温かい皿

第五の皿 viandes
ちっちゃなウズラ

 真志がボン・ヴィザージュに出勤しなくなって、もう1週間になる。
 一時ランチタイムのオーダーの波が引いた厨房。アランは、真志の持ち場である調理台の前で魂を飛ばしたようにぼうっと立ち尽くしていた。
 それまで仕事を休んだことはおろか遅刻したこともない真志が無断欠勤をしたということで、オーナーのピーターはむろんレストランのスタッフ全員、怒るよりも心配した。
 そんなボン・ヴィザージュにどんよりと暗い顔をしたアランが『シンジの代理でオレが入る』と言って現れた時には、皆戸惑っただろう。
 真志に何かあったのかと尋ねられたが、それについてはアランは何も答えなかった。答えられるはずもなかった。
(シンジ…)
 酷いことをしてしまった。あんなに恐がらせてしまった。
 泣きじゃくることしかできないでいた、真志の怯えきった顔を思い出すにつけ、アランは、調理中であるにもかかわらず、涙で目の前がかすんだ。
(あんなことをするつもりじゃなかったんだ。おまえに好きだと伝えたいだけだったのに…)
 真志がガブリエルのことをあんなに真剣な目をして話すのを聞いているうちに、アランは変な焦燥感に駆られてしまった。分かっている。これは嫉妬だ。
 大男のアランが切なげにはあっと溜め息をついている様は傍目でも怪しかったのだろう。見かねたらしい見習い料理人のブレンダがやってきて、後ろから彼の頭をどついた。
「聞いたよ、アラン。あんた、シンジに失恋したんだって?」
 男勝りのアメリカ人女性ブレンダは、ずけずけものを言う。
「そういう噂になっているのか…?」
「そりゃ、あんたのシンジに対する熱心なアプローチは皆知ってるし、それが、急にシンジが無断欠勤して、その代わりに暗い顔をしたあんたがここに来たら、そういうことだろうと思うわよ」
 アランはふっと苦笑いをした。
「熱心なアプローチな…皆が分かっていても、肝心のシンジに伝わってなかったら、意味ないな」
「あの子の鈍さは既に罪悪ものだね。気のいいあんたに、そんな顔をさせるんだから」
「そうだな…オレが抱きしめても、冗談めかして頬っぺたにキスしても、どうやら本当に冗談にしか受け止められてなかったらしいな。それでも、あいつは嫌だとは言わなかったし、ニコニコ笑っていたから、まんざらではないんだろう、もしかしたら恥ずかしがってるだけかもしれないなんて考えたり…オレの独り相撲だったんだ」
「シンジが心配だから、メゾン・コルノーもそっちのけで、週に一度か二度はこっちに通っていたのにね」
 アランは込み上げてきた涙を堪えるために、天井を仰いだ。
「いつか…独立して自分の店を持てたら…あいつも連れて行きたいなんて夢見てたんだ、オレは…バカだ…」
 その時、厨房の扉が開き、血相を変えたジャンヌが入ってきた。
「大変よ、アラン、ムッシュ・ロスコーが来たわ」
 アランははっと息を吸い込んだ。ガブリエル・ドゥ・ロスコー。今一番聞きたくない名前だ。
「どうしよう、シンジにいつもの『お任せ』で頼みたいって言うんだけれど…彼は欠勤ですって、話してもいい? いつ戻るのかって聞かれたら、どうしよう?」
 アランはぎゅっと拳を握り締めた。
「どうする、アラン?」
 ブレンダの気遣わしげな問いかけに、アランはきっとなって振り返った。
「何が『大天使』だ。何がアカデミー・グルマンディーズの主宰だ。そもそも、あいつが真志にいらんちょっかいをかけるから…」
 アランが手許にあったシェフ・ナイフをつかみ上げるのに、ジャンヌがひっと悲鳴を飲み込み、顔を引きつらせたブレンダが彼の前に大きく腕を広げ立ちはだかった。
「客相手に逆上しないで、アラン!」
 するとアランは、挑みかけるようなぎらついた眼差しで、青ざめたブレンダとジャンヌを見据えた。
「オーダーを通せ! シンジがここにいないことは奴には伏せるんだ。オレがシンジの代わりにシンジの料理を作ってやる。シンジの癖から好みから皆知っているオレの料理を食べて、それがシンジの作った皿でないと見抜ける奴などいるものか。おお、メゾン・コルノーの二ツ星を背負ったこのオレが、『神の舌』を持つ男に挑戦してやる!」 




「もうかれこれ十日もここには来られなかったので、シンジの味が恋しくて仕方がなかったんですよ」 
 アランの挑戦状を一方的に叩きつけられた当の相手は、そんなこととは露知らず、小ぶりのグラスに注がれた赤磐雄町の大吟醸酒を楽しんでいた。せっかくおいしいシーフードを出すのだから日本酒も置いた方がいいと説得されたオーナーが、ガブリエルのつてで取り寄せたのだ。
「あるテレビ番組の収録のためにリヨンに滞在していたんです。美食の街の歴史と郷土料理に関するものですが…」
 オーダーを取りに来たジャンヌ相手ににこやかに話しかけるガブリエルは、厨房で張り巡らされている陰謀など全く夢にも思わないだろう。
 ちょっと罪悪感を覚えないでもない。やがて出来上がった料理を、ジャンヌは緊張感を押し隠しつつ運んだ。
「ああ、これは」
 目の前に置かれた皿を見て、ガブリエルは懐かしげに目を細めた。
「今日のシンジは、私達の原点に戻ってみたい気分なんでしょうか」
 そこに出されたオードブルは、ガブリエルが初めて味わった真志作のオードブル『夢見る帆立』だった。今回作ったのは真志ではなくアランだったが、ガブリエルには知る由もない。  
「今日は素敵な日本酒もあるし、前回以上に楽しめそうですね」
 うきうきとそう言って、ガブリエルが最初の一口を食べるのを、ジャンヌは息を詰めて見守った。
(ばれたって、あたしは知らないわよ、アラン)
 ガブリエルはフォークを置き、日本酒のグラスを口元に運んだ。
「実に相性がいい」
 目を上げると、テーブル脇に立ち尽くしているジャンヌに向けガブリエルは微笑んだ。
「とてもよくできた皿ですね。ありがとうとシェフに伝えてください」
 ばれなかった? ジャンヌはがくっと力がぬけそうになった。
「ど、どうだったんだ、ジャンヌ」
 妙に釈然としない気分でジャンヌが厨房に戻ると、厳しい面持ちのアランが待ち受けていた。
「ムッシュは『よくできた皿』だって…あれがシンジの皿じゃないとはたぶんばれてないと思うけど…」
「そうか」
 アランはほっと息をつき、額の汗をぬぐった。
「何だ、味覚の天才ガブリエル・ドゥ・ロスコーも噂ほど程大したことはないじゃないか。お気に入りの料理人が作った料理かそうでないかも、区別がつかないなんて」
「分かるはずがないじゃないの、アラン。だって、あの料理はそもそもあんたがシンジと一緒になって考え出したものなんだし」とブレンダ。
「ふふん、そうさ。コピーは完璧、ばれるはずがない」 
 これで肩の力がぬけたらしいアランは、次にガブリエルに出す皿を作るため調理台に戻っていく。
 ジャンヌは溜め息をついて、ガブリエルのテーブルの様子を見に戻った。
「お酒をもう少しお持ちしましょうか?」
 空になった硝子のとっくりを見てジャンヌが尋ねるが、ガブリエルは首を横に振った。
「シェフと少し話がしたいのですが」
 綺麗に平らげられた皿を下げようとした時ガブリエルにそう言われて、ジャンヌは危うく皿を落としそうになった。
「あ、あの…シンジは、今…」
 ジャンヌの額から汗が吹き出た。どうしよう。こんなに早くシェフにお呼びがかかるなんて。今ここで真志がいないことを打ち明けたら、騙されたガブリエルは立腹するかも知れない。こんなことになる前に、メゾン・コルノーに行っているはずのオーナーを呼んできて、アランの暴走を止めてもらうべきだったのだ。
「いいんですよ、そんなに困った顔をしないで下さい。シンジが今ここにいないことは、分かっています」
 やんわりとした口調で言われて、ジャンヌは一瞬ぽかんとなった。
「えっ…ム、ムッシュ…?」
 そんなジャンヌを安心させるように穏やかに微笑みかけると、ガブリエルはナプキンでゆっくりと口元をぬぐった。
「この皿を作ったのはシンジではない。シンジが誰か他の人に私の料理を任せることはありえません。つまり、彼はここにはいない。ですから―」
 ジャンヌを見つめる青い目が、すっと細くなった。
「アラン・コルノーをここに」 
 やっぱり、ばれた!




「そんな馬鹿な!」
 真っ青になって帰ってきたジャンヌから、その知らせを聞いたアランは愕然となった。
「なんで、あの皿を作ったのがシンジじゃなくてオレだということが分かったんだ? 信じられない」
「いいから、アラン、早くテーブルに行ってよ! ムッシュが、あなたを名指しでお呼びなんだから! もう、自分でしたことの後始末はきっちりつけてよねっ」
 ジャンヌに押されるように厨房からダイニングに出て行きながらも、アランの頭の中には信じられないとの思いが渦巻いていた。
 あの皿の模倣は完璧だったはずだ。真志の癖もテクニックも、彼のいわば師匠であるアランは知り尽くしている。特に『夢見る帆立』に関しては、真志が考え出したアイディアをもとにメニューを作る段階からアランは関わってきた。愛する真志のためならばと自ら実験台となって試食をし、あの恐ろしげなイカの内臓やら昆布やらを気持ちが悪くなるくらい食べ続け、レストランに出せる料理として味の調整をしたのがアランなのだ。
(それが何故ばれたんだ、何故?)
 恐る恐る問題のテーブルを見ると、ガブリエルがテーブルの上に肘を乗せ軽く手を組み合わせるようにして、アランが来るのを待ち受けている。
 その温和な顔には別に騙されたことに対する怒りはうかんでいなかったが、だからこそ、余計に恐かった。
 料理の天使の不興をかった料理人は運に見離されるという話も、アランは聞いたことがある。
「すみません、シェフ、お忙しい時にお呼びしてしまって」
「い、いえ」
 アランは固い表情でガブリエルの前に立った。己を励ますよう、大きく息をした。
「あの皿に、何か問題がありましたか?」
 心臓の鼓動がうるさいほどだ。ガブリエルに聞かれてしまうかもしれない。
「いいえ、とてもいい出来だったと思いますよ、シェフ」
 ガブリエルは、果たしてアランの動揺を知っていたのか、ふくよかな唇を笑みの形にほころばせた。
「久しぶりにここを訪れた私を、シンジがいないことでがっかりさせてはいけないと思って、あなたが代わりにこの皿を作ってくれたのでしょう? あなたにも、ホールスタッフの方にも気をつかわせてしまいましたね」
 アランの全身から汗が噴き出した。
「けれど、シンジが何故ここにいないのかがどうしても気になって、あなたを呼んでしまいました。まさか私の知らないうちに日本に帰国したとか、この店をやめたわけではないでしょうね」
「そ、それは違います、ムッシュ」
 アランは喘ぐように答えた。
「シンジは、ちょっと事情がありまして、この1週間店を休んでいるんです。いえ、別に体を壊しているわけではありませんが、込み入った事情がありまして…」
 込み入った事情。自分で言って、アランは顔が赤くなるのを意識した。
「そうですか。では、直接彼から聞いた方がいいんでしょうね」
 アランは体の脇に下ろした手をぐっと握りしめた。
「あの…」
 アランは緊張に体をこわばらせながらも、思い切って尋ねてみた。
「何故、あの皿を作ったのが、シンジではなくオレだと分かったんです?」
「ああ」
 ガブリエルはアランの真剣な眼差しをそよ風のように受け止めて、無邪気に笑った。
「実際とてもよく出来ていましたよ、あの皿は。何もかもが実にうまくシンジの料理を再現していました。シンジがやりそうな小さなミスが、あの皿には一つもなかったことくらいですかね。味に関して、私が不思議に思ったのは」
 澄み渡った空の色の瞳がアランをつくづくと見つめた。
「さすがはメゾン・コルノーのスー・シェフですね。噂以上の高い技術を持ってらっしゃる。あなたなら、いつかご自分の店を持つことも、二ツ星の更に上を目指すことも可能でしょう」
 ガブリエルの評価に、不覚にもアランは胸がときめくのを意識した。 
「つまり、あの皿は完璧だった…それじゃ、何故オレが作ったものだと分かったんです?」 
 すると、ガブリエルは悪戯っぽく片目をつむってみせた。
「カルバン・クラインの『エスケープ』の香りですよ」
「え?」
 ガブリエルの指先が、戸惑うアランの胸に向けられた。
「あなたのコロンが、ほんの微かにですがあの皿についていました」
「馬鹿な! オレは、仕事の日にはコロンはつけない…」
 はっと思い当たったかのように、アランはシェフスーツの袖をまくり上げ、中のシャツを引っ張り出して鼻を押し当てた。
「しまった、このシャツか…!」
 夕べ使った時のものだろう。袖口にほんの僅かにコロンが残っていた。しかし、アラン自身さえ言われるまで気がつかなかった、こんなほのかな香りを分かることなどできるものだろうか。
「シェフ」
 その呼びかけに、アランは呆然と顔を上げた。
「今日は、思いもよらず、あなたの素晴らしい腕前を拝見することができました。それと同時に、あなたの真志に対する想いの深さもね」
「ムッシュ・ロスコー…」 
 アランは何と答えればいいか分からぬような顔をした。
「だって、そうでしょう。あそこまでシンジの癖を知り尽くして再現できるというのは、それだけあなたが彼の傍にいて、彼をいつも見守っていたからです。あなたがシンジに向けてきたひたむきな眼差しが込められたものが、あの一皿だったんです。シンジだって、食べればきっと分かったでしょうね」  
 ガブリエルはアランから目を逸らし、小さな嘆息をついた。そのまま、何かに思いをはせるように、しばし沈黙した。
「何だか、オードブルだけで胸が一杯になってしまいました」
 呟くように、ガブリエルは言った。
「また日を改めて、メゾン・コルノーにもうかがいますよ、アラン。今度は、あなた自身の料理を味わうために」 
 アランは目をしばたたいた。
「作ってくれますか? 私のために、あなたの料理を?」
 アランは、何かしら今初めて出会ったような気分で、再びこちらに向けられたガブリエルの真摯な顔をじっと見つめた。
 アカデミー・グルマンディーズの大天使、ガブリエル・ドゥ・ロスコー。味覚の天才。
 アランは己の顔に自然と笑みが広がるのを意識した。この勝負、彼はガブリエルに完敗したのかもしれないが、不思議と後味は悪くなかった。
 ガブリエルは料理によって人を知る。
 誰かに自分を理解してもらえるのはいいものだ。ましてや料理人であるならば、そこまで己の皿を分かってもらえれば本懐だと言えるだろう。
「ウィ、ムッシュ」と、アランは驚くほど素直な気持ちで答えていた。
 全く、一体他に何と言えというのか。
 そう、やはりアランも真志と同じ、骨の髄まで料理人なのだから。


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