温かい皿

第五の皿 viandes
ちっちゃなウズラ


「ああ、どうしたんだいちっちゃなウズラちゃん(プティ・カーユ)?」
 実習の終った誰もいない厨房の片隅で隠れて泣いていた真志が顔を上げると、1人の大きな男の人が彼を覗き込んでいた。
 料理学校コルドン・ブルーの講師の1人、シェフ・アラン・コルノーだ。
 この頃の真志は、パリに来てやっと一月が過ぎたばかりで、慣れない一人暮らしと言葉の不自由さからホームシックのピークに達していた。
 この日も、言葉がうまく聞き取れなかったために真志は実習でミスをおかしてしまった。更にそのことで講師からこっぴどく叱れて、ついに涙を堪えきれなくなったのだ。
 アランについては、顔をチラッと見たことはあったけれど、真志はこの時まであまりよく知らなかった。さっき叱られた先生のような早口のフランス語でまくし立てられたらどうしようと身を固くして、潤んだ目でじっと見つめ返すことしか出来なかった。
「アー、コ…コンニチハ…?」
 かなり怪しい日本語がアランの口から飛び出したのに真志は目をぱちぱちさせた。後で聞いたところでは、アランは日本の料理学校に数ヶ月出張したことがあるらしい。
「オナカ…スイタ…?」
 真志がぽかんと見ていると、アランはにっこり笑って、その場を離れた。
 がたがたと物音がし、やがて何かを炒める音と共にとてもいい匂いが漂ってきた。
 真志が立ち上がって恐る恐るそちらを覗くと、アランが出来上がった料理を皿に盛ってテーブルに置くところだった。
「おいで。温かいうちに食べた方がいい」
 アランが実習の残りの材料で作ってくれたインゲン豆のサラダとラタトゥユにご飯を混ぜたものは、本当においしかった。
 おなかに馴染む、優しい味だ。
 真志はそれを食べながら、ほっとしたせいで、また少し泣いた。
「そうか、シンジというのか。こんなに若いのに1人でパリにまで来て、偉いな」
 アランは真志が食べるのを優しい目で見守りながら、ゆっくりとした言葉で話しかけてくれた。
「オレはアラン・コルノーだ。そのうち、おまえを教える機会もあるだろう。まあ、最初のうちは皆言葉に不自由するものだが、そのうち慣れるから安心しろ。料理で使う言葉なんか、たかが知れてるからな。後は、早く友達を作ることだよ。そうすれば、日常会話にも慣れてくる」
 この時の真志は気持ちが落ち込んでいたのでとても自分に友達など出来るとは思えなかったのだが、この時出会ったアランが彼の最初の友達となってくれた。
 そして、いつの間にか、真志の一番の親友となっていたのだ。




(その大切な友達を、僕は傷つけてしまった)
 真志は、この1週間というもの、ほとんどアパルトメントに閉じこもり、ひたすらじめじめと落ち込んだ日々を過ごしていた。
(アラン、ごめんね。僕は、アランが僕をそんなふうに見ていたなんて、気づかなかった。ううん、あれって思うこともあったんだ、そう言えば。でも、僕の勘違いだろうって、あまり気にとめなかった)
 親友に襲われかけたという最初の衝撃が去ると、真志の胸にはアランに対するすまなさだけが残った。
(僕がもっと早くにアランの気持ちに気がつけばよかったんだ。あんなふうに追い詰めて、あんな悲しい顔をさせて、あんな…)
 アランが残した絶望的な告白が真志の耳について離れない。 
『愛している…』
 その告白に、しかし、真志は応えることはできない。
(僕には、もうアランの顔を見ることなんてできない。アランや他の皆と働けて、すごく幸せだったけれど、これ以上ここにはとどまれない)
 日本に帰ろう。それしかないと真志は思い始めていた。
(でも、そうしたら、ガブリエルとももう会えなくなるんだ…)
 ガブリエルのことを思い出すと、真志の固めかけた決心はぐらついた。
 そう言えば、もう十日以上も真志はガブリエルに会ってない。ボン・ヴィザージュには顔を出しているのだろうか。真志がいないことを不審がっているかもしれない。
(僕の料理を食べられなかったら、ガブリエルはがっかりするかな。僕がいないことを少しは寂しがってくれるだろうか…?)
 真志は否定するようにかぶりを振った。
(うぬぼれるなよ、真志。ガブリエルの周りにはすごい料理人がいっぱいいるんだから、僕がいなくたって少しも不自由なんかしないよ。僕の存在なんか、あの人はすぐに忘れてしまうに決まってる…)
何だか哀しくなってきた。
 真志はティシュペーパーで目元をぬぐい、ついでに鼻もかむと、コーヒーをいれようとベッドから立ち上がった。
 その時、来客を告げるベルが鳴った。
(誰だろう? ま、まさか…アラン…?)
 それとも、ブレンダかフランソワだろうか。真志が無断欠勤していることを心配して?
「は、はい、どなたですか?」
 恐る恐る玄関まで出、扉越しに呼びかける。すると、意外な人の声がした。
「シンジ、私です」
 真志の心臓が跳ね上がった。
「ガブリエル?!」
 真志はだっと扉に駆け寄り鍵をあけかけるが、とっさにその手を止めた。
「ガブリエル…ど、どうしてここに…?」
 真志は戦慄く胸をぐっと押さえた。この扉の向こうに、ガブリエルがいる。
「さっきボン・ヴィザージュに寄ったんですよ」
 ガブリエルの声は、何事も起こってはおらぬかのように相変わらず落ち着いている。彼に限って、取り乱すことなどあるのだろうか。
「あなたが1週間も休んでいるということを、アラン・コルノーから聞きました」
「ア、アランがボン・ヴィザージュに来てたの?」
「ええ、あなたを心配していましたよ」
 真志は今の自分の情けない顔をガブリエルに見られていないことを神に感謝しながら、目をつむった。
「私も、あなたが心配でした」
 真志は扉を開けたい衝動に再び駆られた。
「あなたが1人で辛い思いをしているのではないかと」
 外側から扉をそっと叩く音がした。コツコツ。
「ここを開けてくれませんか?」
 コツコツ。
「ワインを買ってきました。あなたと一緒に飲もうと思って」
 真志の目から涙が零れ落ちた。堪えきれず、扉に飛びついた。
「ガブリエル!」
 しかし、その時、アランの悲痛な顔が真志の頭にうかんだ。
 真志は慌てて手を引っ込めた。
「シンジ?」
 優しい呼びかけに、心が流れ出しそうになる。
 扉を開けて、ガブリエルの胸に飛び込んで、おいおい泣きたい。そうすれば、真志の気持ちはどんなにか楽になるだろう。
 でも、それをすると、たぶん真志の決心は挫ける。
 日本に帰ることは、もうできなくなる。
 ガブリエルの傍にいてずっと彼のための料理を作れたらなどと、うぬぼれた夢を見そうになる。
「駄目だよ、ガブリエル…。僕はあなたに会えない」
 真志は押し殺した声で囁いた。
「お願いだから、帰って…!」
 ガブリエルは沈黙した。
「…分かりました、シンジ」
 ガブリエルの微かな溜め息が扉越しに聞こえた。
「ワインはここに置いていきます。チーズもありますから、食べてくださいね」
 真志は扉に耳を押し付けた。ガブリエルのたてる微かな物音に耳をすませた。
 しかし、ガブリエルはそれ以上何も言わず、扉の前から離れた。遠くなっていく足音だけが真志に聞き取れたものだった。
「ガブリエル、ガブリエル…」
 真志は扉の内側で1人泣きじゃくった。ガブリエルを追いかけていきたかったが、今更そんな勇気はなかった。
 少しして、真志は扉を開いた。足下を見ると、ガブリエルが残していったワインとチーズの包みがあった。
「あ、マリー・アンヌ・カンタンのチーズプレートだ。おいしいんだよね、ここのチーズ」
 ぼんやりビニール袋を覗き込みながら、真志はアパルトメントの中に戻った。
「クラッカーはまだ残ってたかな」
 まだ少し喉をひくひくと鳴らせながらリビングのソファに腰を下ろすと、真志はワインのボトルを包装紙の中から引っ張り出した。
「わ、カロン・セギュールの1990年ものだ。ガブリエルってば、また、こんな高いワイン…」
 大きなハートマークの描かれたエチケット(ラベル)をつくづくと眺めながら、真志はクスリと笑った。
 シャトー・カロン・セギュール。ワインをちょっと知っている人間なら、特別な時に特別な人と一緒に飲みたいワインとして思い出すだろう。真志も考えたことのあるくちだ。いつかワインが似合う大人の男になったら、恋人相手にカッコよく、ウンチクなんか言いながら。
「我、ラフィットやラトゥールを持ちながらも、我、心はカロンにあり…って言ったんだよね」
 18世紀、ボルドーの銘ワインを産む畑を数多く持っていたセギュール侯爵はある時、友人にどの畑を一番愛しているかと聞かれた。既に名声を博していたラフィットやラトゥールに比べれば、カロン・セギュールは無名に等しかった。しかし、彼は『私の心はいつもカロンにある』と答え、その逸話にちなんで、カロン・セギュールのエチケットにはこのハートが描かれるようになったのだ。
「こんないわくのあるワイン、1人で飲む気になれないよ、ガブリエル」
 真志はワインを手に取って見つめながら、ガブリエルに向かってするように話しかけた。
(我が心は常に…あり…) 
 真志は大きく息を吸い込んだ。顔から微笑が消えた。愕然となっていた。
「ま、まさか…ね…」
 真志は赤い顔をしてソファから立ち上がった。そして、ワインのボトルを胸に抱きしめたまま、狭い部屋の中をうろうろと歩き回った。
「考えすぎ…だよ…そんな深い意味なんか、なかったんだ…」 
 真志は困ったようにカロン・セギュールのハートマークを見下ろし、キッチンの食器棚の片隅にそっと置いた。
「ガブリエル」
 しばらく呆然とそこに立ち尽くしていた真志だったが、やがて、思い切ったようにキッチンから出て行った。
 考えすぎだとは思うが、それでも、ガブリエルのあの柔らかな声が囁きかけてくるような錯覚に、真志は震えた。
(シンジ、私の心は、いつもあなたのもとに…)
 


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