温かい皿

第二の皿 entree
陸に上がった帆立貝は海の夢を見るか

 ランチタイムのレストランの厨房は殺気立っている。
「あっちちちちっ!」
 加温器の中から取り出そうとした皿にとっさに素手で触ってしまった真志は、その熱さに思わず悲鳴をあげた。
「おいおい、落とすなよ、シンジ! 今度割ったら、その分、おまえの給料から天引きだぞ」
 真っ赤な顔をしながら、落とさぬようしっかり押さえた四枚の大皿を運んでくる真志に、この小さなレストラン、ボン・ヴィザージュの代理シェフを務めるアラン・コルノーが大声で叫んだ。
 アランは本当は近くで兄夫婦とやっているレストランのスー・シェフ(副料理長)なのだが、この店のオーナーである彼の父がバカンスに出かけてしまったために、その間、店の監督もかねて、忙しい時間は顔を出して店を手伝ってくれるのだ。
「この加温器、温度が高すぎるよ。やけどしちゃうよ、これじゃ」
 額の汗を拭き拭き、真志は叫び返した。熱い皿にじかに触れた指を見下ろすと、赤くなっている。
「なんだ、その程度のことでピービー鳴くなよ、ウズラちゃん(プティット・カーユ)」
 後ろから真志の手を後ろから覗き込んで、アランはからかった。
「ほんとに、あかちゃんみたいな手だなぁ。まだまだプロの料理人とは言えんな、これじゃ」
 そう言って、アランは真志の目の前に自分の手を突き出す。真志の手よりゆうにふたまわりは大きい。ごつごつと節くれだって、火傷や切り傷の跡がいっぱいある、逞しい手。皮も分厚くて、これなら少しくらい熱い皿や鍋に触ろうが全然平気だろう。
「ちぇっ」
 真志が悔しそうにつぶやく。
 アランはかかと笑って、彼の肩を軽く叩くと、鼻歌混じり、ロースターの中でぐるぐる回っているウズラの焼け具合を見に行った。
 アランは、今年で確か29才、愛嬌のある茶色の瞳が魅力的な、ハンサムで陽気なラテン男だ。彼とは、真志がパリの名門料理学校コルドン・ブルーの学生だった頃に知り合った。アランはそこの講師だったのだ。真志はアランから料理の技術を教わり、そして2年目にはアシスタントとして彼の仕事を手伝うことになった。その時の縁で、卒業間際となった真志をアランの方から誘ってくれたのだ。
「どうせなら、もうしばらくパリで料理の修業をしていったらどうだ。オレのレストランが、丁度人手が足りなくて、よく働く見習いを探しているところなんだ」
 アランのレストラン、メゾン・コルノーは、かのミシュラン・ガイドの二ツ星をもらっている。そんな名店で働けば、さぞかし勉強になるだろう。真志は喜んでアランの申し出を受け入れた。それから半年間、真志はメゾン・コルノーで働いた。料理学校を卒業したての見習い、それも若い日本人にそれほど重要な仕事が任されることはなかったが、それでも、メゾン・コルノーでの日々は真志にとって貴重な体験だった。
 真志は嫌な仕事でも不服を言わず、日本人らしい生真面目さで一生懸命に取り組んだ。手先が器用で、コルドン・ブルーでは優秀な生徒として表彰されただけあって基礎もしっかりしている真志を、メゾン・コルノーのオーナー夫婦も重宝がってくれた。アランは特に真志を気に入って、何かというと親切にしてくれた。ずっとこの店にいてもいいなと真志が思っていた矢先だった。彼がボン・ヴィザージュに引き抜かれたのは。
「おまえをかっさらってくれたことについては、オレは今でも親父を恨んでるんだぞ」
 アランは、真志の様子を見にやってくる度に、こんなことを耳打ちしていった。
「うん、ごめんね、アラン。メゾンを離れる時は嫌だったけれど、でも、こっちに来て仕事を始めたら、案外おもしろいんだ。アランのお父さんは、僕みたいな新米にも色んな仕事を任せてくれるし、新しいアイディアもどんどん出せって言ってくれる。おいしいと思ったら、そのメニューを店に出してくれる。人気がなければ、すぐに取り下げられるけど、それって、やっぱり嬉しいよ」
「ここは、親父の実験場みたいなものだからなぁ。メゾンを俺達に譲って引退するって言ったくせにさ。もっと自由にやれる場所が欲しかっただけなんだよ。星つきレストランなんて重くてやってられないって、俺達に押し付けたんだぜ」
 アランは悔しそうだったが、真志が満足している様子を見ると、それ以上文句をぶつけたり無理に帰ってこいなどとは言ったりしなかった。
(それにしても…)
 真志は、てんてこ舞いの様相を呈している厨房を改めて見渡した。厨房のスタッフは真志を含めて3人。そして、オーナー・シェフ代理のアランだ。
(オーナーってば、本当に好き勝手やってるよな。今回だって、若いスタッフに店を預けて自分はのんびりバカンスだなんて、ちょっと無責任じゃないか。アランが助っ人にやってきて、監督してくれるからいいようなものの…)
 ここに勤めるのは皆若い料理人ばかりだ。美食の街として名高いリヨン出身のまだ18才のフランソワ、溌剌とした姐御肌のアメリカ女性のブレンダ。オーナーシェフのピーターが、気に入った料理人を他の店から一人ずつ引き抜いてここに集めたのだ。実験場というアランの表現は的をついていて、若者達の新しい発想とセンスに富んだ新しい料理がここで生まれることを、ピーターは楽しんでいた。
 いいと思ったら恐れずにどんどんやってみろが、ピーターの口癖だ。
「シンジ、オーダーよ」
 ホールスタッフのマリアンヌが厨房に入ってきた。真志は、期待に満ちた顔で思わずそちらを振り返った。
「残念ながら、あなたの新メニューのオーダーはまだないわ。今日は皆ホタテを食べたい気分じゃないのかしら。オードブルを選ぶお客達に、それとなく勧めてはみるんだけれど」
 真志はがっくりと肩を落とした。オーナーがバカンスに出る前に採用してくれた、真志の新メニューがこの日のランチからデビューなのだが、オーダーはまだない。
 そんな訳で、今日の真志は時々厨房のドアから店内を覗いたりして、そわそわしている。
「『夢見るホタテ』なんて、よく分からない命名をしたからじゃないのか?」
 二人の会話を耳に留めたアランが、皿に盛ったウズラにソースをかけながら言った。
「もっと分かりやすい、調理法や味付けが想像できるような名前にした方が無難だったろう」
「だって、あのメニューのソースやら何やら分かってしまったら、かえってオーダーする人が尻込みするかもしれないよ」と、真志は返した。
「それはそうだなぁ…フランス人でも、食わず嫌いはするからなぁ…さすがにイカのハラワタの塩漬けやら海草やら言われると…ううん…」
 ボン・ヴィザージュは、パリ十五区の閑静な住宅街の中にある、テーブル数も十席しかないビストロに毛が生えたくらいの小さなレストランだが、もと二ツ星シェフの料理が安い値段で食べられるとあって、ランチタイムや週末のディナーはいつも満席だ。
 ホールスタッフのマリアンヌやジャンヌが入れ替わり立ち代り、オーダーを持ち込み、出来上がった料理を運び出す。
 たったの4人で厨房を切り盛りする真志達も必死だ。息を切らせ、汗を垂らしながら、狭いスペースを走り回り、食材を刻み、ソースパンを火にかけ、ロースターやオーブンにウズラや羊肉をぶち込んで、1つの皿ができあがる度に歓声にも似た声をあげた。
「絶対、この厨房の構造っておかしいよ。何で、冷蔵庫があんな端っこにあるんだよ。おかげで、食材を取りに行くたびに厨房を端から端まで走りぬけなきゃなんない。それに調理台とコンロの位置だって、こんだけ離れてるなんて、ナンセンスだ。フランス人の合理主義はどこに行ったんだよっ」
 ぜいぜいと息を切らせながら真志は文句を垂れるが、ランチタイムも佳境に入ると、さすがに誰も答える余裕はない。
 そんな修羅場が2時間ほど続いたろうか。ようやく峠は越えられた。
「ああああぁっ」
 唸るようにそう呟いて、真志はぐしょぐしょになったタオルで顔をぬぐった。
 やっと全てのオーダーが出され、厨房にほっと和んだ空気が流れた。
 真志は、壁の時計を見やった。2時をまわったところだ。ランチタイムは2時半でオーダーストップだから、新しい客が入ってこなければ、このまま終了することになる。
「あーあ、結局新メニュー駄目だったな」
 がっかりしながら真志が呟いた、その時、オーダー票を持ったマリアンヌが、勢いよく厨房のドアを開いた。
「シンジ、オーダーよ」
 はいはい、オーダーね。いじけた気分で振り返った真志は、マリアンヌの勝ち誇ったような顔を見て、はっと息を呑んだ。
「あなたのメニューよ、シンジ。『夢見るホタテ』1人前。売り込んだ私に感謝しなさいよねっ」


 
 真志は小さい時から料理オタクだった。
 家が神戸ではちょっと有名な三代続いた洋食屋であり、料理人としての父や祖父の背中を見て育っただけあって、わずか3才にしておもちゃのキッチンセットで料理人ごっこをしていたくらいだ。
 小学校に上がる頃になっても、他の子供達がアニメや特撮もののヒーローに憧れるところを、真志は有名な料理人や食通達の自伝や逸話に胸をときめかせた。
 中学に入っても、真志が読むのはいわゆるグルメ漫画。夏休みの宿題の読書感想文には、伝説の食通、魯山人の自伝を選んで、担任教師を困惑させた。
 そんな真志だから、同じ年の友人達と話があうはずかなかった。さすがに仲間はずれにされることが寂しかったので、真志も一応はやりの少年マンガを読んでみたりして話題に追いつけるようにはしていたが、そんな話、決して楽しくはなかった。
 料理人になろう。いつの間にか、自然と真志は決意していた。
 料理業界に入ってしまえば、こんなオタクな話も好きなだけできるし、同じ興味関心を持つ仲間として皆に分かってもらえる。何より、真志は料理を作ることが好きだった。
 食材を見てそれをどんなふうに料理したら一番おいしいか考えると、真志は時間を経つことを忘れた。ぱっと閃いた料理を作ってみて、それが想像通りにおいしいと、嬉しくて小躍りした。そうやって作った料理を人に出して美味しいと言ってもらえれば、天にも昇る心地になった。
(決して天才などではないけれど、料理に対する愛情だけは誰にも負けないよ。僕は、料理をするために、生まれてきたんだ)
 そんな確信を持って、19才の有本真志は遥々海を越えパリまでやってきたのだ。
 
 
 
 夢見心地のまま、真志はその一品を仕上げた。
「マリアンヌ、お願い…」
 心を込めて美しく仕上げた一皿がマリアンヌによって運ばれていくのを、真志は可愛い我が子を旅に出す親のような気持ちで見送った。
「気に入ってもらえるかなぁ、僕のホタテ」
 はあっと溜め息をつく彼の肩を、アランが叩いた。
「ほれ、一息入れろ」
 グラスになみなみと注がれたシャンパンを、真志は苦笑しながら受け取った。
「こんなに飲んだら、酔っ払っちゃうよ」
 もう一人のホールスタッフのジャンヌが、厨房の扉の隙間からレストランの方をうかがっている。
「やっぱり、何か引っかかるわ、あの客」
「えっ?」と、真志はそちらを振り返った。
「どこかで見覚えのある顔なのよ。それにあの物腰、あの雰囲気、もしかしたら、プロなのかもしれないわ」
 アランが眉をひそめた。
「どこかのグルメ雑誌の記者かな。まずいな。親父は、取材は一切お断りだし、雑誌に載ってにわかに客が押し寄せるのも望まんだろう」
 真志は青ざめた。
「そ、それよりも、一番問題なのは、オーナーの作った料理じゃなくて、僕の皿が出されてることだよっ。もし、その客がプロで、僕の料理が気に入られなくて、悪い評なんか書かれたら…」
「ふん」
 アランが、頼もしげな笑いをうかべて、真志に向かってウィンクをしてみせた。さすがにフランス男はウィンクもし慣れてる。男の真志でも思わず見ほれてしまうほどの格好のよさだ。
「あの皿のよさが分からないなら、もぐりの記者さ。2分きっかり火の通った金色の帆立はふっくらとセクシーだし、絡められた斬新なソースも実に魅力的。文句をつけようものなら、俺が店から叩き出してやる」
 その言葉信じてもいい、アラン? 真志はすがるような目で彼を見た。
「シンジ!」
 幾分緊張した面持ちのマリアンヌが帰ってきた。
「ど、どうだった…? 僕の皿、大丈夫だったかな?」
 マリアンヌは当惑したように真志を見つめ返した。
「それは…心配しなくてもいいと思うわ。あなたの料理、気に入られたみたいよ。それどころか…」
 ほっと肩で息をつく真志に向かって、マリアンヌは更に意外な言葉を続けた。
「あの料理について質問をしたいって、シンジ。あなた、テーブルに呼ばれているの。行けるわよね?」
「えっ?」
 真志は、豆鉄砲を食らった鳩のように目をぱちぱちさせた。
 シェフがテーブルを回って料理はどうだったか尋ねるのは、こちらのレストランではよくある光景だ。しかし、真志はシェフではない。ただの見習いだ。
 カチンコチンに緊張した真志は、厨房スタッフの心配そうな視線を背中に浴びて、おずおずとダイニングに出た。
(どうしよう…緊張する…ちゃんとフランス語で話せるかなぁ)
 アラン達レストランのスタッフは、日本人の真志にも分かるようになるべくゆっくりと簡単な言い回しで話してくれる。それに、いつも一緒にいるだけあって、彼らの言葉なら、真志も聞き取ることは楽に出来るようになっていた。しかし、初対面の相手の場合は、耳が慣れていないので聞き取りも辛いし、もともと苦手な話すこととなると、緊張のあまり更に舌は回らなくなる。ましてや料理の説明なんて、ちゃんとできるだろうか。
 しかし、いつまでもここに立ち尽くしているわけにもいかない。
 (よし、僕も男だ。行け。行って、見事に当たって砕けろ!)
 真志は、大きく深呼吸をして、問題のテーブルに向かった。
「まだ温かい…」
 そんな低い呟きを、真志は聞いた。
 そして、その客の指先が真志の作った皿の縁を、そこに残る熱を味わうようにそっと滑るのを見た。
 お客にできたての熱い料理を供するために、真志の手が火傷寸前になるくらいにまで加温された皿だ。テーブルに出されて五分くらいたつ今でも、充分温かいだろう。
 その客がフォークを手に取って実に優雅な仕草で料理を口に運ぶのを、何だかドキドキしながら真志は見守った。
 客は、近づいてくる真志に気がついたようだ。料理を楽しむ手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
(うわ…)
 ガイジンの顔なんかもう見慣れたかと思っていたけれど、これはまたすごい美人だ。男性だけれど、そこいらの美女が裸足で逃げ出すくらいの超絶美形だ。料理記者じゃなくて、本当はモデルか俳優じゃないだろうか。
 肩までの長さのゆるやかなウエーブを帯びた蜂蜜色の髪。柔和で繊細な造りの顔立ち。真志を見て僅かに見開かれた眼は蒼穹を思わす青色をしている。どこかの教会のステンドグラスに描かれた天使のように、金色の静脈の走る白い羽を背中にくっつけて、頭の上にドーナツ型の輪っかを乗せてみたら、似合いそうだ。
 彼は、両手の指を顎の下でピラミッドのように組み合わせて、真志の姿を興味深そうにつくづくと眺めた。男性のものにしては柔らかそうで蠱惑的な唇に、何かしら期待に満ちた笑みが広がっていく。
「ぼっ…ぼんじゅーる…」
 真志は手にじっとりと汗をかくくらい緊張していた。それでも、にこやかに微笑んでいる、この美しい青年の顔から目を逸らすことも瞬き一つすることさえも出来ないでいた。
「日本人ですか?」
 頭の中で必死になってフランス語の文法を組み立て次の言葉を考えていた真志は、その時青年の口から日本語が飛び出したことに、はっと息をのんだ。
「あ…は、はい…ええと…」
「成る程。それで、この皿の謎が少し解けました。どうしても、このソースに何が使われているのかが分からなくて、ずっと考えていたんです」
 青年はあまやかに響く声で、ほとんど完璧な日本語を操った。幾分丁寧すぎるきらいはあるが、それはたぶん口語ではなく教科書的な日本語を習ったからだろう。
「あの…お上手ですね、日本語…」
 真志の素直な褒め言葉に、青年は鷹揚に頷き返した。
「学生時代に日本文学の研究をちょっとやっていたんです。鴎外や漱石など明治文学の文体の比較研究などを専門にしましたが―」
 は? オウガイ? ソウセキ? 昔学校の授業に出てきたような名前だけれど、どこのどなた様だったっけ。
「ごめんなさい、僕、日本人でも、普通の文学とかは読まないんでよく分からないです。でも―」
 真志は、小首をかしげて、考え込んだ。
「あ…そうだ、思い出した。夏目漱石が大の甘い好きでビスケットを食べだすととまらなかったこととか、森鴎外の好物が饅頭茶漬けだったということについてなら、お話できますよ」
 それを聞いて、蜂蜜色の髪の美青年は、ほうとでもいうかのように片眉を跳ね上げた。
「そうそう、この料理について聞こうと思っていたんです。とても面白いオードブルですね。帆立貝の甘みに、このソースの何ともいえない強烈な海の香りがうまくマッチして…このソースに使われているものは何なのか…アンチョビではない、独特の醗酵臭がある…」
 青年は途中からフランス語に切り替えていたが、彼の発音はクリアーで真志にも聞き取りやすかった。
「あ、それは…ちょっと日本風の材料を使ったんです。初めは海を思いおこせるような牡蠣を使ったオードブルを考えていたんですが、この時期、まだいい牡蠣は出てなかったんで代わりに帆立貝を使うことに決めました。ただ、帆立は甘みと旨みはたっぷりあるけれど、牡蠣のような香りはあまりないから、ソースでそれを足してやろうと思って…」
 真志は、ちょっと不安になって、言葉を切った。食べたことのない食材に対してどんな反応が返って来るか、少し恐くなったのだ。
「この間、マルセイユに行った時そこの市場ですごく新鮮なイカを見つけたんで、買って帰って、塩辛を作ったんです。内臓は内臓で、やっぱり塩辛にして…本当のところ、和食が恋しかったんで、僕のご飯のおかずにしようと思っただけなんです。そのことを思い出して、もしかしたらあうかもとこの料理のソースに混ぜてみたんです。磯の香りをつけるために。それから、日本から持ってきた、昆布茶も少し入れてみました」
「ああ、このミネラルの風味は昆布だったんですね、成る程…」
 この客は、未知の食材についても全く抵抗はないようだった。これでやっと腑に落ちたというように、更にもう一口、真志の作った帆立貝のオードブルを口に運んだ。
「確かに海を思い起こさせる味だと思いますよ。ただ、これだけ磯の香りが強烈だと、ワインでは合わせにくいかもしれませんね…シャブリでも負けてしまう…むしろ上質な日本酒が欲しいところですよ。家にストックしてある赤磐雄町の大吟醸がここにあればいいのに…」
「あは…ワインとの相性まで、そういえば考えてなかったな…」
 メニューを考える時にはそういう計算もしなければならないのかと胸のうちで反省していた真志は、青年の穏やかな呼びかけに我に返った。
「シェフ、あなたの名前は?」
 真志はにっこりした。先ほどまでの緊張が嘘のように、いつの間にかリラックスしている自分に気がついた。
「有本真志といいます。でも、シェフじゃなくてただの見習いですよ」
 青年はちょっと意外そうな顔をした。それから、改めて真志を、頭の天辺から足先までじっくりと検分するかのように眺めた。
 彼は真志をどう捕らえたのか。黒目がちの大きな目をした、子供のような顔の小柄な日本人。澄み切った空の色の瞳には、不思議な謎めいた微笑がたたえられている。
 真志は、何だか、品定めをされているリンゴにでもなったような気分だった。
「あなたは、運命というものを信じますか?」
 唐突に、青年はこんなことを聞いた。
「は?」
 真志は訳が分からずに、まばたきをした。
 そんな彼に向かって、青年はいいんだというように軽く手を上げ、それから皿の方に視線を落とし、言った。
「ありがとう、シンジ。あなたの料理は、私をとてもわくわくさせてくれました」
 真志は己の頬がさっと紅潮するのを意識した。こんなふうに客から直接自分の料理に対する褒め言葉を頂戴したのは、初めてだったのだ。
「いつか」
 そんな真志に青年は再び顔を向けた。青い目がすっと細まった。
「あなたを食べてみたいものですね」
 すっかり舞い上がった真志は、足元もおぼつかなく、夢見心地でテーブルを後にした。
 初対面の客からいきなりファーストネームで呼ばれたことも、意味深な言葉をかけられたことも気にならなかった。最後の『真志を食べたい』とかいうのも言葉のあやで、実際には『真志の料理をまた食べたい』という意味だったのだろう。
(ああ、幸せだな。料理をやっててよかった…)
 料理を褒められたことに有頂天の真志は、ぐんぐんと気持ちが高く昇っていくのを意識した。このまま成層圏まで到達できそうだ。 
「シンジ!」
 ふらふらと入っていった厨房でいきなりアランに肩を抱かれて、やっと目が覚めた。
「どうだった?! あの人は、何と言ったんだ?」
 何やら血相を変えているアランに向かって、真志はへらへら笑って答えた。
「うん…いい人だったよ…えへへ…緊張することなかったみたい…すごく話しやすかったし…」
「そうじゃなくて、彼はおまえの料理を『おいしい』と言ったのか?!」
 ようやく、アランの声にこもるただごとでなさに真志も気がついた。
「ど、どうしたの、アラン?」
 周囲を見渡すと、レストランのスタッフ全員が真志を取り囲み、固唾を呑んで見守っている。
「あのお客が何か…? あ、もしかして、本当にどこかの料理記者だったの?」 
 おずおずと尋ねる真志に、アランはかぶりを振った。どうやら、真志が心配でこっそりテーブルを盗み見し、客の顔を見たらしい。
「いや、そういうプロではないが、ある意味もっと手ごわい相手かもしれんぞ」
「シンジ、ねえ、彼は君に何と言ったんだよ?」
 真志と同じ見習いのフランソワが、何やら興奮気味に詰め寄ってきた。
「驚いたわ。実物の『大天使』を間近で見たのはもちろん初めてだけれど、写真よりもずっと綺麗じゃない」
 マリアンヌが、誰かの所有の料理雑誌をめくりながら呟いている。
「で、実際、彼は何と言ったんだ?」
 真剣そのもののアランに顔を覗きこまれて、真志は、言葉を詰まらせながら、やっとの思いで答えた。
「褒めてくれたよ…とてもわくわくする料理だったって…『おいしい』とは、そういえば、言われなかったけど」
「わくわくする、か。ううん、微妙だな」
 アランはやっと真志の肩を離した。それから、他の仲間達と一緒になって、何やらひそひそと話し合う。
「ね、ねえ、どういうことなんだよ、アラン? あの客が、一体何者だっていうのさ?」
 アランは、びっくりしたような顔で真志を振り返った。
「おい、シンジ、本当に知らないのか? 料理オタクなら、アカデミー・グルマンディーズのガブリエル・ドゥ・ロスコーの名前くらい、聞いたことはあるだろう」
「…知らない」と、真志は赤い顔をして言った。
「だって、こっちでは、あまり料理雑誌とか評論は読まないから。僕のフランス語のレベルじゃ小難しいものは駄目だし、時間もないし」
 アカデミー・グルマンディーズ。日本語に訳すと、美食研究会というところだろうか。
「よく分からないけど、そんなに有名な人なの?」
「まあ、今、フランスで最も注目を集める料理研究家ではあるよな。本も売れてるし、テレビにも度々出ている。それに、一種神がかりてきなジンクスがあってな。ガブリエルに『おいしい』と言わせた料理人は、この業界で頂点に登りつめることができるっていうんだ」
「それって、なんか嘘っぽいよ」
「まんざら嘘でもないぜ。無名の雇われシェフだったのが、去年自分の店を出すなりいきなりミシュラン・ガイドの星をもらったジョエル・パッサージュも、ガブリエルが見出してパトロンになったんだ。それをいうなら、実はオレの親父もさ」
「えっ、オーナーも?」
「ああ、メゾン・コルノーがまだ一つも星をもらってなかった頃、アカデミーの先代の主宰が孫のガブリエルをよく連れてきたそうだ。親父の作ったトリュフ入りオムレツがお気に入りだったらしいな。それからだよ、メゾンにどんどんお客が入るようになって、いつの間にか星つきレストランになって。考えてみれば、今日も、彼は、久しぶりに親父の料理を食べるつもりで立ち寄ったのかもな」
「それが、留守だったから、代わりに僕の料理を食べたわけだ」
 真志は心許なげに己のシェフスーツの袖を掴んだ。
「安心しろよ、シンジ。ムッシュ・ロスコーは、おまえの料理を気に入ったんだろう?」
「う、うん、そうだと思うけど…」
 アランは、真志の肩を励ますように叩いて、ダイニングの方に出て行った。留守中のオーナーの代わりにガブリエルに挨拶をしにいったのだ。
(たまたまとは言え、すごい体験しちゃったのかな、僕)
 アカデミー主宰などとえらく大仰な肩書きを持つ割に、ガブリエル・ドゥ・ロスコーには変な威圧感はなかった。それに随分若くないだろうか。堂々と落ち着いて見えたが、二十代半ば、多く見積もっても後半だろう。
 アランが向かったテーブルの方が気になって、真志は厨房をそっと抜け出すと、物陰から様子をうかがった。
 ガブリエルとアランはにこやかに話をしている。有名レストランの副料理長であり料理人としての場数も踏んでいるアランは、客に挨拶するのも慣れているのか実に堂々としている。そんなアランに対して、ガブリエルも好感を覚えている様子だ。
 真志は、ちょっと悔しいような羨ましいような、複雑な気分だった。
(ああ、僕も、早くアランみたいな一人前の料理人になりたいな。お客に新作一つ出すのにあんなに緊張してさ、だらしないったらありゃしないよ)
 高揚した気分もいつの間にか冷めてしまった。真志は、気持ちを切り替えて、厨房に戻った。
(ま、いいか。有名な料理研究家に僕の皿を食べてもらって、褒めてもらえたなんて、すごく幸せなことだよね。うん、こんな幸運、一生のうちでもそうあることじゃない)
 ガブリエルはその後にも、スープ、卵料理、魚、肉、デザートとたっぷりのフルコースを注文しきれいに完食した。忙しいランチタイムで疲れ切っていたにも関わらず、この素晴らしい客相手に真志達スタッフは奮起し、力を結集して会心の皿を作り上げ、出し続けた。
 本当にガブリエルのためのフルコースに全精力を使い果たしたが、皆、満足だった。
 とてもあれだけのフルコースを胃袋におさめたようには見えない、余裕綽々のガブリエルが夕方になってやっと店を出て行った時には、全員でお見送りをしたくらいだ。
 疲労困憊の真志達は、このリングにタオルが投げられることを夢見たが、そんなわけにもいかなかった。
 既にディナータイムに差し掛かっていたのだ。



 そして、この日真志が出した皿をきっかけに、ガブリエル・ドゥ・ロスコーのボン・ヴィザージュ通いが始まった。

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Cloister Arts