温かい皿
第四の皿 oeufs
はじける卵
三
「シェフ・マルセル・ヴォーモンよ、間違いないわ」
真志がアカデミー・グルマンディーズの定例会に参加を許されたという話がまたもボン・ヴィザージュの厨房を揺るがした翌日、ジャンヌが店に来る途中のキオスクで買って来た大衆紙を皆の前に広げて、言った。
「今度の定例会の料理長は彼だって、アカデミーの関係者が漏らした確かな情報だと書いてあるわ」
開店前の店のテーブルを囲んで、スタッフ一同は、まるで自分のことのように熱心に互いに意見をぶつけあっている。
「タブロイド紙の言うことなんかあてにならないよ。どうせガセじゃないのかい?」とブレンダが言えば、レストランの評価に関して一番詳しいフランソワが反論する。
「でも、シェフ・ヴォーモンの名前は今までも度々アカデミーのシェフ候補としてあがっていたし、丁度彼の店が今年のミシュランで星を1つ増やして三ツ星レストランの仲間入りをしたことを考えてもありえそうな人選だよ」
またしても真志にのみ与えられた『おいしい話』について、多少は羨んだり疑問に思ったり、それぞれが胸に抱く気持ちはあるのだろうが、それでも、ボン・ヴィザージュのスタッフの真志に対する態度が変わることはなかった。
変わったことと言えば、いつかは自分もと皆が一層仕事に熱を入れるようになったことくらいだろう。
それに、真志を通じて謎に包まれたアカデミー・グルマンディーズの舞台裏を垣間見られるだけでも、彼らにとってなかなかおいしい話ではある。
だから、今や開店前の一時は『定例会の傾向と対策』と銘打った作戦会議と化し、皆、真志に向かって、厨房がどうなっているのかチェックしてこいだの、厨房スタッフや料理長その人の仕事や味を隙あらば盗んで来いだのかまびすしい。
当然、どこかの記者がすっぱぬいた、『次回の定例会の料理長はマルセル・ヴォーモン氏である』という記事を前に皆大いに盛り上がった。
ブルゴーニュ出身の腕っこきの料理人マルセル・ヴォーモンは通称大ヴォーモンとも呼ばれている。その弟でやはりの料理人の小ヴォーモンと区別するためだ。この弟も数々のコンテストで賞を取ったいい料理人だったのだが、ここしばらく名前が聞かれることはない。何でも、雇い主と争い解雇された末行方不明になったとのことだ。
「でも…シェフ・大ヴォーモンはアカデミーのことをよく思っていないという記事を以前どこかで読んだことがあるわよ」
マリアンヌが首を傾げて考え込みながら、ゆっくりと言った。
「ほら彼の弟の小ヴォーモン…詳しいことはよく分からないんだけど、彼が行方不明になった経緯にムッシュ・ロスコーが関わっているらしいんですって」
「ガブリエルが?」
今まで黙って話を聞くだけだった真志もこれには少し引っかかって、思わず聞き返した。
「あくまで噂よ。でも、だからシェフ・ヴォーモンがアカデミー・グルマンディーズにために腕をふるうことはまずないだろうというのが、私が以前読んだ雑誌の見解だったの」
「ふうん…」
この話は、ここでオーナー・シェフのピーターがやってきてそろそろ仕事を始めろと促したためにお開きとなったが、なぜか真志の胸にいつまでも残った。
何となく、初めて聞く話ではないような気持ちの悪さがあったのだ。
そうして、『傾向と対策』が充分になされたのかどうかよく分からないままにあっという間に日は過ぎ、定例会の催される日曜日となった。
(ううん、やっぱり実感はないけど…アカデミーの定例会の現場を僕なんかがちょっとでも覗き見できるなんて…幸運というかおいしすぎるというか…いいのかなぁ…)
約束どおり真志を迎えに来たリムジンに乗って、再びロスコー邸に向かう道すがら、彼は以前とは違う緊張感と興奮と戸惑いが入り混じった複雑な感情を覚えていた。
(そう言えば、アラン…ここしばらくボン・ヴィザージュに顔を出さないけれど、どうしてるんだろう…メゾンの仕事が忙しいのかな…? アランにも、この定例会のことでもっと相談したかったんだけれど…)
真志はそこまで考えて、ふと顔を赤らめて頭を振った。
(駄目駄目、何でもアランを頼りにしすぎなんだよ、僕は…アランだって仕事もあるし、そうそういつも僕の他愛のない悩み相談の相手ばかりできない。僕ももう少ししっかりしないと、いつかアランみたいな一人前の料理人になりたいと思うのなら、他人に甘えていないで1人でもっと何でもできるようにならなきゃ)
そうは思うものの、真志にはアランの急な不在がどこか腑に落ちなくて、気になってもいた。
いつからだろう。ガブリエル邸での晩餐の報告をボン・ヴィザージュの皆にした時はアランもそこにいた。
(あ、今思い出したけれど、あの時のアラン、何だか様子が変だった。僕が一生懸命にガブリエルや彼と一緒に食べたものの話をしても、全然何の反応もなくて、皆の後ろの方で難しい顔をしてじっと聞いているだけで…)
それから、ガブリエルがボン・ヴィザージュに真志を訪ねてきて今回の定例会に招いてくれた日の夜、ほんの少しだけれどアランは店に顔を出した。その時に、真志が早速アランにもガブリエルの新しい申し出について報告すると、彼はしばらく絶句していた。驚いたからだろうと真志は思ったが、アランは「それはよかったな」と短い言葉だけを残して、さっさと店を出て行ってしまったのだ。
アランらしくない素っ気ない態度だった。最後に見た彼の顔が何かしら思いつめたものに見えたのは、本当に気のせいだったろうか。
(明日にでも、僕の方からアランに会いに行こうか…そうだ、この定例会での経験を土産話にして、アランに会いに行こう。それで、どうしたのってちゃんと聞いてみよう。よく分からないけど、アラン、どこか変だ。何か悩んでいるような気がする。それなら、やっぱり尋ねてみよう。いつも僕の話を聞いて助けてくれるアランに、僕ができることなら何でもしてあげたいし…)
真志が急にアランのことを激しく気にし始めた頃、リムジンはロスコー邸に着いた。
アカデミー・グルマンディーズの月1回の会食がこの日の夜に行われる。城の中は、この間真志が訪れた時とは打って変わって何やら騒然としていた。
人の出入りが激しく、真志がちらりと見ただけでも食材業者や生花やリネン抱えた人達が次々と荷物を運び込んでいく。その間を黒いお仕着せに身を包んだスタッフが忙しく動き回り、マイクロフォンで互いに連絡を取りながら、てきぱきと指示を与えていた。
ガブリエルとはすぐには会えず、真志は彼の執事によって先に厨房に案内された。
今回のシェフ・ド・キュイジーヌであるマルセル・ヴォーモンは、彼の店から連れてきた助手達と共に既にそこにいた。
真志が厨房に足を踏み入れた時、シェフは助手達に向かって、何やら苛立たしげな調子で指示を与えていた。
彼は、胡乱そうに真志の方を振り返った。
「なんだ、そのちっこい奴は?」
大ヴォーモンと呼ばれるだけあって、マルセルは雲をつくような大男だった。アランでさえも彼と比べると少年のように見えてしまうだろう。どっしりと逞しい体は、下手をすれば2m以上あるのではないか。厨房よりもK1かプライドの四角いリングで活躍する姿の方が似合いそうだ。
この男が『洗練と繊細の極み』と称される料理を作るのだから、人は見かけによらない。
遥か上の方にあるマルセルの顔を呆然と見上げる真志を彼はじろりと睨んだ。
「シェフ・ヴォーモン。こちらがガブリエル様の紹介で今回助手として加わっていただく、ボン・ヴィザージュのムッシュ・アリモトです」
真志の店の名前を聞いて、マルセルは太い眉を動かした。
「ボン・ヴィザージュ? ふん、ピーターが飼っているというヒヨコ共のうちの1人か」
マルセルはふんと鼻を鳴らすと、すぐに真志から興味をなくしたように背中を向け、調理台の向こうで様子を窺っている彼のスタッフ達の元に戻っていこうとした。
「これ以上助手などいらん。とっとと帰ってもらえ」
「ヴォーモン様…」
「うるさい。今夜の会食の料理長は俺だ。ムッシュ・ロスコーの紹介だか何だか知らんが、この厨房の主は俺なんだ。その俺がそいつをいらんと言ったらいらん。それだけだ」
「あ…」
戸惑う真志が何か言いかけると、マルセルはじろりと肩越しに振り返った。
「出て行け!」
声の圧力だけで真志は吹き飛ばされるかと思った。取り付くしまもないとはこのことだろう。
最新の調理器具がずらりと並ぶ広々とした厨房を悠然と歩いていくマルセルの後姿を見送った真志はすごすごとその場を退散するしかなかった。
(ああ、びっくりした。シェフ・ヴォーモンってばすごい迫力で…それに何だかえらく気が立ってる様子だったな。アカデミーの定例会を任されるってそれ程のプレッシャーなんだろうか。三ツ星を取ったヴォーモンほどの名シェフでも…?)
厨房を追い出されて、真志ががっかりしたことは確かだ。だが、自分のようなヒヨコが名料理人の助手などをしてアカデミーの厨房に立てるなどとやはり虫のよすぎる話なのだ。
早くもあきらめかける真志だったが、ヴォーモンの態度に当惑した執事が連絡したのだろう、その後すぐにガブリエルの部屋に通された。
「申し訳ありませんでした、シンジ。せっかくここまで来ていただいたのに、とんだ手違いで…」
真志が案内されたのは、ガブリエルの書斎兼仕事部屋だった。
真志が入っていくと、心底すまなそうな顔をしたガブリエルは窓の前の重厚なつくりの机から立ち上がった。
「あ、いいんだよ、ガブリエル」
真志は慌てて手を振りながら答えた。
「今夜の主役はシェフ・ヴォーモンなんだから、やっぱり、彼にとって仕事がやりやすい環境を整えてあげるのが一番だと思うよ。初めて使う慣れない厨房だもの、せめてスタッフだけでも気心の通じた彼の手順をよく分かっている人達の方がいいに決まってるよ」
にこりと屈託なく笑って答える真志をガブリエルはしばし探るように見つめた。
「あなたはそれでいいんですか、シンジ?」
「そりゃ、残念だけれど…噂に聞く名料理人の仕事を間近で見られるなんて、僕にとってはいい勉強だよ。でも、彼が邪魔だと言うのならその通りだし…」
「本当に…その諦めのよさは何とかならないものですかね…」
溜め息混じりに呟くガブリエルに、真志は微かに戸惑いながら首を傾げた。
「ガブリエル?」
ガブリエルは苦笑しながら、真志の問いかけを軽くあしらうように手を振った。
「シェフ・ヴォーモンには、様子を窺って、後で私からもう一度頼んでみますよ、シンジ」
「ガブリエル、そんな無理しなくても…」
真志は言いかけた言葉を途中で飲み込んだ。
ガブリエルが一瞬真志のことも忘れたように視線を横に逸らし、何やら深刻な顔で考え込んだからだ。
「何かあったの、ガブリエル?」
鈍い真志にしては、この時、勘が働いた。先程接したマルセルの必要以上にぴりぴりして苛立ちも露な様子が引っかかっていたせいかもしれない。
「ああ、シンジ、すみません、ぼうっとして」
真志の言葉に、ガブリエルは夢から覚めたように瞬きをし、再び彼の方に顔を向けた。
「シェフ・ヴォーモンの横暴な態度には不快な思いをさせたかもしれませんが、許してあげてください。彼はたぶん今とても気が立っているんです。その…」
ガブリエルは一瞬口ごもった。
「実はおとつい、彼の元に脅迫文が送られてきたんです。定例会のシェフ役を降りろ。さもないと、彼の名声に傷がつくような結果になる、と」
「脅迫?」
全く想像もしていなかった物騒な話に、真志は大きな目をぐるぐる回した。
「同じような内容の手紙はアカデミーの事務局にも送られてきました。そして、私のもとには脅迫文でこそありませんでしたが…」
「ちょっ、ちょっと待ってよ、脅迫って…一体、誰が…どうして、そんなこと―」
思わず真志は、ガブリエルを遮るように大きな声をあげた。
「脅迫自体はそれ程珍しいことではないんですよ、シンジ」
ガブリエルは、動揺する真志をなだめるよう、穏やかな声で言った。
「私が主宰の地位についた当初は、若すぎる私にはふさわしくないといった反対や嫌がらせの手紙がよく届きましたし、それこそ、私がよくマスコミに露出するようになってからは、世間の目を集めてしまう弊害として、様々な団体や個人から脅迫紛いの手紙やメールが舞い込んできます」
「アカデミー・グルマンディーズはただの美食家の集まりで政治集会でもなんでもないのに…?」
「世間の注目が集まるというだけで、理不尽な敵意の対象となることもあるんですよ。いつだったか、過激な動物愛護団体が―私達は皮肉を込めて『野菜好きのテロリスト』などと呼びましたが―肉食に反対するスローガンを掲げて道路を封鎖し、定例会の会場に向かう食肉業者のトラックが途中で立ち往生することがありました。あの時はテーマ食材が季節もののジビエだったのにあわやベジタリアン・メニューになるところで…さすがに冷や冷やしましたよ」
「ひやぁ」
「幸い、私の身内に現役の閣僚がいたもので、軍を派遣してもらって無理矢理『テロリスト』達は排除し、その後の定例会も滞りなく行なうことができました。それに比べれば、今回の脅迫文など子供の遊びのようなものですね、ただ…」
ガブリエルの自信の満ちた顔がふともの思わしげに翳るのに、真志は心配になった。
「警察には連絡したの?」
「いいえ」
「どうして?」
「私には、今回の騒動は内々に処理したい事情があるんです。それに、脅迫文を送りつけた相手も…匿名にはなっていましたが、私には察しがついているので、彼を犯罪者にはしたくないんです」
「それって、どういうこと…?」
真志は首をひねった。
「そういえば、さっきガブリエルのもとにもその脅迫者から何か送りつけられてきたって言いかけてたけど…一体、何だったの?」
ガブリエルはふと遠い眼差しになってしばし沈黙した後、ひょいと身を屈め、足元に置いていた箱を机の上に乗せた。
ワインの木箱だ。
「手紙も何もなく、このワインだけがおとつい私個人宛にクール宅配便で届きました」
ガブリエルの優雅な手が箱を開け、優しく取り出したワインのボトルを真志に見えるように机の上に置いた。
「『ロマネ・コンティの腕白な弟』です」
真志は口をぱくっと開けた。
「ラ・ターシュ?」
世界一高価な赤ワインと言えばフランスはブルゴーニュ地方のロマネ・コンティだ。大体ブルゴーニュワインは生産量が極端に少ないのに世界中のワイン通が金に糸目をつけずに買い求めるためただ事ではない値段になる。
ラ・ターシュはそのロマネ・コンティの畑の南に位置し、色が濃く凝縮した果実味に優れ、しばしば『ロマネ・コンティの腕白な弟』と評される究極のワインの1つだ。
「そう、しかも1980年、私の生まれ年のワインです」
ガブリエルはふっと意味ありげな微笑をうかべた。
「そんなに古いビンテージだったら、値段は無論、探して手に入れるのも大変そうだね」
確か、ラ・ターシュの生産量も年間僅か二千本くらいだったはずだ。
「そうですね。きっと彼は必死になってこれを探したんだと思いますよ」
ガブリエルはラ・ターシュのボトルを愛しげに手でさすった。
「一方で脅迫文をよこしながら、私にこんなものを贈ってくるなんて…相変わらずやることなすことちぐはぐなんですよ…」
ガブリエルの謎めいた呟きに真志はなぜか気持ちをかき乱された。そのワインの贈り主に対して、ガブリエルは並々ならぬ関心を抱いているようだ。
「シンジ、ちょっと私に付き合ってくれませんか」
ガブリエルはワインのボトルを手に椅子から優雅に立ち上がった。
「ガブリエル?」
「このワインをふさわしい場所に置きに行きたいんです。地下のワイン・セラーに一緒に来てもらえませんか?」
真志の胸はガブリエルに尋ねたいこと確かめたいことでいっぱいだった。
アカデミーに脅迫文を送ったのは一体誰なのか? その目的は? ガブリエルは犯人を知っているなら、なぜ警察に通報しないのか? その犯人がガブリエルに贈ったワインにどんな意味が隠されているのか?
アカデミーの舞台裏を覗き見ながら料理を作る目的だった今回の訪問は、真志にとって既にミステリー・ツアーの様相を呈している。
実際、シェフ・ヴォーモンに拒絶された時には、もうここにいる意味も目的もないから、邪魔にならないよう返った方がいいのではないかとがっかりしたのだが、今は違った。
(不謹慎だけど、考えるとちょっぴりわくわくするな。それを言うなら、ガブリエルも何だか楽しそう…?)
脅迫を受けている割には妙にうきうきとして見えるガブリエルの背中を不思議そうに眺めながら、真志は彼に従って、地下にあるワイン・セラーへと続く狭く急な階段を下りていった。
ここは以前にも一度案内されたことがある。その昔は地下牢があったらしい空間をコンピューター管理による最新の設備を整えたワインの貯蔵庫にしたという。
入り口は暗証番号を入力することで開くオート・ロックになっている。
扉を開くと同時に自動的にセラー内の灯りが点灯した。
完璧に温度湿度管理のされたひんやりした地下室に真志はガブリエルと共に入っていく。
一体どれほどのワインが貯蔵されているのか、両側の壁にワインのずらりと並んだ、地下迷路のような空間に真志はしばし圧倒された。
「昔、私の祖父が、記念にと私の生まれ年に作られた名醸ワインを数多く買い求めたんです」
ガブリエルはセラーの中を勝手知ったるように奥に入っていくとその一角で足を止めた。
「ほら、この辺りですよ。1980年もののワインが集められている」
真志がガブリエルの指差す所に寝かされているワインを見やると、成る程フランスの名だたるシャトー、ドメーヌのワインが揃い踏みをしている。
ブルゴーニュものが集められたコーナーでは、やはりと言おうか、ロマネ・コンティを初めとするDRC(ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ)ワインがが燦然と輝いていた。白のモンラシェ、赤のロマネ・サン・ビバン、リシュブール、グラン・エシェゾー、エシェゾー、そして―。
(あれ、ラ・ターシュだけがない…?)
真志は首をかしげた。本来そのワインがあるべきだろう棚は空になっていたのだ。
真志はガブリエルが手に持っているワインをちらりと眺めやった。
「昔、ある人をこのワイン・セラーに連れてきたことがあったんです。当時私が気に入っていた料理人で、わざわざルレ・ロスコーに引き抜いた人でした。今のあなたにこうしているように私の生まれ年のワインを見せながら話し込んでいたんですが、何かの拍子にその人はワインを1本床に落として割ってしまったんです。私は別に構わないと言ったんですが、その人は随分気にして、いつか同じワインを手に入れて私に返すと言い張ったんです」
「それじゃあ、そのワインが…?」
「ええ」
ガブリエルは感慨深げにラ・ターシュのボトルにしばし見入った後、それをワインの棚におさめた。
「ここに戻ってくるのに、随分時間がかかったものです。このワインも、そして、彼も―」
真志はまたしてもあの意味不明の胸苦しさを覚えた。
「訳あり、みたいだね。一体誰なの、その料理人って?」
ガブリエルはふと天井の方を見上げた。
「エリック・ヴォーモン。今、上の厨房を指揮しているマルセル・ヴォーモンの実の弟です」
「ええっ?」
仰天する真志にガブリエルは向き直った。
「じゃ、じゃあ…雇い主とトラブった挙句行方不明になった小ヴォーモンって…それじゃあ、本当に噂どおりガブリエルが関わっていたの…?」
ガブリエルは少しばつが悪そうな顔になって、頷いた。
「私がアカデミーの主宰になったばかりの頃でしたね、エリックと出会ったのは。私はとにかく彼の作る料理に一目惚れしてしまって、強引に私の手元に置くことにしたんです。ルレ・ロスコー系列のレストランで修行してもらってゆくゆくはアカデミーの専属シェフにと期待していました。けれど、彼の方は実は私の過剰な期待を負担に思っていたんですね。一方で、既に天才の名を欲しいままにしていた兄マルセルのことも非常に意識していて…いつか兄を越えたいという希望と思うに任せぬ現実の間で引き裂かれそうになっていたんです。プレッシャーと焦りは、彼の生活をすさんだものにしていきました。それは料理にも影響するようになり、私を苛立たせました。私もあの頃はアカデミーの主宰になったばかりで力が入りすぎていましたからね、必要以上にエリックに厳しくしてしまったんです。その結果、彼は私に対して反抗的な態度を取るようになりました」
ガブリエルは重い溜め息をついた。
「もしかしたら、あれはわざとではなかったのかと今でも疑っているんです。2年前、彼が料理長を勤めているレストランをチェックに訪れた時、私に出された皿にタバコの臭いが染み付いていたんです。厨房での喫煙など、うちのレストランでは厳禁ですからね。何よりも料理に対するそんな不真面目な態度に激怒して、私は彼を手ひどく傷めつけた挙句、その場で解雇を言い渡しました」
「ああっ! それって、まさか例の『根性焼き』の…」
「そうです。ルレ・ロスコーではすっかり伝説になってしまいましたが、タバコのせいで追い出されたエリックはその後どこの店にも雇ってもらえなくなりました。私の不興を買ったという噂が業界に流れてしまって、ロスコー家に睨まれてはかなわないと考えた有名レストランやホテルのオーナー達はことごとく彼を避けたからです」
「それって、かなり悲惨…」
「私も初めのうちは裏切られたという恨みの気持ちもあったのでいい気味だと思っていましたが、そのうち彼の行方を気にするようになりました。好調だった頃の彼の料理は…本当に素晴らしかったんです。兄のマルセルがロマネ・コンティなら弟はやはりラ・ターシュだと私はよく誉めそやしたものでした。そんな才能を失わせるのは忍びない。だから、彼をここに呼び戻して、もう一度シェフとしてやり直す機会を与えたいと思ったんです」
ガブリエルはほろ苦く微笑んだ。
「それに、一度は私自身本気で恋をしそうになった人ですからね…」
「えっ?」
真志はぎゅっと心臓が縮むような気がした。
「ガ、ガブリエル、恋って…?」
自分の動揺の理由が分からぬまま、うわごとのように真志が問い返そうとした、その時だ。いきなり、セラーの灯りが消えた。
「て、停電?」
一瞬辺りが真闇に閉ざされたことに、真志は反射的に傍にいるガブリエルの腕をつかんだ。
「大丈夫ですよ、すぐに非常灯に切り替わります」
ガブリエルの言葉どおりに、セラーの電気は再び戻った。万が一にも夏場に停電など起こって貴重なワインが駄目にならないよう、安全管理にもぬかりはないようだ。
「近くの発電所がやられたのかな…雷なんか鳴ってなかったよね?」
「さあ…ここは非常用の発電が効きますが上の方はどうなっているのか気になりますね。すぐに電力が戻ればいいのですが、停電があまり長く続くと厨房の方も混乱するでしょうし…まさか―」
ガブリエルははたと思い至ったかのように絶句した。
「シンジ、すぐに上に戻りますよ」
いきなり鋭い口調でそう言うと、ガブリエルはすぐさま踵を返してセラーの出口に向かった。真志は慌てて後を追う。しかしー。
「開かない…?」
扉の前でガブリエルが呆然と呟く声が聞こえた。
どうやら今の停電の影響か、自動的にロックがかかってしまったらしい。壁のパネルにガブリエルは暗証コードを入力するが、それでも扉はうんともすんとも言わない。制御するコンピューター自体がおかしくなったのか。
「扉だけはアナログにするべきでした…」
ガブリエルは低く呻いた。
「扉が開かないって、まさか…閉じ込められたの…?」
「そのようです。駄目ですね…インターフォンも使えなくなっている…」
諦めてコンピューター・パネルから手を離し、ガブリエルはジャケットのポケットから携帯電話を取り出すが、これもやはり圏外。地下室なのだから仕方がない。
ガブリエルは溜め息をついて、扉の前の階段に腰を下ろした。
「ガ、ガブリエル…」
真志は彼の隣に座り込むと、心配そうにその顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですよ、シンジ…私がいないことにそのうち誰かが気がつけば、きっと探しにきてくれます。ただ…」
ガブリエルは気がかりそうに扉を振り返った。
「上の様子が気になるんです。あの停電で今頃厨房に混乱が起きているかもしれません。もしかしたら脅迫文を送りつけた者が本当に妨害工作を行って城の電気系統を壊したのかもしれない…」
犯人とはやはり、ガブリエルが今語ったシェフ・エリック・ヴォーモンか。だとすれば、ガブリエルの胸中はかなり複雑だろう。かつて目をかけていた料理人にそこまで恨まれるとは―。
「あれ、でも、ガブリエル…どうしてエリック・ヴォーモンがこの定例会を妨害してくるって知ってたの…? それに今回の料理長はお兄さんのマルセルがつとめているんだよね、あれ、何だか、変…?」
真志が素朴な疑問を口にすると、ガブリエルはあっさり種明かしをした。
「実は、この定例会自体、エリックをおびき寄せるための罠だったんです。行方知れずになってしまった彼を何とか私の前にもう一度引っ張り出すために、兄のマルセルを説き伏せて定例会の料理長になってもらう。一方でその情報をマスコミに流す。エリックは兄に対して非常なコンプレックスを抱いていましたから、私がマルセルに近づこうとしていると知れば、きっと何らかの動きを見せるのではないかと予想したんです。そんな事情なので、警備の方はわざと普段よりも手薄にしました。エリックがここに現れやすいように」
「はぁ…ガブリエルって策士なんだね…」
「けれど、策を弄する者はどうやら策に溺れてしまったようです。こんな所に閉じ込められては何の動きも取れません」
ガブリエルは抱え込んだ膝の上に額を押し付けた。その落ち込んだ様子に真志は胸を痛めた。何とかしなくちゃ。
「ガブリエル、この地下室に非常用の抜け道とかないの?」
「そんなものはありませんよ。作るべきでしたね。もともとは入り組んだ地下道が城の地下に延々と続いていたようですが、危険だということで、今は塞がれています」
真志はあきらめきれずに立ち上がるとワイン・セラーの中に戻っていった。ワインの棚の奥の壁を透かし見たり、床を隅々まで見渡して、ここから逃げ出す手がかりを探した。
「シンジ、ここに戻ってきなさい。今は待つことが最善の方法ですよ。ほら、昔、日本の偉い武将も言っていたでしょう。鳴かぬなら鳴くまで待とう、です」
ガブリエルは何だか投げやりになっているようだ。声も心なしか弱々しい。
「僕はあんまり家康って好きじゃないんだよね」
ガブリエルらしくない気弱さに、真志は余計に駆り立てられた。やっぱり、何とかしなくちゃ。
床に這いつくばって一生懸命探索をした末、真志はセラーの行き当たりの壁の下方に小さな通風孔らしい穴を見つけた。四角い鉄の格子がはまっている。
真志が大声をあげて呼ぶと、ガブリエルはゆったりとした足取りでやってきた。
「…この穴、通風孔なら、どこかで外に繋がってるはずだよね?」
真志が床にへばりついたまま喜々として尋ねると、ガブリエルは疑い深げに首をかしげた。
「まさか、そこから外に出ようなどと言うつもりじゃないでしょうね」
「あ、ガブリエルには無理だよ。でも、小柄な僕なら、このくらいの穴なら何とか入り込めそうだし、うまく外に脱出できたら、城の誰かに助けを求めてガブリエルをここから出してあげられるよっ」
「シンジ、無茶なことを言うものじゃありませんよ、全くあなたらしくもない」
「だって、このまま諦めてただ助けを待っているだけなんて、それこそガブリエルらしくないよ。大体ガブリエルはアカデミー・グルマンディーズの主宰だろ。最高責任者が大事な定例会の日に地下で遭難して指揮を取ることができないなんて、あんまり情けないじゃないか。しっかりしてよ。それに、ガブリエルが言ったように、今の停電がエリック・ヴォーモンの仕組んだことなら、それこそガブリエルが出て行かないと事態は収拾がつかなくなるんじゃない? ガブリエル、策を弄したことを後悔する前に、最後まで責任を持つことを考えてよ」
ガブリエルはびっくりしたように目を見開いた。
「言いますね、シンジ…」
真志は拳を握り締め、すっくと立ち上がった。
「鳴かぬなら鳴かせてみせよう。僕は、実は秀吉の方が好きなんだ」
ガブリエルの顔にうかんだ驚きは、楽しげで実に満足そうな微笑に変わっていった。しかし、不意に眩暈を覚えたように彼はよろめき、ワインの棚にもたれかかった。
「ガ、ガブリエル、調子悪いの?」
真志は焦ってガブリエルの傍に駆け寄るとその体を支えた。
「いいえ…ただ、今日は定例会の準備やらエリックの件でずっと忙しかったものですから、軽い朝食を食べたきり後は何も口に入れていなくて…空腹で…目が回りそうなんです。…低血糖体質とでも言うのでしょうかね、もともと私は3時間ごとくらいに何か食べないとすぐに血糖が下がって気分が悪くなってくるので…」
「あ…」
真志はごくりと唾を飲み込んだ。どおりで、さっきからガブリエルらしくなく弱気になっているわけだ。
「そ、そう言えばさ、確かモグラって4時間おきに何か食べないと死んじゃうんだって」
沈黙。
「…ごめんなさい」
黙りこんでしまったガブリエルにすまなそうに背中を向けると真志は壁の穴にはまっている鉄格子と格闘し始めた。結構さび付いてがたがきているように見えたが、なかなかしっかりはまっている。
「どきなさい」
何を思ったか、ガブリエルは真志を押しのけるようにして通風孔の前にしゃがみこんだ。そして、ほっそりとした手で鉄格子を掴み、力を入れた。次の瞬間、めきっという音と共に鉄格子か見事に穴から引き剥がされた。
「さすが…だね…高カロリー食が産む馬鹿力かな…?」
思わず小さく拍手をする真志の前で、ガブリエルは両手で顔を覆って、ぐったりと床に座り込んでしまった。今の労働で、残りのエネルギーを使い果たしたのだろう。
「行きなさい、シンジ」
心配そうに手を取ろうとする真志を軽く押しやって、ガブリエルは弱々しい声ながらはっきりと言った。
「あなたの言うとおり、私には責任がある。一刻も早くここから出て事態の収拾を図らなくてはならない。どうか私を助けてください、シンジ」
真志は頬がかっとなるのを覚えた。
「うん。ガブリエル、必ず助けを呼んでここに戻ってくるから、少しの間我慢してね」
そのまま立ち上がろうとする真志を、しかし、ガブリエルはふいに抱き寄せた。このまま離したくないとでもいうかのような強い力だった。
「でも…くれぐれも無理はしないで下さい。迷いそうになったり、これは危ないと思ったら、すぐ引き返すんですよ」
ガブリエルの腕の中で、真志は一瞬力を抜いて目を閉じた。胸の中がほんわりと温かくなった。
「うん」
この人のためだと、その時真志は悟った。
いつもは諦めのいいはずの自分が今回に限って、やけに必死になっている。自分のためなら、ここまで一生懸命にはなれない。けれど、ガブリエルのためなら、真志は何でもできると思った。
ガブリエルの体温と吐息を身近に感じ、夢心地のこの一時、彼のためならきっと空でも飛べるだろうと真志は信じたのだ。
しかし―。
約1時間後、真志は狭くて暗い地下道の中、迷子になっていた。あの通風孔は、どうやら昔あった地下道の一本を利用したもののようで、真志が予想したよりも遥かに複雑に曲がりくねった迷路になっていたのだ。
(昔の王様がいざという時のために作らせた脱出用の通路だってガブリエルは言ってたかな…それにしても、本当に出口なんかあるんだろうか?)
ガブリエルが持たせてくれた小さな非常灯が手にはあったものの、どこまで続くか知れない暗闇の中1人きりという状況はかなり辛かった。
(でも、僕がここでがんばらないとガブリエルが…)
挫けそうになる気持ちを、真志は残してきたガブリエルの存在を思い起こすことで奮い立たせた。
(ガブリエルがいないとアカデミーの人達はきっと困る。それに小ヴォーモンの妨害工作のせいで定例会が開けなくなったりしたら、それこそガブリエルの責任問題になるんじゃないだろうか)
うねうねと入り組んだ地下迷路。じっとりと湿った、ごつごつした苔むした壁。足下には所々水溜りやぬかるみがある。
全くどうして、平凡な見習い料理人にすぎない真志が、こんなホラー映画にでも出てきそうな場面にいるのだろう。
(やっぱり、ありえない…ありえないよぅ)
真志は何度もパニックに陥りそうになったが、その度に必死で頭を振って自分を取り戻した。
(駄目だ、ここで僕が負けたら、ガブリエルがお腹をすかせて死んでしまう。3時間ごとに何か食べないとモグラのように餓死してしまうんだ。一刻も早く助け出してあげないと―)
いくらなんでも人間がそう簡単に餓死することはあるまいが、真志も精神的に相当追い詰められてきていたので、その思考にも多分に妄想が入ってきていた。
(あっ)
その時だ。真志の鼻はどこかで覚えるあるような匂いをかぎつけた。
(これ…この匂いは…間違いない、トリュフだ)
こんな地下に最高級食材などありえないから、外から流れ込んできた匂いだろう。
(大丈夫、外に出られる!)
真志がその匂いを追って疲れきった足を励ましながら歩き続けると、やがて、向こうに微かな灯りが見えてきた。
やっと外界への出口にたどり着いたのだ。
「だ、誰か、助けて! 助けてくださいっ!」
四方の壁はいつの間にか比較的新しい滑らかなレンガ壁になっていた。真志は頭上にある通風孔にはまった鉄の格子を掴んで声を限りに助けを求めた。
灯りの漏れてくる上の空間では人が蠢く物音と話し声がしている。
「助けて! ガブリエルが死んじゃう!」
次の瞬間、頭上の格子ががたんと音をたてて外された。そして―。
「ぎゃっ?!」
思わず、真志は絞め殺される猫のような悲鳴をあげた。頭の上から伸びてきた太い腕が彼の首根っこを引っつかみ、力任せに上に引っ張りあげたのだ。
「シェフ…ヴォーモン…?」
外界のまぶしさと首を締め付けられる苦しさにくらくらする真志の前に、マルセル・ヴォーモンのいかめしい顔があった。
「なんだ、ピーターの所のヒヨコじゃないか。こんな所で一体何をしているんだ?」
トリュフの匂いに導かれて真志がたどり着いたのは、アカデミーの厨房だった。
安堵のあまり、真志の両目からどっと涙が迸った。
「ガ、ガブリエルが…ガブリエルが大変なんだ。お願い、早く助けてあげて!」
真志は泣きじゃくりながら、戸惑い顔で己を取り囲む厨房スタッフたちに向けて叫んだ。