温かい皿

第四の皿 oeufs
はじける卵


 ガブリエルは1人、自宅の広いダイニングで1999年のシャトー・ディケムのグラスを傾けていた。
 輝く黄金色をした若いディケムは口当たりが軽く、白い花や杏を思わす馥郁たる香りのワインだった。これからの熟成が楽しみな若々しい巨大な力を感じながら、ガブリエルはふと真志のことを思い出した。
 若々しいシャトー・ディケムを味わう時にも似た陶酔とときめきを真志の料理を食べる時に覚えるのだと言ったら、彼はどんな顔をするだろう。きっとあの大きな黒い目をぐるぐる回しながら、からかわないでとか言い返すに違いない。  
(あなたは自分を知らなすぎる)
 料理だけではない、真志そのものにもガブリエルは大いに惹かれていた。
 真志は一見平凡な少年だ。顔立ちは整っているが、全てがあまりにも小作りでおとなしげなので、華やかなパリの美男美女の中に紛れ込むと誰も彼がそこにいることにすら気づかないだろう。
 だが、料理について夢中で語る時、真志のひっそりとした顔はたちまちに別人になる。濡れたように真っ黒な瞳は生き生きとした光に満ち、滑らかな頬は熱を帯びて輝き、全身から溢れ出す情熱でその小柄な体さえ一回り大きく見えるほどだ。
 実際、厨房でちょこまか動きながら大好きな料理をしている時の真志はすごく可愛らしく魅力的に違いない。
 今度の定例会に誘ってみたのはそんな真志を覗き見たいという心情もあったのだ。
(あなたは私に似ているんですよ、シンジ)
 これまた真志が聞いたら大いに戸惑いそうなことをひとりごちて、ガブリエルは壁にかけられた2枚の絵を見上げた。
ガブリエルの偉大な祖父達の肖像だ。
 カリスマと呼ばれた美食家と当代きっての名料理人。2人は長年連れ添った恋人同士でもあった。
(私はずっとあなた方がうらやましかった。あなた方のように私もいつか最高の伴侶と巡りあいたいとずっと願ってきたけれど、今度こそ、もしかしたら…)
 その時、執事がダイニングに現れ、ローランの訪れを告げた。
「遅かったですね、ローラン。待ちきれずに先にワインを開けてしまいましたよ」
 ヘルムート・ラングの漆黒のスーツを見事に着こなして颯爽とダイニングに入ってきたローランを、ガブリエルは少し意地悪な態度で迎えた。
「さて、私との約束に間に合わないとは、一体どういう了見なのでしょうね」
 今夜はディナーを共にとガブリエルが招いていたのだ。どれ程仕事が忙しくとも、彼の誘いをローランが断ることはめったにない。
「悪かった。余裕をもって社を出たつもりだったが、道路が混んでいたんだ」
「車が駄目なら、ヘリを飛ばしなさい」
 こともなげに言うガブリエルにローランは苦笑しつつ、彼の前の席に着いた。音もなくテーブルに近づいてきたソムリエが、ローランのグラスにもシャトー・ディケムを注ぐ。
「パンがないならお菓子を食べればいいなんてほざいた世間知らずの女が昔いたが、我侭振りではおまえも張るな」
 ガブリエルが否定も肯定もせずに悪戯っぽい笑みをうかべると、ローランはやれやれというように肩をすくめた。
 やがて給仕がやってきて2人の前に皿を並べた。今飲んでいるワインにあわせて、ポーチド・エッグをフォアグラとトリュフと一緒にゼリーで固めた前菜だ。
 2人は、ごくくつろいで、しばし無言で出された皿を味わった。
 ローランはガブリエルの幼馴染であり、祖父以外の家族とは縁の薄いガブリエルにとって一番身近な存在だ。彼と共に居城(わがや)で楽しむ晩餐(ばんごはん)は、生まれながらの天上人ガブリエルの生活の中で、世間で言う家族団欒にもっとも近いものだろう。
 しかし、この時ガブリエルがローランを呼び寄せたのは、別に彼一緒にほんわり和みたいからではなかった。
「ガブリエル」
 最初に切り出したのは、ローランの方からだった。
「例の件についてだが…おまえの指示通りマスコミには手を回した。明日新聞数社が記事として出すはずだ。アカデミー・グルマンディーズの関係者が漏らした信憑性のある情報として、次回の定例会の料理長はマルセル・ヴォーモン氏が務めることになっていると」
 ガブリエルはちらとローランの顔を見やると、何事もなかったかのようにナイフとフォークを取り上げた。
「そちらは予定通りですね。それで…あの人の消息はまだつかめませんか?」
「そっちも全力を挙げて調査中だ。ひと月ほど前にパリに舞い戻ったという情報が入ったきり行方知れずのまま…全く、どこで何をしているのやら」
「パリに潜伏しているのは分かっているんです。後は、うまくつつき出してやればいいんですよ。第一シェフ・ヴォーモンの名前を噂に聞けばあの人だってじっとしていられなくなるでしょう」
 崩した卵と一緒にフォアグラを口に運びながら、ガブリエルは冷静に言った。
「何しろ実の兄ですからね」
 ガブリエルは己の仕組んだ計画を思い返し、悪魔のように謎めいた艶冶な笑みをうかべた。
「その顔…」
 ガブリエルの微妙な表情の変化に目をとめたローランが低めた声で囁いた。
「悪巧みをしている時のおまえの表情ほど魅力的なものはないな」
 ローランの甘い囁きに、ガブリエルはあくまで無関心に返す。
「だから?」
「おまえに逆らうのは難しい」
 今度の定例会を利用してある人物に罠をかけるとガブリエルが言い出した当初こそ、ローランは反対したが、結局は協力することになった。
子供の頃からいつもそうなのだ。ガブリエルの無邪気な我がままにローランは一応異論を唱えるが、最後には従う。2人の間にある無言の約束事だった。
 ローランはふっと笑って頭を振ると、話を元に戻した。
「しかし、だからと言って、本当に奴がここに現れると思うか? 2年前にルレ・ロスコーを追い出された経緯を考えると、おまえの顔を再び見る勇気が奴にあるかは疑わしいぞ」
 現実主義者のローランは、しかし、ガブリエルの計画にまだ少し懐疑的であるようだ。
「だから、2年待ったんです。彼が私のもとを離れてからどこでどのような生活をしていたのかを密かに追いながらね。その結果、そろそろ潮時だろうと判断したから、呼び戻すことにしたんです」
 ローランは小さく息を吸い込んだ。
「まさかおまえがそこまで奴を気にかけていたとは意外だな。いい腕を持ちながら、自分の弱さのせいで勝手に身を持ち崩したつまらん男だった。おまえもあんな奴のことはとっくに忘れたかと思っていたが―まさか、まだ想いを残していたのか?」
「恋愛感情については、否(ノン)ですよ。私もそこまで未練がましくない。ただ、私の『舌』がどうしてもあの人の味を忘れないんです…一時は本気で見限ったつもりでも、やっぱりあの才能は惜しい、できるなら取り戻したいと思ってしまうのは美食家の習性ですね。だから、もう一度だけ、表舞台に返り咲く機会をあげたい」
 ガブリエルはふと遠い目になって、懐かしくもほろ苦いような遠い記憶を探った。
『あなたならきっと、偉大な兄を越える料理人になることができますよ。私は信じています。あなたがいつか私の隣に立ってくれることを…』
 かつてガブリエルがそう励まし続けた男がいた。相手に夢中になっていたのは、彼よりもむしろガブリエルの方だったのかもしれない。だからこそ、真摯に向けていた愛情と期待を裏切られた時には、ガブリエルは激怒し、復讐の女神(ネメシス)も青ざめるほどの報復に出た。
(可愛さあまって憎さ百倍という気持ちだったんでしょうね) 
 『昔の男』の思い出に浸っているガブリエルを、ローランは微かに眉を潜めてたしなめた。
「奴の不遇を見かねておまえが助けたいと思うのは勝手だが、もしも奴が今でもおまえを恨んでいたら、どうする? 散々痛めつけられた挙句、おまえのせいで何もかもを失ったんだ。結局は奴の自業自得とはいえ、おまえを逆恨みしていないとは限らないぞ。俺はやはりあまり賛成できないな。下手をすれば、アカデミーの定例会を台無しにされるだけじゃない…奴がもしおまえに危害を加えようなどとしたら…」
「大丈夫ですよ、ローラン。あの人が、この私を傷つけられるものですか」
 ガブリエルはローランの心配性を穏やかに笑い飛ばした。
「全く、その自信は一体どこから来るのやら…」
 ローランはまだ少し不満げだったが、これ以上は何を言っても無駄と悟ったのだろう、軽く溜め息をつき、グラスに残ったワインをぐいっと飲み干した。
「まあ、いいさ。いざとなれば、俺が体を張っておまえを守ってやる」
 テーブル越しにローランが投げかけるウィンクをさり気なく避けながら、ガブリエルは給仕に皿を下げるよう身振りで示した。
 ガブリエルのつれない態度にローランは心底残念そうな顔をする。そんな彼をガブリエルはグラスの陰からちらりと盗み見て、笑いを噛み殺す。
 2人のために、温かい皿がまた運ばれてきた。
「…実は今度の定例会にはシンジを呼んでいるんです。せっかくの機会ですから、彼に一度アカデミーの厨房を見学させようと思って」
「何だと?」
 薄いパイ皮に包んだ鮭の切り身に白バター・ソースをかけたものを食べながらガブリエルが告げると、ローランは一瞬絶句した。
「おい、奴こそ招かれざる客だぞ。何も知らない部外者を内部に入れても邪魔になるだけだ…それに、何も今度の定例会でなくても…ただでさえ例の計画をうまく進めるのにこっちは神経を使わなくてはならんのに―」
 ローランが露骨に表した不快感に、ガブリエルは美しい眉を翳らせた。
「ローラン、あなたはまだ私がシンジに近づくことに反対しているんですか?」
 ローランは苦虫を噛み潰したような顔になった。 
「あいつの料理のことは知らん。だが、俺はあいつの『人』を見る。たとえ料理の才能はあっても、あの軟弱な根性では厳しい料理人の世界でやっていけるわけがない。ましてやガブリエル・ドゥ・ロスコーのパートナーとしては、全くの力不足だ」
「手厳しいですね」
 今度はガブリエルが苦笑いするしかなかった。
「私もシンジの気の弱さや自信のなさは危惧しています。…ただ、もし彼がそれらの欠点を克服できれば、人間としても料理人としても申し分のない人に化けてくれるのではないかと、私は期待しているんです」
 夢見るように呟くガブリエルに、ローランは神妙な顔で黙りこんだ。
 恋は盲目。蓼食う虫も好き好きとでも思っているのだろうか。
 それがどうしたとガブリエルは考える。
(現実主義者に呆れられても構わない。真志のよさは、彼と同じくらいの料理馬鹿の夢想家でなければ分からない)
 洋梨のブランデーで作ったシャーベットを食べた後には、血が滲むほどのレアに焼いた鴨の薄切りが運ばれてきた。
 ワインには、1975年のシャトー・ラトゥールを開けさせる。
 鴨はガブリエルの好物だ。焼き具合は完璧。熟しきらないうちに採ったグリーン・ペッパーの香りがほどよく効いた絶品だ。
 ガブリエルは鴨の肉を口に運び、ゆっくりと噛み締めながら、その香り、にじみ出る肉汁の味を余す所なく味わった。
(そう、私はこのように有本真志の全てを味わいたいのだ)
 真志の無邪気そのものの顔を思い出しながら、ガブリエルは胸のうちで密かにほくそえんだ。
 付け合せの軽くキャラメリゼした林檎のスライスも鴨によくあっている。
 何しろ好物なので、ガブリエルは、先につけ合わせを片付けて、鴨の一切れは最後の楽しみに取っておくつもりだった。
 そんなガブリエルをしばらく無言で見守っていたローランがおもむろに口を開いた。
「シンジを今度の定例会にどうしても招きたいというのなら、好きにすればいいさ。シンジはきっと喜ぶし、親切なおまえに好感を覚えるだろう。だがな、ガブリエル、前にも言ったが、あの坊やを本気で手に入れたいのなら、もっと強引な手段でさっさとものにしてしまった方がいいぞ」
 ガブリエルは怪訝そうに顔を上げようとした。瞬間、向かいの席からローランの手が伸びてきて、彼が大事に残していた鴨の最後の一切れを掠め取っていった。
「あっ」
 思わず声をあげるガブリエルをちらりと横目で見ながら、ローランはこれ見よがしに鴨の肉を口の中に放り込んだ。
「好きなものは最後まで大事に取っておこうなんて悠長なことをしていると、他人に横から奪い取られかねんぞ。特にシンジのように鈍感で、優柔不断でたやすくあっちにこっちにふらふらとなびくような奴は要注意だ。シンジなんぞに惚れるおまえは物好きだが、同じような変わった趣味の持ち主が他にいないとも限らんしな」
「ローラン」
 ガブリエルの声に微かな怒りがこもった。
別に食べ物の恨みからではない。断じて。
「おまえはシンジに甘すぎる」
 ずばりと言うローランに、ガブリエルは忌々しげに唇を噛み締めた。
「あいつにとって『いい人だけれど、所詮どうでもいい人』にならんよう、気をつけるんだな」
 思わず、あいたとばかりにガブリエルは顔をしかめた。
反論しようとしたが、うまい言葉が出てこない。悔しいが、今回はローランに言い負かされてしまったようだ。
それにしても…。
「どうでもいい人ですか」
 ガブリエルは思わず愕然となって、低く呻いた。
 確かに、ローランの言うとおり、真志の性格を考えるとすごくあり得そうな気がする。
 今まで欲しいものは何でも手に入れてきた、天下のガブリエル・ドゥ・ロスコーが、あのひとたまりもなさそうな初心な料理少年に振られたりしたら、一生の不覚もいいところだ。
 それは、嫌。
 何度誘いをかけても全然気づいていなかった、のんびりした真志の顔を思い出すと、ガブリエルはいきなり激しい焦燥感に駆られた。
「ガブリエル、おいおい…気にしすぎだぞ」
 ローランの呆れたような声も耳に入らないかのようにガブリエルは豊かな蜂蜜色の髪に指を差し入れて苛立たしげにかき乱した。
(どうでもいい人…)
 肉料理が終わった後も、極上のデザートとコーヒーを前にガブリエルは遠い目をしてずっと考え込んでいた。
 


NEXT

BACK

INDEX





Cloister Arts