温かい皿
第四の皿 oeufs
はじける卵
四
ガブリエルの予感は的中した。
先程の停電は、侵入者が城の電気系統の一部を破壊したために起こったのだ。犯人はすぐに取り押さえられたが、修理には梃子摺り、一番心配された厨房の電力が回復するには後1時間はかかるだろうとのこと。調理の段取りが大幅に狂うことは間違いなかった。
(そして、犯人はやっぱりエリック・ヴォーモンだったんだ)
ガブリエルの救出のために地下のワイン・セラーへと向かいながら、真志は隣を歩くマルセルの苦虫を噛み潰したような顔をちらりと見上げた。
実の弟がこんな犯罪紛いのことをして、身内としてはさぞかし辛いだろう。エリックの破壊工作の巻き添えを食らって地下に閉じ込められたガブリエルに対しても、マルセルはすまない気持ちでいっぱいなのだ。
(ガブリエル、待っててね、もう少しで助け出してあげるよ)
地下へと続く階段を執事も含めた数人で駆け下りていく真志の胸は早鐘のように鳴り響いていた。
しかし、後少しでワイン・セラーの扉が見えてくる辺りで、真志はとっさに足を止めた。
「あっ」
真志は呆然となって、呟いた。
「ローラン…?」
信じられないことに、ローランがワイン・セラーの方からゆっくりと階段を上ってくるところにぶち当たったのだ。彼は、気を失ったようにぐったりとしたガブリエルを腕に抱えていた。
「どうして、ここに…?」
ローランは凍りついたように立ち尽くしている真志に気がついて一瞬声をかけようとする素振りをしたが、そこでガブリエルが身動きしたのに意識をそちらに戻した。
「遅かったですね、ローラン…また道路が混んでいたんですか?」
ガブリエルは青い目を上げて、ローランに向けて気だるげに囁いた。
「いや、今度は玉突き事故だ」
ローランでもこんな優しい顔をするのだ。ガブリエルを見下ろす顔は、真志が知っている傲慢で鼻持ちならない男のものとは全く異なっていた。
「今、決めた。やっぱりプライベート・ヘリを買う。免許も取る」
「そうなさい…」
ローランと親しげに短い言葉を交わした後、ガブリエルは再び目を閉じた。
「どうした、シンジ、血相を変えて」
ローランには他意はなかったのだろうが、取るに足りないもののように声をかけられた真志は居たたまれない気分だった。
ガブリエルを救出するのは真志のはずだったのに、見事にローランに先を越されてしまった。
トンビに油揚げ。情けないといったら、ありゃしない。
「ローラン、どうして…ガブリエルがここに閉じ込められているって分かったの?」
高揚した気分も瞬く間に冷めて、真志は弱々しく尋ねた。
「ああ、匂いで分かるのさ」
アナタ、本当に犬? 真志は一瞬本気でたじろいだ。
「匂いは嘘だが、勘が働いたんだな。ここに着いた時にガブリエルの姿がどこにも見えないと弱り果てたスタッフたちに聞かされてな、その時ふと思い出したんだ。そう言えば、子供の頃、ガブリエルがワイン・セラーに閉じ込められたことがあったな、と。それでここを最初に覗いてみたら、案の定ロックのかかったセラーの中に閉じ込められたガブリエルを見つけたわけだ」
ローランは真志の埃と泥にまみれた薄汚れた姿にやっと気がついたようで、端正な眉を寄せた。
「おい、どうした、ひどい格好だな。まるでどぶ川に落ちた野良猫だぞ。何をしたか知らんが、さっさとシャワーを浴びて着がえてこい。おっと、その手でガブリエルに触るなよ、汚れるからな。さあ、そこを通してくれ、シンジ」
ローランに悪意はないことは分かっているが、彼の言葉や態度はいちいち真志の胸をえぐった。
しかし、今の真志には、黙って階段の脇に退きローランを通すことしかできなかった。
「ああ…」
ローランの腕に大事そうに抱きかかえられたガブリエルを切ない気分で見送った後、真志はがっくりと肩を落とした。急に、ひどい疲れを意識した。
「おい」
意気消沈した真志の頭を、その時、マルセルが大きな手で包み込んだ。
真志とローランのやり取りを傍らで無言のままじっと眺めていたマルセルは、何かを感じとったのだろう。今の彼は何かしら温かみのある表情をうかべて、真志に向かって励ますように言った。
「おまえが、ムッシュ・ロスコーのために誰よりも必死になっていたのは事実だ。俺にでもおまえの心意気は分かったぞ。心配するな、ヒヨコ。ムッシュ・ロスコーはちゃんとご存知だ」
「シェフ…」
マルセルはぐいっと身を乗り出して真志に顔を近づけると、戸惑う彼に向かってにっと笑いかけた。
「初めに見た時は、とても使いものになりそうもない頼りない子供だと思ったが、どうやらオレの勘違いだったようだな。シンジ…とか言ったな、おまえは見かけによらずいい根性をしている。俺は気に入ったぞ。さあ、シャワーを浴びて、シェフ・コートに着がえて来い」
真志は息を飲んだ。
「シェフ・ヴォーモン、それって―」
「俺の不出来な弟の起こした停電騒ぎのおかげで、厨房はパニックなんだ。今は例え半人前のヒヨコの手でも借りたい。助手として、俺の仕事を手伝ってくれ」
捨てる神あらば拾う神あり。真志はしゃきんと背筋を伸ばした。
「ウイ、ムッシュ」
目の前でガブリエルを鮮やかにさらっていったローランに対する激しい羨望に真志の胸はチリチリと焼けていたが、ひとまず意識を好きな料理に向けることで、彼は火を噴きそうな胸中を押さえ込んだ。
程なくして厨房の電気系統は回復し、全ての調理機器が支障なく使えるようになったが、おかげで料理の予定は大幅にずれ込んだ。
そろそろ今回の定例会に招かれたゲスト達も到着しようという時間、厨房スタッフはフル回転で仕事に当たっている。
急遽料理を手伝うことになった真志も必死になってシェフや他のスタッフの補助にあたった。たぶん足手まといにはなっていないはずだ。その点、オーナーのピーターやアランは真志をよく仕込んでいた。
だが、1つだけ、真志には気になることがあった。
それは、厨房の片隅に持ち込まれた椅子に縛り付けられる格好で拘束されているマルセルの弟、エリックの存在だった。
兄とはあまり似ていない、斜に構えた雰囲気のある、細面のなかなかのハンサムだ。その左頬には大きな青あざができている。怒り心頭に発したマルセルが殴りつけたらしい。
(かつてガブリエルが夢中で惚れこんだというシェフ…一体どんな料理を作るんだろう。一度は見限ったはずなのにできればもう一度チャンスをあげたいと今でもガブリエルが思うくらいだもの…すごくいい腕を持っているに違いないよ。それに―)
地下のワインセラーでガブリエルがエリックについて語った時のことを思い出して、真志は微かな胸のうずきを覚えた。
(たぶん個人的にもガブリエルはこの人と親しかったんじゃないだろうか。本気でこ、恋しそうになったなんて言ってたよね…もしかして、今でも少し…好きだとか…? エリックさんはガブリエルをどう思っているんだろ…過去の経緯で恨みを抱いていると言う人もいるけれど、でも、それじゃあガブリエルに生まれ年のラ・ターシュを贈ったのはどういう意味だったのかな…)
初めは恐々様子を窺っていた真志だったが、そんなことを考えながらエリックを見ているうちに次第に印象が変わっていった。
(脅迫文を送り付けて、実際停電までおこして定例会を妨害して…でも、どうしてかな、何だかこの人、本当はそんなことをしたかったわけじゃないような気がする)
やはり、あのワインのことが引っかかっているのだろうか。憎い敵なら、昔の約束を忠実に守って、あんな貴重なワインを贈るはずがない。
(もしかしたら本当はガブリエルと仲直りしたいんじゃないだろうか、ただ意固地になっているだけで…)
縛り上げられたままなすすべもなく厨房の様子を見せられているエリックはあくまで不敵な表情をうかべようとしていたが、それもただのポーズのような気がしてきた。
実際、エリックはずっと落ち着きがない。目の前で慌しく駆け回る厨房スタッフの動きを目で追いながらうずうずと手を動かしている。そして、誰かが目の前で不手際をしようものなら、舌打ちをして、何か言いたげに唇を噛み締めるのだ。
その姿を見て、真志はピンときた。
(あ、そうか…この人、さっきから料理がしたくて仕方がないんだ。目の前で他人が料理をしているのをただ見ているだけなんてこの人にとっては拷問で、今すぐにでも包丁を奪い取って乱入したいくらい、料理が本当に好きなんだ)
才能がありながらレストラン業界から締め出しを食らった料理人は、ここ2年というもの、アメリカ資本のファースト・フード店や大学の学食、給食センターなどを渡り歩いて糊口をしのいでいたという。何とも涙を誘う話だ。
忌々しげに吐き捨てるマルセルの声に、真志は思わず振り返った。熱を持った鍋に素手で触ってやけどをしたようだ。マルセルはちらりと壁の時計を眺めやって、また舌打ちをした。
(シェフも焦っている…時間が足りないんだ…せめてもう少し人手があれば…)
真志は再び椅子に縛り付けられた小ヴォーモンを見、それから、意を決して大ヴォーモンに近づいていった。
「シェフ、お願いがあります。どうか、エリックさんをあなたの助手として使ってあげてください」
真志の進言にマルセルは目を剥いた。
「馬鹿を言うな。もとはと言えば、そいつのせいでこんな大変な状況に追い詰められたんだぞ。そいつは、もう料理人じゃない、ただの犯罪者だ。俺は…弟との再会を夢見て、定例会で料理を作ることを承知した。しかし、こんな情けない再会があるか。俺はもう今度こそ、そいつのことは見限った。もう弟なんかじゃない、警察に引き渡して監獄にぶち込んでやるっ」
逆上しかかるマルセルの迫力に真志は一瞬怯みそうになったが、今度ばかりは引き下がらなかった。好きな料理ができないなどときっと耐えられない。エリックの苦しみは、真志にも想像できるものだったからだ。
「エリックさんは、自分が料理人であることを忘れてなんかいませんよ、シェフ。あなただって、気づいているでしょう。彼は、本当は死ぬほど料理がしたいんです。エリックさんが今回やったことは確かに間違っているしひねくれているけど…それほど辛い境遇に今まで彼はいたんだと思います。だから…もし警察に渡さなくてはならなくても、その前にせめて一度くらいエリックさんに厨房で働くチャンスをあげてもいいじゃないですか」
マルセルは真志を火の噴くような眼で睨みつけた。
「それに実際、今、厨房は人手が足りないんです。そして、あなたの弟は腕の確かな料理人です。僕なんかよりも、よっぽど助けになるはずです!」
マルセルはもう一度時計を見やった。いらいらと足を踏み鳴らした。
「ええい、くそ! 誰か俺のクソ弟の縄を解いてやれっ、それからシェフ・スーツもだ!」
呆然としているエリックに向かって、マルセルは中指を突き立てる仕草をした。
「いいか、エリック、今度何かおかしなことをしやがったら、俺がおまえをこの場でばらばらに切り刻んで今夜の食卓に並べてやるからな」
戒めを解かれたエリックはスタッフが持ってきたまっさらなシェフ・コートにおずおずと袖を通し、震える手で包丁の柄をぎゅっと握りしめた。
「さあ、思い切り腕を振るってよ、エリックさん。ガブリエルを夢中にさせたあなたの仕事を僕も見たいんだ」
真志が親しげに笑いかけると、エリックははにかんだような笑みを浮かべて、小さな声で礼を言った。
こうしてエリック・ヴォーモンは料理の戦列に加わった。
実の所、彼の料理の腕は大したものだった。ガブリエルがかつて夢中になっただけはある。2年のブランクなどほとんど感じさせない見事な動きをして、兄のマルセルとの息もぴったりあっていた。何よりも、料理をしているエリックはすごく幸福そうだった。その顔を見て、あ、この人はまだ大丈夫だ、立ち直ることができると、真志は密かに確信したのだった。
厨房での仕事がようやく軌道に乗り余裕も少し出てきた頃、ガブリエルがエリックと真志を書斎に呼んだ。
「シンジ、あなたには心配をかけましたね」
小腹を満たして完全復活を遂げたガブリエルは優しく慈愛に満ちた笑顔で真志を迎えた。その顔を見て、真志はほっとした。
「ううん、ガブリエルが元気になってよかったよ」
真志はガブリエルの背後に影のように寄り添うローランのことも気になったが、なるべく彼の方は見ないようにした。
「それから、エリック」
ガブリエルの声の調子が明らかに変化した。威厳に満ちた厳しいものだ。紛れもないアカデミー・グルマンディーズの主宰の声だった。
「私に何か言いたいことはありますか?」
真志は不安に駆られながら、傍らのエリックを振り返った。
案の定、エリックは紙のように白くなった顔で、唇を噛み締めながら、ガブリエルを食い入るように見つめている。その瞳の奥に揺らめくのは、たぶん一言では言い表せない複雑な感情なのだ。恨みがないとは言えないだろう。だが、それ以上に、彼はガブリエルに引きつけられているのではあるまいか。
「ラ・ターシュは確かに受け取りましたよ。本来あるべき場所に戻しておきました」
ガブリエルは目を細めるようにして微笑んだ。
「けれど、肝心のあなたのことを私はどうすればいいのでしょうね、エリック」
「俺は―」
エリックは喘ぐように胸を上下させた。
「私はあなたとの再会をこれでもすごく楽しみにしていたんですよ」
ガブリエルは溜め息をついて、幾分哀しげに眼差しを伏せた。
「あなたがアカデミーに送り付けて来たろくでもない脅迫文でさえも、あなたが私のもとにやってくるかと思えば胸がときめきました」
エリックは焦燥に駆られたように訴えかけた。
「ガブリエル、俺は…違うんだ、俺は―」
「何が違うんです、エリック。私に贈ったラ・ターシュとあの脅迫文、一体、あなたの本心はどちらにあるんでしようね。私と和解したいのか、私をやはり今でも憎み続けているのか、どちらのあなたを信じればいいんでしょう」
息苦しいほどの緊張感がエリックから伝わってくる。しばしの沈黙の後、彼はやっと口を開いた。
「あなたを本気で憎むことなど…できないさ、ガブリエル…」
エリックは自嘲的に笑うと真志の隣からよろよろと進み出て、ガブリエルの前に立った。
「ルレ・ロスコーを飛び出してから、俺はあなたのことは忘れようと思い、料理人もやめようとした。けれど、結局どちらもできなかった…たとえ場末のピザ屋や給食センターででもいいから食べ物を扱う仕事についてしまい…あなたのことを頭の片隅で考えていた。俺はずっとあなたのところに戻りたかった。でも、あなたをあれほど激怒させ失望させた俺が、一体どの面を下げてここに戻ればいいのか、分からなくて…放浪生活のおかげで心もすさんだ俺は、素直に謝る代わりにあなたを困らせるようなまねをしてしまった。実際、あの新聞記事を読んで、ついかっとなったんだ。兄貴が俺の代わりにあなたの気に入りになってしまったら、俺が帰る場所はなくなる。兄貴には勝てないまま、一生負け犬で終わっちまうって…」
エリックはうなだれたまま、唇をぎゅっと噛み締めた。
「すみませんでした、ガブリエル…俺は…既に自分で最後の機会をつぶしてしまったのかもしれないけれど、それでも…もし許されるのなら、あなたのもとでもう一度やり直したい。この際、皿洗いでもいいから、厨房にもう一度立ちたいんです」
見栄も意地もかなぐり捨てて心の底から謝罪し懇願するエリックをガブリエルは椅子に深く身を預けたまま、しばし観察した。ふいに、彼は立ち上がった。
「エリック」
ガブリエルが呼びかけるのに、エリックは素直に顔を上げた。すると、ガブリエルはいきなり彼の頬に見事な右ストレートを食らわした。
「ひゃっ」
真志はつい悲鳴をあげてしまった。よほど上手く決まったのか、エリックの長身は後ろに吹っ飛ぶようにして床に投げ出された。
(こ、恐い)
硬直する真志が固唾を呑んで見守る中、エリックはゆっくりと床から上体を起こし、殴られた頬を押さえながら、ガブリエルを呆然と見上げた。その眉が怪訝そうに寄せられるのを真志は見た。
「あなたにしては…これは随分生優しい罰じゃないか…?」
ガブリエルは軽く肩をすくめた。
「罰なら、既に充分与えました。今のは許しです」
エリックははっと息を吸い込んだ。ガブリエルはゆったりと頷いた。
「厨房でのあなたの働きぶりはなかなかのものだと報告を受けています。今夜はその調子で最後までマルセルを補助してあげてください」
「ガブリエル…」
ガブリエルは机を回りこんで、エリックの傍まで来るとそっとひざまずいた。
「ロマネ・コンティの腕白な弟」
愛しげにガブリエルは呼びかけた。
「…偉大な兄に負けぬよう、今度こそ、あなた自身の料理を極めてください」
ガブリエルはエリックの顔を覗き込みながら、艶然と笑った。
「お帰りなさい、シェフ」
ガブリエルの優雅な腕がエリックの頭を引き寄せ、幼子を抱きしめる慈母さながらの優しさで抱くのを、真志はしばし呆気に取られて眺めていた。しかし、何だか胸が締め付けられるように苦しくなって、目を逸らした。
(あっ…)
視線を動かした先に、真志はローランの姿をとらえた。エリックを抱きしめるガブリエルに向けられた彼の端正な顔には、気のせいか、微かな苦しさが漂っている。くすぶる熾火に胸を焼き焦がされているかのようだ。
その時、ローランの緑の目がこちらを向いたので、真志は慌ててうつむいた。
(もしかしたら、ローランも…僕が彼に覚えたような羨ましさを他の人に対して感じることがあるのかなぁ)
影のようにいつもガブリエルに寄り添っているローラン。ガブリエルに頼られ、信頼されている、それだけの力も持っている、彼のようになれたらと真志は思っていたのだが―。
(人の気持ちって分からない。それを言うなら、自分の気持ちはもっと分からない…)
エリックの処遇がひとまず決まった後、厨房に戻った彼とは別の方向に真志はガブリエルと一緒に歩いていた。
(僕は…ガブリエルと一緒にいると楽しい。胸が高鳴る、心が躍る…好きな料理をしている時以上にたぶん好きだよ。でも、時々妙な胸苦しさや痛さも感じる…すごく嫌などろどろした気分になることもある。これって、一体何なんだろうね…?)
真志は問いかけるように隣を歩くガブリエルの横顔をちらりと眺めた。
ガブリエルが考えていることも、真志には依然としてよく分からない。好意は抱かれているのだとは思う。でも、ガブリエルほどの人が真志のどこをどう気に入ってくれているのか、今でも自分に自信のない彼には理解できないのだ。
(大天使ガブリエル、か…)
真志は眩しげに目を細める。こんなに近くにいるのに、真志には所詮手の届かない高嶺の花だ。
長い廊下の向こうにやがて大きな扉が見えてきた。ダイニングの前には黒いお仕着せを身につけたギャルソン達が2人、行儀よく並んで、ガブリエルを待ち受けている。
「あっ」
真志はとっさに足をとめた。
「アカデミー・グルマンディーズの定例会は関係者以外は立ち入り禁止だったね。見送るのはここまでにするよ、ガブリエル」
ガブリエルは何か言いたげに真志を見下ろした。
「今夜はここまで来るのに色々あって大変だったけれど、その分出される料理はきっと満足できるものだと思うから、皆で楽しんでね」
にっこりと屈託なく笑いかける真志の頬に、ガブリエルは手を伸ばして触れた。
「ガブリエル?」
ガブリエルの瞳が揺らぎ、唇がもどかしげに震え、微かに開いた。
「シンジ、いつかあなたは…あそこに行けますよ、きっと―」
「あそこ?」
真志は不思議そうにまばたきをした。
意味ありげに頷くガブリエルの視線が動く先を追って、真志ははっと息をのんだ。そこはアカデミーの会員達が待ち受けるダイニングの扉ではないか。
「そう、いつか―」
ガブリエルは謎めいた微笑を真志に向かって投げかけると、ふいっと離れていった。
彼を待ち受ける選ばれた美食家達のための晩餐へと去っていく優雅な後ろ姿を真志は不思議なざわめきを胸に覚えながら見送り、その場にしばらく立ち尽くすのだった。