温かい皿
第三の皿 poissons
恋する舌平目
二
それから2週間ほど経った日曜日、真志はガブリエル宅のディナーに出かけた。
この日は、仕事も休みをもらった。
たっぷりのブランチを食べた後、真志はシャワーを浴び、フランソワから借りたスーツを着て待っていた。すると昼過ぎに、約束どおり迎えの車が到着した。
ガブリエルがボン・ヴィザージュを訪れる時にいつも乗ってくる、黒塗りのルノーのリムジンだ。真志のアパルトメント前の薄汚い通りでは思い切り浮いている高級車だ。
「ボン・ジュール、僕のためにわざわざすみません」
車から降りて待っていてくれた中年の運転手に、真志はぺこりと頭を下げて挨拶する。
「ボン・ジュール、ムッシュ」とだけ運転手は答え、丁重に車のドアを開けてくれた。
(わっ、内装も豪華だ)
渋いワイン色の皮のシートは肌触りがよく、クッションが程よく効いている。窪みもうまく体にフィットして、皮でもつるつる滑って困るということはない。多用されている木目が内装に重厚さを与えて、タキシードやドレスを着たセレブに似合いそうな雰囲気を醸しだしていた。
セレブな生活とは縁のない、ごく普通の一般人である真志には、もったいない車だ。
戸惑う真志を乗せたリムジンは、しずしずと発進した。
(そう言えば、ガブリエルの家って、どこにあるのか聞いたことないけど)
パリ市内ではどうやらなさそうだ。やがてリムジンは市街を離れる幹線道路に入っていったからだ。
(ガブリエルってば、結構郊外からパリまで通ってたのかなぁ。ああ、でも、パリの郊外って風光明媚な場所が多くていいんだよね)
パリは貴婦人のように二重三重になった美しい首飾りをつけているという。それは、パリの郊外、そして近郊百キロから百五十キロメートル半径にわたって点在する広大な自然の森、森林公園、中世の城や由緒あるシャトー等のことだ。
真志がぼんやりと窓の外の風景を眺めるうち、それは次第に都会のものを離れ、11月初めの黄や赤茶色を帯びた木々が美しい郊外の景色へと変わっていった。
いつの間にか、真志はうつらうつらしていたらしい。
道が舗装されていないものに変わったのか、がくんと車体が揺れたのに、彼は目を覚ました。
リムジンは深い森の中に入り込んでいた。
「あ、あれ、今どこにいるの?」
目をこすりながら真志は尋ねるが、運転手は無言のままである。
「随分、山奥だねぇ」
真志は、興味津々、リムジンの左右の窓の外に広がる美しい自然の森を眺めた。
「ガブリエル様のお屋敷が見えてきましたよ」
いきなり運転手が言ったのに、真志は弾かれたようにそちらを見た。
その目が、真ん丸く見開かれた。
「嘘」
リムジンの前を覆っていた大きな樹の梢の向こうに姿を現したのは―。
「はは…ガブリエルんち、ね。はは…家って…これ…お城じゃん…」
それは全く映画にでも出てきそうな城だった。中世のものほど古くない、16、17世紀位のものだろうか。森をぬけたところには、卵色がかった壁に深紅色の屋根がよく晴れた青い空を背景にして美しい、シャトーがそびえたっていたのだ。
「ロスコー家所有のシャトーの1つでございます」
愛想のない運転手が、うっそりと答えた。
「もとは狩りのための国王の別荘として使われていましたが、17世紀末にロスコー家のものとなりました。フランス革命のドサクサで一度は失われましたが、この辺りの景観を愛された先々代が再び買い戻されたんです」
お城って、一体いくらくらいするんだろう。
運転手の説明を聞きながら真志がぼんやりそんなことを考えているうちに、リムジンは正門をくぐり、手入れの行き届いた芝と生垣の美しいフランス式庭園を通って、シャトーの正面玄関へと進んでいった。
そう言えば、フランス人で名字の前に『ドゥ』がつくのは貴族の家系だと、真志も聞いたことがあった。現在のフランスは共和国で、もと貴族といってももはや普通の人だが、中にはロスコー家のように優れた商才や政治力を発揮して莫大な資産を維持し続けた一族もあるということか。
(いくらなんでも、こんな家は考えてなかったなぁ。手土産にとはりこんで買ってきたジャンポール・エヴァンのチョコレートが、平凡に思えてくるよ)
普通に晩ご飯をご馳走になるだけの甘い気持ちで来たのに、真志はしょっぱなから鋭いジャブをくらった気分だった。
真志は、高級チョコレートの包みを胸の前で抱えながら、ガブリエルの執事という出迎えに現れた男の後について、邸の中をとぼとぼと歩いていった。
邸内も、深い赤と金を基調にしたアールヌーボー風の装飾で統一された豪華なものだ。廊下に飾られた高そうな花瓶にでもうっかり手が当たって落としてしまわぬよう、気をつけなければ。
「しばらく、こちらの部屋でお待ち下さい」
執事に言われるがままその部屋に入った真志は、びくっとなって足を止めた。彼の背中で、部屋の扉はすぐさま閉じられる。
「あ、あの、この部屋、間違ってませんよね?」
とっさに後ろに向かって問いかけたが、執事はもう行ってしまったらしい。
(いいのかなぁ。他にもお客がいるんだけれど)
この部屋だけで、真志のアパルトメントの寝室とリビングをあわせたより、もっと広いだろう。
高い天井には、すりガラスで出来た白い花のようなシャンデリアがある。クリーム色の壁と庭園に面して広く取られている窓のせいで、全体に明るく軽やかな印象だが、壁にかけられた風景画の油絵といい、いかにも年代ものふうな大時計やキャビネットといい、やはり豪華。
そして、中央には深い薔薇色のソファセットがあり、その広々としたカウチに、1人の男がゆったりと座っていた。
「ボン・ジュール」
いつまでも扉の前で立ち尽くしているわけにもいかないので、真志は男に向かって挨拶をし、ぎちこなく部屋の奥に入っていった。そうして、男の向かい側にあるソファの隅に、躊躇いがちに腰を下ろした。
男は長い脚を組むようにしてソファに身を預け、膝の上に広げた雑誌を興味深そうに読んでいる。一瞬見えた表紙で、有名な経済誌だと分かった。
フランス人にしては大柄な人だ。マッチョなアランよりは細身だが、肩幅は広く、剣術や乗馬で日頃鍛錬をしていそうな雰囲気で姿勢が実にいい。袖口にちょっとおしゃれな縁取りのある、ほとんど黒に近いグレーのジャケットの下にはくすんだ緑のハイネックのセーター。綺麗にとかしつけられた髪は、濡れたカラスの羽のように真っ黒だ。
「あの…」
改めて、この未知の相手に声をかけようとしたのだが、わずらわしげに上げた目でじろりと睨まれ、真志は口をつぐんだ。
黒髪の男は、真志などそこに存在しないかのように、再び雑誌に視線を落とした。
(何だよ、感じ悪いな)
超がつくほどの個人主義。フランスに渡るまでは、パリで会う人がこんなタイプばかりだったら嫌だなと、真志は思っていた。街角で言葉の不自由な外国人に道を尋ねられても、通じないふりをして無視しそうだ。
(ガブリエル、早く来てくれないかなぁ。何してるんだろ)
真志は、目の前の男をなるべく見ないようにした。窓の外から覗く庭園をぼんやり眺めながら、ガブリエルが早く現れてこの居心地の悪い状況から救い出してくれることを願っていた。
そんな時間がしばらく経った頃、真志はふいに鋭い視線を感じて、正面を向いた。
すると、雑誌を読み終えたらしい黒髪の男が、腕を組みながら、遠慮のない眼差しで真志をじろじろ見ていた。
(わ、こわっ)
その視線の鋭さに焦りながら、真志は顔を背けた。
(何か気に障ることでもしたのかなぁ、僕)
緊張した真志の耳に、正面のソファから微かなきしむような音が届いた。そして、躊躇いなく、まっすぐ真志に向かってくる足音。
「あ、あの…」
真志が振り返りざま声をかけるより早く、男は真志の隣にどさりと腰を下ろした。更に、真志の後ろの背もたれに片腕をかけ、彼の顔をじっと覗き込んだ。
「う…」
こんなふうに正面から顔を覗きこまれることになど、真志は慣れていない。何と声をかけていいのか分からない。かといって、露骨に顔を背けるのも失礼な気がして、真志は顔を引きつらせながら、未知の男とにらめっこをしていた。
よく見れば、男は大層なハンサムだった。年齢はアランと同じくらいだろうか。真志の姉辺りが見たら、『セクシーだ』と言ってのぼせあがりそうなくらい、整った顔立ちには甘さだけでなく精悍さも備わっている。
真志を興味深そうに見下ろす瞳は、深い森の色をしていた。
(あ)
その時、真志は男の体から漂ってくるほのかなコロンの香りに気がついた。
この香りは知っている。真志の大好きな洒落者の叔父が愛用しているコロンと同じだ。
「シャネルのエゴイスト?」
懐かしい叔父のことを思い出して、真志は緊張も忘れてにこりとした。
すると、それに誘われるように、冷たくとっつきにくかった男の顔にもゆるやかに笑みが広がった。こんな顔をすると、優しい、いい人にも見えてくる。それに、どこがどう似ているわけでもないのに、雰囲気が少しガブリエルを思わせた。
真志はほっと体の力を抜きかけたが、それも男の言葉を聞くまでだった。
「ふん。俺にはガブリエル程の東洋趣味はないが、たまにはあいつに倣って毛色の変わったネコを可愛がるのもいいかもな」
ねこ?
真志の視界が急に暗くなった。気がつけば、男の手が首の後ろに回され、真志は強引に唇を奪われていた。
(ぎっ…)
ぐっと体重をかけてくる男の体の下で、真志は腕を振り回してもがくが、相手は意に介さぬ様子で、無理やり真志を広いソファの上に押し倒した。
まさか自分は男に襲われようとしているのか。いくら察しの悪い真志でも、ここまでされてしまっては分からないわけにはいかない。
男に更に執拗に唇を吸い上げられて、呼吸困難を起こしかけながら、真志は死に物狂いで抵抗し始めた。
その手がうまく男の胸にあたった。男が一瞬ひるんだように身を引いた瞬間、真志は喉も枯れよとばかりに絶叫した。
「ぎゃあぁぁっ! だ、誰か助けてぇ、犯される!」
瞬間、部屋の扉が開き、真志が待ちわびた音楽的な声がした。
「シンジ、お待たせしてすみませんでした。おや…?」
真志は、男の体の下からほうほうの態で逃げ出し、床の上に転がり落ちた。
顔を上げると、扉の前で戸惑ったように真志とソファの上の男とを見比べている、ガブリエルの姿が見えた。
「ガ、ガブ…」
泣きそうな顔をした真志に向かって優しく微笑みかけると、ガブリエルは後ろのソファの方をきつい目で見やった。
「どういうことなんですか、ローラン?」
ローラン? ガブリエルの知り合いか?
「どうもこうもないさ、ガブリエル」
悪びれもせずに答える男の声を背中に聞いて、真志は我が身を守ろうとするかのごとく両腕でかき抱いた。
「ウィと応えたのは、その坊やだったんだぞ。それを、いざとなったら抵抗し始めて、訳が分からん」
真志は真っ赤な顔でそちらを見た。
「だ、誰が、あんなことしていいなんて言ったんだよ。あ、あんたが、いきなり、僕をお、押し倒して、キッ…キス…まで…」
自分で言って目の前が真っ暗になった。男に唇を奪われるなんて。
「俺が誘いをかけたら、にっこり笑いかえしたじゃないか。いかにも食ってくれと言わんばかりの顔で」
違う! 真志は頭を抱え込んだ。
「ふん。こんな所に場違いな坊やが入ってきて、しかもおまえを待っている様子だったから、てっきりおまえが街で拾ってきたペットの類と思ったんだが…違ったようだな」
ローランという男のフランス語は早くて聞き取りにくかったが、何とか分かった。拾ってきたペットとは、どういう意味なのだ?
「ローラン」
ガブリエルに低い声でたしなめられて、ローランは軽く肩をすくめた。
ガブリエルは真志の傍までやってくると、跪いて、慰めるように彼の肩を抱いた。
「すみません、シンジ、どうやら大変な誤解があったようですね。こんな失礼なことをしてしまって、何とお詫びをしたらいいのか…」
ガブリエルの穏やかな声の響きが傷ついた心にしみる。真志は、そっと肩を引かれるがまま、彼の胸に抱かれた。ガブリエルにはほとんど体臭はない。
「おいおい、ここは保育所か?」
何となく面白くなさげな、あざけるようなローランの声
真志はかっとなりかけたが、ガブリエルの手に頭を撫でられて、出そうになった罵声を飲み込んだ。
「これ以上私のゲストに無礼なまねをすると許しませんよ、ローラン」
「ゲスト?」
「ええ、あなたに紹介したい人がいると言ったでしょう? 今日は、そのためにあなたを呼んだんですよ。この人が有本真志です。私が見つけた、とても才能のあるシェフです」
「まさか、嘘だろう? こんなヒヨコに料理なんかできるのか?」
ネコだの、ペットだの、ヒヨコだの。一体、人を何だと思っているのか。
「ガ、ガブリエル、その人、誰…?」
ガブリエルの体にしがみ付いたまま、真志はやっとの思いでそう尋ねた。
「ああ、シンジ、本当はこんな形で紹介したくはなかったんですが」
ガブリエルは、真志を助け起こすと、ローランの方に向き直らせた。
相変わらずソファの上にふんぞり返ったローランの倣岸不足な眼差しに、真志は反射的に震え上がりそうになった。
「彼はローラン・ヴェルヌ。私の親族であり、私が社長をつとめるシャトーホテルとレストランを経営する会社、ルレ・ロスコーの副社長、実質的な統括責任者でもあります」
「ガブリエルって社長さんなの?」
「一応名目上はね。でも私は、今はアカデミーにかかりっきりですし、もともと自分の好きなことしかしないので、面倒な会社経営はほとんどローランに任せてしまっているんです。道楽者の社長なので、彼にはいつも苦労をかけています」
「おまえの場合は、その道楽が仕事になっているようなものだろう、ガブリエル?」
ローランの意味ありげな問いかけに、ガブリエルは喉の奥で低く笑った。
真志は、訳もなく胸の奥がざわめくのを覚えた。
ローランという男は、つまりガブリエルの右腕のような存在なのだろう。性格は悪そうだが、ガブリエルは信頼している様子だ。
「シンジ、さっきのことは、あなたにはとてもショックだったかもしれませんが、ローランを許してやってくれませんか?」
「えっ…」
「私はあなた方には仲良くしてもらいたいのです」
ローランと仲良く? できるわけがないと言いたかったが、ガブリエルにぎゅっと手を握りしめられ、真摯な顔で見つめられて、真志は嫌だとは言えなくなった。
「う、うん…ガブリエルが、そう言うなら…」
「シンジ、あなたは寛大な人ですね」
そう囁いて、ガブリエルは心底ほっとしたというように微笑んだ。そして、真志の足元に落ちていた高級チョコレートの包みに気がつくと、ローランとの乱闘のおかげでしわが入ってしまった、それを取り上げた。
「あ、それ、少しだけれど、お土産にと思って…」
「ああ、ジャンポール・エヴァンのショコラですね。私はこれに目がないんですよ」
ガブリエルには今更有難くも珍しくもないだろうし、ちょっとつぶれてしまったかもしれない。それでも、本当に嬉しそうに礼を言う彼に、真志はほっとした。
「ありがとう、シンジ。今、お茶の用意をさせますから、これも早速いただきましょうね」
真志の胸の中がほわんと温かくなった。ガブリエルといるといつもこんなふうに気分がよくなるのは、何故だろうか。
その時、真志は刺すような視線を背中に感じた。恐る恐る振り向くと、やはりローランが全く面白くなさそうに真志を見ていた。
そういえば、ガブリエルには謝ってもらっだけれど、肝心のローランからは一言も『すまない』という言葉を聞いていないことに、真志は今更ながら気がついた。
てっきり今日はガブリエル2人きりで過ごせるものだと考えていた、真志の当ては外れた。
ガブリエルは、この機会に真志をローランに引き合わせるつもりだったのだ。
アランだったら、ルレ・ロスコーの副社長に紹介されるなんて素晴らしいチャンスじゃないかと喜んだかもしれないが、真志はちっとも嬉しくなかった。
出会ってすぐに人を襲ってくるなんて、第一印象が悪すぎる。それにあれだけの狼藉をはたらいておいて謝りもしないとは、無礼千万もいいところだ。
(こんな嫌な奴を交えてお茶なんかしたくない。できれば、どこかに行って欲しいよ)
しかし、お茶の後、ガブリエルが素晴らしい絵画や調度品の説明しながら屋敷の中を真志に案内するのにも、ローランは同行した。まるで、ガブリエルの傍らに自分がいるのは当然だと言わんばかりの態度だった。
それに、真志の気のせいかもしれないが、ローランはガブリエルにちょっとべったり過ぎないか。王子様に仕えるナイト然として、地下のワイン倉に続く暗くて急な階段を下りていく際にはガブリエルの手を取って導くなど、いかにも恭しく丁寧で、真志に対する無礼な態度とは月とすっぽんだ。
ローランなんかを『騎士』と呼ぶのしゃくに触るので、むしろ『犬』と呼ぶことにしようと真志は思った。そうだ、主人以外には決して馴れない、しつけの行き届いた真っ黒なドーベルマン。
「シンジ」
ガブリエルに呼ばれて、シンジは我に返った。
「どうしました、ぼうっとして。お腹がすいたんですか?」
いつの間にか日も暮れ、そろそろディナーの準備ができる頃だった。
真志は、ダイニングの隣にあるウェイティングルームに通され、そこで軽い食前酒と共に簡単な突き出しを楽しんでいた。
「そうだねぇ。このお屋敷、すごく広いし、結構歩き回ったせいかな、さっきからお腹の虫がグーグー鳴ってるよ」
「それは頼もしいですね」
ガブリエルの目がすっと動き、この小部屋の壁の一面を占めている大きな油絵の上に止まった。
「そうだ、シンジ、この絵はあなたにも興味深いかもしれませんね」
真志は首をねじって、後ろの壁のその絵を見た。昔の宮廷の大きな晩餐を描いたものらしい。17世紀頃の国王の宴はとにかく豪勢で、贅を尽くした料理が、絶対食べきれるはずがないほど大量に供されたという。実際給仕人達が残った食事を外に売りに出して儲けた金を懐に入れていたという話もあるくらいなのだ。
「これは、17世紀の天才料理人ヴァテールによる、コンデ大公がルイ14世を招いて催された大饗宴の一場面を描いたものです」
「ヴァテールって、ホイップ・クリームを考案した人だよね…最後は自殺したっていう…」
3日間に渡って行われた、その饗宴では、現代の日本円に換算して3兆五千七百十四億円もの費用が投入された。その総指揮を取ったのが名料理人ヴァテールだったのだが、饗宴の最終日、手配したはずの魚が届かず、完璧な料理が作れないことに絶望した彼は自刃してしまったのだ。
「ヴァテールは誇り高い芸術家でした。不完全な『作品』を作るくらいならと、死を選んだんですね。実に見上げた料理人じゃないですか? その愚直なまでのプロ魂ゆえに、私は歴史上の人物の中で彼を一番尊敬しますよ」
「そうだねぇ」
絵の片隅に描かれたヴァテールらしい人物をうっとりと眺めているガブリエルを、真志はちょっと複雑な気分で見た。
料理に失敗する度にいちいち腹を切ったり指を詰めたりしていたら、真志の体は幾つあっても足りないだろう。
「ガブリエル様、食卓の準備が整いました」
使用人が呼びにくるのに、真志はガブリエルの後ろについて、隣のダイニングへと移動した。
さっきのヴァテールの絵ほどではないが充分大宴会ができそうな広さの食堂には、真志がこんなものは初めて見たというような長いテーブル。
「ここでは、アカデミー・グルマンディーズの定例会も催されるんですよ。ほら、壁にかけられているあの2枚の絵を見てください。先代主宰、私の祖父ジルと専属シェフのジャン・フィリップです」
緋色の緞帳の陰に仲良く並んだ2枚の肖像画には、ガブリエルに似た青い瞳をした上品な紳士と眼光鋭い壮年の美丈夫が描かれている。
「彼らは公私共に息のぴったり合ったパートナーでした。祖父は若いうちに妻を亡くしていましたが、その後独身を貫いたのは、実はジャン・フィリップと恋仲だったからです。当時はまだそれ程同性愛に世間は寛容ではなかったので、彼らの関係は公然の秘密のようなものでした」
「へえ……えっ?!」
あんまりさらりと言われたので、真志は危うく聞き流しそうになった。
「アカデミーを私に押し付けて、2人は今ブルゴーニュの田舎に引きこもって悠々自適の毎日を過ごしています。『体力の限界』なんてもっともらしい理由をつけて引退して、実は、2人きりで過ごす時間と場所が欲しかっただけなんですよ。30年も連れ添って今でもまだ恋の最中なんて、羨ましい話です。私も、いつかそんな相手と出会えればいいのですが」
ガブリエルは真志の方を見、目を細めるようにして微笑んだ。
「そ、そうなんだ…はぁ…」
フランス料理界の『神様』ジャン・フィリップ・レニエが同性愛者だったとは、びっくりだ。あんまり驚いたので、ガブリエルが向けてくる、何か言いたげな眼差しには気がつかなかった。
「席に着きましょうか」
溜め息混じり、ガブリエルは促した。
ぼんやりと先代2人の肖像画を眺めていた真志は、ローランの手に後ろから頭をはたかれ、よろめいた。
「い、痛いっ」
叩かれた頭を押さえながらローランを睨みつけるが、逆に噛みつかれそうなすごい目で睨みかえされて、真志はしょんぼり頭を垂れた。自分は何か粗相をしただろうか。
「前にもお話したように、今夜は、私が所有する、プロバンスのホテル・レストランのシェフにその腕を披露してもらいます」
そう前置きして、ガブリエルは、食堂に入ってきたまだ若い料理人を真志に紹介した。
「シェフ・ポワイエは、副料理長からシェフになって、まだ間もないんです。引退したもとシェフの推薦で抜擢された人ですが、研修に来るのは初めてなので、どんな料理を食べさせてくれるか、とても楽しみにしていたんですよ。よろしくお願いしますね、シェフ」
ガブリエルに声をかけられて、シェフは緊張と興奮半々といった顔でウィと答え、再び厨房に戻っていった。
「ねえ、こんな『研修』って、よくやるの?」
真志の問いかけに答えたのは、ローランだ。
「料理の質には、我が社は特に重点を置いている。だから、ガブリエルには料理人のチェックをしてもらっているんだ。時には、こんな形でシェフをしばらく手元において料理を評価するし、抜き打ちで現地のレストランを訪れることもある」
そうこうするうちに、最初の皿が出された。前菜はポワロネギのトリュフ風味のラビオリだ。フランスで食べるパスタはいつも茹ですぎのことが多いのだが、これは丁度いい食感だった。その次に出された、キャベツのポタージュも野菜の甘みが優しくて、ほっとする味だ。
(あれ?)
2皿目が出された後、真志はそのことに気がついた。
(ガブリエルの皿だけ、やけに分量が多い?)
目の錯覚ではない。ラビオリも真志たちが食べるよりはるかにボリュームがあったし、ポタージュは皿自体がゆうに一回りは大きい。まるでどんぶり鉢だ。しかし、そのことをガブリエルは無論ローランも気にした様子はない。
まさかと思ううちに、次の皿が来た。ヒメジの香草焼き。
(うっ)
真志は目を白黒させた。ローランと真志の前にはごく普通の皿が、そして、ガブリエルの前にだけはずっしり重たげな大皿が置かれたのだ。
そこに乗っているヒメジは、軽く4人前。
真志は動揺しつつ、シャンパンのグラスを口に運んだ。
「あ、あの…ガブリエル、今日は、何だか…いつもよりたくさん食べるんだね」
ボン・ヴィザージュでのガブリエルの大食漢ぶりも相当のものだったが、今夜はそれを遥かに凌駕する迫力だ。
「ああ、外で食べる時は、一応セーブしているんです。予約もなしに行った店をうっかり『食べつくし』て、営業妨害だと出入り禁止になってしまったら困りますからね」
ガブリエルの信じがたい発言を聞きながら、真志は、実に洗練されたマナーで彼が大皿のヒメジを着々と攻略していく様を見守った。
固形物はほとんど口にしない、霧か霞を食べて生きている天使みたいな姿をして、食うは食うは。一体、そのすっきり細身の体のどこにそれだけの食物を詰め込めるのだ。ガブリエルの胃袋は四次元にでもなっているのだろうか。
「これは、生のハーブの組み合わせが実にいいですね。オリーブオイルは、もう少し軽いものを使った方がいいかもしれない…あなたはどう思いますか、シンジ?」
ガブリエルの健啖ぶりに圧倒されて、すっかり食べることを忘れていた真志は、慌てて魚を口に運んだ。
「う、うん、僕は、ヒメジにはこのくらいのこってりしたオイルの方があう気がするけれど、後に続く料理にもよるかなぁ」
しかし、半分くらい食べたところで、溜め息をついて、真志はフォークを置いた。
「おや、シンジ、あまり食が進みませんね」
真志は、不思議そうに目を見開くガブリエルと己の皿の上に残った料理を見比べた。何かがつかえたように、喉元を軽く押さえた。
「何だか胸が一杯になっちゃって」
正面の席にいるローランを見やると、彼は平然と自分の料理を平らげ、給仕に新たに注いでもらった白ワインを持ち上げて、その香りを味わっている。真志の視線に気がついたのか、その切れ長の緑の目がこちらを向いた。
ローランが揶揄するような微笑を怜悧な顔にうかべるのに、真志はいたたまれなくなって目を逸らした。
「あの…アラン達に聞いたんだけれど」
真志は、気を取り直して、ガブリエルに話しかけた。
「ガブリエルに『おいしい』と言わせた料理人は、この業界で成功するって…それって本当って聞くのもなんだけれど、実際のところどうなのかなぁって思って…」
すると、ガブリエルは少し困ったような表情になって、ワインで喉を潤した。
「それは、多分にマスコミの喧伝によるものだと思いますよ。私が何とコメントしようが、もともと才能のある料理人なら周りが放って起きませんし、パトロンだってつくでしょう。正直言って、少し困っているんです。私の『おいしい』の一言がそんなに大層に扱われるものですから、うっかり言えなくなってしまって…アカデミーの主宰になんかなるものじゃなかったかもしれませんね。私がどこで何を食べたとか、そこで漏らしたコメントが、知らないうちにレストランガイドに紹介されたりするんですから、げんなりします」
「それは、ちょっと神経が休まらないかもしれないね」
「時々嫌にはなりますが…でも、この地位にあるおかげで、素晴らしい料理人と知り合い、才能のある若い人達を見付け出す機会がたくさん持てるのは役得だと思っていますよ。特に、自分の才能にまだ全く気がついていない人を手元に置いて育てるのは楽しいです。今夜シェフを務めてくれている、ポワイエのようにね」
「ガブリエルの下で働けるなんて、幸運なことだと思うよ。ガブリエルが経営するレストランで働こうと思ったら、競争率、すごいんだろうね」
「さて、どうでしょう。人によっては幸せとばかりは限らないかもしれませんよ」
「え?」
「私は、料理に関することとなると妥協を許しません。私の厨房でいい加減な仕事をしてもらっては困るんです。常に最高の料理を出せるようなコンディションに日頃から己を調整できる人、一皿ごとに魂を込めた最高の仕事ができる人でなければ、私の料理人にはなれません。私はとても厳しい監督者だと思います。一方で、常に努力をし向上心を持ち続ける人には、寛大な支援者でもあります」
今まで黙って真志とガブリエルのやり取りを見守っていたローランが、口を挟んだ。
「ルレ・ロスコーで働く料理人達は、ガブリエルを神のようにあがめると同時にひどく恐れているのさ、シンジ。例えば、こんな話がある。もう2年前になるが、リヨンにあるうちのレストランのシェフが、ガブリエルの逆鱗に触れて解雇されたんだ。彼は腕がいいと評判の料理人だったのだが、それ以来すっかり運にもこねにも見放され、料理業界から放逐された格好で消息不明になってしまった。一体、何が原因だったと思う?」
真志は眉根を寄せて考え込んだ。ガブリエルをそこまで怒らせるなんて、何をやらかしたんだろう。レストランの経費を横領でもしたのだろうか。
「奴は、ガブリエルが惚れ込むくらい技術は高かったんだが、1つだけ、料理人としては困った悪癖があってな。どうしても煙草がやめられない、ヘビースモーカーだったんだ。うちのレストランは、先代からの方針でテーブルはすべて禁煙、厨房のスタッフにもそれは徹底している。喫煙は料理人の味覚と臭覚を駄目にするし、それに、敏感な客には臭いが分かって不快な気分を味わわせることにもなりかねないからだ。だが、そいつは仕事の合間を縫って隠れて吸っていたんだな。それがガブリエルにばれた」
「タバコが原因で…やめさせられちゃったの?」
「再三にもわたる警告を無視したあげく、よりによって抜き打ちで店の料理のチェックに訪れていたガブリエルに、タバコの臭いのついた皿を出してしまったんだ。あの時のガブリエルの切れっぷりは、後々までの語り草だったな。『料理人にとって命とも言える舌を台無しにしてもかまわないほどタバコが好きなら、存分に味わいなさい』と言って、そいつの口をこじ開けて、火のついたタバコを舌に押しつけたのさ」
真志の手から、フォークがぽろりと落ちた。
舌に根性焼き?!
「あは」
真志は、とても自分のものとは思えない、うわずった声が喉から漏れるのを呆然と聞いていた。
「あはは、まさか、冗談だよね。そりゃ、うちの父親なんかも『タバコを吸う奴なんて料理人とは言えない、せいぜい調理師どまりだ』なんて言ってる口だけれど、いくらなんでも…そこまでは…」
冗談にして笑い飛ばせたら、どんなによかっただろう。しかし、真志の言葉に、ガブリエルはさも心外だというように断言した。
「料理に関することで、この私が冗談など言うものですか。私はいつでも真剣です」
普段の柔和な雰囲気から一変、厳しさをみなぎらせたガブリエルの顔は別人のようだ。優しい天使は、料理が絡むことになると鬼にも悪魔にもなるらしい。
しかし、根性焼きはやり過ぎではないか?
すると、真志の思いを読み取ったかのように、ガブリエルは少しも迷いのない口調で言った。
「考えて御覧なさい。例えばこれがプロスポーツの選手だったなら、自己管理を怠ったがために期待された成績を残せなければ、当然周りからの糾弾を受けるでしょう。チームスポーツであれば解雇されても当たり前です。それがプロの真剣勝負の世界というものです。そして、私は同じことを料理人にも求めます。彼らだって人間ですから、そのプライベートや嗜好についてまで私も口は出したくない。けれど、一端シェフスーツを着て厨房に立ったなら、妥協を許さないプロの気構えを持って欲しい。それができない人を、私は『シェフ』と呼ぶことはできません」
ガブリエルは、淡い小麦色のワインの注がれたグラスを目の前に掲げた。グラスの陰で、炯々と輝く青い目がすっと細まる。
「普通の人ならいざ知らず、仮にも『シェフ』と呼ばれる人間が神聖な厨房で喫煙にふけるなど、言語道断。そんな腐った舌など、焼かれて当然です」
真志はたじたじとなった。
「で、でも…それってちょっと犯罪っていうか…大丈夫だったの、そんなことして…?」
いかにも常識的な真志の疑問に、ガブリエルはおっとりと首を傾げ、傍らのローランを見た。
「政治的圧力という奴さ」と、ローランが意味ありげににやりと笑って、ガブリエルの代わりに答えた。
「せいじてき…あつりょく…」
真志は、小さな声で繰り返した。何だか恐くなって、黙り込んだ。
後から真志が知ったことだが、ガブリエルの親戚には政財界の大物が名を連ねている。中には現職の大臣もいるほどだ。
「ロスコー家のガブリエルに睨まれた料理人は、フランス国内では、少なくともまともなレストランでは二度と包丁を振るうことはできない。だから、ガブリエルに関わった料理人は、天国を見る機会を与えられる代わりに常に地獄落ちの危険も覚悟しなければならないと言われるんだ」
天国か地獄。プレッシャーのあまり真志の胃はきりきりと痛み出した。今まで思いつくままにガブリエルに出してきた皿の数々が、彼の頭の中をぐるぐると回っていた。
もしかして、少しくらい褒められたからといって、真志ははしゃぎすぎていたのではあるまいか。根性焼きはまっぴらだ。
「あなたが喫煙などしないことは知っていますよ、シンジ」
真志の心を読むのが、ガブリエルは本当にうまい。
「それどころか、整髪料もシャンプーの類もなるべく無香料に近いものを使っていますね。あなたの体からは、あなた自身の清潔なほのかに甘酸っぱい体臭しかしない」
「う、うん…」
一応安心してもいいらしいが、まだおっかなびっくり、真志は穏やかさを取り戻したガブリエルの顔を凝視した。
「どうしました?」
「あの…ガブリエルって、思ったより、ちょっと…変わった人なんだねぇ」
「ちょっとではなく、大変変わっているのだと思いますよ」
ガブリエルは、クスリと鼻で笑った。
「それを言うなら、あなたもね、シンジ」
揶揄するような口調で真志を戸惑わせた後、ガブリエルはついと視線を逸らし、何かしら遠い目になって考えに耽りだした。
真志は、彼が何を考えているのか気になった。逆鱗に触れた者は容赦なく切り捨てるガブリエル。だが、件の料理人については彼自身まだ心残りがあるようだ。
「ねえ、ガブリエル、その…さっき言ってた、あなたに解雇されたシェフって―」
思いつくままに真志が問いかけた時、給仕達が次の皿を掲げて食堂に入ってきた。
ドーバー産舌平目のオーブン焼きアーモンドミルク風味。舌平目に添えられたアーモンドのペーストの甘さと香りが何ともいえない。
ちらりとガブリエルの皿を見やると、やはりそこには舌平目の切り身がぎっしりと盛られていた。さながら木の箱に隙間なく詰められたご贈答用の明太子のようだ。
ぐっと喉を詰まらせかけて、真志は慌ててグラスのワインを飲み干した。
食前酒から始まって、シャンパン、白ワインが2種類と結構飲んでいたので、真志は酔いが回ってきていた。出されたワインのどれを取っても真志には高嶺の花の最高級品なのでいい勉強にもなったが、このままだとコースの最後には酔いつぶれてしまうかもしれない。
口直しのレモンのソルベが出た後は肉料理だ。扉が大きく開かれ、ワゴンに乗って現れたのは見事な丸鶏のローストだった。
「これは、素晴らしいですね」
あれだけ食べてもまだ食べる気満々のガブリエルが、ふっくらと美しい唇を舐めた。
銀の大皿に鎮座ましましたのは、最高の肉質と謳われるブレス産の鶏だ。ローストされて尚ぷつぷつと毛穴の立った黄金の肌の美しさといい、ふくよかな胸肉、引き締まった腿といい、まさにナイスボディだ。
「ねえねえ、詰め物は何? ファアグラ? 贅沢だなぁ!」
真志も思わず身を乗り出した。これだけの鶏には、パリの市場でもちょっとお目にかかれない。
「カメラを持ってくればよかったよ。記念写真を撮れたのに」
はしゃぐ真志に、ローランが冷めた声で呟いた。
「…日本人」
給仕が鶏を切り分けるため恭しくカービングナイフを取り上げたその時、食堂の扉が叩かれ、真志も知っている執事が遠慮がちに顔を出した。
「お食事中申し訳ありません、ガブリエル様、お電話が入っております」
ガブリエルの美しい顔がうっすらと朱に染まった。怒ったのだ。
「食事中には電話を取り次ぐなと言ったはずですが」
「申し訳ありません。ですが、南アフリカのお父様からの国際電話でしたので」
ガブリエルはチッと舌打ちをすると、名残惜しげに席から立った。
「ディナーの最中に中座して申し訳ありません、シンジ。用件を聞いて、すぐに戻りますから」
そして、未練ありげな一瞥をおいしそうな鶏に向けると、彼はいらだたしげな足取りで食堂から出て行った。
「ああ、取り分けるのもガブリエルが帰ってくるまで待ってくれ。いいから、次の間で控えていろ」
ローランの指示に従って、給仕達も出て行った。
そして、広い食堂には真志とローランの2人だけが残された。
そう、ローランと2人きり。意識した瞬間、真志の体をしばらく忘れていた恐怖心が襲った。
「あ、あの…ガブリエルのお父さんって今南アフリカにいるんだ…お仕事?」
沈黙を恐れるかのように、真志はローランに話しかけた。
「南アフリカ共和国の駐在大使だ」
こともなげなローランの答えに真志は絶句した。
ガブリエルのお父様は大使閣下であらせられますか。『お父さんは洋食屋』と答えるのと随分響きが違う。
(何だか、世界が違うなぁ。このお城も出てくる料理もそうだけれど、普段の僕には全く縁のないもので、ここにこうしていること自体が作り話か夢のようで…)
真志は嘆息した。
(ボン・ヴィザージュでガブリエルに僕の作った料理を食べてもらったり、楽しく話し込んだりしていた時には、こんな緊張や違和感を覚えなかったのにな)
一抹の寂しさが真志の胸を過ぎったが、それが何なのか、彼にもよく分からなかった。
(やっぱり場違いだよね、僕)
ふと嫌な気配を感じで顔を上げると、ローランがワインのグラスを傾けながら、あの遠慮のない鋭い目で真志を眺め回していた。先程の恥ずかしい一件を思い出して真志が顔をこわばらせると、ローランは薄く笑った。
(くそっ! 僕はワインのつまみじゃないぞ、このサド男!)
怒った真志は、ローランから視線をもぎ離し、目の前の見事な鶏に意識を集中することにした。
そのうちガブリエルも帰ってくるだろう。それまでは、この鶏が真志の心の友だ。
全く、見れば見るほど素晴らしい鶏だ。まさに銘鶏。その身からは一種の風格か気品さえ漂っている。
ぐさり。大きなフォークが鶏のうっすらと汗をかいた胸に突き刺さった。
一瞬呆然となった真志が恐る恐る顔を上げると、不適な笑みを端正な顔をうかべたローランが席から立ちあがっていた。鶏の胸を取り分け用の大きなフォークで串刺しにしながら、彼は怯える真志を残酷な眼差しで弄った。
「ゲストを退屈させてはいかんからな。ここで1つ面白い話をしてやろう、シンジ」
あんたの話なんか聞きたくない、お願いだから放っておいてと、真志は叫びたかった。しかし、うかつなことを言うと今度は真志の胸が串刺しにされそうで、恐くて言えなかった。
そんな真志の恐怖を味わうかのように、ローランは目を半分閉じてすっと息を吸い込んだ。そして、生徒に教えを授ける教師のようなもったいぶった口調で講釈を垂れ始めた。
「さて、肉料理というと、そこには常に『血』と『死』のイメージが付きまとうことは否定できない。肉食は本質的暴力性を持つものなんだ」
ローランは串刺しの鶏を大皿ごと手元に引き寄せた。
「そして、この暴力性は時として背徳的な性イメージと結合する。例えば少年愛と肛門姦だ」
話についていけない真志が困惑しつつ見守る中、ローランは見事な手際でくるりと皿を回転させて、真志の方に鶏の尻を向けた。
「さすがにガブリエルのために取り寄せられた鶏だけあって、肉の若さも柔らかさも申し分ない」
突き刺さったフォークを胸から抜いた。衝撃に、鶏がぶるっと震える。
「では、次に我々がすべきことは何か。それは、肉に苦味がないかどうかを確かめることだが、そのための手っ取り早いやり方を教えよう」
そして、真志に見せ付けるように己の右手の長い人差し指を立てると、やにわに鶏の肛門にねじ込んだ。
「ひっ」
真志は思わず椅子の上で小さく跳ね上がった。
「こうやって、肛門に指を差し込み、大きく息を吸いつつ、その指を舐めるのさ」
ぐるりと鶏の中で指を回した後抜き取ると、ローランは油に光った指を口に含んで舐めた。
「実に、素晴らしい」
ローランは真志を横目で眺めると、ウィンクした。
真志は、目の前で乱暴狼藉にあっている鶏にも負けないほどだらだらと油汗を流していた。
そんな真志にかまわず、ローランはテーブルに残されたカービングナイフを優雅に取り上げると、鶏の腿の付け根にぴたりと押し当てた。
「愛の極地とは、愛する相手を殺すことだ」
ローランは一気に鶏の腿肉を切り裂いた。胸をフォークで押さえ、外科医並みの見事な手さばきで、切り分けていく。鼻歌混じり、実に嬉々として、腿を切り分け、手羽をもぎ離し、胸肉を胸骨にそって引き剥がした。
「そして、食べることで愛する者は己と一体となる」
真志は、ローランの手でばらばらにされた鶏の成れの果てが目の前に置かれるのを、うつろな眼差しで眺めていた。
「アーメン」
さばいた鶏を皿に取り分け終えたローランは、再び席に着いた。そして、目の前で完全に凍り付いている真志に向かって、とどめとばかり、残酷な揶揄をはらんだ声で囁いた。
「シンジ、おまえの肉はさぞかし甘くて柔らかいことだろうな?」
真志は、鼻の奥がつうんとなり目がしばしばするのを意識した。もう限界だと思った瞬間、食堂の扉が開かれた。
「お待たせしました、シンジ! さあ、早速その素晴らしい鶏をいただきましょうね」
真志は椅子を後ろに倒して席から立ち上がると、だっと駆け出した。
「ガブリエル、ガブリエル、ガブ…!」
母鳥の翼の下に逃げ込んでいく子鴨のように、真志はガブリエルの後ろに隠れた。
「シンジ?」
がたがたと震えながら背中にしがみ付く真志に戸惑いつつ、ガブリエルは頭をめぐらせ、何事もなくテーブルについているローランに向かって問いかけた。
「ローラン?」
ローランは軽く肩をすくめた。
「俺は何もしていないぞ。シンジに、鶏の肉質の調べ方と切り分け方を教え、実演してやっただけだ」
「本当ですか、シンジ?」
ガブリエルは気遣わしげに真志の顔を覗き込んだ。
「そ、それは本当だけれど…ただやり方が…」
ローランがほのめかした淫猥なイメージに、真志は言葉を失った。別に真志が何かされたわけでもないのに、とても屈辱的な気分だった。
「テーブルに戻れますか? それとも、気分が悪いなら部屋を用意させますから、そこで休みますか?」
真志は心配そうなガブリエルの顔を見、それから、面白そうにこのやり取りを見守っているローランを見た。唇を噛み締めた。
「ううん、平気だよ。ありがとう、ガブリエル。それにさ、ちょっとくらいびっくりすることがあったって、それでこの鶏を諦めるなんて馬鹿馬鹿しいからね」
精一杯の威嚇を込めて真志はローランを睨みつけたが、彼はふんと嘲るように笑っただけだった。
晩餐は再開された。
ローランからあれほどの目にあわされたにもかかわらず、期待の鶏は清々しいまでのおいしさだった。
「ねえ、シンジ」
最高の鶏とそれにふさわしい最高のワイン、1971年のシャンベルタンを拝むように味わっていた真志は、ガブリエルに声をかけられて小さく咳込んだ。
「一度聞いてみたかったんですが、あなたが料理人になろうと思ったのは、どういうきっかけからだったんです? 実家がレストランだということは前に聞きましたが、あなたがこの世界に入ろうと思ったのは、どうして…?」
「ううん…」
真志は、かなり酔っ払っていた。セーブしようと初めは思っていたのだが、むかつくローランの存在を忘れるために、どうしても飲まずにはいられなかったのだ。おかげで、今の彼は雲の上を漂うかのごとく上機嫌だった。
「フランス料理をやろうと思ったのは…そうだね、貿易会社をやってる僕の叔父さんが結構な食通でね。僕が子供の頃から料理に興味を持っていることを面白がって、色んな名店に連れて行ってくれたり、おいしいキャビアやフォアグラなんかでも惜しげもなく食べさせてくれたりしたんだ。それで、本格的なフランス料理を学びたいって、いつの間にか思うようになったんだよ」
シャンベルタンをごくり。
「僕がフランス留学をしたいって言い出した時も、母さん達を説得してくれたんだ。それにお金の面でも助けてもらって…だから僕、叔父さんにはすごく感謝しているよ」
真志は急に泣き出した。どうやら、少し泣き上戸が入ってきたらしい。ガブリエルが差し出したナプキンで目元をぬぐった。
「そう、あなたがフランス料理に興味を持ったいきさつは分かりました。でも、あなたの原点を私は知りたい。…あなたが料理を作る喜びを知ったのは、それを一生の仕事にしようと思ったのは、いつですか?」
ぼうっとした頭でガブリエルの穏やかに促すような声を聞きながら、真志は、新たにグラスに注がれたシャンベルタンを飲んだ。
「…おい」
明らかに飲みすぎの真志をローランはとめようとするが、ガブリエルがそれを制した。
「ううん…ううん…」
グラスを両手で持ったまま、真志は頭をぐらぐら揺らせて、考え込んだ。
「いつだったかなぁ…そうだねぇ…ううん…」
また、ごくり。
「あ、そうだ…そう言えば、こんなことがあったよ」
はたとなって、真志は話し出した。
「僕が小学校の6年生の時だよ。読書の時間ってのがあったんだ。でもね、僕は料理に関係しない本にはあまり興味はなかったから、その時間はいつも退屈だった。おまけに、それは給食の前でね。お腹がすいて、そっちばかりが気になってたんだ。でも、ある時、先生から渡された本を何気なく読んだら、すごく気になる料理が出てきたんだよ」
「本?」
「うん、作者は誰だったかな…ダザイだったかな…『芋粥』って話だった」
「ああ」
ガブリエルの青い目が輝いた。
「私も知っていますよ」
「給食の前でお腹がすいてることもあって、僕はその話の中の芋粥が食べたくて仕方がなくなったんだ。頭の中に、そのイメージが強烈にうかんだよ。釜に一杯の芋粥が、甘い湯気をたてているんだ」
ちょっと思い出して、真志は鼻をひくひくさせた。
「家に帰っても、ずっとそのイメージが頭にこびりついててね。それで、自分で作ってみようと思ったんだ。ちょうど、その時田舎から送ってきたいいサツマイモがたくさんあったからね。で、適当に切って、お米と一緒に炊いて粥にしたんだけれど…頭に描いていたものとは違ったんだ。もっとおいしい筈なのに、どうしておいしくないんだろう。どろりとしたお粥とごろごろ入っているサツマイモはなじんでなかったし、味もなんだかういてた。それに、もっと甘い味がするはずなんだ。それでね、サツマイモを別に炊いて、米粒くらいの大きさが残るくらいにすり潰したものを、後からお粥に足してみたよ。食感はこれでよくなった。けれど甘みがやっぱり足りない。それで、蜂蜜を少しだけ足すことを思いついたんだよ」
真志は会心の笑みをうかべた。
「これが当たりだったんだ。蜂蜜のおかげで、普通のお米が高級米みたいにすごくおいしくなって、それにその甘みはサツマイモともよく馴染んだ。あんまりよくできたから、もう一度多めに作って、それを、帰ってきた家族に食べてもらったんだ。そうしたら、皆すごく喜んでくれてね。おいしいね、こんなものを一人でよく作ったねって褒めてくれた。それが…何だかすごく気持ちよかったんだよ。僕の作った料理をおいしいと言って食べてくれる家族の顔を見ながら、僕はとても幸せだった。その時だよ、ああ、僕は料理をやろう、もっとたくさんの人においしいと言ってもらえる料理を作る、料理人なろうと思ったんだ」
飲み干したグラスをテーブルに置き、真志は小さくげっぷをした。
「それがあなたの料理人としての原体験なんですね」
ガブリエルの柔らかな声に真志が顔を上げると、彼は何だかとても嬉しそうに微笑んでいた。素晴らしい発見をしたとでもいうかのごとく、澄んだ青い瞳は無邪気な興奮に輝いている。
「私にも、こんな話がありますよ」と、ガブリエルが続けた。
「私が13才の頃です。ある日本の小説を読んで、その中に出てくる食べ物に好奇心を覚えました。それで、父の知人の日本文学研究者に尋ねたり、周りにいる料理人に片っ端からあたったりして、その料理を再現してくれるよう頼んだんです。ですが、誰に作ってもらっても、何だかピンとこないものばかりでした。少なくとも、私ならこんなものをお腹一杯食べたいとは思わないだろうと」
「あ、もしかして、『芋粥』?」
「そうですよ。ただし、作者は太宰治ではなく、芥川龍之介です」
「あは。だって、僕、料理以外のことには興味ないから。でもさ、何でフランス人のガブリエルがそんなに日本の小説に詳しいのさ。おかしいよ、あはははっ」
真志は、お腹を押さえて、大いに笑った。笑い上戸も入っているようだ。
「その芋粥だけれどね」
ふと思いつくままに、真志は言った。
「後からよく調べてみたら、芋は芋でも山芋を使ったもので、それに、どうやら今で言うお米の粥じゃなくて、山芋を甘く煮た甘味のようなものだったらしいんだ。でもね、あの時、お腹をすかしていた僕が頭の中でイメージした芋粥、温かくて、ほんのり甘くて、お腹がくちくなる芋粥は、やっぱり、あのサツマイモのお粥だったんだよ。皆がおいしいと言って食べてくれた、あの芋粥なんだよ」
「分かりますよ、シンジ」
理解に満ちたガブリエルの笑顔に、真志はとても幸せな気分だった。先程覚えた孤独や違和感は、真志の心からきれいに消え去っていた。邪魔なローランも豪華で広すぎる食堂も、今の真志には見えなかった。目の前で満足げな微笑をうかべているガブリエルと真志しか、ここには存在しなかった。
『料理』という世界を真志と共有できる、唯一無二の相手であるかのようだった。
「私も、あなたの作った芋粥を食べてみたい。私のために、一度作ってくれませんか?」
「いいよっ。ガブリエルが食べたいって言うんなら、実家に頼ん、最高の鳴門金時と魚沼産のコシヒカリを送ってもらうよ。ガブリエルがもう見たくないって言うくらい、たくさんたくさん作ってあげるからっ」
真志は舞い上がった。ぐんぐんと気持ちが急上昇し、ついに成層圏を越えた、というような解放感を覚えた。
「…デザートを」
ローランのむっすりとした声が給仕に指示を与えるのを遠い世界から聞こえてくる雑音のように聞いたと思った瞬間、真志の意識は途切れた。
ついに酔いつぶれたのだ。
「馬鹿か、こんなになるまで飲むなんて…」
「シンジの責任とばかり言えませんよ。それにしても、デザートまでもたなかったのは残念でしたね、シンジ」
食堂の片隅のソファに寝かさせているらしい、真志は夢とうつつの間を行ったりきたりしながら、そんな声を聞いていた。
「寝室の用意ができたようですから、今運んであげますね」
幼い子に言い聞かせるような声でガブリエルが囁いた、瞬間、誰かが真志の方に身を傾け担ぎ上げようとした。
鼻についた『エゴイスト』の香りに、真志はほとんど本能的に腕を振り回して抵抗した。
「ローラン、シンジが嫌がっています。私がやりますから、どいてください」
ガブリエルは、スプーンより重いものは持ったことありませんって顔をしているくせに、力持ちだった。彼が日頃摂取しているカロリーを考えれば、これくらいの馬力はあって当然かもしれない。
優しい腕が正体をなくした真志を軽々と『お姫様だっこ』して、どこかへ運んでいく。
真志はまた少しうつらうつらしたが、次いで、クッションのきいたベッドに下ろされた所で、浅いまどろみから浮上した。
真志を見下ろしながら、何者かがひそひそと囁きあっている。
「…まさか本気じゃないだろうな。こんな子供に…なんて、無理だぞ。…とてもじゃないが、ふさわしいとは言えない…おまえにも…アカデミーにも……」
「シンジは確かにまだ幼いけれど、私は彼が将来なるだろうものに期待をかけているんです。それに…完成された人よりも、むしろ未熟で成長過程にあるような人の方が、私にも楽しみがありますからね。悪い部分は取り除いてよい部分だけを伸ばすよう導きながら理想の…を自ら作り上げるというのは…」
ガブリエルとローランだということは分かったが、その声は遠くなったかと思えば近くなり、聞き取れたとしても、今の真志にはその意味を斟酌することはできなかった。
「随分といれこんだものだな。そのくせ、まだ一度も手をつけてないなんて、おまえらしくもない。この坊やだってまんざらでもない様子なんだから、遠慮などせずさっさと食ってしまえ。全く、じれったいな」
「あなたのようにせっかちでは、恋の駆け引きを楽しむゆとり何もありませんよ。それよりも、ローラン、私はまだ許していないんですよ。よくも、シンジにキスなどしましたね」
「…あれは事故だ」
「懲罰ものですよ?」
「う…すまん…」
「で、どんな味がしたんです?」
「そうだな…ジャンポール・エヴァンのショコラの味、とでも」
ローランの意味ありげな低い含み笑いに、ガブリエルも同じような笑い声で応じた。
「そそりますね」
真志は、ふいに緊張を覚えて瞼を上げかけるが、優しい手に額を触れられて目を閉ざした。
寝台が微かにきしむ音がした。
真志の頬に柔らかな髪が触れ、次いで、唇を温かく濡れたものが覆った。
真志がはっと息を呑むと、それは離れ、なだめるようにしながら優しく真志の唇をついばんだ。ふっくらと柔らかくて気持ちがいい。真志が、もっととねだるように唇を突き出すと、楽しげな笑い声が聞こえた。下唇に軽く歯を押し当てられた。甘い疼きがそこから広がって、真志は微かに身震いをした。かと思うと、唐突にそれは遠ざかっていった。
「本当に甘い…」
真志の意識はふわふわと漂っていた。お酒のせいばかりではなく、本当に夢心地だった。いや、こんなことは夢に違いない。
「おやすみ、シンジ」
天国から響き渡る美しい音楽のような声を聞きながら、今度こそ、真志は夢の世界に飛び立っていった。