温かい皿

第五の皿 viandes
ちっちゃなウズラ


 落ち込んではいても、哀しいかな、お腹はすくものだ。
 本当は、自分などこのアパルトメントで干からびてなくなってしまえばいいのかもしれないが、そういう訳にもいかない。
 篭城十日目。冷蔵庫が空っぽになったため、仕方なく、真志は近くのスーパーに買出しに行くことにした。
(ああ、そろそろ、荷造りなんかもしなくちゃならないよね。エア・チケットの予約もしてさぁ)
 帰国すると決心したにもかかわらず、まだ何も準備はしていない。親に電話さえ入れてない。一体自分は何をやっているのかと、真志も思わないでもなかった。
(何だか、何もする気がなくなっちゃって…そう、一番初めにするべきなのは、ボン・ヴィザージュに顔を出して、これまでの勝手を謝って、やめますってちゃんと言うことなのに…)
 それさえも思い切れないでいる自分がいっそ憎い。
 真志は、平日の昼間の通りをとぼとぼと歩いていた。あまりに深く物思いに捕らわれていたものだから、周囲に注意を向けることもなかった。
(ああ、今この瞬間、パリから忽然と姿を消してしまいたいよ)
 そんな仕様のないことを考えた瞬間、真志は後方から車のエンジン音が近づいてくるのを意識した。
 深い緑の車体が、真志の視界の片隅に現れた。途端に、その車の扉が音をたてて開かれる。
「え?」
 何者かが真志の腕を捕らえた。振り返って確かめる間もなく、口を塞がれた真志は、通りから力づくで連れ去られ、車の助手席に素早く押し込まれた。
「な、な、何?!」
 動転のあまり、何が起こったかも分からなかった。しばらく息ができなかったため、咳き込みながら、真志は何者かが乗り込んできた隣の運転席を見た。
 鳥肌が立った。
「ロ、ローラン?!」
 そこでは、ガブリエルのドーベルマン、ローランが不機嫌そうな顔でハンドルを握っていたのだ。じろりと横目で真志を見据える眼光鋭い翠瞳に、真志は息がとまった。
「何だ、思ったより元気そうじゃないか」
 その低い声を聞いた瞬間、真志は弾かれたようになって、車のドアに手をかけた。
「あ、開かない?!」
 真志の動揺ぶりにサドっ気を刺激されたらしい、ローランの含み笑いが後ろから聞こえた。
「そのドアは完璧にロックされている。俺がいいと言うまで、おまえはここから出られんぞ、シンジ」
 恐怖に凍りつく真志を助手席に乗せて、ローランは車を発進させた。
「こ、この人さらいっ…僕を一体どうするつもりだ…?!」
 なるべくローランから離れたい真志は、ドアに体をぴたりと押しつけながら、精一杯の虚勢を張って彼を睨みつけた。
「さて、どうしようかな?」
 真志が怯えれば怯えるほど、ローランは絶好調になるようで、ついには鼻歌まで歌い出した。
どこかで聞いたことがあると思ったら、映画『新・仁義なき戦い』のテーマだ。さてはこいつ、日本の仁侠映画マニアか。
「あ、おまわりさんっ…助け…」
 窓の向こうに警官の姿を見つけた真志は、大きく手を振って助けを求めようとした。途端に、ローランの手に首根っこをつかまれて、車の奥に引き戻された。
「おいっ」
 ローランの殺気立った目が、真志を間近で睨んでいた。彼の愛用のコロン『エゴイスト』の香りが真志の鼻を突く。
「俺は、おまえのおかげで36時間寝ていない。取引先との大事な商談のためにボルドーにいたところを、ガブリエルからの気になる電話が入ったものだから、1週間の予定の仕事を死ぬ気で3日で片付けて、飛んで帰ってきたんだ。これ以上俺をいらつかせると、この場でおまえをひん剥いて尻の毛をむしりとるぞ!」
「ひ」
 真志は助手席で固まった。
 そのまま車はパリ市街を走っていった。いつの間にか、真志の知らない、さびれた雰囲気の、川沿いに倉庫などが立ち並んでいる辺りに出、人のあまり来そうにない古い建物の裏側で停車した。
「さて」
 エンジンを切りローランが顔を向けるのに、真志は何をされることかと身を固くした。
「シンジ、おまえは一体どういうつもりだ? ガブリエルがアパルトメントを訪ねたら、会いたくないと追い返し、その後も電話1本入れないそうじゃないか」
「ど、どういうつもりって…?」
 真志は当惑した。
「まさか、そんなことで、わざわざあんたが呼び戻されたわけっ?」
「別に呼び戻されたわけではない。ただ、電話でガブリエルの声を聞いたら元気がなかった。何があったのかと尋ねたら、おまえの様子がおかしい、悩んでいる様子だが打ち明けてもらえないとか避けられている気がするとか、気の滅入るような長い話を聞かされた」
 ローランは沈痛な面持ちで溜め息をついた。
「シンジのことが心配で、食事も喉を通らないと言っていた…」
「ええぇっ?!」
 あの鯨飲馬食のガブリエルの食欲が落ちることなど、ありえるのだろうか。
「本当だ。いつも朝食にはクロワッサンを軽く十個は平らげるガブリエルなのに、この数日は五つくらいしか食べられないらしい」
「…食べてるじゃん、それ」
 ふっと苦く笑って、真志は窓の外を見やった。その頭をいきなり後ろからつかまれ、強制的に振り向かされる。
「いてーっ! 何すんだよっ、バカ! 頚椎ねんざしたら、どうしてくれるんだ!」
「おまえが人の話を真面目に聞かんからだろう!」 
 真志はローランと睨みあった。
 追い詰められたネズミはネコを噛む。ついに真志は切れた。
「そんな話を平気でするなんて、あんたはどうかしてる! ガブリエルの食欲がなくて心配だから、わざわざボルドーから飛んで帰って僕を拉致したなんて、絶対あんたはいかれてる!」
 目を吊り上げ可愛らしい小鼻を膨らませて怒っている真志に、ローランはほうとでもいうような顔をした。
「ガブリエルの前ではあんなに素直でかわいい顔をしているくせに、俺に対しては随分態度が違うんだな、シンジ。そんなに俺が嫌いか」
「大嫌いだっ!」
「なぜ?」
「当たり前だろうっ! あんたは、僕のこと、なぶりものにして楽しんでる。鼻持ちならない、倣岸な自分勝手な奴で…ガ、ガブリエルの右腕か何か知らないけど、忠実な犬みたいにガブリエルにべったりで…挙句の果て、ガブリエルのためにって、今日みたいな無茶なやり方で人をさらって…絶対、認められるもんか…あんたなんか…」
「ふうん。坊やが俺を許せんのは、詰まるところ、俺がガブリエルにぴたりと寄り添う影だからか」
 真志は絶句した。
「つまらん嫉妬だ」
 真志は真っ赤になって、言い返そうとした。
「し、嫉妬って、どういう意味なんだよ…! どうして僕があんたにやきもちなんか焼かなきゃならないんだ」
「違うと言うのか?」
 ローランは上着のポケットからタバコを取り出した。
「だとすれば、おまえの鈍感さは全く致命的なものだな。他人にとっても、おまえ自身にとっても」
「う…」
 真志はぐっと詰まった。鈍感さこそ、彼が今一番気にしていたことなのだ。
「アラン・コルノーと何かあったそうだな」
 真志の体は衝撃に震えた。
「言ってみろ。十日もアパルトメントに閉じこもってうじうじ悩むくらいなら、例え大嫌いな俺相手でも、ぶちまけてすっきりした方がまだしもだ」
 真志はローランに反抗しようとした。しかし、タバコを片手にシートに身を預けじっと目をつむっているローランの静けさに、何だか毒気を抜かれてしまった。
「アランに告白されたんだ。僕のことが好きだって…」
 しばらくして、真志はぽつりぽつりと話し始めた。
「僕はびっくりして…恐くなって、泣いてしまった。アランの気持ちに応えることなど、とてもできなかった。一番大切な友達だったアランを…ひどく傷つけてしまった」
 何をやっているのだろうと、真志は思った。嫌いでたまらないローラン相手に、こんな話を打ち明けているなんて。
「僕はずっとアランの傍にいたのに、彼の気持ちにはちっとも気がつかなかった。ううん、違う…本当は薄々感じていたのかもしれない。でも、そんなことはきっと考えたくなかったんだ。だって、親友としてのアランをそれでなくしてしまいたくなかったから…アランが僕を好きだなんて、違うと思いたかった」
 真志は、ひくっと喉を鳴らせた。
「アランは、僕を『ちっちゃなウズラ』って呼んでたんだ。まるくうずくまったウズラにそっくりで可愛いって、よくからかわれたよ。アランはよく冗談を言う奴で、僕にもよくからんできた。どさくさに紛れてキスしたり、抱きしめたり…あれ、本当は本気だったんだ」
 真志は溜め息をついた。
「僕は少し困っていたんだけれど、こっちの人は親しくなると男同士でもきっとこんなスキンシップをするんだろうって、黙って笑ってたんだ。アランが誤解しても、無理ないよね。僕のせいなんだ」
「全くだ」
 今まで黙っていたローランが、口を開いた。
「蛇の生殺しというやつだ。アラン・コルノーも気の毒に。全く、彼には同情するぞ」
 真志は頭を抱え込んだ。
「わ、分かってるよ! だから、激しく落ち込んでるんじゃないか! もうアランにはあわせる顔がないから…仕事も休んで、部屋に閉じこもって…」
「現実逃避だな。何の解決にもならん」
「分かってるよ!」
「アランとの修羅場については、よく分かった。では、ガブリエルに会わない理由は何だ?」
 真志は慄いたように目を見開いた。
「駄目なんだ…こんな情けない姿、ガブリエルには見せられない」
 ぎゅっと両手を組み合わせ、祈るかのように目を閉じた。
「あの人は、僕とは住む世界も、人間としてのスケールも違いすぎるもの…それなのに、あの人と一緒にいると僕は変な錯覚を起こしそうになるんだ。僕はつまらない見習い料理人だよ。ガブリエルの傍にいる、綺羅星のような名シェフ達とは比べものにならない。なのに、ガブリエルは僕に夢を見させる…叶わない夢なのに、現実になりそうな…。そんなの駄目だよ、僕は目を覚まさないといけないんだ」
「今のおまえがガブリエルとつりあわないのは、議論の余地なく、分かりきっているともさ」
 真志はううと呻いて、頭を垂れた。
「だが、ガブリエルはおまえにご執心だぞ。おまえはあいつの気持ちを無視している。アランにしているのと同じようにな」
「ガブリエルの気持ち…?」
「どうせ、おまえは考えてみたこともないんだろうな」
 真志の脳裏に、ガブリエルがアパルトメントに残していったカロン・セギュールがうかびあがった。
「ガブリエルは…何を考えてるの? ぼ、僕のことを…一体、どう思って…?」
 真志は頬にかあっと血がのぼるのを意識した。
「そんなことは、自分で聞け。あいつに会って、直接な」
 真志は頭を上げた。ローランが座席のシートに背中を預けたまま煙草の煙を優雅に味わう様を、じっと見つめた。
「ねえ、それ、いいの? タバコ…ガブリエルは嫌いだろ?」
「幸い、俺は料理人じゃない」
 ローランは真志の方に顔を向け、にやりと笑った。
「あいつはあまりいい顔をしないがな…まあ、これくらい構うものか。あいつに対する、俺の唯一の反抗さ」 
 真志は、何故か、胸が締め付けられるような気がした。
「ロ、ローランって、ガブリエルのことをすごく大事にしているんだね。付き合い、長いの?」
「あいつが生まれた時から知っているとも。ずっと傍にいて、守ってきた。昔も今も、あいつの望みを叶えることが俺の望みだ」
 当然のように答えるローランに、真志は呆然となった。こんな傲慢な、身勝手な男が、ガブリエルにだけはここまで無私の気持ちで尽くしているなんて。
「あ…も、もしかして…ローラン…ガブリエルをあ、あい…あいしてる…?」
 上擦った声で尋ねる真志に、ローランは軽く片方の眉を跳ね上げてみせた。
「もしかしなくても、愛している。ガブリエルは俺の宝だ」
 真志は一瞬のうちに奈落の底に突き落とされたような気がした。
 ガブリエルの傍にずっといられるローランは、しかも彼を愛している! 
 認めたくはないが、苦味のきいた美男子×甘やかな超絶美形の実に絵になる組み合わせではないか。雰囲気も実に親密で、息もぴったり。何しろガブリエルがオムツをしていた時からの相棒なのだ。
 どうしよう、真志にあるのは細っこい手に握った包丁1本だというのに、ローランなんて。見場はむろん社会的な地位も力も、真志には到底太刀打ちできない。
「さて、では、そろそろ行こうか」
「行く?」
 ショックから立ち直れない真志は、力の抜けた声で聞き返した。
「おまえが今、行かなければならない場所だ」
 ローランは車のエンジンをかけ、静かに発進させた。
「ボン・ヴィザージュだ。アラン・コルノーはおまえの代わりをつとめているらしいから、そこで彼と会えるだろう」
 真志はシートから飛び起きた。
「ま、待ってよ! 僕はアランに会って、どうしたらいいのかなんて、分からない。あんなに傷つけた僕が、一体彼に何を言ったらいいのか…」
「おまえの正直な気持ちを伝えたらいいのさ、シンジ」
 ローランの声に迷いはなかった。
「さっき自分で言ったじゃないか。アランは今でもおまえの大切な友達なんだろう? そのことを彼にちゃんと伝えたらいい。たとえもう二度と彼との関係はもとに戻らなくても、このまま何も言わずに離れてしまうよりは自分の言葉で話した方がいい。さもなければ後悔だけが残るぞ、お互いに」
「ローラン…」
 真志はローランの涼しげな横顔を見ながら、胸にためていた息を吐いた。
 真志の心を的確に見抜いているようなローランの言葉は何だかガブリエルにも似ていて、今だけはすんなり受け入れることができた。
 やがて、ローランの車はボン・ヴィザージュの傍まで来た。
「あ、ありがとう…ローラン」
 やっとドアのロックを解除してもらって車から降りた真志は、運転席側に回るとためらいがちにそう言った。
「なに、礼には及ばんさ。別におまえのためにしたことじゃないからな」
 真志を拉致した男はクールに笑うと、魅力的なウィンクを一つ残して、颯爽と車を走らせ去っていった。
(畜生。どうして、あんなに格好がいいんだ。あんなに性格は悪いのに)
 思わず惚れ惚れと見送ってしまった自分の頭を小突くと、真志は大きく深呼吸して、久しぶりに見るボン・ヴィザージュの看板の方へと歩いていった。

 

「シ、シンジ?!」
 そろそろディナータイムが始まろうという時間、裏口からひょっこり姿を現した真志に、厨房のスタッフは皆、作業の手を止めた。
「あ、あんた、今まで一体どうしてたんだよっ?! あたし達、心配したんだからね!」
 初めに駆け寄ってきたブレンダに肩をつかまれ、揺さぶられて、真志は顔がくしゃくしゃに歪むのを意識した。
「ごめん…ごめんね…今まで連絡もいれずに、勝手して…」
 真志が帰ってきたという知らせを受けて、ホールスタッフのマリアンヌとジャンヌも厨房に顔を覗かせた。
「シンジが帰ってきたの?!」
 真志は、自分を取り囲む懐かしい顔ぶれをぐるりと見渡した。
 ちょっと渋い顔をしているけれど目には安堵の表情をたたえているオーナーのピーター。抱き合うようにして喜んでいるジャンヌとマリアンヌ。やはり笑顔のフランソワにブレンダ。今まで真志がここで一緒に働いてきた、素敵な仲間達だ。
 そして―。
「シンジ…」
 皆の後ろから、アランの声がした。
 2階の事務所から慌てて駆け下りてきたらしい、アランは厨房の入り口で慄いたように立ち尽くしていた。
「何やってんだよ、アラン。こっちに来なよ」 
 ブレンダが叫ぶ。
「アラン」
 皆に通されて真志の前に立ったアランの顔を見た瞬間、真志はまた涙が溢れそうになった。
「ごめんね…色々迷惑…かけちゃって…」
「シンジ…迷惑なんて…オレのせいだったんだから…」
「ぼ、僕ね…アランのこと、ずっと考えてたよ…ごめん…う…」
 見る見るうちに潤んでくるアランの目を見ながら、真志も続く言葉を失った。
「さあさあ…まずは仕事だ!」
 涙目になってぎこちなく見詰め合うばかりの真志とアランを見かねたのか、ピーターがパンパンと手を打ち鳴らした。
「そろそろお客の来る時間だ。シンジ、おまえも早く着替えてこい! 今まで休んだ分、今日はフル回転で働いてもらうからな!」
 久しぶりにボン・ヴィザージュの厨房で働けて、真志は幸せだった。
 この日は結構客が入ったため、てんてこ舞いだったが、その忙しさも気持ちがよかった。
 マリアンヌやジャンヌがきびきびと厨房に入ってきて、オーダーを伝える。出来上がった、熱々の皿を持って出て行く。
 時間がたつほどに、厨房にこもる熱も上昇していく。オーブンがロースターが、コンロから上がるフランベの炎が、この小世界をどんどん熱くする。
 そこを必死になって走り回る真志の体も、次第に熱く火照ってくる。
 胸がドキドキする。
 我を忘れるほどに気持ちがいい。
 アパルトメントで腐っていたのが嘘のように、真志の気持ちは晴れやかだった。
「シンジ、ソースパンにカモのソースとマルメロだ!」
 だっとコンロへ走りながら真志がちらりとそちらを見ると、オーブンから焼きあがったカモを取り出したアランが、茶目っ気たっぷりのウィンクを投げてよこした。
(ああ、アラン)
 真志も満面の笑みで応える。
「よし、次、5番いくぞ!」
 アランや他の仲間達の怒鳴り声、自分自身の口からあがる歓声を聞きながら、真志は心から愛するこの仕事にのめりこんだ。
 こうして、真志が帰還を果たした、ボン・ヴィザージュのディナータイムはあっという間に過ぎていった。



「久しぶりの仕事で疲れたんじゃないか?」
 調理台をぴかぴかになるまで綺麗に掃除して一息ついた真志のもとに、アランがなみなみとシャンパンを注いだグラスを両手に持ってやって来た。
「ありがとう、アラン。とても喉が渇いていたんだよ」
 アランからグラスを受け取ると、真志は一息にシャンパンを飲んだ。
「ああ、おいしい。家で1人で飲んでもそんなにおいしいと思わないのに、仕事が終わってここで飲むシャンパンはすごくおいしく感じられるのは不思議だよ」
「一気に飲むと、酔っ払うぞ」
「平気だよ」と言った口から、しゃっくりが出た。真志はちょっと決まり悪げに笑った。
 そんな真志に目を細めながら、アランもグラスをぐっと空けた。
「ああ、本当にうまいな」
 アランはしみじみと言った。
「ここでもう一度こうやっておまえと仕事を終えた後の一杯を飲めるなんて、夢のようだよ」
「うん…」
 いつの間にか、厨房にはアランと真志の2人だけになっていた。他の連中は気をきかせて出て行ったらしい。
「シンジ、あの時は…すまなかった。おまえの気持ちも考えずに、ひどいことをした…許してくれ」
 いきなりアランが切り出したのに、真志は慌てた。
「許すも何もないよっ。僕の方こそ、謝らなきゃならないんだ。そのつもりで、今日はここに来たんだよ。アランに会って、ちゃんと僕の言葉で気持ちを伝えないと駄目だって…あのまま二度と顔も見ず、言葉も交わさずに別れてしまうことはできないよ。アランは僕の大切な友達だから…」
「シンジ、でも、オレはおまえを無理やり…自分のものにしようとした。…オレの気持ちがどうしても伝わらないのがもどかしくて…いや、それ以上にオレを突き動かしたのは、ガブリエルに対する、つまらない嫉妬だった」
 ガブリエルの名前が出ると真志の胸はざわめいたが、今はアランの方が大事だった。
「僕のせいだったんだよ、アラン。アランが僕に向けてくる気持ちが何なのかよく分からずにあいまいな態度を取りつづけた、僕が悪かったんだ。本当は、恐かったんだと思うよ。もしアランに好きだと言われても、僕はその気持ちには応えられないから…アランの気持ちを知ってしまうことで、アランとの友達関係も終わってしまう。…前みたいに、アランとここで働けなくなる、休みの日には一緒に映画を見に行ったり、パーティーをしたり…そんな楽しい時間がもう持てなくなるのは…嫌だった…」
 真志はまた少し涙ぐみそうになった。シェフスーツの袖で目の周りをごしごしこすった。
「パリに来て一人ぼっちの僕に最初に優しい言葉をかけてくれたのはアランだった。初めてできた友達で、僕の料理の先生ってだけでなく、困っている時にはいつも助けてくれた。ここで働くチャンスも与えてくれた。アランがいなかったら、僕はきっと2年ももたなかったよ。アランは僕にとって、友達以上、一緒にいて安心できる家族みたいな存在だった。今でもそう思ってる。けれど、僕はアランの恋人にはなれない」
 やっとの思いでそう告げると、真志はアランの反応を恐れるようにぎゅっと目をつむった。
「シンジ」
 吐息混じりの声が聞こえた。
「もう、いいんだ。もう、充分によく分かったよ。多分そうだろうとはオレも思っていたんだ。けれど、一度はどうしても伝えたかった…やり方は、非常にまずかったがな…」
 アランの大きな手が真志の頭の上に乗せられた。くしゃくしゃと髪をかき撫でた。
「シンジ、おまえがいない間にな、ムッシュ・ロスコーが来たんだ」
「ガブリエルが、そ、そう…」
 ガブリエルがアパルトメントに真志を訪ねてきた時だろうと内心思いながら、真志は応えた。
「それでな、オレも、逆恨みとは思いながらも、あの時はどうしてもガブリエルに腹がたってな。身の程知らずにも、あの人に挑戦したんだよ」
「えっ、ガブリエルに挑戦?」
「ああ、おまえがここにいないことを秘密にして、オレが代わりにおまえの料理を作って、彼に出したんだ。オレはおまえの料理のことは知り尽くしているつもりだったから、例えガブリエルにだって区別などつくものかと高をくくっていた」
「そ、それで、どうなったの?」
 アランはたくましい肩をすくめた。
「見事にばれちまったよ。それもな、あの皿の嘘を見抜かれただけじゃない。オレの心まで見抜かれちまった。オレが…おまえをずっと想っていたってことを、あの皿を食べただけで分かりやがった。そして、もしシンジがこれを食べていたら、きっとオレの気持ちに気づいたはずだとぬかしやがった。全く、何も言い返せなかったよ。完敗って奴さ」
 アランはふと遠い目になった。
「おまえを見つけたのは、オレだった。最初は、何て可愛い、素直ないい子なんだろうと惹かれただけだった。あんまり素直すぎて、あぶなかしくて放っておけなくて、オレが守ってやろうなんて考えた。けれど、そのうちおまえの料理のセンスのよさに気がついた。まだまだ素人臭いけれど、これはきっとものになる。よし、俺が育ててやろうって気になった。それで、おまえを説き伏せてメゾン・コルノーに引き込んだ。後から出てきておまえを引き抜いていった親父を、どんなに恨んだか知れない。オレは、いつか独立して自分の店を持てたら、その時はおまえをオレのスー・シェフにしたいなんて夢を見ていたんだからな」
「ア、アラン」
「おまえに料理を教えるのは、オレの役目だとばかり思っていた。けれど…」 
 アランは、ほんの少し悔しそうな顔をした。
「このわずかふた月で、おまえの料理の味はすごくよくなってきている。ムッシュ・ロスコーのアドバイスを受けながら、彼のための即興料理を作って鍛えられたからだな。ムッシュは、おまえのいい所を伸ばす仕方をよく知っているようだ」
「ガブリエルが…僕に料理を教えているって…?」
 アランは頷いた。
「彼は味覚の天才だ。他はどうあれ、それだけは真実のようだ」
 真志は一瞬顔を輝かせるが、すぐに暗い表情になって、頭を振った。
「僕には、ガブリエルが望むような才能はないよ」
 アランは溜め息をついた。
「おまえの一番の欠点は、その自信のなさと、すぐに諦めるところだな。それについては、俺も言いたいことはたくさんあるが、でも、今は…」
 込み上げてきた万感の想いを抑えかねたように、アランは黙りこんだ。そして、その胸に真志を引き寄せて、抱きしめた。
「戻ってきてくれて、本当にありがとう、シンジ」
「アラン」 
 真志は、アランの腕の中でほっと息をついて目をつむった。真志をここまで育ててくれた人の腕だった。アランと彼のいる店が、真志の一番安心できる場所だった。
「さあ、明日からはまたばりばり働いてくれよ、ウズラちゃん」 
 アランは真志から離れると、照れくさげにそう言った。
「アラン」
「うん?」
「そのことなんだけれどね。僕、この店をやめて、日本に帰ることにしたんだ」
「何だと?」
 アランは顔色を変えて真志を見据えたが、真志はその眼差しを正面から受け止めた。
「ど、どうしてだ…? オレがしたことが原因なら…」
「そうじゃないよ、アラン」
 真志は首を横に振った。
「できればずっとボン・ヴィザージュにいたいって気持ちはあるけれど、このままじゃ、あまりにも僕自身が中途半端だと思うんだ。だから、ここで一度全てを切って、日本に帰ろうと思う。日本でしばらく働くことになると思うけれど、それで、自分が将来どんな料理人になりたいのか具体的な目標がつかめたら、その時改めてフランスに戻って修行をやりなおしたいんだ」
「シンジ…本気なのか?」
「うん」
 アランは引きとめたそうな素振りをした。しかし、真志には珍しい決然とした態度に無理に説得することはできなかったようだ。
「ムッシュ・ロスコーのことは…どうするんだ?」  
 ガブリエルの名前を聞くと、必死で虚勢を張っている真志は体から力が抜けそうになった。
「ガブリエルは所詮、僕とは住む世界が違う人なんだ」
 真志は、自分に言い聞かせるような口調で頑強に言い張った。
「これ以上彼に深入りしたら、駄目なんだ。僕みたいな、取るに足りない料理人の卵が分不相応な夢を見たって…挫折して、辛い思いをするだけだもの」
 カロン・セギュールに込められたガブリエルの想いには、真志はわざと気がつかないふりをした。
 考えると恐くなる。
 ガブリエルにどんどん惹きつけられていく自分に気がついて、体が震える。
「クリスマスの前に、日本に帰るよ」
 そうアランに告げる自分の声の暗さを意識しないわけにはいかない真志だった。 
 


 それから数日後、真志宛に手紙が届いた。
 美しい透かし模様のはいった封筒の中には、一通の招待状。
 それを開いて読んだ時、真志は息がとまりそうになった。



『12月20日の夜7時。レストラン・ミシェル・デュカスにテーブルを予約しています。
 どうか来てください。
 あなたに大切な話があります。

 ガブリエル・ドゥ・ロスコー』



 真志にとって、それはさながら巌流島の決闘の果たし状を受け取った武蔵の気分だった。
   


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