温かい皿

第六の皿 desserts
甘く、熱く…



「あ、鳴門金時だ。それとお米も…そういえば、前の手紙に送ってくれって書いたよね」
 この日実家からの航空便が届いたので、真志が開けてみると、以前頼んだ最高級のサツマイモと米が入っていた。
「わあ、本当にいいサツマイモだ。これで芋粥を作ったら、きっとおいしいだろうな。ガブリエルに食べさせたら、どんなにか喜ぶだろうな」
 いつか彼とかわした約束を思い出し、真志は嬉しそうに笑ったが、すぐに思い直してかぶりを振った。
 真志は溜め息をついて、壁の時計を見やった。そろそろシャワーを浴びて、髪もとかして、支度をした方がいいだろう。
 クローゼットの中につるしてある、フランソワから借りたスーツのことを真志は考えた。以前にも一度借りたことがある。フランソワは細身な方だが、小柄な真志にとって、そのスーツはまだ少し大きかった。
(やっぱり、行くのやめようかな)
 この期に及んで、真志はそんなことを考えた。
 今日は12月20日。ガブリエルが真志を、有名な三ツ星レストラン、ミシュル・デュカスのディナーに招待した日である。
(駄目だよ。このまま黙って帰国するなんて、やっぱり卑怯だ。一度は会って、ちゃんと話をしないと。今までありがとう、僕は日本に帰ってやり直しますって言わないと)
 だが、もしガブリエルに引きとめられたら? あの優しい声を聞き、あの不思議な青い瞳に見つめられながら、嫌だと言えるだろうか。
(ううん、多分、そこまで考えることはないと思うけど。いくらなんでも、ガブリエルがそこまで僕なんかに執着するとは思えないし。少しは残念がってくれたら、それはそれで嬉しいけど)
 悩みながらも、真志はシャワーを浴びて、さっぱりして出てきた。しかし、まだスーツに袖を通す気にはならず、部屋着のままぐずぐずしていた。
 濡れた髪もタオルで軽く拭いただけ、ぼさぼさ頭のままで真志はぼうっとテレビを見ている。
(やっぱり緊張してきた。行くの、やめた方がいいんじゃないだろうか)
 そんなことを考えながら、ほとんど内容など頭に入ってこないテレビのチャンネルを、リモコンで変えてみた。
 すると、画面いっぱいに、ガブリエルその人の顔が映った。
「わぁっ?!」
 思わず、真志は後ろにのけぞった。何だか、自分の考えていることを聞き咎められたような気がした。
「な、何で、ガブリエルがテレビに…」 
 言いかけて、それは不思議でもなんでもないことを思い出した。彼は、実際マスコミにもよく出てくる人なのだ。
 真志が偶然つけてしまった番組も、以前放送したことのあるスペシャル番組の再放送だった。
(あ、この番組のことなら、アランから聞いたことがあるよ)
 それは、ルイ14世の時代の華麗な宮中晩餐を、実際にヴェルサイユ宮殿でロケを行って再現したものだった。この晩餐は、アカデミー・グルマンディーズの定例会も兼ねてもいた。美食の殿堂の宴が一般に公開されたのもこれが初めてだったので、放送当時は結構な話題になったらしい。17世紀の習慣や逸話をまじえて紹介していく、中心的なコメンテイターを果たしたガブリエルは、この番組のおかげで一躍世間にも知られるようになった。 
(それも無理はないよね。何だか、料理について語っているガブリエルって、すごく輝いて見える。一緒に出演している有名人達と並んでも、全然負けてないよ。まだすごく若いのに、堂々と自信に溢れた物腰で人を惹きつける。こういうの、カリスマって言うのかなぁ)
 真志は、画面の中で生き生きと薀蓄を語っているガブリエルをうっとりと眺めていた。
(やっぱり、行かないわけにはいきそうにないや。料理の天使を裏切ったら、ばちが当たりそうだし)
 その時、アパルトメントのベルが鳴った。
「あ、はいはい」
 そう言えば、大家さんが、ここを引き払う手続きについて今日の午後でも書類を持って話に来ると言っていた。たぶん、それだ。
「ちょっと待っててくださいね」
 真志はテレビを切ると、スリッパをぱたぱた鳴らして玄関まで走っていった。
 多分、真志は不用意だった。ここは平和な日本ではなくてパリなのに、うっかりドアを開くから、恐い思いをすることになるのだ。
「ひっ」
 実際、扉を開いた所にいたのはふっくらと優しい大家さんではなかった。獲物に飛び掛る寸前の黒いドーベルマンだった。
「ロ、ローラン?!」
 真志の頓狂な叫び声に、ローランは緑色の目をすうっと細めた。
「ガルル…」
 そんな冗談も、ローランが言うと何だかしゃれにならない。
 真志は、反射的にドアを閉じようとした。
 しかし、そのドアをローランがすごい力で蹴ったため、真志はアパルトメントの奥に吹っ飛んだ。
「うわあぁっ!」
 廊下をころころと転がって、真志が痛みに顔をしかめつつ起き上がると、中に悠然と入ってきたローランが一言言った。
「狭い部屋だな」
 真志は気色ばんだ。
「あ、あ、あんた、一体ナニモノなのさ?! 人んちに勝手に押し入って、こんな暴挙が許されるものか! この犯罪者! 極悪人! 一体、僕をどうするつもりだ?!」
「ふっ…そんな怯えた顔をするな。その気がなくても、その気になってくる」
 ど、どういう気なんだ?
「まだ何の準備もしていないのか。全く、世話の焼ける奴だな」
 真志の胸に渦巻いている不安など意に介さず、ローランは片腕に抱えていた大きな紙の箱を真志の方に投げた。
 真志はとっさに手を伸ばして、受け止める。 
「それに着替えろ。アルマーニのオーダー・メイドのスーツだ。サイズはぴったりのはずだから、安心しろ」
「ス、スーツくらい、僕だって用意してるよ」
「またあんな借り物のスーツなどを着て、ガブリエルの前に出る気か。全然サイズがあってなかったぞ。みっともないから、やめろ」
 ローランにやり込められて、真志はしゅんと頭を垂れた。
「どうした、着替えを手伝って欲しいのか?」
 真志は慌てて床から飛び起きると、渡された箱を開けた。出てきたのは、真志が見てももののよさがすぐに分かる、高そうなスーツ。おずおずと触れてみると、肌触りからして違った。  
「シャツやネクタイ、小物の類も全て用意してある」
 他にもどっさり紙袋や箱をリビングに持ち込んで、ローランは素早く店開きを始めた。
「ちょっ…ちょっと待って、オーダー・メイドだって言ったけど、何で僕のサイズが分かったのさ」
 素朴な疑問を覚えて問いかける真志に、ローランは、問題にならないとでもいうかのようにふんと鼻で笑った。
「そんなもの、体つきを一目見れば分かる」
 体の上を舐めるように走ったローランの視線に、真志は背筋が寒くなった。
「おまえは少し痩せすぎだな、シンジ。もっと肉を食え、肉を」
 もはや何も言い返す気にならず、部屋着を脱ぐと、真志は、ローランから手渡されるまま、シャツに靴下にズボンと身に着けていった。
「タイは、俺が結んでやろう」
 ローランの手がモダンなデザインのネクタイを慣れた手つきで結び、しゃれた金のタイピンをとめる。
 真志はつい緊張して、息を殺した。
「…さすがに、逃げ出すまではしなかったようだな」
 ローランの微笑の混じった呟きに、真志はまばたきした。
「もし、ここに来て、おまえがいなかったら、どうしてくれようと考えていた」
「な、なんで…?」
「なんで、じゃない。おまえ、招待状をもらいながら、結局返事の電話もよこさなかっただろう。もしかしたら恐れをなして逃げだす気ではないかと疑ったぞ」
「あっ。そ、そういえば返事してなかった。そ、そうだよね、電話くらい入れて、ちゃんと答えなきゃ、ガブリエルも困ったよね」
「そこまで気がつかない奴も、珍しいな」
 ローランはネクタイの形を整える手をふと止めて、溜め息をついた。
「ガブリエルは結構いらいらしていたぞ。どうして真志から連絡が来ないのか。アパルトメントから追い返されて、それっきりだということもあって、かなり気にしていたな」
「お、怒ってた…?」
「会ったら最初に誠意を込めて謝った方がいいだろう。もっとも、おまえにはガブリエルは甘いからな…」
「そ、そう…」
「だが、あいつが許しても、この俺が許さんこともある。今後二度とこんな粗相はせんよう気をつけることだな、シンジ。俺もここの所ずっと電話であいつの恨み言を聞かされて、気が休まらなかった。今度またガブリエルを理不尽に悩ませたり、失望させたり、落胆させたりしてみろ」
 ローランは真志の肩をつかんで引き寄せると、その耳元で凄みのきいた低い声で囁いた。
「細切れにばらして肉屋に売るぞ」 
 真志は瞬間凍りついた。
「まあ、脅かすのはこのくらいにしておこう。怯えた小鳥が料理を作らなくなってしまったら、俺があいつに殺される」
 どうして、この男はこうも人を恐怖に突き落とすのがうまいのか。いや、真志にとって、蛇に睨まれたカエルのように、それはほとんど条件反射になっているのかもしれない。
「そうそう、靴もあったな」
 ローランは思い出したように、足元の箱を取り上げた。
「そこに座れ、シンジ」
 言われるがまま、真志はソファの上に座った。
「これも、サイズは合っているはずだ。おお、何とも可愛らしい足だな」 
 真志の前に跪いてスリッパを脱がせると、ローランはそんなことをほざいた。
 その顔、蹴ってやろうか。しかし、その後何をされるか考えると、真志にはやはりできなかった。
 ローランは、箱から取り出したチョコレートブラウンの革靴を真志の足元に置いた。甲虫の背中のようにピカピカ光って、綺麗だ。
 ローランの手が、真志の足を恭しく持ち上げた。片手で支えながら靴を履かせ、床に置くと、丁寧に靴紐を結んでいく。
 ふいに、真志は違和感を覚えた。
 己の足元で身を屈めているローランの頭を見下ろす、真志の胸は段々苦しくなってきた。
 こんなの、何だか変だ。ローランが、こんなふうに真志に跪くなんて。
「ローラン…」
 無性に、やめろと言いたくなった。真志は唇を噛み締めた。
「平気なの、そんな…僕なんかのために、ローランがそんなことまで…本当は、したくないんだろ? 僕みたいな、つまらない見習い料理人風情に、あんたがなめきっている子供みたいな奴に跪いたりするなんて…あ、愛するガブリエルのためなら、何でもやるってわけ? あ、あんたのプライドって、どこにあるんだよっ?!」
 最後の方は思いの他激しい口調になっていた。真志は自分でも少しびっくりした。
「………」
 ローランは真志の靴紐を一瞬きつく引き締めた。真志はちょっと顔をしかめた。
「生憎、そんなことで傷つくやわなプライドは持ちあわせてはいないんでな」
 ローランは緑色の目を上げて真志を見据え、にっと笑った。
「シンジ、おまえの才能が俺にあればとは、確かに思わないでもない。だが、俺は現実主義者だ。いいか、下らないやきもちなど焼く前に思い出せ。この俺にできないことが、おまえにはできるんだぞ」
「ローラン…」
「全ては愛のために」
 ローランは憎らしいくらいに格好のいいウィンクで決めた。
「こうすることで、俺はガブリエルの望みを叶えようとしているんだ。残念ながら、あいつの夢を一緒に見てやることは、俺にはできないんでな」 
 真志の靴についた埃を手でそっと払うと、ローランは立ち上がった。
「どうした、赤い顔をして? 気恥ずかしかったか?」
「…そんなこと、しゃあしゃあとよく言えるなって…呆れたんだよ…」
 真志は力のない声でそう言って、ローランから顔を背けた。
「さあ、仕上げをしてやる。立て」
 真志はおとなしく従った。
 そんな真志のおさまりの悪い髪を櫛でさっと整え、スーツの襟やタイの形を直すと、ローランは一歩下がって、彼の全身にくまなくチェックを入れた。
(うっ)
 鑑定人のような鋭い眼差しに、真志は硬直する。
「よし、いいだろう。東洋のどこかの国の王子様みたいだとまでは言わないが、そこそこいい線いっているぞ。少なくとも、スーツに着られているちんちくりんの子供には見えんから、安心しろ。ガブリエルの隣に立っていても、これなら、自然におさまるだろう」
 ちんちくりんで悪かったな。ローランに噛み付きたい衝動を真志は必死で抑えた。
「時間がおしているな」
 ローランは腕時計を見下ろして、呟いた。
「下にリムジンを待たせてある。行こうか、シンジ」
 1階まで下りるエレベーターの中で、真志は、ローランが眠そうにあくびをかみ殺すのを目撃した。
「ねえ…もしかして、また寝不足? 今度は、どこから飛んで帰ってきたんだよ?」
「マルセイユ」
 ローランはぴしゃんと己の両頬を叩いた。
「おまえを送り出したら、その足でとんぼ返りだ。マルセイユ行きの機内では、少し仮眠を取れるかな」
 ここは笑いどころかもしれない。ガブリエルの忠犬であるとは、とても大変なことのようだ。年中無休の24時間営業。フランス中どこにいても、電話1本で飛んでくる。
「過労死…しないでね、ローラン」 
 励ますような真志の声を背中に聞いたローランは、むっつりと黙り込んでいた。


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