温かい皿

第三の皿 poissons
恋する舌平目




 ガブリエル・ドゥ・ロスコーについて、巷では、ある噂が囁かれている。
 若すぎる新主宰に当初は疑いの目を向けていたアカデミーの会員達は、やがて先代に勝るとも劣らないガブリエルの才能に気づき、彼を認め受け入れるようになった。
 月1回の定例会のテーマも演出も、そこで出される料理のどれ1つを取っても賞賛に値するものだった。
 定例会の料理を受け持つシェフの名は当日まで明らかにされないという点も、人々の興味をそそった。
 実際、ガブリエルの指揮のもと執り行われた最初の定例会は、ゲスト達をあっと言わせた。今もっとも注目されている三ツ星シェフ、気難しい天才として知られるジェラール・パルデが、ピレネー近くにある自分のレストランの厨房を会場にそっくりそのまま再現することを条件に腕を振ったものだからだ。
 その後も数々の名店のシェフ達が、アカデミーのために料理を作った。時には、全くの無名の料理人がシェフとして選ばれることもあったが、その料理はどれも素晴らしく、こんな名料理人を発掘してきたガブリエルの手腕に会員達は感嘆するのだった。
 そして、ここに1つの問題点と共に例の噂が持ち上がった。
 現在のアカデミーには専属シェフがいないということだ。そう、先代主宰ジル・ドゥ・ロスコーと共にアカデミーの二本柱だった、シェフ・ジャン・フィリップ・レニエにあたる存在を今のアカデミーは欠いていた。
 だからこそ、ガブリエルは今日も食べ歩いている。
 フランス中の名店、穴場と言われる店を訪れ、料理が気に入れば定例会におけるシェフを依頼しながら、彼はただ1人のパートナーとなるべき『私の料理長』を探しているのだと―。




「シンジには、何か悩み事があるのでしょうか?」
 何やら見透かされたようで、真志はぎくりとした。
 今夜もガブリエルに乞われるがまま『お任せ』の料理を真志は作ったのだが、コースが終わってしばらくして、彼に呼ばれたのだ。
「あ、分かります?」
 テーブルの傍で不安そうに立ち尽くす真志に、ガブリエルは優しく頷き返した。
「この料理ですよ。あなたには集中力を欠くと味つけが濃く雑になる癖がある。今夜のあなたは上の空でこの皿を作ったんでしょうね」
 穏やかな表情をして結構辛辣なことを言うガブリエルに、真志は赤い顔をしてうつむいた。 
「すみません。今朝方、実家から電話をもらったんです。それで、父親とちょっとした口論になっちゃって」
 ガブリエルは、問いかけるかのごとく首を僅かに傾げた。
「あ…すごく個人的な話なんですけど…実は今、僕、帰国するか、それともパリに残って料理修行を続けられるかどうかの瀬戸際なんです」
「ほう」
 ガブリエルの青い目に、一瞬激しい光がよぎった。
「それは、聞き捨てなりませんね」
 真志は悲しそうに顔をしかめた。
「今帰ったら働き口もちゃんと世話してやれるけれど、これ以上の我がままを言うのならもう父さんは知らんって、叱られました。いつもはあんなふうに怒鳴ったりしない人なのに、びっくりした…でも、それで、ああ心配かけてるんだなって分かっちゃって。だって僕は、料理学校でちゃんとした基礎を学んだら、すぐに帰国する予定だったんです。何もここでこんな料理修行をしたり、ましてや自分の店を出してどうのなんて考えていたわけじゃない。傍から見ていて行き当たりばったりで危なっかしいのは、当たり前ですよね」
「本当に、ここで一人前になるまで修行を積む気はないんですか?」
「憧れがないわけじゃないけど、僕なんかがそこまでしていいんだろうかって気がして。アランがいるから、オーナーがいるから、こうしてここで料理人の真似事みたいなこともさせてもらえるけど、彼らの庇護がなければ、誰も僕みたいなタマゴに料理なんかさせてくれませんよ」
「あなたは、そんなに自分の料理に自信がないんですか?」
 とがめるように響きを帯びたガブリエルの声に、真志は思わず顔を上げた。
「この私に、自分でも自信の持てないような料理を出していたんですか、あなたは?」
 真志は慌てて首を横に振った。
「違う、そんなことない! おいしいと思う! 自分で食べておいしくないものをお客様に出せるわけがないよ! でも、僕がおいしいからといって、他の人も皆おいしいと思ってくれるかというと、自信ないんだ…僕の味でやっていいのか、受け入れてもらえるか…ましてや、ここは日本じゃないし…」
「あなたに必要なのは、経験を積むために必要な場所と時間ですよ」
 厳しかったガブリエルの顔が、ふっとやわらいだものになった。
「たぶん、今のままのあなたでは、日本に帰ったところで同じことを言っていると思いますよ。あなたのお父様はレストランを紹介してくれるそうですが、あなたはその店についてどのくらいのことを知っているんです? オーナーの方針や厨房のスタッフは? 例えフランス帰りだからといって、新人のあなたにどのくらい自由なことをさせてもらえるのでしょうか」
 真志はぐっと言葉に詰まった。そう言えば、そのレストランには何回か食事に行ったことがあるだけで、内部については、真志は何も知らなかったのだ。
「あなたは、ボン・ヴィザージュでの仕事に満足していないのですか?」
「そんなことない! ただの見習いの僕にここまで自由にさせてくれるオーナーなんて、他にはいないよ! 僕のアイディアも面白いって言ってくれて、いつも適切なアドバイスをくれて、厨房の雰囲気もすごくいいし、こんな場所、きっと他に探したって見つからない…」
 自らの言葉に、真志は愕然となった。
「何だ、あなたが一番よく分かっているじゃないですか」 
 ガブリエルは悪戯っぽく微笑んで、シャンパンを一口飲んだ。
「あなたはたぶん、いつまでここにいられるかが心配なだけなんですよ。ボン・ヴィザージュとここの仲間達を失った後どうすればいいのか考えて、不安なんです。けれど、いつか失うかもしれないものについて、今あれやこれやと頭を悩ますのは愚かですよ、シンジ。ここにいられることが幸運なのだと分かったら、自分からあえてそれを捨て去ることはないでしょう」
「でも…」
 ガブリエルの指が袖を引っ張るのに、真志は、いいのかなと思いつつ、彼の隣の席に腰を下ろした。いつの間にかディナータイムも過ぎ、店内に他の客は残っていない。
「ね、あなたの夢は何ですか?」
 真志の顔を覗き込むようにして唐突にそんなことを尋ねてくるガブリエルの美しい顔に、真志は一瞬息がとまりそうになった。心臓が急に激しく打ち始める。
「ゆ、夢…?」
 自分でも奇妙なくらいうろたえながら、真志は、無邪気そのもの微笑をうかべたガブリエルの顔を凝視した。魔法めいた不思議な力を秘めた青い瞳に呪縛されて、真志は瞬き一つすることも出来なかった。
「僕の夢…は…」
 ふいに、真志は胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを覚えた。我ながら驚くほど激しい感情だった。
「いつか…僕の料理をたくさんの人に食べてもらって、僕の料理でその人たちのことを幸せにできるような…そんな料理人になりたい…」
「料理で人を幸せに…」
 ガブリエルが、ゆっくりと繰り返した。
「なれますよ、あなたなら」
 真志はとっさに目をしばたたいた。問いかけるような顔をする彼に向かって、ガブリエルはゆったりと頷いた
「夢とは、いつか現実になるべく育まれている卵のようなものです。それが無事に孵るかどうかは、温めているあなた次第。あなたがせっかく抱いた夢を大事になさい、シンジ。あなたの自信のなさや気の弱さが足かせになっているのは明らかですが…こればかりはあなた自身が克服するしかありません。あきらめた時に、夢の卵は死にます。どうか、努力する前から投げ出すことだけはしないでください。あなたの料理を愛する者として、それだけはお願いしますよ」
 穏やかにかきくどくガブリエルの真摯さに、真志はとっさに心臓を突かれたような気がした。
「あ…」
 のぼってきた熱い感情に頬を紅潮させ、唇を震わせて、真志はガブリエルに何かを言いかけるが、うまく言葉にすることはできなかった。喘ぐように息をし、心のうちで呟いた。
(夢の卵)
真志は感極まったように目を閉じた。
(僕の夢が叶うかどうかは、僕次第…)
 ドキドキいっている胸の辺りを真志は押さえた。顔も火のように熱かったが、別に緊張しているわけではなかった。何だか酒にでも酔ったような不思議な幸福感を感じた。
「変なの…ムッシュ・ロスコーって、まだ会って一月くらいにしかならないのに、僕のことをすごくよく分かってるみたいだね。昔からの知り合いみたい。あんまり図星をさされてびっくりしたよ。それに…なんでかなぁ、僕、あなたの言うことだと、素直に信じてしまいそうになるよ」
 真志は照れくさそうに笑った。
「何故だか教えましょうか?」
「え、何か種明かしがあるの?」
 ガブリエルの優雅な手が、真志の作った皿の方を示した。
「私はあなたの料理を食べたからです。そうすることで、あなたを、有本真志を知ったんですよ」
「えっ?」
 ガブリエルはテーブルの上に軽くひじをついて、手のひらをそっと合わせると、幾分挑みかけるような口調で言った。
「料理を食べれば、それを作った人がどんな人間であるのか、私には分かることができる。シンジ、あなた自身も知らない本当のあなたを、言いあててみせましょうか?」  
 真志は当惑した。
 ガブリエルの謎めいた表情からは、彼が本気なのか冗談を言っているのか測ることはできない。だが、その冴え返った青い瞳が真志の隅々まで見通しているとしても、少しも不思議ではない気がした。
「ああ、そうだ、シンジ」
 ガブリエルの声の調子が、再び打ち解けたものに変わった。
「いつも私の無理を聞いて即興料理を作ってもらって、私はとても感謝しているんです」
「そんな、感謝なんて…僕の方こそ、むしろ感謝しないといけないくらいなのに…」
「ふふ…それでね、そのお礼に、あなたを我が家のディナーに招待したいと思うのですが」 
「え、ムッシュの家の晩ご飯にですか?」
「ええ。あ、でも私が料理を作るわけじゃないですよ。前にも言ったとおり、私の料理は最悪なんですから。今度、私が所有するプロバンスのホテル・レストランのシェフが、研修がてらうちで料理を作ってくれることになっているんですよ。彼も若いですが、なかなかいい料理人なんです。きっと、あなたにとっても勉強になるでしょうから」
「あ、それは…すごく興味はあるけれど…い、いいんですか、そんな…」
「もちろんです。それに、私1人で彼の料理を食べるのも、何だかもったいないですしね」
 勉強になると思ったのか、真志は目を輝かせた。
「わあ、本当にいいんですか、ムッシュ・ロスコー…ありがとう、僕なんかを、そんな素敵な晩ご飯に招待してくれて…」
 ガブリエルは人差し指を立て、控えめに左右に振ってみせた。
「ガブリエル、と呼んでください。せっかくディナーに招待した相手に、そんな他人行儀にされては」
「え、でも、ムッシュは大事なお客様で、僕なんか、ただの見習い料理人だし…」
 真志はぐるっと目を回した。小首を傾げて考え込んだ。
「そ、そういえば、さっきから僕ついタメ口きいてたけど…すみません、どうしてかな、ムッシュ相手だと話しやすくて、つい馴れ馴れしくなってしまうみたいで…」
 今更のように口もとを押さえて当惑している真志に、ガブリエルはクスクス笑った。
「あなた方日本人は、言葉遣いだの、そういうところはやっぱり固いですね。私はこうしてあなたをファーストネームで呼んでいて、友人としてディナーに招こうとしているのに」
 それから、ふいに真顔になって付け加えた。
「先程のような話し方の方が、私は好きですよ。自然に振舞うあなたが、いい」
 真志は息を飲んだ。
「じ、じゃあ…ガ、ガブリエル…?」
 目を白黒させながら裏返った声で応える真志に、ガブリエルは実に満足そうに頷いた。
「おい、シンジ」
 真志がやっと厨房に戻ると、そこにアランがいた。
「あ、アラン、来てたんだ?」
 アランの何かしら追及したげな眼差しに、真志は戸惑った。
「ムッシュ・ロスコーと随分長い間親密に話し込んでいたようだが、彼はおまえに何か…?」
 別に隠すことでもなかったので、真志はガブリエルからディナーに招待されたことを正直に打ち明けた。
 てっきり、アランも、いい機会じゃないかと喜んでくれるものだと思っていたのだが、違った。
「ムッシュの家に…だと…おまえ、その場で承諾したのか? もうちょっと考えてからでも…それに、客とそんな個人的に親密な関係になるなんて…」
「ど、どうしたの、アラン? 考えるも何も、ただ食事に招かれただけなのに、何でそんな恐い顔をするんだよ。それに、アランだって言ったじゃないか。ガブリエルとの縁は大事しろって」
「いつの間にか、ムッシュのことを呼び捨てか」
「アラン?」
 アランはもどかしげな顔で真志をしばらく見つめていたが、やがて深い溜め息をつき、頭を左右に振った。
「いいんだ。気にするな、シンジ。おまえのことがちょっと心配になっただけだ…ムッシュのせっかくの招待を蹴るなんて、オレがおまえでも、できないだろうさ。そう、チャンスと言えば確かにそうだ」 
 半ば自分に言い聞かせるように呟くと、アランは大きな手で真志の頭をつかみ、がしがし撫でた。
「即興料理もうまくいってる様子だし、オレが心配してやることはなかったな」
 そう言って、彼は真志に背を向け、父親のピーターと何か話をしにいった。
 真志は、アランのせいでぐしゃぐしゃになってしまった頭を手で撫で付けながら、どうにもすっきりしない気持ちを胸に抱えて、ピーターと話しこんでいるアランの方をじっと見ていた。



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