愛死−LOVE DEATH− 

第一章 始まりの朝

 

 首筋に穿たれた小さな紅い傷口から流れた血の跡を拭い取ると、ベッドの中の裸の若者はまるでただ深い眠りについているだけのように見えた。ゆるやかに上下しているはずの胸は動かず、肌の色も不自然なほどの蒼白をしていることを除けば。

 つい昨日まで、いやほんの数時間前までは、あまやかな言葉をささやきかわし、その瞳を見つめ、肌を重ねあったはずの相手を見下ろす、彼の顔は冴え冴えと冷たく、なんの感情もない。

 指先についた血にふと気づいたかのようにわずかに細い眉をあげ、すっと持ち上げると、口に含んだ。死んだ若者が最後に覚えただろう、絶望と怒りの苦い味がした。無理もない。自分を殺す者を愛せる人間などいない。

三ヶ月。この恋人と過ごした期間だ。長くもなければ、短くもない。出会った時のことを思い出そうとしてみて、あまりに意味がないことに気づき、やめた。だが、それなりに楽しむことはできた。時として煙たいくらいの、若く向こう見ずな愛に、はるかに年経た彼のほうは微笑みを誘わずにはいられなかったし、愛しいと思ったことさえ時にあったかもしれない。それでも、いつもと同じ結末が待ちうけていることだけは、ずっと意識していた。現実となった今、血を吸い尽くされ空っぽになって死んだ若者の存在も、他の大勢の恋人達と同じ、ただの記号となって、彼の記憶の底に沈み消えてしまった。

「さよなら」

既に身支度を整えていた彼は、短いおざなりな別れの言葉を残して、ホテルの部屋を後にした。荷物一つ持ってはいない、実に身軽な格好で、しかし、この街、ロンドンを立とうとしている。若者の身元を明かすものはパスポートからすべて処分してしまった。変死した身元不明の外国人旅行者について、当局の手が伸びるとしても捜査は難航するだろう。それでも、百年前と違って、この現代社会で、殺しはそうたやすいことではない。狩をしたなら、すぐその街を離れるにこしたことはない。

その気になれば、人間の肉眼では捕らえきれない速さで動くことのできる彼が目の前を通りすぎても、ホテルのフロントは気づきもしなかった。ふいに強い風が吹き、ロビーに続くガラスの回転ドアを動かしたとしか見えなかったろう。

外は、ようやく夜が白々と明けたばかり、もう二時間もたてば、大勢の人々が行き交う大都市の一角も、まだしんと静まり返っている。

このまま空港に向かってもいいが、予約したエジンバラ行きのフライトまではまだかなり時間がある。彼の足は、落ち着ける場所を求めて、近くの公園に向いた。

よく晴れた秋の朝は黄金色をしている。柔らかな光。しっとりと濡れた地面。人気のない公園の木々の、色づき始めた葉の彩り。この穏やかな静寂こそ、今彼が求めるものだ。

そう言えば、殺しをした後は、無性に一人になりたくなる。血を飲んだことで冷たい体は温まり、逃れられない飢えも束の間癒されて、満足しきっているというのに、胸の奥のこの冷たいしこりは、何だというのか。

あの男の血も、やはり苦かった。

殺すまでは、彼を夢中で恋い慕っていた若者の体から漂う血の匂いは、それは甘くかぐわしく薫ったものだった。くちづけた肌のすぐ下で熱く流れる血を感じる度、牙をたててしまいたくなる衝動にかられた。実際、そうしてみると、期待したものとは違ってしまうことも分かっている。自らが獲物でしかないことを悟り死んでいく犠牲者の、裏切られた怒り、死への恐怖が血の味を変えてしまうのだろうか。

吸血鬼。人間達がそう呼ぶ所の存在である彼は、伝説どおり人の血をすすり、もう二百年以上も生きてきたのだが、その嗜好はとても偏っていて、自分を愛する者の血しか飲まない。

相手は、若く、容姿に優れ、才能にも恵まれた者、女性であることもあったが、男性の方が多かった。どうやら、彼の冷たい美しさは、女性にはむしろ不安と嫉妬の対象になるようで、それに彼の方もどちらかといえば、力強い、未来への希望にあふれた若者の命を断つ方に食指が動いた。

獲物を手に入れる時も、狩るというより、むしろ罠にかけるといった、より巧妙で残酷なやり方を好んだ。人間の目から見ると、彼には抗いがたい不思議な魅力があって、実際言い寄る相手にことかくことはなく、そんな想いに応えてやることから始めるのだ。手に入れた、美しい夢の恋人が血に飢えた怪物であるなどと、犠牲者達は夢にも思わない。彼の方も、相手が望む理想の恋人を演ずる点においてはぬかりない。どうしてそんな手のこんだことをするかというと、ゆっくりと時間をかけて酒を醸す様に、犠牲者の血が最高の状態になるのを待っているからだ。自らを捕食者としての最高位にあると任じるヴァンパイアの貴族らしい、いかにも奢りたかぶったやり方だが、愛情に満たされた者の血はこの上もなく甘い。そう思う彼の記憶にある限り最高に甘い血の味といえば、最後まで彼を愛してくれた母親のものだった。

(たった一つ、これだけは守りなさい) 

ふいに、古い古い記憶の底から、深く優しい声が彼にささやきかけた。普段はあまり思い出すことはないのだが、血を飲んだ後は決まって大昔に亡くした母の声を近くに感じた。

(あなたが、永遠から永遠に渡って生きるために…)

かさっと、足元の下生えの中で何か小さなものが動くのに、彼の思考は中断された。見ると、こんな大都市の中でも緑あふれる公園の中などではお馴染みの灰色リスがちょこんと座っている。

「やあ、おはよう」

人馴れしているのか、彼を見ても特に怯えるふうもなく、くりくりした真っ黒な目をむけて、じっとしている。何かもらえるものと思っているらしい。

「すみませんね。あいにく、食べれるものは何も持っていないんですよ」

小動物相手に話かけるヴァンパイアなどとしまらない図だなと思い、ふと気持ちが和んだ。どうやらあきらめたらしいリスは、彼の前を走りすぎて、大きな樫の木の幹に飛びつき、実に身軽な動きで梢の方に登っていった。それを目で追い、木の陰からさす、澄んだ金色をした朝の光に目を細める。

吸血鬼は日の光に耐えられないなどと、一体誰が言い出したものやら。殺しという暗い業を隠すには夜の闇は都合がよいが、だからと言って暗い場所が好きなわけではない。彼が一日のうちで一番好きな時間といえば、実際この早朝の一時なのだ。

太陽の光も、炎も、十字架も、人の祈りも、彼を傷つき滅ぼすことのできるものは、この世にない。天国での救いとも、地獄で待ちうけている裁きとも無縁の不滅の魂。それゆえの高慢、身勝手な自己愛者、人間世界の変転をそれとは一線を画した所から見つめてきた孤高な冷笑者が彼だ。

(気をつけなさい…)

またしても、あの声が彼を追って来た。それは、母親が彼に残した唯一の戒め、警告だったのだが、彼にはさして重要なものであるとは思えなかった。

自らの中の訳のない不安感を笑い飛ばし、梢の向こうにさんさんと降り注ぐ光の中に両手を広げるようにして歩み出ると、昔どこかの宮廷で覚えた古いダンスの曲を口ずさみ、ステップを踏みながらゆるやかに旋回してみる。それにつれて、彼の長い髪が白鳥の翼めいて広がり、光に透けて輝いた。

と、その時、あまりに唐突で場違いなカメラのシャッター音が響いた。

虚をつかれた彼だったが、次の瞬間、厳しい顔つきで数メートル離れたまた別の樫の木の方につかつかと歩み寄ると、その陰に潜んでいた者の手をつかんで力任せに引きずり出した。

「い、痛い、痛い!」

華奢な体に似合わぬ人外の強い力に腕をねじりあげられて、少年のものらしい若い声がたまらずに悲鳴をあげた。

「隠し撮りなどと悪趣味な真似をするからですよ」

不覚にもこんな近くに人が潜んでいることに気がつかなかった、そんな自分に対する腹立ちも込めて、冷やかな声で言い放つと、少年の手からカメラを奪い取り、地面に叩きつけようと高く掲げた。

「や、やめてよ。ごめんなさいっ。壊さないでっ」

振り上げた彼の腕に少年はむしゃぶりつく。

「ごめんなさいっ。悪気はなかったんだよ」

冷然と睨みつける彼の薄青い目を、少年はまっすぐに見つめ返した。濡れたような光を帯びた真っ黒な大きな瞳に、何かしらはっとした。どこかで見たような気がしたのだが、気のせいだろうか。しかし、おかげで幾分怒りをそがれる形となった。

「こんなに朝早く、人気のない公園なんかで一体何をしていたのです?」

彼の声の中の変化を敏感に感じ取ったらしい少年は、カメラのことは気にしながらも、幾分ほっとした様に言った。

「朝の光の中で、学校の課題の撮影をしようと思ってここに来たんだよ。光の色がね、好きなんだ」

柔らかな線を描く頬とつやつやした褐色の肌のせいで、ほんの子供の様に見えたが、それでも一応大学生くらいではあるらしい。細身だが、背も高い。インド系イギリス人、なまりの強いたどたどしい英語の使い方からすると、留学生かもしれない。

「公園の木々や、そこにとまっている鳥たちとかを撮っていたんだけれど、そうしたら、いきなりすごい綺麗な人が来て…一瞬天使かと思ったくらい人間ばなれして綺麗で、すごいなあって見とれちゃって。それで思わずシャッターを切っちゃった。ごめんなさい」

あっけらかんとそんなことを言って、またあの澄んだ目で恐れ気もなく、彼の瞳を覗き込む。その顔には、今まで一度も人の悪意で傷つけられことのない者特有の人懐っこい明るさがあって、おそらく悪意そのものである彼のような存在にとっては戸惑いを覚えずにいられなかった。多種多様な大勢の人間が暮らす大都市という厳しい環境で生きるには、少々警戒心がなさすぎるのではないか。そこでふと思い至った。ああ、なんだ。くりくりした目の小動物めいたところがさっきのリスに似ているのだ。あまりの下らなさに、我知らず笑みがこぼれた。

その微笑みをどう受け取ったのか、少年は頬を紅く染めて、一瞬言葉を失った。

「何?どうしました?」

少年はびっくりした様にまばたきをし、そして、はあっと溜め息をつきながら言った。

「うん…本当にきれいだ…」

「あなた、それで三回目ですよ。それに、見知らぬ人間にそんな口をきくのはおよしなさい。余計なトラブルのもとです」

「あ、ごめんなさい」と、口を押さえる。

「よく言われるんだ。思いついたことをそのまま口にしてしまう癖があるから気をつけろって」

素直な上に馬鹿がつくくらい正直らしい。要するに子供なのだ。何時の間にか何を怒っていたのか忘れてしまった。もてあましかけていたカメラを少年の手に半ば押しつけるように渡すと、彼は唐突にきびすを返した。

「あ、ま、待って」

慌てて呼びかける声に、訝しげに肩越しに振りかえる。

「あの…失礼なことをしたお詫びにコーヒーくらいおごらせてください。俺も、まだ朝ごはん食べてないから…えっと、こんな時間でもカフェくらいどこか開いてるだろうし…」

「……………」

「俺、スルヤ・ラトナって言います。美術学校の写真科に通ってる留学生。あなたは…えっとミス…?」

すうっと彼の目が冷たくなるのを見て、スルヤはまたしても自分が失敗をしでかしたことに気がついた。

「カーイ…カーイ・リンデブルック」

これは絶対にふられるとあきらめかけていたものだから、一瞬何を言われたか分からずに、えっとなって顔を上げた。

「生憎と女性ではありませんが、それでもコーヒーをご馳走していただけるのですか?」

全く、思いもよらない展開。スルヤにとっても無論そうだが、カーイはそれ以上に不思議に思っていた。もちろん、ただの気まぐれには違いないが、こんな子供の誘いに乗ることに何の楽しみがあるというのか。まあ、いい。フライトまでの時間つぶしだ。

しかし、開いているカフェと言っても、さすがに早過ぎて、見つけることができたのは、結局、ビクトリア駅構内のいたってシンプルなカフェだった。空港直通の特急列車がここから出ているので、カーイとっては都合がよかったのだが。

彼等以外の客といえば、せいぜい早起きのビジネスマンが一人、二人、入れ代わり立ち代わりに急いでコーヒーを飲んでいくくらいのカフェの片隅に陣取って話しこんでいる二人―実際、身振り手振りを交えて楽しそうに話しつづけているのは一方的にスルヤだったが―そんなふうに人懐っこく笑いかけられたら誰もが思わず優しい微笑みを誘われずにいられないような、明るい眼をしたカラメル色の肌の少年と、白とも銀ともつかぬ髪を長く伸ばした、際立った美貌が目を引く、何とも現実味のない青年といった組み合わせは、それら束の間の同席者達の目にはどう映っているのだろうか。

「…それでねぇ、何とか親を口説き落として、イギリスに来たってわけ。国を出るのも初めてなら、一人暮しも初めてだから、すごく戸惑うことも多いけれど、これも経験かなって。それでね…」

次から次へと、よくもそんなにたくさん言葉が出てくるものだ。初対面の相手に対する抵抗や、堅苦しさを、感じることはないのだろうか。話すことが本当に好きらしい。それこそ、朝の公園で目覚めたばかりの小鳥たちのぴちぴちというさえずりにも似て、楽しげで、とどまることを知らない。半ば呆れながらも、その声の響きは不思議と心地よく、カーイはじっと耳を傾けている。

スルヤ・ラトナ。一八才。ニューデリーの裕福な家庭の出身。インド系イギリス人の高名な写真家である叔父のつてで留学、か。

「ところで、あなたのその叔父さんの名前は?」と、何気なく、その写真家とやらの名前を聞いてみたが、返って来たその返事に、カーイは少し驚いた。

「「ナルシスの変容」の?パリで彼の個展を見たことがありますよ。耽美的な絵画のような作風で、私は好きですね」

尊敬しているらしい叔父のことを誉められて、スルヤは少し自慢気な顔になった。なんと単純なことだろう。つい嗜虐心を刺激されて、意地悪くカーイは付け加える。

「すると、あなたも、ああいうエロティックな作品を作るんですか。そんなふうには見えませんが」

スルヤは、見る間に真っ赤になって、ふるふると首を振った。

「ち、違うよっ。俺のは全然違うって。もちろん、叔父さんと俺の写真なんか比較にもなんないけれど、大体俺は人物は撮らないし」

「おや、私のことは、撮ったじゃありませんか」

「だって、あなたは人間じゃないもの」

カップを口に運びかけた手をとめ、カーイはスルヤを見返した。

「っていうか、人間みたいに見えなかったもの…空気の精霊か何かかと思ったよ、本当に。でなければ、夢でも見ているのかって。その人とこうしてお茶してるなんて、何か変な気分」

全く、驚かせてくれる。

「悪霊、かも知れませんよ」と、それが無論真実に近いのだが、冗談めかして警告する。

「あはは。朝早くから、街のど真ん中でごく普通の学生と安いコーヒーを飲んでる悪霊?」

確かにしまらない図だ。我知らず、カーイは唇をほころばせた。

「あっ…」

その時、唐突に思い出した。腕時計を確かめて、舌打ちをする。しまった。時間がたつのをうっかり忘れていた。

「フライト、もしかして間に合わないの?」

スルヤが、気遣わしげに声をかける。

「今からだとちょっと無理そうですね。ああ、そんな顔をしないで下さい。らしくもない大失態を演じたのは、私なんですから。それに…別に何も急ぐ用事があるわけでもないですし」

「ねえ…なら、いっそのこと一日、予定を延ばしたら?今日は土曜で、俺も学校は休みだし、よかったらロンドンを案内してあげるよ?それとも、もう観光は一通りすませちゃった?」

そんな提案をするスルヤをカーイはしげしげと見つめる。どんな魂胆があって、こうも彼に付きまとおうとするのか。いや、何の魂胆もないのだろう。ただ、一緒にいて楽しいから、そうしたいだけなのだ。

「そうですねぇ。実は、今回のロンドン滞在はあまりにも慌しくて、観光らしい観光はしていないんですよ。せっかくですから、お言葉に甘えることにしましょうか」

その瞬間のスルヤの、ぱあっと輝くような、嬉しいという感情がそのままこぼれたようなすなおな微笑み。カーイは、とっさにコーヒーを飲むふうを装って目を伏せることで、直視を避けた。それでも、まぶしい太陽の一閃、熱い傷が瞼の裏に焼き付いたように、その顔の残像が消えることはなかった。やがて時がたって、その存在を失った後も、彼が思い起こすスルヤといえば、決まってこの時のいとけない笑顔なのだ。

一日だけ。そう割り切ることで、カーイは奇妙に騒ぐ胸を静めた。この少年といると、どうにも調子が狂って仕方がない。今は満腹して血に対する渇望は鎮まっていたとしても、カーイにとっての少年には所詮人間、獲物としての対象にすぎないのだ。(少々幼すぎて、彼の好みからは外れていたにせよ)そんな殺しの対象に無防備になつかれても、困るというか、一体どう扱っていいものやら分からなかった。

スルヤの方はといえば、カーイのどこがそんなに気に入ったものやら、一緒にいられることにすっかり有頂天になって、自分が知っている限りの穴場に彼を引きずりまわした。

穴場と言っても、ロンドンに暮らし始めて間もない留学生の知っている程度のものだったが、しかし、観光客にとっては馴染みのない小さな教会に収められた隠れた名画だとかひっそりとした個人所有の庭園だとか地元の人々が集まる感じのいいカフェだとかに彼を連れていって、一所懸命にそれら絵画の説明やちょっとした歴史的な小話をしてくれる、朗らかな案内人と過ごす時間は、なかなか楽しいものではあった。

「…ただの観光じゃ、こんな所通ることはまずないでしょ?」

「ええ、そうですね。何となくロンドンという町はいつも同じ姿のままであるような気がしていたんですが、それでも、少しずつ変わっては来ているんですね」

ロンドンの中では最近再開発された、比較的新しい地区の学生達が多くたむろするようなカフェや商店が建ち並ぶ通りを歩く二人がいる。とてもこの日初めて出会ったとは思えないほどに打ち解けて、親しげだ。人懐っこい性質らしいスルヤはともかく、カーイは、そんな自分が不思議でならなかった。いつも人間の連れと一緒にいる時は、もっと親しさの中にも緊張感があって、相手の自分を見る目やその態度を絶えず気にしているようなのに。それは、結局、その人間が、いずれ殺さなければならない「獲物」だからだろう。それはそれで楽しいゲームなのだが、たまには、こんな相手も悪くないかもしれない。「対象外」だと思えば、気を使わなくて楽だし、それにこの少年の性質は、とにかく裏がないというか、あまりにもあけすけで、人間の恋人相手時々に感じるわずらわしさがない、むしろ、こう言ったらスルヤに気の毒かもしれないが、かわいらしい子犬でも連れて歩いているような気分だ。

(恋が終わったばかりだから…たぶんどこか気が滅入っていて、今はこういうあまり深い考えなさそうな、何の害にもならなそうな、素直なだけが取り柄の子供がいいのかもしれないな)

そんなひどいことを思って、人の悪そうな微笑を含んだ目でかたわらを振り返ると、スルヤは、えっ、何、どうしたのと大きく書いてあるような顔で、カーイを不思議そうに覗き込む。その仕草も本当に人間というより小動物めいていて、思わず吹き出しそうになった。

「あっ…」

微かに息を飲んで、カーイは唐突に足を止めた。学生達で賑わうメインストリートから外れて、ここら辺りだけは再開発から取り残されたような、何となく沈んだ感じの大きな並木が立ち並ぶ古い通りに彼らは入りこんでいた。

「………」

カーイは、怪訝な顔で、通りの彼方をじっと見すえた。大通りの方は、すっかり新しくなってかつての姿は見る影もなかったので、気がつかなかったが、今は分かる。昔、この道を通ったことがあったのだ。彼は、ゆっくりと息を吸いこんで、吐いた。

「この先に、古い病院があるんじゃないですか?」

スルヤの方を見もしないで、カーイは、そう問うた。

「病院というよりも、精神病者や浮浪者を収容する施設が、かつてはあったはずですよ」

スルヤは、戸惑うように、カーイを見た。

「病院?ううん、それはなかったと思うけれどなぁ」

その言葉に思い出した。カーイがここを訪れたのは、今世紀に入って間もない頃で、確かその病院自体も、戦争中の爆撃だか火事だかでなくなってしまったのだ。

(カリカリカリ…)

カーイの耳の奥で、何かが固いものを爪で引っかくような神経に触る音がした。

これまで思い出したことなどなかった。そんな価値もない、気分が悪くなるだけの記憶が、ふいに蘇ってくる。

(カリカリ…)

排泄物の悪臭漂う牢獄の薄暗い片隅で、襤褸の塊にしか見えない生き物がここからだしてくれと哀願するように、冷たい壁を爪でかきむしっている。その手だけが、そこだけが微かな光で照らし出されるようにカーイの脳裏にはっきりと思い出された。薄汚れてはいるが形のいい手だった。その左手の、小指は、その第二間接から先は、きれいに切り取られたように失われていた…。

「カーイ!」

腕を引っ張られて、カーイは、現実に引き戻された。スルヤの大きな目が、彼をひたと見つめていた。

「戻ろう、カーイ。この先には、行かない方がいい」

一瞬、その瞳にカーイは見入ってしまった。それがあんまり綺麗で、曇りのない鏡のようだったから、そこに映っている自分がどんなふうなのか、確かめるように。確かめる前に、スルヤはすぐに後ろを振りかえって、カーイの手を引くように歩き出してしまったけれど。

「………」

肩越しに一度だけ、カーイは後ろを、通りの向こうを伺うように、振りかえった。あの嫌な音は追ってはこなかった。



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