温かい皿
第五の皿 viandes
ちっちゃなウズラ
一
(ガブリエル…おかしいな、この頃の僕は気がつけばいつもあなたのことを考えてる。それも幸せなのと苦しいのと半分ずつの変な気持ちなんだ…)
アカデミー・グルマンディーズの定例会ではとんだハプニングに巻き込まれたものの、おかげで真志は、ガブリエルのまた別な面が見られ一層彼と接近することができた。だが、素直に喜べない部分もある。
結局真志はガブリエルを助けることはできなかった。ローランの方が、真志よりももっと素早く確実に彼を救い出すことができた。ガブリエルのことを誰よりも理解しているからだろう。
それに、騒動を起こした張本人でありながらガブリエルに許されたエリックも、同じ料理人であるだけに真志にとっては気になる存在だ。
(ガブリエルに抱きしめられたエリックさんを見て、僕はちょっと羨ましいって思ったよ。ガブリエルが2年もエリックさんを忘れなかったことも…)
思い出すとますます苦しくなってくる。真志は溜め息をついて、コーヒーでも煎れようと自室のベッドから起き上がった。
今日は店の定休日なので、真志は朝から自分のアパルトメントでごろごろしながら、昨日の定例会での夢のような出来事を思い返している。
真志がキッチンに向かおうとした時、アパルトメントに来客を告げるベルが鳴った。
物思いを引きずりながらぼんやりとドアを開けた真志は、瞬間、はっとなった。
「アラン」
この頃ゆっくりと話す機会もなく、どうしているのか気になっていたアランの姿を見つけて、真志はとっさに言葉が出てこなくなった。
「急に押しかけて悪いな、シンジ。ちょっといいか?」
開いた扉の向こうに現れたアランは何やら思いつめた雰囲気だったが、真志を見ると、明るく頼もしげないつものアランの顔に戻った。
「ううん、実は僕も、今日にでもアランに会いに行こうかと思っていたんだ、丁度よかったよ」
真志もいつもの感覚を取り戻してにっこり笑いかけると、アランをアパルトメントの中に招いた。
ソファとテレビだけでほとんど一杯になってしまう狭いリビングにアランを入れ、真志はキッチンでインスタントのコーヒーを用意して部屋に戻った。
「アラン?」
アランは、ソファの前のテーブルから真志の手紙を取り上げて、眺めていた。
「ああ、それ、実家宛ての手紙だよ。ちょっと送ってほしいものがあったから…」
芋粥を作ってあげるというガブリエルとの約束を真志は思い出した。そのために実家に頼んで材料を送ってもらおうとしたのだが、本当にガブリエルにご馳走してあげる機会などあるのか、彼を喜ばせることができるのか、何だか自信がなくなってきた。
「やっぱり、おまえの親は帰ってこいとうるさいのか?」
アランの言葉に、真志は我に返った。
「え…う、うん…僕がしっかりしてないから、そうなるんだろうけれどね」
アランが溜め息をつく理由が、この時も真志はよく分からなかった。
「ところでさ、シンジ、昨日のアカデミーの定例会はどんなものだったんだ?」
「ああ…うん…よかったよ、すごく…」
真志がつい複雑な心情を隠し切れずに言葉を濁すのに、アランは気がついたようだ。
「ムッシュ・ロスコーと何かあったのか?」
真志は一瞬迷ったが、誰よりも信頼できるアランならばと、昨日ロスコー邸であった事件や自分が覚えた不可解な気持ちについて洗いざらい打ち明けた。
アランは穏やかに、時々頷きながら、真志の話に耳を傾けていてくれるようだった。いつも真志の悩みや相談事を聞いてくれる時と同じアランだった。だから真志も、安心して、あまりにも個人的なこんな心情を話すことができたのだ。
しかし―。
「…僕はガブリエルのためならって、僕なりに一生懸命にやれることをやったんだ。今考えたらよくあんなことをやったなぁと呆れるけど、助けを求めて怪しい地下道を這いずり回ったり、その後で混乱した厨房で必死に働いたのもガブリエルのために料理を完成させたいって気持ちだったと思う。でも、結局僕の力なんて本当に取るに足りないもので…ガブリエルの傍にいるすごい人達には、料理人としても人間としても全然敵わないんだ…僕はなんてちっぽけでつまらない存在なんだろう…考えると悔しくて…」
アランに語りかけながら、真志は改めて自分の中に溜まった鬱憤の深さに気がついた。
こんなにもこだわっているなんて、でも、どうして?
「驚いたな…」
アランの低い呟きに、また物思いに沈みかけた真志は怪訝そうに顔を上げた。
「おまえが…料理以外のことで、そんなにむきになったり必死になって思いつめたりするなんて…」
アランの顔からはいつの間にか微笑が消え、再びあの切迫した表情がうかんでいた。
「ガブリエルが絡むとおまえは人が変わるみたいだな…ずっと気になっていたんだ…料理にしか興味のないおまえが他人にそうまで入れ込むなんて…そんなおまえをオレは初めて見る…」
不思議そうに、真志は瞬きをした。
「アラン、どうしたの、そんな恐い顔をして…?」
真志はふいにアランのことが心配になった。つい自分の話ばかりしてしまったが、アランの方こそ最近様子がおかしくて、真志は気になっていたのだ。
「おまえはガブリエルのためなら何でもする…まるでそんなふうだな? シンジ、それなら、もし彼がおまえを傍に置きたい、ずっとパリに残ってほしい…自分の傍で働かないかと言ったら、おまえはどうするんだ?」
「えっ」
いきなりの問いかけに、真志は面食らった。
「ガブリエルが僕に…? ま、まさか、そんなことありえないよ、アラン」
真志の脳裏に、エリックを優しく抱擁するガブリエルの姿が甦った。かぁっと胸が焼け付いた。
「ガブリエルの料理人になるのは、すごくすごく大変なんだよ…僕なんか、全然そのレベルじゃないし…そんなこと、考えてみたこともないよ…」
しどろもどろになりながら真志は答えた。自分でも戸惑うくらい、ひどく動揺していた。
「でも、ガブリエルに引き抜かれたらいいだろうなと憧れてはいるんだろう? もしムッシュから声がかかれば、親がなんと言おうがパリに残っても構わないと、おまえは思うんだろう?」
「アラン?」
「オレが頼んで駄目なことでも、ムッシュが言うなら、おまえは聞くんだ」
ようやく、鈍い真志も気がついた。アランが自分を見つめる眼差しの狂おしさ、もどかしくて仕方がない、ずっと堪えに堪えてきたものがついに我慢の限界に達したのだというような、追い詰められた表情に。
「シンジ、オレは…おまえをガブリエルなんかに渡したくない…オレはな…!」
搾り出すようなアランの声を聞いたと思った瞬間、真志は彼のがっしりした腕に抱きすくめられていた。休みの日だけアランがつけているコロンが、彼のたくましい胸から香った。
このコロンの名前は、そう言えば聞いたことはない。
「おまえを誰にもやりたくないし、どこにも行かせたくない…オレと一緒にいてくれ…おまえのことがずっと好きだった…コルドン・ブルーの新入生だったおまえを初めて見た時、実習の終わった薄暗い厨房の隅っこでちっちゃくうずくまって泣いていたおまえを見つけた時からずっと…」
「え…えっ…?」
真志の頭は思考停止状態に陥っていた。あまりにも突然なアランの告白をどう受け止めたらいいのか分からず、真志は彼の腕の中でただひたすら身を固くしていた。
「愛している…」
真志の顎をアランの指が捕らえ、持ち上げた。
熱っぽい唇に口を覆われた瞬間、真志の頭の中にガブリエルのとがめるような顔がうかんだ。
「だ、駄目だよ、アラン…!」
真志はアランの胸を突いて、彼のキスから逃れた。
「シンジ、どうして駄目なんだ? オレが…嫌いなのか…?」
哀しげなアランの訴えに、真志は必死になってかぶりを振った。
「嫌いじゃないよ! アランは僕にとって大切な人だよ…でも…」
「オレよりガブリエルの方がいいのか…?」
低められたアランの声に本能的に危険を感じ取った真志は、彼の手を振り解いて逃げ出そうとした。しかし、簡単に引き戻され、真志はアランに羽交い絞めにされてしまった。
「アラン?!」
アランと真志とでは、大人と子供ほどにも体格が違う。真志は、アランの腕に半ばぶら下がるような格好で、隣の寝室へと引きずられていった。
「ま、待って、アラン、何する気っ?!」
真志は本気で青ざめた。アランが自分を傷つけるようなことをするはずがないと、頭のどこかではまだ信じていたのだ。
「シンジ、シンジ…お願いだ…!」
絶望的な呟きと共に、アランは真志をベッドの上に押し倒した。
「アラン!」
真志は悲鳴をあげるが、その口はアランの口に覆われて哀願する声も塞がれてしまった。
(や、やだ、アラン…!)
真志はのしかかってくるアランを押しのけようと胸を押すが、彼の鍛えられた体はびくともしない。息を求めて口を開くと、アランの舌が入り込んでくる。セーターをたくし上げて胸を這いだす手の感触に、真志はすくみあがった。
アランは真志のジーンズにも手をかけた。もどかしげにジッパーを下ろそうとしている。
(やめて…やめてよ…)
混乱した頭の中で必死になって叫びながら、真志はきつく閉ざした瞼の間から熱いものがあふれ出すのを感じた。
「シンジ…」
急に息ができるようになった真志は激しくむせ、咳き込んだ。それと共に涙が迸った。何かを訴えようとするが既に言葉にはならず、うう、ううと呻くように泣くだけだ。恐くて、目は開けられなかった。
「くそ…おぉ…っ」
アランは傷ついた獣のようなうめき声を発した。
「どうして…こんなに大事にしているのに…どうして、いつも他の奴がオレからおまえをかっさらっていくんだ…?」
アランは真志をベッドからすくい上げるようにして抱きしめた。
「シンジ、シンジ…すまない…」
消え入りそうな呟き。アランは泣いていた。
「愛しているよ」
真志はベッドの上にそっと横たえられた。受けた衝撃の大きさに、身動き一つすることもできなかった。
そんな真志を残して、アランの気配は部屋から出て行った。
(アラン…アラン…)
玄関のドアが閉じられた音を聞いて、真志はやっと目を開いた。
それでも、涙はとまらなかった。
真志は傷ついていたが、それよりも深く自分がアランを傷つけてしまったことも分かっていた。
(ごめん…ごめんね、アラン…)
大好きなアラン。
彼が最後に言い残した『愛しているよ』の哀しい響きに、真志はどうしても涙を抑えることができなかった。