温かい皿

第四の皿 oeufs
はじける卵


(変な夢見たなぁ)
 ガブリエル邸でのディナーの後、真志は、ずっとそのことが心の片隅に引っかかっていた。
 あの城で、真志は、よくも悪くもスリリングでエキサイティングな、忘れられない体験をしたのだが、どうにも、あの半分夢で半分現実のような状態で起こったことだけが妙に気になった。
(も、もちろん夢に決まってるんだけれどさ…ガ、ガブリエルにキ、キスされたなんて…僕が勝手に夢を見ただけだよ。きっと、ローランにキスされたことがショックだったから、あんなみょうちくりんな夢を見たんだ)
 夢に違いないと自分に言い聞かせながら、思い出せば、真志は胸苦しくなった。それも、気持ち悪いとか不快な苦しさでなく、何だかお酒に酔っぱらった時のように体が熱くなり、やたらと胸もドキドキした。
 仕事の最中も、ややもすればそのことが頭にうかぶものだから、目の前の料理に集中できなくて真志は困った。
 そして、次にガブリエルが店に来るのはいつだろうと、そのことばかりが異様に気になった。
(ガブリエルと話したい)
 ガブリエルと2人で心ゆくまで大好きな料理談義がしたい。あのもっともらしい口調でなされる彼の薀蓄も聞いてみたい。何よりも、あの『芋粥』の話のように、2人の間で共有できるものがもっとあるのではないか。それを探りたい。
(住んでいる世界は全く違う人だけれど、何かが僕ととても近いような気がする…ガブリエルの傍だと僕はいつもとても気持ちが楽になる。何だか、おさまるべき場所にきちんとおさまってるような安心感があって…)
 まあ、あの『根性焼き』だの料理原理主義の過激派みたいなところは、別にしてだが。



「シンジ、ムッシュが来られたわよ」
 その日、ランチタイムが終ったばかりの厨房でぼうっと片づけをしていた真志は、マリアンヌの呼びかけに文字通り飛び上がった。
「ガ、ガブリエルッ」
 わきあがってくる喜びに頬がカッと熱くなっているのが自分でも分かる。
「シンジ」
 店の扉を入った所で、ガブリエルは真志を待っていた。真志を見て彼の顔も喜びに輝く。
「すみません、本当はランチタイムに間に合うよう来られればよかったんですが、アカデミーの打ち合わせが長引いてしまって、どうしても抜け出せなくて」
「ガブリエルはアカデミー・グルマンディーズの主宰だものね。…それって、そんなに忙しいの?」
「次回の定例会が近々あるんですよ。そのための準備や雑務があれやこれやとありましてね」
 真志は好奇心に目を輝かせた。
「アカデミーの定例会? わあ、今度のテーマは何? 誰が料理長を務めることになってるの?」
 つい勢い込んで尋ねてしまった後、真志ははたと気がついた。
「あ、ごめん…それってアカデミーのトップ・シークレットなんだよね」
 アカデミー・グルマンディーズは秘密主義の集団だ。それは月1回催される晩餐会に出される料理のテーマも腕をふるう料理人の名も当日になるまで明かされることはないという点にも表れている。そのために、一層マスコミや世間の好奇心をかきたて、定例会の料理長に選ばれるシェフの予想や憶測が雑誌や新聞に載ることもしばしばなのだ。
「いいんですよ、シンジ。実は、今日はそのことであなたに少し話があるんです」
 楽しげな笑みをうかべたガブリエルの顔を真志は不思議そうに見返した。ガブリエルと会えた喜びが先立ってしばらく忘れていた胸苦しさが再び戻ってきた。真志は体の脇に垂らした手をぎゅっと握りしめた。
「おおい、シンジ、そんなところで立ち話などせず、ムッシュ・ロスコーに中に入ってもらえ」
 厨房からオーナーの声がかけられたのに真志は我に返り、ガブリエルを店の奥に案内した。
「あの…」
 店の隅っこのテーブルに着くなり、2人は同時に口を開きかけた。
 ガブリエルは微笑みながら真志を促した。
「日曜日は、どうもありがとう。その…あんな素敵なディナーは初めてだったよ…すごく勉強になったし、それにすごく楽しかった。…ガブリエルとはあんなに長い時間傍にいても、全然飽きないっていうか…気があうっていうのかな、たぶん」
 幾分ぎこちなく真志は語りかけた。
「私の方こそ、シンジ、あなたとあんなふうに親密な一時を持つことができて…嬉しかった…」
 真志の緊張が伝染したのだろか、ガブリエルも少し固くなっているようだ。
 真志はガブリエルの正面に座ったまま、それ以上何も言えずに、しばらく彼の顔をつくづくと眺めていた。あんなに話したいことがたくさんあったはずなのに、実際会っていざ話そうとすると一言も言えなくなってしまうなんて、どうしてだろうか。
 不安に駆られた小学生のように二人がひたすら見詰め合っていると、奥の厨房からシャンパンのグラスとオードブルの盛り合わせの皿を盆にのせて、マリアンヌがやってきた。
「どうぞ、オーナーからのサービスです」
 マリアンヌは、真志の前にもすらりと長いシャンパンのグラスを置いて、意味ありげに微笑みかけると奥に戻っていった。
「後でまたからかわれるかなぁ」
 マリアンヌの後ろ姿を見送りながら、真志は唇をすぼめた。
「えっ?」
「ガブリエルは僕が目当てでこの店に通い詰めているんだなんて、皆からかうんだよ。気になる可愛いウエイトレスのいるカフェに、つい通ってしまうみたいに」
 ガブリエルはゆっくりと瞬きをし、軽く小首を傾げてみせた。
「あ、ごめん、変なこと言ったね」
「少しも変でもなければ、冗談でもありませんよ」
「ガブリエル?」
 ガブリエルはシャンパンで喉を潤すとオーナーがサービスで出してくれたオードブルを口に運んだ。その様子を、真志はつい息を詰めて見守った。
 ガブリエルはどこを取っても姿がいいが、真志が一番美しいと思うのが、彼の唇だ。ふっくらと厚みがあって、そのくせ上品で形がよく、肌理細かく柔らかい。ついキスでもしたくなるくらいに魅力的だ。そう、キス…。
(バ、バカ! 何を考えているんだ、僕は!) 
 頭にうかんだ不埒な考えに、真志は危うくシャンパンにむせて吹きだしそうになった。拳を固めて、軽く自分の頬っぺたを叩いた。
「シンジ?」
「あわわ…そ、そうだ、ガブリエル、さっき僕に何か話があるって言ってたけれど…」
「ああ」
 ガブリエルはナプキンで唇をそっと押さえると、ふいに改まった口調で言った。
「シンジ、次の日曜日に催されるアカデミーの定例会に厨房のスタッフの1人として参加してみる気はありませんか?」
「はい?」
 真志は思い切り首をかしげて聞きなおした。
「一度あなたに私のアカデミーの内側を見せておきたいんです。スタッフといっても、部外者のあなたに重要な仕事は任せられませんから、見学のようなものですが、もしかしたらあなたも興味があるのではないかと…」
 ガブリエルは、いつも自信ありげな彼らしくもなく、うつむき加減になって真志の反応をそっと窺っている。
「え…ええ…でも…」
 真志は動転した。
「ア、アカデミー・グルマンディーズの定例会に僕が? そ、そりゃすごく興味はあるけど、でも…そんな大切な集まりに僕みたいな素人同然の料理人の卵が紛れ込んだりしたら、め、迷惑じゃ…」
 振って沸いたようなおいしい話におろおろするばかりの真志をガブリエルはしばらくの間辛抱強く眺めていたが、ついに焦れたように真志の言葉を軽く振った手の動き1つで遮った。
「行きたいんですが、行きたくないんですか? それだけを答えなさい」
 真志は大きく息を吸い込んだ。
 天下のアカデミー・グルマンディーズの定例会だ。そこでどんな料理が出されるのか。どんな素晴らしい料理人の腕を間近で見ることが出来るのか。考えただけで、ぞくぞくする。
「い、行かせてもらいます!」
 ぐいっと椅子から身を乗り出して鼻息も荒く答える真志にガブリエルは満足そうに頷いた。
「さて、では帰ります」
 ガブリエルは優雅な仕草でシャンパンを飲み干すと、そう言った。
「えっ、もう行っちゃうの…?」
 思わず引きとめようとしかけて、真志は恥ずかしくなって黙り込んだ。
 馬鹿みたいなことを言ってしまった。何だか、ガブリエルと離れ難くて―。
「シンジ」
 ガブリエルはあまやかな微笑みを浮かべながら真志に向かって言った。 
「私は、離れている間も、いつもあなたのことを想っています」
 ガブリエルが向けてくる眼差しのひたむきさに、真志は動揺した。
「あなたも同じように、私のことを考えていてくれれば嬉しいのですが」
 真志は頭の中がかあっとなるのを意識した。
「も、もちろんっ。僕も、料理をしながら、毎日ガブリエルのことを考えるよ。あなたがいなくても、あなたに出して恥ずかしくないような料理を作るよう、いつも一生懸命がんばるよ」
 ガブリエルの目が半分閉じられ、形のいい唇が軽くすぼめられた。
「ガ、ガブリエル…?」
 ガブリエルが哀しげに溜め息をついて頭を振るのに、真志は胸の前でおろおろと手をもみ絞った。
「僕、何か悪いことを言った?」
「いいえ、何も」
 ガブリエルは一瞬冷たい目で真志をチラッと見たかと思うと、再びいつもの温和な顔に戻った。
「では、シンジ、定例会の日にあなたと会えることを楽しみにしていますよ。この間のように、あなたのアパルトメントに朝、迎えの車をやります」
「うん、僕の方こそ、すごくすごく楽しみにしているよ。たぶん前の夜は興奮しすぎて眠れないかもしれないね」
 ガブリエルが席を立つのに、真志も思わず追いすがろうとするかのごとく立ち上がった。
 真志はガブリエルのためにジャケットを取り上げて差し出した。それを受け取ろうとガブリエルは、真志に向かってそっと身を乗り出した。
「ガ、ガブリエル?」
 ガブリエルは、ごく自然に、真志の頬に軽くキスをした。蝶の羽がかすめるような軽やかさで。
「モン・プティ・シェフ」
 呆然と立ち尽くす真志の顔を覗き込んで、ガブリエルは嫣然と微笑んだ。青い瞳の奥に閃くのは、紛うかたない本気。
 真志の手から取り上げたジャケットを肩に引っ掛け、颯爽と身を翻して店の扉に向かうガブリエルを、真志は追いかけることも忘れてその場で見送ってしまった。
「あ…」
 扉が開かれ、再び閉じられる音に真志はやっと我に返った。
 ガブリエルに触れられた頬に手を持っていった。
 熱い。
「モン・プティ・シェフ…?」
 真志は、半ば魂を飛ばしたようになって、ガブリエルが言い残した言葉を繰り返した。
 私の小さな料理長。 


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