌの小さな葉っぱみたいな手がひらひらするのが見えて、必死でそれを掴もうとしたんだけれど、できなかったんだ」

スルヤは、少し涙ぐんだようだ。手の甲で、軽く目をこすって、さらに続けた。

妹をなくしたショックは大きく、スルヤはしばらく口も聞けない状態が続いた。どうしても、レヌが死んでしまったという現実を受け入れられなくて、家中を探しまわっては、両親の涙を誘い、妹を見失った川辺りにしょっちゅう行って、その名を呼びつづけた。

そんな状態が一月くらい続いた後だった。スルヤの叔父が、イギリスからやってきたのは。その前に妹の葬儀にも出席していたのだが、その時のことは茫然自失の状態だったスルヤは全く覚えていない。叔父の訪問は、その時のスルヤの様子を見て案じていたのと、イギリスでもそろそろ写真家として名が売れ出した彼の、撮影旅行も兼ねてのことだった。

スルヤは叔父の写真が大好きだった。子供の彼には、それはとても不思議な別の世界を写したもののように思えた。叔父のカメラを通して作品となると、普通に会うと人間にしか見えないモデル達は皆、男でも女でもない神秘的な異界の住人となって、彼の知らない奇妙な言葉で写真の中から語りかけてくる。それは、まさしく生きた神話や伝説の世界だった。そんなスルヤを叔父は特にかわいがり、子供でも扱いやすいような小ぶりな、しかし、立派な性能のカメラを贈ったり、写真のABCを教えたりした。そして、その日も撮影にスルヤを連れ出したのだ。ふさぎこんだしまった彼の心を開かせようという気使いだったのだ。

「それは、旧市街にある古い空家でね。昔は結構立派な屋敷だったんだろうけれど、もう、長い間人が住んでいなくて、すっかり荒れて、幽霊屋敷みたいな場所だったんだ。そこの大きな広間をね、叔父さんは撮影用に使ったんだ。朽ち果てた屋敷の雰囲気をそのまま使ってね。がたのついた扉やぼろぼろになったひさし、壊れた窓から埃っぽい室内に差しこむ光は、金色がかっていて何だか不思議な感じがしたよ。もっとも、その時の俺は、まだ、悲しい夢の世界に閉じこもっていて、広間の光の差さない片隅に、そこにつまれていたカーテンだか絨毯だかにもたれかかって、ぼんやりと部屋の中を眺めているだけだったけれど…古い布の埃っぽい甘い匂いをかぎながら。叔父さんも、撮影が始まると、俺にばかり構っていられなくなるしね。だから、俺は、一人きりで、ただ、見ていたんだ。叔父さんがイギリスから連れてきたモデル達が薄明かりの中でゆるやかに動いて、時折、フラッシュの音と共に光が弾ける…見ているうちに、何だか眠いようなだるいような具合に体がなってきて、そのうち、気がついたんだ」

スルヤは、一瞬、言葉を切った。目をつぶり、記憶の中からそのシーンを蘇らせるようとした。

「あれって、思ったんだ。おかしいな、夢を見ているのかなって。俺以外は、モデル達も叔父さんも全然、それに気づいていないふうだったし…」

スルヤは、はあっと溜め息をついた。

「一体、何を見たんですか?」

カーイは、じれったそうに、僅かに身を乗り出した。ワインを注ぎにきた給仕を、手で制して、追い払った。

「あなたに似ていたよ」

スルヤの言葉に、カーイは虚をつかれた。

「彼…それとも彼女だったのかな?広間の隅っこの、重いカーテンが吊り下がる陰にじっと立って、撮影隊の方を見ていたんだ。土地の人達が着るような、ありふれたぶかぶかした白い綿の服を着ていたけれど、その人は人間じゃなかった。その人の体は陽炎みたいに捉えどころがなくて、微かに後ろの壁の模様が透けて見えたし、それに、その顔が…何ていうんだろう、こんな透き通ったような表情は人間にはできない、俺は子供でよくは分からなかったけれど、見ていると、何だか胸が締め付けられるようで、こっちの方が泣きたくなるような不思議な悲しさでね。その人は、目の前で行なわれている撮影を、何だかまぶしいものでも見るような目で、静かに見守っていた。その様子に惹かれている、そこにいる人間達にひょっとしたら気づいてもらいたかったのかもしれない、でも、その人のいる向こう側の世界からどうしても出てこれないふうだった。叔父さんなら、ひょっとしたら、その人を見ることができたかもしれない。けれど、あの時は、撮影に夢中になっていたから…そうして、俺はと言えば、その人の存在自体に魅せられて、声をかけることなんて、考え付きもしなかった。後から、どんなにそのことを悔やんだか、知れない…。どれくらいの時間、そうして、息を詰めて、その人を見ていたのかな。モデルの一人が俺の肩を揺さぶって、もう、撮影は終わったよって言われた時に、初めて我に返った。そして、びっくりして、一瞬だけ、その人から目を離して、もう一度そっちを見た時には、もう、消えてしまってたんだ。ああ、どうして、俺は話しかけてあげなかったんだろうって、後悔したよ。それから、何度かその屋敷に撮影に行ったけれど、もう二度とその人の姿は見られなかった。それに、その屋敷自体も、撮影が終わったしばらくして、ついに取り壊されてしまったし…一体、あの人はどうなったんだろう、どこに行ったんだろうって、気になったよ」

「夢…ではないんですか?」

カーイは、手もとのワイングラスを持ち上げ、一口飲んで喉を潤した後、慎重にそう言った。

「それとも、本当に人間ではない何かがそこにいたと…?」

「分からないよ。確かめる方法なんて、なかったもの。でもね、それで、俺は何だか分かったような気になったんだ。普段は見えなくても、気がつかなくても、近くにいる存在がある。違う世界が、すぐ傍にあるって。たぶん、死んでしまったレヌも、そんなふうにして、どこかに存在しているんだろうって。そこがどこなのか分からないけれど、ひょっとしたら、あの人なら知っていたかなって、後からそのことも考えて、尚更声をかければよかったなって思ったんだけれど、そんなふうに考えると、妹を亡くした悲しさが少し楽になったんだ」

カーイは、またしても言葉を失った。微かな戸惑いを覚えて、ほっそりとした指で口もとを軽く押さえるようにしながら、彼の目の前で目の前夢見るような表情で思いを巡らせている少年を凝然と見つめた。ふいに、何かしら激しいものが、その冷たい薄水色の瞳によぎった。

「どうして、そんなことが言えるんです?」

思いもかけぬ鋭い言葉に、スルヤは、びっくりして顔を上げ、目をぱちぱちさせた。

「もし、その人があなたの思うような異界の生き物だったとしたら…人間の死のことが、どうしてその人に分かるはずがあるんです。それこそ、その人にとっては何の関わりもない、別世界の理でしょう。精霊か悪霊のような死なない存在にとっては、多くの人間達が信じるように死後にも何かが…魂と言うんですか、そんなものが残り得る、それがどこに行くのかなんて、それこそ、確かめようがないのではないですか。そうでしょう、あなた方にとってはいずれにせよ死ぬ時には分かることでしょうが、不死者が、どうしてそれを確かめられると言うのです」

カーイの声は、思いの他、叱責するようなきつい調子になっていたらしい。スルヤは、頬を赤らめて、絶句してしまった。

「そうだね。その通りだよ。都合のよすぎる考えだよね」 

しおしおと見る間にしょげ返ってしまうスルヤの姿に、カーイは、軽い自責の念にかられた。別に傷つけようと思って、言ったわけではないのだ。ただ、スルヤの言ったことに、不覚にも予想外に気持ちを揺り動かされてしまっただけだ。感情のままに他人に、それも自分よりも弱い人間にあたるのは、それこそむしろ自らの弱さの証明のようで、とにかくプライドの高いヴァンパイアであるカーイのような者にとっては許しがたく、後味が悪いものなのだ。

「すみません、言いすぎました」と、彼が素直に謝ったのも、実際、スルヤに対して本当にすまなく思ったというよりは、ヴァンパイアたる者こうあらねばならないという、彼の流儀を通す為と言った方が正確だったろう。

「あなたが、あまり…その…柄にもなさそうな死や異界の話なんてするものだから…どんなふうに答えたらいいのか、とっさに分からなくて」

すっきりしない言い訳でこの場を取り繕いながら、カーイは、先ほど理不尽な怒りにかられて自分の口からほとばしり出た厳しい言葉を思いだし、内心、苦い笑いを噛み締めていた。

不死者に、それを確かめるすべはない。まさしく、その通り。

「俺の話、そんなに変だった?」

まだ、少し落ちこんでいるのかスルヤはそんなことを尋ねる。  

「前にも、イギリス人の友達と同じトピックの話をしたけれど、その時はいかにも東洋的だねって、笑い飛ばされたよ」

カーイは、当惑した。この純情そうな坊やには、カーイの言い方は、それ程強烈にこたえたのだろか。困った。こちらに否があると認めたからには、また加害者としての責任上、何とか、慰めてやらねばならない。

「変じゃないですよ」

たちまち、とろけるような優しい猫なで声になって、カーイは、テーブルの上に今にも沈みこんでしまいそうな風情のスルヤの気持ちを何とか引っ張り上げようと試みた。

「とても興味深いと思います。話を聞きながら、あなたはやっぱりアジア圏の人だなと、しみじみ感じましたよ。実際、何だか新鮮でした。私達西洋の人間は、とかく私達の思想が一番だと思いこみがちですが、それだけでは得られない解答を東洋思想に求める人達も最近では多いですし、例えば生まれ変わりの考えのようにもともとこっちにはないものですが、少しずつ浸透しているものもある。あんなふうに否定はしたけれど、私だって、大切な人を亡くしたら、その人の一部でもこの世界のどこかに留まっていて欲しいと願うでしょう。私は無神論者ですから、天国での救いよりは、あなたの話の方が受け入れ安いです」

「本当?」

「ええ、ええ」

少し、持ち上げ方が露骨だったろうか。返って、嫌みに取られるかもしれない。じっと考えこむスルヤの次の反応を、カーイは、結構はらはらしながら待ちうけた。

「なら、いいや」と、スルヤは、あっけなく言って、ひょいと顔を上げると、呆然としているカーイに向かって、実に無邪気に笑いかけた。

「ねえ、カーイ、デザートも注文していい?」

カーイは、指先でナプキンの端をぎゅっとつねった。いまいましい、子供め。

「ええ…」

無性に腹が立ったが、さすがにカーイもここで怒るような大人気ない真似をする気にはなれなかった。 

「チョコレートを使ったデザートが、ここのスペシャリテなんだそうですよ」

「えっ、本当?なら、俺、それを頼もうっと。やっぱり、ヨーロッパはチョコレートを使ったお菓子がおいしくて、いいよねぇ」

ついさっきまで、異界の話などしていたとは思えない、子供っぽい顔にスルヤは戻っている。恭しくワゴンに乗せて運ばれてきたデザートの皿を見た時のその顔ときたら、こんなすごいものは見たことがないというように、ただでさえ大きな目を真ん丸く見開いて、お行儀のいい給仕が手馴れた動作でワゴンから皿を取り上げてテーブルの上に乗せる、一挙手一投足にさえ、うっとりと見とれていた。

「すごいねぇ…どうやって、こんなの作るんだろう、何だか、食べるのがもったいないくらいにきれいだよ」

それは、コーヒーカップの形に作られたチョコレート細工の中に、エスプレッソのムースとふんわりとした生クリームが盛られたもので、スルヤは、食べたくて仕方がないというようにスプーンを手にしたものの、壊すことをためらうように、デザートの上でスプーンをうろうろさせている。

その仕草に、不機嫌になりかけていたカーイもつい微笑みを誘われてしまった。

「食べなくては、もっともったいないですよ?こんな店、なかなか友達同士で気軽にと言うわけには、いかないでしょう?」

一日くらい一緒に過ごすには悪くない相手だと、またしても思った。その幼いくらいの無邪気さ、素直な反応は、見かけの若さはせいぜい二十代半ばに保ってはいても二百年も年月を生きてきたカーイには、彼自身に例えそんな罪のない少年時代があったとしてもそれはあまりにも遠い昔で既に実感がなく、いちいち新鮮だった。それに、人間の中でも、現代人、とりわけ都会では理屈屋で自分のことばかり考えるのに忙しい即物的な人種ばかりが多い中、この純朴さには希少価値すら感じられる。それに、まさかこんなカーイにとってはひとたまりもなさそうな相手から、目に見えない存在のことについてなど、講釈を受けるとは夢にも思っていなかった。あそこでもしカーイの正体をもらしたら、一体、スルヤはどんな反応をしただろうか。彼の見た「幽霊」が、カーイの同族かそれに近い存在であったのか、今更確かめるすべはないが、スルヤにとっては、どの道同じことだろう。カーイとスルヤは、明らかに別の世界の住人なのだ。

「何?どうしたの、俺の顔に何かついてる?」

笑いを含んだ表情で、じっと見つめるカーイに気づいたスルヤが、結局思い切ってぐしゃぐしゃに壊したデザートを口に運ぶ手を休め、不思議そうに見返した。

「ええ」

カーイは、優しく目を細めた。

「ここに、クリームがね」 

手元のナプキンを取り上げると、スルヤのカラメル色の頬っぺたについたクリームをそっと拭い取った。



「うう…眠い…」

思いもよらず手に入れた余分のロンドン滞在は、熱心な案内人であるスルヤのおかげで非常に充実したものとなった。少々、あれやこれやと楽しみを詰めこみすぎた感があるくらいで、疲れを知らないカーイだからついていけたのであって、他の普通の人間だったら、もうやめてくれと言いたくなったかもしれない。ようやくスルヤの口から帰ろうかという一言が出たのは、ディナーの後、数件パブをはしごして、日付が変わってからのことだった。

「スルヤ、しっかりなさい。こんな所で眠りこんだら、駄目ですよ」

はりきり過ぎた一日の疲れがアルコールが入ったことで一気に出たらしい、最後の店を出る時には、スルヤは歩きながらも半ばうとうとして、ブラックキャブに乗りこんだとたん座席に沈みこんで眠りかける。その前にかろうじて家の住所を聞き出しし、ドライバーに伝えた所で、カーイは自分もどうやら彼の家に泊まらなければならないらしいことに気がついた。

「全く、どうして、この私がこんな行きずりの人間ごときの世話などしなければならないんです」

憮然とそう呟くが、今更、ホテルを探して泊まるという訳にもいかず、教えられた住所に着くと、正体なく眠りこけているスルヤを怒ったように車内から引きずり出し、手を貸そうとするドライバーがぎょっとしたことに、一見華奢な腕に軽々とスルヤを抱きかかえるようにして、家のドアに向かった。

「スルヤ、ほら、つきましたよ。あなたの部屋は、どこです?」

「ん…んん…上…」

床におろして立たせようと試みるが、ずるずるとそのまま崩れ落ちてしまうスルヤに業を煮やしたように、また軽々とその体を担ぐと、危なげない足取りで玄関から二階に続く階段を上がっていった。灯りはつけなかったが、ヴァンパイアの視力を持ってすれば、何の問題もなく、スルヤのものらしい部屋を見つけられた。この年頃の男の子の部屋にしては、気持ちよく整理されていて、カーイは少しほっとした。この上、散らかった部屋の片づけまでさせられては、かなわない。

「スルヤ、上着だけでもお脱ぎなさい…ほら、腕を上げて…」

むにゃむにゃ寝言を呟きながら無意識に言われた通りにするスルヤの上着と中に着こんいきたベストを剥ぎ取って、シャツの襟元を呼吸が苦しくないように少し緩めてやり、全く、これではまるで母親ではないか、きちんと整えた枕の上にその頭をそっと落ちつけて、布団を引き上げてやると、その幸せそうな寝顔につくづくと見入って、数瞬後に深い溜め息をついた。いつもは人間の恋人から奉仕されるのが当たり前のカーイにとって、人を介抱するなど、その長い生を振りかえっても初めての体験だったかもしれない。

「これが「恋人」相手だったら…私にこんな真似をさせた時点で、嫌気がさして、さっさと殺してしまったでしょうね。運がよかったですねぇ、あなた、「対象外」で」

奇妙に面白がるようなうすい微笑をうかべてそう呟く。そうして、スルヤのはだけられた綿のシャツの間から覗く、ゆるやかに上下する胸にそっと手をさし入れ、いとおしむように撫で上げ、喉のくぼみを指でくすぐるようにして愛撫した。おもむろにその上に身を屈め、首筋の辺りに顔をうずめるようにして、その体温と匂いを味わった。少年の体は、彼が生まれ育った南国の太陽の熱を一杯に吸いこんでいるかのように、しっとりと熱かった。その柔らかな肌は、温かみのある鮮やかな色彩の香料と砂糖漬けの木の実や果物のような甘い香ばしい香りがした。心そそられる血の飲み口に軽く唇を押し当て、ほんの少し味見でもするかのように、ちろりと舌を這わせた。

「あなたの血は、あなたの好きなチョコレートやクリームに負けないくらい甘い味がするのでしょうかね」

一瞬、心引かれたが、それをすることはないだろう。明日の朝には、カーイは、ここを立ち去るのだ。

「う…ん……」

ふいに苦しげにスルヤがうめいたので、カーイは、はっとなって顔を上げた。

「レ…ヌ……」

悲しい夢を見ているようだ。カーイにそれを話して聞かせたせいで、思い出したのかもしれない。スルヤは辛そうに眉を寄せ、ぎゅっと拳を固めている。ひくひくっとその喉が鳴った。

カーイは、しばらくそれを奇妙に魅せられたような表情でただ見下ろしていたが、やがて、ためらいがちにそっと手を伸ばしてその額に触れ、いたわるように撫ぜながら、その耳に低い穏やかな声音で唄うようにささやきかけた。彼の母親が、幼ない日の彼にそうしたように、深く安らかな眠りを誘う不思議な魔法の呪文、血を吸う一族の間に伝わる古い古い歌を。そうするうちに、スルヤの呼吸は静まり、またもとの安らかな表情に戻っていった。

「…………」

部屋を後にする時、ヴァンパイアは、扉の所で振りかえった。スルヤは、今度こそ心地よい深い眠りの縁に沈み込んでいるように見える。ふと目を上げると、部屋の壁に貼られた一枚のポスターが目にとまった。カーイも見たことがある、スルヤの叔父の有名な作品のコピーだ。深い闇に閉ざされた世界にうかびあがる、人の形をした、この世のものならぬ白い幻めいた生き物が、その下で眠る少年を抱きしめるようとするかのように腕を差し伸ばしていた。


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